第471話

 長大な重武装の車列が放つ威圧感とは裏腹に、最重要防護目標であるクーペ内の空気は弛緩していた。

 一番気を張っているヘレナでさえ、警戒対象であるミナがフィリップを抱き寄せ、二人揃って寝息を立てていれば気が抜ける。


 窓から見えるのは、谷底平野の穏やかな風景。

 山を下りてきた清らかな渓流と、その恵みを受けて青々と茂った草花や木々。その中を、夏最中の苛烈な日差しをさえ快い温かさと感じさせてくれる、涼やかな風が吹き抜ける。


 外を馬に乗って駆けるのは、きっと楽しいだろうとルキアは思った。風なんか感じられないであろう全身鎧姿の重装騎兵が目に入るまでの、僅かな時間だが。


 帝都までは残り一週間くらい。

 金品より武器の方が多そうな車列に襲い掛かる馬鹿は、殺戮本能だけで生きる魔物しかいない。そしてどんな魔物が出てきても、フィリップやルキアたちが出しゃばる間もなく、護衛の騎士や魔術師たちに瞬殺される。


 安全で退屈な道中だ。

 護衛たちも含めて誰もが思っていた。


 だから、というわけではないだろうが──鋭い笛の音が谷底平野に響き渡る。

 前衛部隊が会敵したことを示す警告。鎧袖一触に屠ることが出来ず、戦闘に発展したことを示す合図だ。


 車列全体が停止し、本体の護衛要員がクーペの周りに集まってくる。


 「何が──、どうした?」


 窓からの景色とフィリップの寝顔で無聊を慰めていたルキアと、ヘレナと何事か話していたステラ。

 三人とも、ただ戦闘が始まったくらいで怯えたりするほど生温い性格はしていない。


 しかし、三人とも背もたれに預けていた上体を起こし、いつでも立ち上がれる姿勢になっている。


 それはこの中で最も脅威判定が鈍いはずのミナが目を覚まし、右手に漆黒の長剣を現したからだ。


 「……ミナ?」


 つい左腕にも力が籠ったのか、抱かれて眠っていたフィリップも目を覚ます。


 「はぁ……」


 ミナは誰の呼びかけにも応えず、深々と、死ぬほど面倒臭そうに溜息を吐く。

 その直後、窓の外に不審なものが見えた。


 ヒトガタだ。


 二足二腕に、胴と首。

 ただし顔も含めた全身の表皮がどろどろに溶けている──いや、身体の全てが泥で出来ている。顔のパーツや手足の指といったディテールが欠落した、なんとなく形を整えただけの泥人形。


 いきなり現れたことから見ても明らかに魔術の産物だが、聖痕者たちは不審そうにするばかりで、防御や迎撃の姿勢を見せない。

 行使された魔術は泥の人形を作り出すもので──それだけの効果で、何の攻撃や妨害の意図も感じられなかったからだ。だから、先に術者の意図を確かめようとして、先制攻撃を仕掛けることも、魔術を妨害することもしなかった。


 恨めしそうな目を向けるミナと、咄嗟に立ち上がってルキアとステラの視界を遮ったフィリップの前で、そいつはゆっくりと身を屈めた。


 お辞儀をしたようにも見えたが、違う。

 地面から何かを拾い上げた。


 それは──いい感じの棒だった。


 一見して、木の棒。

 よく見ても、細長くて振りやすそうな、余計な枝葉の付いていない木の枝。


 それ以上でも以下でもない、街道の脇に転がっていた、谷底平野の豊かな自然の産物。フィリップがもっと小さいとき、森で拾って剣に見立てて振り回していたような、いい感じの棒だ。


 「っ──!!」


 直後、左手にガントレットと白銀の直剣を直剣を現し、完全武装したミナが馬車を飛び出した。

 防御陣形を作っていた騎士たちの頭上を一息に飛び越え、泥人形なんかより明らかな脅威として背中に刃を向けられながら、しかし、人間なんかには一瞥も呉れない。


 泥人形から特に神威や神話生物の気配を感じず、智慧も無反応だったフィリップだが、ミナが漆黒のロングソードを右手に持っているのを見て、座席に置きっぱなしだった蛇腹剣を掴んだ。


 遊び半分のとき、彼女は利き手に魔剣『美徳』を持つ。

 半ば儀礼剣であるエクスキューショナーソードは、切っ先が無く重心位置がフロント寄りで、戦闘には向いていない。それを敢えて利き手に持つことで手加減しているのだ。


 しかし今は、右手に魔剣『悪徳』を──敵を斬り伏せて殺すための武器であるロングソードを持っている。

 単に面倒だったり、フィリップを庇っていたりと理由は時々で異なるが、最速で敵を殺すときのスタイルだ。或いは、警戒に値するなにかを感じたときの。


 「……」


 ミナは無言で二振りの剣を構える。

 長剣を相手の心臓に向け、断頭剣で自分の心臓を守るように。


 それはフィリップでさえも見たことのない、彼女が本気で戦う時の、攻撃と防御を両立する──十万の命を持つ彼女が「防御」という概念を戦闘に持ち込んだときの構えだった。


 泥人形は応じるように、手にした枝を八相に構える。

 手中にあるのはただの枝だ。子供が拾って振り回すような、偶に路傍に落ちている、いい感じの細さと長さの棒。柄も鍔も峰も刃もない、木剣ですらないただの棒。


 なのに、フィリップが思わず剣の柄から手を放し、全身でルキアとステラを庇うほどの威圧感があった。


 ミナと同等──いや、彼女に庇われた状態でそう感じるということは、それ以上。


 手足が震える。

 泥人形の一挙手一投足から目が離せない。


 精神は至って平常なのに、身体を構成する遺伝子が、本能が叫んでいる。


 恐れよ逃げろ、と。


 「……相変わらず勘が良いようだけれど、残念、私よ。貴方の糧になるような剣士はいないわ」


 泥の人形に冷たい目を向けながら、ミナは感情の籠らない声で言う。


 いや──違う。

 車列に背を向け、離れた位置で声を発し、それらはフィリップには見えないし聞こえない。しかし傍に居れば、それはミナが本気になった時のものだと分かっただろう。


 冷たい目、ではない。

 相手の一挙手一投足を観察する、戦場の目付。


 無感情な声、ではある。

 それは感情が判断を鈍らせぬよう、極限の合理化を果たした戦闘機械の精神無我


 吸血鬼ウィルヘルミナとしてではなく、無類の剣士であるウィルヘルミナとしての対峙だ。


 語り掛けられた泥人形に、耳に当たる器官は見当たらない。声を聴くための耳も、応じるための口もない、どろりとしたのっぺらぼうの頭部。


 しかし。


 「ウィルヘルミナか……。ま、お前が俺に何か教えられるくらい強くなっていれば、それでいいだけの話だろうがよ」


 肺も声帯のども舌も口も、なにも持たない泥人形が応じる。

 野卑ながら威厳も併せ持つ獅子を彷彿とさせる声は、辛うじてフィリップたちにも届いた。


 そして。


 「──ッ!」


 先んじて、ミナが動いた。


 風も音も置き去りに、何の予備動作も無く距離を詰め、剣と腕が霞むほどの速度で一撃を入れる。


 狙いは頸。

 泥人形に急所の概念があるかは不明だが、右腕を開く動きの横一線で狙うには真っ当な場所だ。


 フィリップも含めて、人間に見えたのはそこまで。


 漆黒の刃が泥人形の頸に触れる直前、ミナは人間の動体視力を容易く振り切る速度で手を返し、左から右への横一線を袈裟切りに変えた。


 正面からの不意討ち。

 敵の右側に意識を向けさせ、左側に奇襲をかける。


 同時に左手が動き、肩を狙って横一線を通す。


 単身による、刹那のラグを挟んだ連撃。

 どちらか一撃でも当たれば、胸から上が無くなることは間違いない。


 風切り音すら置き去りの斬撃は、しかし、目に見える結果を何も残さなかった。


 「──え?」


 困惑の声が漏れる。

 それがフィリップのものか、他の誰かのものかは判然としない。


 一瞬の攻防を見逃した誰もが、異口同音に疑問を漏らしたからだ。


 「っ……!」


 ミナの上体が逸れ、二振りの剣で心臓を守りながら数歩下がる。

 その病的に白い肌から、幾つもの赤い飛沫が舞っていた。全力で防御した胸元を除き、腕や脚のみならず、首や顔からも。


 それは、ミナが血を流すこと自体は、フィリップやルキアたちにとって珍しいことではない。傷だってたちどころに癒えていく。

 血液いのちのストックがある限り不死身であるミナは、負傷に極めて無頓着だ。手首から先が無くなったって、瞬きの後には傷一つない嫋やかな手が戻っている。フィリップが大怪我をしたときには、手首を切って血を分けてくれる。


 ストックの総数は10万以上。

 致命傷を10万回喰らって、漸く死に至る。いや、どれほどの深手を負わせても、10万回以下なら致命傷にはならない。


 しかし、ミナはわざと攻撃を喰らうようなことはしない。

 例え死に至らないとしても進んで蚊に刺されたがる人間がいないように、進んで刃に身を晒すことはしない。攻撃されたら防御するし、反撃もする。


 そのミナが、攻撃を喰らった。


 一見して分かるその事実も、彼女の実力を知るフィリップたちからすると衝撃的だ。だが、それは疑問ではなく驚きを抱かせる。


 疑問の原因は、彼女が喰らったはずの攻撃だ。

 泥人形は動いておらず、棒切れを剣に見立てた八相の構えのままだ。

 

 一体何がミナを斬ったのか──それ以前に、ミナの攻撃はどうなったのか。それが、見ていた人間たちの誰にも分からない。

 

 ただ一人、ミナの教えを受けているフィリップだけが、遅ればせながら推論を立てることが出来た。フィリップだけが、その異常なものを知っていた。


 「可能性の斬撃、想極の太刀……!」


 思わず口を覆い、慄きながら口走る。

 フィリップにしては珍しい、明らかな戦慄を露にする。


 ミナが──斬撃を飛ばすという、並の剣術に於いては秘奥や極伝どころか仕掛技トリック奇術マジックに類するであろう技術を、何の技でもない通常攻撃に使うミナが、明確に“技”として扱うもの。


 想極の太刀。

 剣を構え、その状態から繰り出せるが実際には選択しなかった攻撃を実現させる。つまり一閃の裡に複数の斬撃を放つ、理外の技。


 とある流派に、夢想の剣、という概念がある。

 自分自身でさえ剣を振ったことに気付かない、自我も反射も排した究極の一閃。意識を夢中に置き忘れたかのように、攻撃を終えたのちに自分が剣を振っていたことに驚くという。


 人外の膂力や速度を持つ種族がその秘奥に至り、自分の意識をさえ置き去りにする速度の攻撃をしているのか。


 それとも──本当に、そして単純に、何の裏も無く、現実を歪曲しているのか。


 まあ、斬撃を飛ばす時点でおかしい。

 切断とは刃の薄い一点に圧力を集中し、張力限界による物理結合の破断を引き起こすこと。刃が触れない限り圧力は加わらないし、当然、物が切れることもない。


 飛ぶ斬撃と、破棄した選択の実現。物理法則や常識当たり前のことが、彼らの前では権威を失う。

 そもそも力も速さも常識外れの存在に、人間の常識なんて当てはめるべきではないといえばその通りだが。


 ともかく、泥人形がミナを弾き飛ばした理屈に見当は付いた。

 だが、それはそれとして新しい問題にも気が付く。


 「ミナと同格の剣術……!?」


 マザーがフィリップのために作ってくれる動標的の神格とは全く違う、単なる泥人形。

 フィリップでも欠伸混じりに蹴飛ばせそうなそいつが、フィリップの知る限りに於いて最上級の白兵戦闘能力を持っているということに。


 いや、それではまだ足りない。その脅威判定ではまだ不足だ。


 「違う。ミナ以上だ」


 補足するステラの声がいつになく硬い。


 ミナは本気で攻撃した。

 全力ではなかったにしても、フィリップを相手にする時とは全く違う、殺すための動きだった。


 それを上回り、致命傷ではないにしろ反撃を喰らわせるだけの技量が、あの泥人形には備わっている。

 

 「カーター君、下がっていなさい」

 「えぇ。フィリップ、迂闊に動かないで」 


 狭くは無いが広くも無い車内で、ルキアとヘレナがフィリップの腕を引いて自分の背中に隠す。


 ヘレナもルキアも、剣術に関してはフィリップより疎い。

 しかし、に関してはずば抜けたセンスの持ち主だ。


 二人とも、いやステラも含めて三人ともが、本能的に危険を察知していた。


 「さっきのあれ、魔術ではないみたいだけれど……あの攻撃、ここまで届くわ」


 畏怖に声を震わせることはなく、しかし苦々しそうに、ルキアはそう警告した。




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