第462話
公衆トイレという珍しいモノを初めて見るフィリップは、およそ便所に向けるものではない好奇心に満ち溢れた目でそこに入ると、何とも言えない顔になり、その顔のまま用を足した。
誰でもいつでも使えるという部分が画期的なだけで、その他は何の変哲も無い落下式のトイレなのだから、何かを期待することの方が間違っているのだが。
しかし流石は公爵領の建物と言うべきか、手洗い場にはタンク式の水道があった。
ミナの城にもあった、屋根の上に据えられたタンクに入った水が水道管を通って蛇口から出てくる、王都の上下水道システムより原始的だが簡単なものだ。フィリップの田舎のような大半の町には、未だこのレベルのものさえ普及してはいない。
とはいえ、それもフィリップの落胆を拭うほどの代物ではなく。
なんとも言えない顔のまま手を洗っていたフィリップは、鏡で自分の後ろに人が並んでいるのを見つけて手早く済ませた。
そして。
ぱん! と頭を叩かれて振り返ったフィリップは、驚きに満ちた顔を苦痛に歪める。後ろを向いた瞬間、今度は鳩尾に拳を入れられたからだ。
油断してはいたが、それでも避けられない速さではなかった。しかし流石に不意討ち過ぎて、無感動に見送ってしまった。
「……!?」
目の前には嘲るような笑みを浮かべた男が三人。
一人、恐らくフィリップを殴ったのだろう男がそのまま胸倉を掴み、トイレの壁にフィリップを押し付けた。
何が何だか分からないフィリップは、それでも懸命に状況を整理し、「強盗だろうか」なんて当たりを付ける。
しかしそれにしては、男たちの身なりは整っていた。仕立ての良い服を身に付け、腰には装飾華美な直剣を佩いている。少なくとも金銭目的の強盗ではなさそうだが、突然の痛みで思考が鈍っているフィリップはそこまで考えられなかった。
それなりに大きな町で、武装した冒険者がそこら中にいるから、てっきり治安もいいものだと思い込んでいたけれど……そうでもないのかもしれない。
そんなことを考えながら、フィリップは取り敢えず「昼食代以上のお金は持ち歩かない主義だけど」と言ってみた。
実際に、財布にはそのくらいしか入っていない。問題は換金不可能なレベルで価値の高い武器と懐中時計に加えて、見た者は全員殺さなくてはならない特殊な武器まで持っていることだ。
まあ、どれを盗ろうとしたところで、既にフィリップは痛みの分、きっちりとやり返すつもりでいるけれど。
しかし、男たちの中で一番年若い者が、フィリップの言葉に苦笑を浮かべて頭を振った。
「見て分かると思うが、俺たちは別に金に困っちゃいない。……なに、俺たちの言うことを聞いてくれたら、これ以上痛いことはしないさ」
凄むような笑みで、若い男が言う。
ある程度の冷静さを取り戻してきたフィリップは、彼以外の二人が特に強面で年を取っていることに気付き、どこぞのお坊ちゃんと用心棒のようだと感じた。
「聖痕者様と一緒にいるところを見てなかったとしても、その恰好を見れば分かる。お前、公爵様のところで可愛がられてるみたいだな?」
言われて、フィリップは正気を疑うような目になる。
公爵のお気に入りと考えると確かに金は持っていそうだが、どう考えても手を出すべきではないだろう。手勢だけでも相当な捜査力と武力を持っているし、下手をすれば国家規模の報復が降りかかる可能性があるのだから。
しかし金目的ではないと言っていたし、報復の危険を許容するほどの大望があるのか。
多少の興味を惹かれたフィリップは、殺すのを少し待ってみることにした。
強盗でも狂人でも、なにか秘めた野望のため暴力すら辞さない決意ある人物でも、どうせ殺すのだが──余程のことが無い限りは殺すのだが、善性由来の行動だったら見逃してもいい。たとえば、フィリップの異常性に気が付いて、ルキアから引き離そうとしているとか。
まあいつかのように「嫌です」と切り捨てて、殴られた分やり返して、命だけは助けてやる、という意味の「見逃す」だが。
「そのお前を見込んで頼みがあるんだ。……運河の拡張工事を中止するよう、公爵様に伝えてくれ」
「いや、僕にそこまでの発言力は……そもそも僕は──うっ!?」
反駁しようとすると、また胸倉を捕まえている男に脇腹を殴られ、フィリップは半笑いで呻く。
強面で屈強な男のパンチは、エレナのジャブよりずっと軽かった。男のパンチも痛いが、普段の訓練ではもっと痛いのを喰らっている。それに比べれば、重心を動かして衝撃をいなすだけの時間と技量の余裕がある、生温い攻撃だった。
じわじわと、フィリップの中にあった驚きと警戒が薄れていく。
じわじわと、「なんだこいつら」という興味が薄れ、普段通りの悪意も害意も無い殺意が、無価値なものを価値の無さゆえに殺す殺意が鎌首をもたげる。
「お前、“呪い”について調べてるんだろ? それが本物だってことにすりゃあいい。魔王の呪いでも悪魔の呪いでも、あの“ペンローズの虚”のせいでも何でもいい、とにかく呪われた土地だってことにすりゃあ、話は通るさ」
リーダー格のお坊ちゃんっぽい男は、確信に満ちた声で言う。
しかし、フィリップからすると大いに疑問だ。
「通らないと思いますよ……? そもそも僕は魔術や信仰方面に詳しくないので、公爵様を説得できるとは……」
というか、既にルキアとミナが「呪いの兆候ナシ」と半ば結論を出している以上、フィリップがこれは呪いだと主張したところで通るとは思えない。
いや、相手がルキアやステラ、或いはエレナ辺りなら──つまり、フィリップの専門分野を知っている人物になら、もしかしたら通るかもしれないが。
そもそもフィリップがこの件を──いきなり殴られて馬鹿な要求を吹っ掛けられたことを公爵に報告すれば、公爵家の捜査力ならほぼ確実に彼らに辿り着くだろう。
ああ、いや、それも含めて“脅し”なのか。
公爵に対し、「お前が可愛がっている子供が危ない目に遭うぞ」という脅迫を、彼らはかけているつもりなのだ。
「違う違う、通すんだよ、お前が。どうやってかは、お前が考えることだ」
「無理でしょ……。今更「これは呪いだ」なんて言ったって、まずルキアが納得しませんし」
淡々と、余裕そうに語るフィリップが気に入らなかったのだろう、男はむっと眉根を寄せる。
しかしすぐに、なにかフィリップの余裕を崩す名案を思い付いたようにニヤリと笑った。
「そうだ。それを預かっとくよ。お前が言う通りに工事を止めれば──」
リーダー格の男の意を汲み、フィリップの胸倉を掴む男のもう片方の手が腹部へ伸びる。
正確にはベストのポケットに入った、白銀の輝きを放つ懐中時計に。
ジャケットの中へ手が入り、白金製のチェーンに指が触れる。その、直前。
「──それに触るな」
冷たい声とほぼ同時に、フィリップに掴みかかっていた男の視線ががくりと下がる。
彼が自分の膝から下が分離していることに気が付くのと、それを為した龍骸の刃が音も無く頚椎を断ったのは、殆ど同時のことだ。どちゃ、と湿った音を立ててトイレの床を転がった頭部は、失くした首から血を噴き出す自分の身体を見て、驚愕に目を見開いた。
「……えっ?」
「う、うわぁぁあ──、っ!?」
リーダー格の年若い男は、自分の顔や手が赤く濡れていくことが理解できないというように、呆けた声を上げる。
もう一人の男は用心棒ではなかったのか、或いは単に臆したのか、悲鳴を上げて逃げ出そうとした。残念ながら、三歩ほどで身体が内側から炭化し、それきり声を出すことも出来なくなったが。
人間二人を半ば反射的に殺したフィリップは、腰を抜かしてトイレの床にへたり込んでいる男に背を向け、手洗い場でハンカチを濡らす。そして顔や服についた返り血を拭いながら、再び男に向き直った。
「公爵の関係者で、かつ一番弱そうに見える……まあ実際一番弱いわけなんだけど、その僕を狙ったのは判断として間違っちゃあいない。それに、確かに僕は、僕が住んでるわけでもない町の工事なんかより、懐中時計の方がよっぽど大事だ」
苛立ちの露な声で、フィリップは淡々とするよう心掛けて語る。
そもそもいきなり頭を叩かれた時点で不快感はあった。そしてその時点で殺していても何ら不思議はないくらい、フィリップにとって他人の命は軽い。
そうしなかったのは、いきなり殴られた衝撃で混乱していたのと、彼らの語る内容と目的に多少の興味があったからだ。
フィリップは彼らに、興味と好奇心ぶんの価値を感じていた。
数値化すると──ゼロだ。
殺してもいいし、殺さなくてもいい。その程度。
しかし
「それに、さ。僕は確かに、ルキアと比べたら雑魚も雑魚、彼女と戦うことさえ出来はしない雑兵だけど──武器を持っただけの一般人に負けるほど、僕を鍛えてくれた先生や環境は低劣なものじゃあない」
強盗だって剣を持った相手なんか好んで狙わないだろうに、それでもこうして暴力を威しに使ったのは、彼ら自身のようにファッションだと思ったのだろう。
フィリップには暴力と懐中時計が、公爵に対してはフィリップが、それぞれ脅迫材料になる。いわば二重の人質構造を作り、脅し、交渉する。
善悪はともかく、効果を考えると悪くない手段だが──その構造がきちんと動作するためには、絶対的に必要な条件がある。
前提として、暴力の質と量、そして暴力行使に係る枷が、脅す側の方が優位でなくてはならない。
或いは脅される側が、殺人行為に大きな抵抗感を持っていなければならない。
でなければ、脅された側の選択肢に、最短最速の解が入ってしまう。
「で……お前たちはどうして、自分が懐中時計や工事よりも価値が上だと……僕に大切にされると思ったんだ?」
フィリップは不機嫌そうに、そして怪訝そうに眉根を寄せて尋ねる。
脅された。殺そう。
そういう思考の帰結に至らないと、どうして無邪気に信じられたのか。
フィリップにとって懐中時計の価値は、値が付けられないほど高い。
眼前の命三つの価値なんかより、ずっとだ。
「ちょ、ちょっと脅かしただけじゃないか! 殺すことは無いだろっ……!?」
命乞い。
恥も外聞もなく、勿論自分が吹っ掛けた喧嘩という意識もなく、そして脈絡もなく口を突いただけの言葉だ。
しかし、フィリップはそれを質問に対する答えと受け取った。
「脅しただけだから、まだ殺されるほどではないはずだ」という、蒙昧極まる答えだと。
「君の価値観だと、初対面の相手にぶん殴られて、自分の一番大切な宝物を取られそうになって、ついでに脅されたくらいじゃあ殺したりはしないんだ。そう。器が大きいのはいいことだと思うよ」
金銭目的ではないだけで、やっていることはほぼ強盗だ。
そして強盗に遭ったとき、普通、選択肢は二つしかない。従うか、戦うかの二つ。
しかし──「戦う」なんて思考は、対等な相手か格上相手にしか持てない。
駆除と言うのだ、害悪となる劣等生物を殺すことは。
そこに罪悪感や躊躇といった感情が挟まることは無く、機械的に、そして当然のように、無感動に、ただ殺す。
もし何か感情を抱くとすれば、それは不快感だろう。劣等生物が自分の手を煩わせることへの、倦怠的不快感。勝手に死ねと。
それを感じさせる気だるげな声で、フィリップは淡々と語る。
「でも、世の中には色々なやつがいる。人間のことをパンか何かと同じに見てる美人のお姉さんもいれば、“気色が悪い”“僕が嫌い”という理由で何百人も殺すような、どうしようもない奴もいる。仕立ての良い服を着たガキが、ルールを破ることへの躊躇いを「不愉快だから」なんて理由で振り切る、感情的な馬鹿野郎かもしれないと、ちゃんと考えて行動しなくちゃ」
なんて、フィリップは自虐的な冗談を言って一人で笑う。
人を殺すことへの忌避感が無く、「人を殺してはいけません」というルールを破ること、そして怒られることへの忌避感が殺人行為のストッパーになっている。
そう自ら語ることも、それ自体も、男の目には異常に映った。尤も、彼の恐怖を引き立てた最大の要素は、フィリップの笑顔に狂気的な色が全く見えず、友人に冗談を飛ばした子供の笑顔そのものだったことだが。
「君は自分のことを誰も敵わない悪人だとでも思っているのかもしれないけれど、上には上がいるものだよ。僕は人間を殺すことと虫を殺すことに差異を感じられない悪人だけど、自分が邪悪の頂点に君臨してるなんて思ったことは無いし、自分の程度の低さも理解してる。……何でこんな話をしてるんだっけ?」
フィリップは再び男に背を向け、手洗い場でハンカチを洗い、きつく絞ってポケットに突っ込む。
その隙を突いて逃げたかった男だが、残念ながら、彼の足は震えて使い物にならなかった。
そして鏡で身嗜みを確認したフィリップは、鞘に納めていた蛇腹剣をもう一度抜き放ち、切っ先を男の喉笛に向ける。
「あぁ、そうそう……殴ったら殴り返される、なんてのは当然のことだけど……「一発には一発だけ返せ」なんて優しいルールを守るお行儀のいい相手ばかりじゃないことくらい、ちゃんと想像すべきだって話だ」
「わ、分かった、悪かっ──」
殴られた分、そして不快感の分にしては過剰な報復を終えて、フィリップは用を足したあとのようにすっきりした顔で公衆トイレを後にした。
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