第458話
部屋に荷物を置いたあと、フィリップとルキア、そしてミナは、話していたとおり“ペンローズの虚”へ入ってみることにした。
街を歩いていると、ルキアに気付いた町人が深々と頭を下げたり、祈りを捧げたりする場面が何度かあった。
それより頻度は少ないが、冒険者がミナの正体に気付いて驚いたように武器に手を添え、子供を挟んで歩いているルキアに気付いて混乱し切った様子で矛を収めることも何度か。
ミナに斬りかかるのが自殺行為でしかないと分からない蒙昧はおらず、ルキアとしては一安心といったところ。
そんな手合いに馬鹿を見る目を向けそうなフィリップはというと、道の真横を流れる運河という珍しいものに視線を奪われており、完全に観光に来た子供といった風情だ。
上位の冒険者──特に剣術に長けた者が数人、フィリップがその外見や振る舞いとは裏腹に、特異な流派の技術である『拍奪』を使えることを見て取り、いっそう混乱していた。
「……明日からフィリップと一緒に調べるのは、この運河の拡張工事をしている場所よ。でも、今日はこっちね」
ルキアの案内に従って、一行は運河に沿った大通りを外れる。
そして外壁を抜けて丘を登り、小ぶりだが石造りの頑健そうな塔へ入った。門番がいたが、公爵家が手配した人員らしく、ルキアが何も言わなくても恭しく門を開けて通してくれた。
塔は中庭を囲むような筒状構造だ。外壁には無かった魔術砲撃用の小窓が、中庭に面した壁には等間隔に据えられている。それだけでなく、バリスタに油壷まで、全て中庭側を向いていた。
厳重な警戒が敷かれた中庭にあるのは、空中に浮かぶ青黒い渦──見るからに「空間の歪み」と分かるモノだけだ。
それが何なのか、具体的にどういう形をしているのか、何も判然としない。
輪郭すら曖昧なそれを木や石の枠で飾ることも無く素のままで置いているのは、枠を作ったところで頻繁に壊してしまうからだろう。壁の狭間には魔術砲撃の余波と思しき、まだ新しい焦げ跡が見える。それに、渦の周りにはバリスタの鏃と思しき金属片が散見された。
「……これが?」
「“ペンローズの虚”……その入り口よ。“虚”は異空間にあるダンジョンなの」
「へぇ……! 凄いですね!」
興味津々なのはフィリップだけではなく、ミナも珍しく目を輝かせている。
まだ中に入ってさえいないが、何か楽しめる気配を感じたのだろうか。
率先して「渦」に触れたミナが吸い込まれるように姿を消し、不死身ゆえの思い切りの良さに呆れ混じりの苦笑を浮かべたフィリップが、ルキアに手を引かれて続く。
一瞬だけ強烈な眩暈を感じた後、視界は無骨な中庭とは全く違うものに変わっていた。
そこは殆ど黒に近い灰色の石で出来た、薄暗い廊下だった。背後にも道、正面にも道、両側は壁で、完全に廊下の途中にいるようだ。
光源らしきものは見当たらず、具体的にどこが明るいということもないのに、不思議と道の奥までが見渡せる。振り返るとさっき触れた渦があり、もう一度触れれば元居た場所に戻れるのだと察しがついた。
突っ立っていても始まらないだろうと突き当りまで進んでみると、T字に分岐しており、さらにその先にもY字の分かれ道が見える。
部屋らしきものは見当たらず、道順を示すようなものも見つけられないことから、フィリップはこれが迷宮型のダンジョンなのだと思った。
「迷宮型なんですね。これが100層も……?」
半ば反射的にルキアとミナの手を握って自分の方に引き寄せながら、フィリップは注意深く周囲を見回す。
迷宮と言えば、と連想されるくらいには、アイホートの雛との遭遇は印象に残っていた。どちらかといえば、その後にルキアがダンジョンを一つ丸ごと消し飛ばしたことの方が鮮明だが。
しかし、ルキアは「ここは、そうね」と限定的な肯定をした。
「階層によって形態が異なるらしいわ。中には高山や雪原のような層もあって、最深部を目指すには様々な環境に適応するための装備が必要になるの。それも、このダンジョンが最高難易度とされる理由の一つよ」
「なるほど──おっと」
相槌を打つと、ちょうどフィリップが見ていた方のY字路から、一匹の魔物が彷徨い出てきた。
立ち上がった白骨死体、ゾンビと並んで最低級のアンデッドとされるスケルトンだ。何処で拾ったのか、右手に錆びてボロボロになった長剣を持っている。
十メートル以内なら『萎縮』が通るような、弱い魔物だ。
高難易度のダンジョンは出現する魔物も強力なことが多いが、流石に百分の一層目ということで、弱い魔物から順番に出てくるのだろうか。
そんなことを考えているフィリップだったが、ミナは「武装したスケルトン、という出で立ちだけれど……」と顎に手を遣って観察しているし、ルキアも「あれも、難易度が高い理由の一つよ。フィリップ──」と警告しようとしていた。
とはいえ、相手は骨だ。
それも、身長180センチくらいの人間の。
「あ、ちょっと待っててください。先にあれを退かしちゃいましょう」
言うが早いか、フィリップは龍貶しを抜いて走り出す。
流石にルキアが「注意して」と続けようとしていたことは分かったから『拍奪』を使ってはいるものの、蛇腹剣はロングソード形態のままだし、明らかに本気ではない。
最低級の魔物相手と考えると、あながち舐めすぎとも言い切れない対応ではある。鉄鎧に等しい硬度の毛皮を持ちイノシシの速度で突進してくるトライスピアの群れだって、簡単に相手取れる程度にはフィリップも成長しているのだから。
フィリップが振りかぶった剣に反応し、スケルトンは盾を持っているかのような動きで左手を掲げる。
その腕ごと頭蓋骨を真っ二つにしようと、防御の構えに気を払うことなく剣を振り下ろし──こっ、と硬質な音がした。人骨どころか鉄の剣でさえ殆ど無音で、水に通すように切り裂くというのに。
──防がれた。
古龍素材をふんだんに使い、王国最高の錬金術師が作り、宮廷魔術師の付与魔術で強化された、魔剣にも匹敵する武器の一撃が。
鎧も肉も無い腕の、細く頼りない尺骨を断ち──橈骨へ僅かに食い込んで、そこで止められた。
「え、──ッ!?」
驚愕の声が漏れる。
声を出す暇があるなら動け、酸素を無駄にするなとエレナにもステラにもミナにもウォードにもマリーにもソフィーにも、教えを受けた全員に言われてきたが、きっと何人かは同じ反応をするだろう。
特に、自分の武器や技に自信がある者ほど。
腕力より肩から先の柔軟性を重要視し、敢えて筋肉量を抑えてきたフィリップではあるが、その分全身の連動には長けている。斬撃の威力が低いなんてことは無く、脚力から腹筋力、抜力まで使った技巧の一撃だ。
なのに──細い腕の骨たった二本を、纏めて切り落とせない。錬金金属製の鎧さえ断ち切る、人造の魔剣を以てしても。
「フィリップ、動かないで」
カウンターを繰り出そうとしていたスケルトンが、ルキアの警告とほぼ同時に展開された無数の光弾に撃ち抜かれてバラバラになり、黒い粒子となって消える。
リリウムやミナとは違い安心感と火力を両立した援護に礼を述べ、フィリップは素早く二人のところまで戻ってきた。
「体感できたでしょう? 攻略難度を上げる理由、その2。……ここの魔物、異常に硬いのよ」
悪戯っぽく笑うルキアに安心させられて、急上昇していたフィリップの心拍数がじわじわと落ち着いていく。
「硬い」という彼女の表現は的確だ。
今のスケルトン、動き自体は一般的なアンデッドの例に漏れず鈍かった。所詮は技術を持たない魔物だけに、攻撃能力も程度が知れる。フィリップの斬り下ろしを受け止める程度の力はあるが、単純に力が強いだけなら、足を止めて殴り合いでもしない限り脅威にはならない。
だが硬い。防御能力が通常の個体とは桁違いだ。
「体を構成する魔力の質が、普通種とは段違いね。それに応じて、魔術耐性も」
「なるほど。……よし、出ましょう」
ミナの言葉に、フィリップは元来た道を指す。
これはちょっと、遊ぶどころではない。遊べるところではない。
相手の動きが速いとかならまだ練習になるが、ただ硬いだけの相手ではあまり意味がない。「素振りや静止目標への打ち込みより、実戦形式の方が多くをよく学べる」とはウォードとソフィーの統一見解だったが、そのセオリーに従って強くなってきたフィリップも同じだ。
硬いだけの敵相手の戦闘は、まあ素振りみたいなものだろう。
「ちなみに出口はこの一つだけで、迷宮階層は不定期にその構造を変えるわ。つまり、100階層まで進むだけなら、もしかしたら簡単かもしれないけれど、疲れた帰りは死ぬほど難しいのがこのダンジョンの特徴というわけ。“死ぬほど”というのは、比喩抜きでね」
「すごいですね出ましょうすぐ出ましょう」
早口に言って、フィリップはミナとルキアの手を引いてダンジョンを出る。
幸い、その数分でダンジョンの内部構造が変わることは無かった。
その日の夜、夕食を終えて部屋に戻るとミナがいた。
彼女にも個室が与えられているはずだが、さも当然のようにフィリップのベッドに腰掛けていたし、フィリップも平然と受け入れてベッドに飛び込んだ。
道中は野宿など一度も無く、街道沿いの宿でも高級なところに泊まっていた。
冒険の途中とは比べるべくもない贅沢三昧、というか、高級宿をハシゴして疲れているようでは冒険者などやっていられない。
……なんて、出発前には思ってはいたものの、流石に長期間馬車に揺られていると疲労は溜まる。
ここでは暫くゆっくりできそうだという安心感から、行儀悪くベッドの上をごろごろ転がって寛いでいた。
「フィル、ここにはどのくらい滞在するの?」
言いながら、ミナはフィリップの方に身体を向けると、痛みを与えないよう優しく、しかし逃れられない人外の膂力を以てフィリップを捕まえ、覆い被さった。
襲い掛かる獣のような動きに、フィリップは僅かに姿勢を変えるだけで抵抗しない。
「わかんない……。ルキアの言う“呪い”の問題が解決するまでは確実に。一日二日で終わったら、その時は観光でもしてから帰ろうかな」
「そう。明日は呪いの現場を見に行くのよね? もし長引きそうなら、そして安全そうなら、私はさっきのダンジョンで遊んで来るわ」
ミナはフィリップの首筋に顔を寄せ、匂いを嗅ぎ、唇を触れさせる。
生きた体温の無い冷たい舌が、肩と首の中間、肩井の辺りを這う。ミナの右手がフィリップの腕をなぞり、手首を捕らえる。左手は頬を優しげに撫で、唇に触れ、髪を梳いていた。
甘やかな愛撫、身体の至る所に感じるミナの柔らかさ、鼻を擽る夜の匂い、夏の夜の熱気を払う病的に低い体温。なにもかもが、フィリップの意識を蕩けさせる。
「うん……分かった」
殆ど寝惚けているフィリップの返事を聞き終えて、ミナは鋭く発達した犬歯を、未だ子供の柔らかさが残る肌へと突き立てた。
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