第463話
フィリップが公衆トイレを出ると、公爵邸まで戻ったはずのアリアがルキアと合流していた。
髪や服を濡らしているフィリップに、主従揃って不審そうな目を向ける。
「フィリップ。……どうしたの、何かあった?」
魔術でフィリップの服に付いた水分を飛ばしていたルキアは、拭いきれていなかった血痕を見つけて柳眉を逆立てる。
しかしフィリップの魔力情報からは負傷や体調不良の兆候は見て取れず、ルキアはその正体を察した。
案の定というべきか、フィリップはルキアから受け取ったサンドイッチを齧りながら、なんでもないことのように「ちょっとトラブっただけです。もう解決したので──」なんて適当に流そうとする。
しかし、この町には人が多い。公衆トイレを利用する人間もまた。
「──うわぁぁ!? ひ、人が死んでるぞ!? 誰か来てくれ!!」
背後、ついさっきフィリップが出てきた公衆トイレの中から悲鳴が響く。
近くを歩いていた人々が一斉にそちらを向く中、「まあそうだろうな」なんて顔で平然としているのはフィリップ一人だけだった。
「……もう解決したので、平気です」
サンドイッチの最後の一口を嚥下し、フィリップはそう言い切る。
死体が発見されてなおどうでもよさそうなフィリップだが、ルキアもアリアもフィリップが意図して話を流そうとしているわけではないと分かっている。
本当にどうでもいいことだと思っているから、そういう反応しか出来ないのだ。ルキアがそうであるように、アリアの同僚であるメグがそうであるように、殺人行為を誇りも恥じ入りもしない。路傍の蟻を踏み潰したことを誇りも隠しもしないように。
しかし、それはあくまで超越者の、或いは異常者の視点だ。
死体が見つかれば騒ぐし、警察組織──この町では衛士ではなく衛兵がそれにあたる──への通報と調査も行われる。
まあ、公爵家から一言言っておけば、そちらは何の問題も無く片が付く。
問題は理由だ。いくらフィリップが感情で人を殺すくせに、人死にに対しては無感情な殺人鬼じみた一面があるとはいえ、理由も無く人を殺すほど社会性に欠けるわけではない。
というか、フィリップはどちらかと言えば温厚なほうだ。
ルキアは彼が本気で怒ったところを見たことがないし、それに近い状態も、ナイ神父がカルトに与したと思ったときの一回しか知らない。「ちょっとトラブった」程度で人を殺すのは、少し想像が難しかった。
「何があったの……?」
問われて、フィリップは公衆トイレの中で起こったことをありのまま話す。
殴られたからやり返した──と言うには過剰だったと、冷静になって考えるとそう思ったフィリップだったが、「労力を無駄にした」という意味での反省だ。失われた、フィリップが奪った命に対する後悔ではない。
終始表情を変えず冷静に聞いていたアリアと違い、ルキアはそれなりに感情を露にした。
唐突に殴られたというところでは柳眉を逆立て、フィリップを使って公爵を脅そうとしたところでは不愉快そうに顔を顰め、懐中時計を取られそうになったところでは冷たい殺意を湛えた目をして。フィリップが「で、全員殺しました」とどうでもよさそうに結ぶと、「まあそうなるな」とでも言いそうに頷いた。
死ぬべきものが然るべきように死んだ。
そんな納得感すら見せている。
しかし、フィリップに手を挙げた愚昧が死ぬことと、彼らが持っていたはずの情報が失われたことはまた別の話だ。
「……お嬢様」
「分かっているわアリア。でも、殺してしまったものは仕方ないでしょう」
一部始終を聞いたルキアとアリアは互いに顔を寄せ、ひそひそと囁く。
ルキアが他人の命に価値を見出すことなど珍しく、そんな反応を予期していなかったフィリップは慌てた。
「あ、すみません。もしかして殺しちゃ駄目な人でしたか?」
もしや重要人物だったのだろうか、なんて考えるフィリップだが、もしそうだとしても、それを予め知っていたとしても状況は変わっていなかった。
いきなり殴られたその時点で、彼らの処遇はほぼ決定している。どうでもいい相手を害悪と見做して殺すか、殺してはいけない相手を殺して怒られることを厭いながら殺すか、その程度の差異だ。
幸い、ルキアはフィリップが彼らを殺したことを咎めるつもりはないようだった。
「いいえ。貴方に危害を加えようとしたのだもの。それに、反射的に殺してしまうほど、懐中時計を大切にしてくれて嬉しいわ」
「そりゃあ、僕の一番大事な……んん、落っことしただけで王様が殴られるような代物ですからね」
ポロリと本音を漏らしそうになり、フィリップは咳払いで誤魔化そうとする。
無論そんなものがルキアに通じるはずも無いのだが、彼女は悪戯っぽく微笑み、それ以上の追及はしなかった。……本人はそのつもりだった。
「初めになんて言おうとしたのか、物凄く気になるけれど……フィリップが言いたくないなら聞かないわ、勿論。勝手に想像して、勝手に喜んでおくことにするわね」
懐中時計の贈り主であり、フィリップが利便性や金銭的価値を抜きに懐中時計を大切にする理由であるルキアにそう言われては、流石のフィリップも誤魔化すことに罪悪感を覚える。
そもそも、フィリップはルキアに対する隠し事が多い。
ステラにもミナにもエレナにもそうだが、智慧なき幸せ者から無知という心地良いブランケットを奪うつもりはない以上、それは仕方のないことだ。
しかし、無知である幸福さを知っているステラと違い、ルキアは未知に対する恐怖心がまだ大きいはずなのに「言いたくないなら聞かないし、どんな嘘でも信じる」とまで言ってくれる。そんな彼女に嘘や誤魔化しを口にするたびに、フィリップは多少の罪悪感を抱いていた。
勿論、それが必要な事なら仕方がない。ルキアを守るための嘘なら、独善的な罪悪感なんか鼻で笑って欺瞞を通す。
だが、今は違う。
これはフィリップが一人で気恥ずかしくなって言い淀んでいるだけの、隠す必要のないことだ。正気を守るためなら彼女の気質でもなんでも利用するが、今は、それは駄目だろう。
そんなことを思ってしまっては、フィリップに誤魔化し通すという選択肢は無くなった。
「……一番大事な人に貰った、一番大事なものなので」
照れ交じり、というか、照れ切った様子で目も合わせられずにどうにか絞り出された本心。
それはルキアを赤面させるには十分な威力を持っており、二人は揃って互いから目を逸らす。
「む、無理に聞き出すつもりはないと言ったのだけれど……」
普段なら道行く人に微笑ましそうな目を向けられそうな、初々しくも甘やかな沈黙が流れる。
しかし二人の会話が聞こえていた一部の人間は、みな一様に正気を疑うような目を向けて、一行から足早に離れた。
死体が見つかったと騒いでいるすぐ近くでイチャついている異常者に向けるには、まあ、相応しい視線だろう。
フィリップとルキアの価値観を知るアリアが唯一、戦慄ではなく呆れの感情を滲ませていた。
「お嬢様。照れている場合ではありません。その三人、“呪い”に関係している可能性が高いと思われます」
「え、えぇ、そうね。アリア、死体の人相を確認してきて……出来るかしら?」
死体を遺さない殺し方を多用するルキアが、凄惨な殺し方に定評のあるフィリップに問う。
二人とも何も考えず手癖で殺すとそうなるだけなのだが……いや、そもそも「手癖で殺す」という言葉が出てくる時点でおかしいのだけれども。
叩き潰した羽虫の死に様を思い出すことに成功したフィリップは、ルキアだけでなくアリアにも頷いてみせる。
「一人は炭の塊にしちゃいましたね。残り二人は、顔を壊した記憶は無いですけど……」
答えを受けたアリアは「確認して参ります」と一礼して、人混みの中に消えた。
さっきはルキアの傍を離れるのを多少渋っていたのだが、今回は一瞬で済むから抵抗が少ないのだろうか。
そんなことを考えた、その直後。
「──誰か医者を呼んでくれ! 工事現場で事故だ!」
遠くからの叫び声に、死体騒ぎで集まっていた人間が「またかよ!?」なんて言いつつ半分ほどがそちらに向かう。
フィリップとルキアは顔を見合わせ、まだ死体の確認をしている護衛を放って駆け出した。
工事現場の人だかりが出来ている辺りに向かうと、頭から血を流している男が担架に乗せられて運ばれていくところだった。
幸いにしてそれほど重傷ではないようで、別の場所の作業を見ていたらしい現場監督が駆け寄ると、彼は担架の上で上体を起こす。
「どうした、何があった!?」
「ま、まただ……。また、梯子の足元だけ泥になってた……。下から土嚢を渡そうとした拍子に、梯子が滑ったんだ……。監督、やっぱりこれは呪いなんじゃないのか……? 公爵様に止めるよう進言すべきだろ……」
負傷した男は現場監督の胸倉を掴み、恨みの籠った声で言う。
語られた内容を聞いてフィリップがルキアの方を向いたときには、彼女は既に視界のチャンネルを魔力の次元へ切り替え、工事現場の倒れた梯子の周辺をじっと見つめていた。
「っ、ルキア」
「……人間の魔力残滓があるわ。あるけれど……微弱過ぎる。個人を特定するのは無理よ」
視界を物理次元へ戻し、ルキアは少しだけ悔しそうに言う。
しかし、たったそれだけの情報でさえ、事前に聞いていた情報とは微妙に食い違っている。
「確か、これまで魔力残滓は見つからなかったんじゃ?」
ルキアは出発前に、公爵家の抱える魔術師を調査に出し、魔力残滓さえ見つからなかったと言っていた。だから「呪い」である可能性を考え、フィリップが支援に来たのだ。
しかし「呪い」にしては起こる現象がくだらないこと、どの現象も魔術的・物理的な手段で再現できそうなことは分かっていた。そして現場に来てみて、工事を妨害されても不思議はない状況だとも。
「えぇ。ここまで微弱なら、常に自分の魔力と他の魔力がどういう状態にあるかを意識していないと、日常的に発散する魔力で吹き散らしてしまうでしょうね」
「……ルキア、そんなことしてたんですか?」
平然と語られたことが凄い技だと理屈の上では理解できたフィリップが、尊敬と驚愕の綯い交ぜになったような顔でルキアを見つめる。
魔術師だけでなく魔力を生み出すあらゆる存在は、常に魔力を発散している。人間であればそれは呼吸や、体表面の汗が蒸発するようなものだ。
呼気や水蒸気と違って魔力は視覚的に把握できるとはいえ、人混みの中で自他のそれを区別して認識し続けるのは生半なことではない。魔力感知能力や把握能力もそうだが、それを続けていた集中力と、それでいて難なく会話や移動が出来ていたマルチタスクぶりが、やはり常人とは一線を画している。
「今回だけよ。“呪い”と聞いたら、流石にね」
ルキアが以前に受けた“呪い”、正確には呪詛に種別される“眠り病”は、魔力を感染経路とする感染性呪詛だった。保菌者は発散する魔力が汚染され、魔力に対する感受性が高い人間ほどその汚染を受けやすく、故に、感染者の大半が優れた魔術師だった。
それに対する警戒として、ルキアの取った手段──自他の魔力を常に監視するという方法は、能力や労力面で実行が極めて難しいという点に目を瞑れば最適解だ。
「流石です。でも、魔力の残滓があって、それが人間のものってことは、つまり──」
「超常現象ではない。何者かが干渉し、故意に事故を起こしていた……。フィリップを襲ったという三人、工事を中止させたがっていたのよね?」
顎に手を遣り、真剣な表情で考えるルキア。
フィリップが殺した三人は、確かに、工事の中止を公爵に求めるために蛮行に及んだ。
しかし、彼らはもう死んでいる。
「……滅茶苦茶怪しいですね。しかも、殺してから事故が起こったってことは」
「えぇ、そうね。設置型魔術であっても術者が死ねば解除される。つまりその三人ではない誰かが、“呪い”の……いえ、事故を誘発した犯人。これは明確な犯人がいる、事故に見せかけた妨害工作よ」
妨害工作が魔術的なものだった以上、死んだ三人の置き土産という可能性は消える。
物理的・機械的なものだったのなら死ぬ前に仕掛けておくこともできるが、魔術は術者なしでは発動しない。
それに、この町にはルキア以外にも上位冒険者の魔術師がそれなりにいて、魔力残滓が彼らの発散する大量の魔力ですぐに吹き散らされる。ルキアが魔力残滓を発見できたということは、魔術が使われてから時間は殆ど経過していないということだ。
事故発生が叫ばれてから、まだ数分しか経っていない。つまり、工作が行われたのは事故の直前しかない。
「魔力規模が小さいってことは、魔術能力が低い? なら射程も短いし、犯人はまだ近くに居るってことですよね!?」
自分がそうであるからか、フィリップの言葉は断定的だ。
魔術行使がほんの数分前で、射程もそれほど長くない。であるなら、犯人が逃げていても追い付ける距離のはず。
その推理自体に論理破綻は無い。しかし、ルキアは眉根を寄せて首を傾げた。
「……どうかしら。確かに、魔術戦が出来るような相手ではないと思うけれど、私の近くに残り続けるほどの馬鹿なら、こうも見つからずに何度も、それもこんな往来で魔術を撃てないでしょうね。撃ってもすぐに見つかるはずでしょう? すぐに隠れられる場所から……いえ、移動しながら撃ったはずよ。馬車か徒歩かは分からないけれど、もう近くには居ないと思うわ」
ルキアの推理に、フィリップも「確かに」と頷く。
この町には魔術師が多い。それも上位冒険者の、相当に戦闘慣れした魔術師が。
彼らの存在は魔力残滓を隠すにはもってこいだが、同時に、妨害者にとっては衛兵なんかより余程恐ろしい監視者のはずだ。身を隠していたとしても魔術を撃てばほぼ確実に察知され、場合によっては自分に対する攻撃と誤認されてボコボコにされる──いや、殺される可能性だってある。
戦闘魔術師が攻撃と判断せず、しかし彼らの魔術耐性で照準が狂わない強度で、かつ魔力残滓が速やかに消える程度の魔術を正確に使っている。
狙ってのことなら、それこそ戦闘魔術師級の能力だ。魔力操作能力は魔術学院生の中でもBクラス相当か。
リリウムにはできないし、フィリップにもできない。逆にルキアやステラのような強力無比な魔術師でも、再現にはかなりの技量が求められるだろう。
もしかしたら、かなりの曲者かもしれない。
だが「呪いが人為的なものなら解決したも同然」と思っていた通り、状況は解決に向かっている。
あとは公爵家から監視要員を出すなり、報奨金なんかを使って冒険者たちをも監視に就かせてしまえば、妨害工作は止まるだろう。
流石に監視に気付かず捕まるほど間抜けな相手ではないだろうが、工事が完遂できればそれでいい。
今回の敵は、執拗に探し出して惨死させなくてはならない相手ではないのだから。
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