第452話

 エレナとリリウムが眠る馬車に、二つの足音が近づく。

 それをカノンが察知したのは、眠っていたエレナと同時だった。


 「……リリウムちゃん、起きて。カノンちゃん、気付いてる?」

 「まあ、そりゃあ。足音を殺すことも忘れてる様子ですからね」


 焚火の側に座っていたカノンは面倒くさそうに──或いは眠たそうに立ち上がり、馬車を庇う位置へ移動した。

 エレナがもう一度揺り起こして漸く目を覚ましたリリウムは、むにゃむにゃと不明瞭な呻きを漏らしながらも、どうにか目を開けて自分の足で立つ。


 「リリウムちゃん、万一の時は戦うんだから、ちゃんと起きて」

 「んー……? なんなのよ、まだ真っ暗じゃない……」


 今まで包まっていた寝袋を大事そうに抱きかかえたリリウムは、状況を全く理解していない。

 どう見ても戦える状態ではないが、エレナはともかく、カノンは端からエレナやリリウムを戦力に数えていない。彼女が使い物にならないことに、今更特別な感想を抱くことは無かった。


 「……カノンちゃん、フィリップくんは何処? さっきトイレに起きたのは知ってるけど、まだ帰ってきてない?」

 「さぁ? さっき、遊びに行かれましたけど」


 ──沈黙。

 あっけらかんとしたカノンの答えを即座に理解しかねたのか、エレナは数秒の黙考の後、「……はっ?」と素っ頓狂な声を上げた。


 そりゃあ、そんな反応にもなる。

 一応フィリップが夜中にゴソゴソ起き出したのを察知してはいたようだが、「トイレか」と勝手に思ってすぐ寝付いたらしく、カノンとフィリップの会話は聞いていなかったようだ。


 夕方にあれだけ警戒心と殺意を振りまいていたフィリップが、まさか夜中に単独行動するとは思わなかったのだろう。

 フィリップが同行者を守るために単身突撃するタイプであることは、エレナも重々承知しているはずなのだが。


 やばいどうしようとエレナが頭を抱える暇も無く、カノンは足音を聞いた方角に向かって声を掛ける。


 「馬車に近づいたら殺すって、言いませんでしたっけ? ……あ、言ってないですね。でも今言ったので、それ以上近づいたら殺します」

 「……ちっ、バレてるか」


 舌打ち交じりに、木の陰から二人の村人が姿を現す。

 警告に従わず距離を詰めた二人を見て、カノンはガスマスクを外して人外の口元を露にする。しかし、その二人は何ら怯えた様子を見せなかった。


 「なあアンタら、ガキの躾けはちゃんとしてくれなきゃ困るぜ。お陰で俺たちは破滅だ。……その憂さは、晴らさせてもらう」


 棒を持ち、全身から怒気を放つ男二人に、寝ぼけ眼だったリリウムも流石に目を覚ます。

 エレナの後ろに隠れながら魔術照準をするまでは、意外にもかなり早かった。


 「何のことかな。それより、ボクはちゃんと警告したよね? あなたたちのことは信用できない、馬車に近付かないでって」

 「知るかよ。お前らの仲間のクソガキが、俺たちが必死こいて用意した生贄を逃がしやがったんだ。監督責任は命で果たせ、クソ野郎」


 二人は棒を構え、主にカノンを警戒して先端部を向ける。


 彼らの言葉を咀嚼していたエレナは、まだまだ足りない情報を推測で補い、今がどういう状況なのかなんとなく当たりを付けることに成功した。


 「生贄? あっ、あー……。そういう……」


 頭痛でもするように眉間を押さえるエレナ。

 生贄という穏やかならぬ単語。フィリップの不在と、彼のカルトに対する甚大で苛烈な害意。


 フィリップがカルト狩りに繰り出し、その中で彼らの「生贄」を逃がしたのだろうという推察は、殆ど正しかった。


 「あー……、なるほど。それで夜までは穏便に。人質とか儀式の前倒しとか、されたら面倒な事多いですもんねぇ」

 「フィリップくん……」


 エレナは深々と嘆息する。


 カルト狩りそのものを止めることは、エレナはもう半ば諦めている。

 だがついこの前、「無断の単独行動はやめろ」「やるなら一声かけろ」と怒ったばかりで、約束したばかりだというのに。


 「気を付けろ、ミ=ゴの玩具だ。訳の分からない武器を使ってくるかもしれんぞ」

 「エルフの動きにも気を配れ。人間なんかとは筋肉の出力からして違う生き物だ」


 小声で交わしたつもりであろう二人の村人の会話は、ヒトより優れた聴覚を持つエレナとカノンだけでなく、リリウムにまで聞こえていた。


 「おっ、その警戒は正解ですよ。まあ存在からして不正解なので、今更多少の加点があっても不合格ですけどね」


 完全にいないものとして扱われたリリウムがむっと眉根を寄せ、カノンは可笑しそうにけらけらと笑う。

 格闘戦の構えさえ取っていない彼女もエレナも隙だらけだが、リーチの長い得物を持っているはずの二人は全く動けない。


 彼らも獣や魔物と多少は戦える程度に強いが、それだけに、高い格闘技術を持った二人の間合いに踏み入る危険を、半ば直感で察知していた。


 二人が動かないのを見て、カノンは「そういえば」と言葉を続ける。


 「フィリップ様はどうしたんです? 捕まえて拷問……は、無理ですね。痛いのも苦しいのもお嫌いですし、拷問されるぐらいなら周囲一帯を消し飛ばす方をお選びになるでしょうから」

 「はっ、死んだよ」

 

 突き付けるように、そして勝ち誇ったように放たれた言葉に、衝撃を受けたのはリリウム一人だけだった。愕然とした「なんですって!?」という叫びは、場違いなほど虚しく響いた。


 「嘘だね。死角から広範囲攻撃魔術で不意討ちでもしなきゃ、フィリップ君は獲れないよ。けど、そんな戦闘音はしなかった」

 「ははは……。まぁホントなら、フィリップ様は今頃大喜びですけれど……」


 自信満々に即答するエレナと、苦笑を浮かべるカノンは対照的だ。

 しかしどちらも、フィリップは死んでいないと確信している。


 実際に、フィリップが本気で殺意を持っていたら、そこいらの村人どころか、そこそこ大きな町の衛兵だって二対一程度の戦力差では対応できない。いや、一方的に惨殺されるだろう。

 

 フィリップを白兵戦で下すにはかなりの力量が求められるし、相手が魔術師でも、初手で個人相手に広範囲攻撃を撃つような手合いは稀だ。具体的には、魔力消費を気にしなくてもいい実力者か、後先考えない馬鹿か。


 そして、狙って撃つ点攻撃は、拍奪使いには当たらない。初見の相手に対して、フィリップの対魔術師性能は跳ね上がる。


 また、エレナの見立て──村人の筋肉の付き方や重心位置、手の傷などを観察した推論──によると、彼らの戦闘技術は下の上か中の下といったところ。中の上程度には食らいつけるフィリップを、接近戦で下せる技術は無い。


 そして王国では魔術師の囲い込み政策が敷かれているから、王都外で高い実力を持った魔術師に遭遇することは稀。


 二つの要素を合わせて考えれば、彼らの言葉はただのブラフだと判断できる。


 ……まさか、駆除しに行った害虫の反撃に遭ったなんて、即座に想像するのは難しいだろう。


 エレナの自信は、戦闘能力を評価した場合には正しい。

 フィリップに脅威軽視や油断の悪癖があることを、もっと重く捉えるべきだったというだけで。


 そしてカノンは彼らの無知を嗤いながら、同時に恐れてもいた。


 「でも、殺したつもりで中途半端に痛みを与えただけだったら……これから起こることは“駆除”ではなく、もっと陰惨な“報復”になっちゃいますね」


 言って、カノンは既に、恐れていたことが現実になっていることに気が付いた。

 息を呑み、今にも襲い掛かってきそうな村人には最早なんの興味も無いかのように視線を切り、背を向ける。


 慌てふためきながら跪き、深々と頭を下げた先は焚火の傍らだ。

 

 「カノンちゃ──、っ!?」

 「きゃっ!? い、いつから……!?」


 エレナはいきなりどうしたのかと問う前に、その人影に気が付く。少し遅れて、リリウムも。

 

 揺れる炎のオレンジ色の明かりの中、喪服姿の女性が、伏せて眠る黒い山羊の背に腰掛けて佇んでいた。


 いつから居たのか。

 反射的に記憶を遡ったリリウムは、その走査が終わらないことに気が付く。フィリップが死んだと言われた時には、もう居る。フィリップが生贄を逃がしたとかいう話をしている時にも、もう居る。リリウムが目を覚ました時にも、既にそこに座っている。


 記憶を遡っても遡っても、彼女はその瞬間に現れている。彼女は現れた。

 それを理解した瞬間──否、三次元的な思考しかできない脳はそれを理解できず、しかしどれだけ思い出しても「いる」という事実もまた否定できず、しかしそれが有り得ない事象だということだけは理解した瞬間、彼女は思考を放棄した。


 何かの間違い。そんなことがあるはずがないと。


 「なに、こいつら……?」


 白銀とも黄金ともつかない月光色の髪を持つ、ヴェールで顔を隠した喪服姿の女。

 その戦闘能力がと感じたエレナの関心は、彼女が椅子代わりにしているのと同じ黒い山羊が、いつの間にかエレナたちを取り囲んでいることに向けられた。


 いつから居た、と、エレナもリリウムと同じ疑問を持つ。

 木立の合間からこちらを窺う、無数の黒い山羊。エレナの知覚力を完全にすり抜けて接近してきたにしては、数があまりにも多すぎる。これほどの群れの接近を感知できないほど、エルフの感覚器は鈍くない。


 鳴きもせず、敵意も逃走の意思も感じさせず、ただじっとエレナたちを見つめるだけの黒山羊の群れは、エレナが背筋に冷たい汗を感じるほどに不気味だった。


 そして──木立の間を埋める夜闇から滲み出るように、新たな人影が進み出る。

 それは一人ではなく、二人、三人と増えていく。浅黒い肌に黒髪と黒い目を持つ長身の神父、異国風な黄金の飾りを身に付けた威厳のある男、赤いドレスを身に纏うグラマラスな美女、幾つものレンズが付いた拡大眼鏡を付けた時計職人の老人、また別の異国風のドレスを着たスレンダーな女性、猫の耳と尻尾を持つ幼い少女。


 その内の二人に、エレナは見覚えがある。奇しくも同じ「ナイ」という名で呼ばれる、フィリップと関わりのある人物だ。


 「ひ──」


 リリウムは自分の口を押さえ、溢れそうになった悲鳴を必死に堪える。

 彼らの放つ存在感は、悲鳴という不随意の反応ですら咎められ、次の瞬間には首を刎ねられそうなほどだった。


 抱いた恐怖を比べるなら、エレナの方がリリウムより大きい。

 彼女は何の根拠も無く、しかし本能的な確信を持って、この場に現れた人型のモノと取り囲む黒山羊の全てが、ミナ以上の化け物であると感じていた。


 「な、ナイ──」

 「なんで──」


 二人の村人が声を震わせる。

 いや、震えているのは声だけでなく、足も、手もそうだ。今すぐに棒を放り出してこの場から逃げ出したいのに、手に力が入って指を開くことさえ出来ない。不随意に震える腕と足、漏れ出てしまった声、何もかもが現れた化け物たちの神経を逆撫でしそうなのに、自分の身体の何もかもが思い通りに動かない。


 身体を動かそうなんて意識さえ、恐怖に溶けて消えていく。


 そして──空が裂けた。

 雲一つない星空から一等星が落ちてきた。そう錯覚するほど眩い光が閃き、直後に脳を揺さぶる轟音が衝撃を伴って肌を叩く。


 それが極大の雷が村に落ちたことによるものだと、一瞬で失神したリリウムとは違い、エレナは気を失う直前にどうにか理解し、そして意識を手放した。


 「な、なんで外神が……。それも、こんな……」


 どういうわけか──、なんて、繕う必要は無いだろう。

 外神たちの意思に従い、失神することなく、しかし逃げ出すことも出来ずにいる村人の片割れが呟く。


 以前のカノンだったら、そしてこの場に同席していなければ、彼らの口走った驚愕に、「確かに」と同情するところだ。

 確かに、シュブ=ニグラスにナイアーラトテップ、おまけにマイノグーラまでもが明らかな敵意を持って現れるなんて、智慧があればある分だけ驚きが増すだろう。


 それ以上のことを知っている今のカノンは、跪いた姿勢でただ震えていることしか出来なかった。





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