第451話
そして──フィリップは凄まじい水流に揉まれ、水面上まで持ち上げられた。
顔に付いた水を拭い、何が起こったのかと確認して最初に目に飛び込んだのは、きりもみしながら宙を舞う魚影だった。
飛んでいる。
そう錯覚するほどの滞空時間。
灰色の肌を持つ捕食者が落下を始めるまで、フィリップは呆然と空を見上げていた。
「サメって空飛ぶの? 凄いな海の魚……!」
川の魚も、そりゃあちょっとは跳ねるけれど、あれは二十メートルは飛んでいる。
翼も無く、恐らく魔力も無しにそれだけ飛べる生き物は、フィリップの知る限りでは一種もいない。
……勿論、サメは飛ばない。
フィリップを狙ったオオメジロザメは、300キログラムを超える巨躯を打ち据えられ、内臓をぐちゃぐちゃにしながらも外見を保ったまま、吹っ飛ばされたのだ。
既に絶命している上空の死骸は放物線の頂上に至ると、重力に引かれて落ちてくる。
フィリップから少し離れたところに着水すると、その巨躯と重量を表すように盛大な水柱が上がった。そしてもう一度、控えめな飛沫が上がる。何かが死骸に嚙みついたような──噛みついて、食い千切ったような、赤の混じった飛沫が。
「えっ……!?」
何事かと目を瞠った先、腹を上にしたサメの死骸がぷかりと浮かび上がった。
話が違う、とフィリップは頬を引き攣らせる。
確か、あのサメはこのあたりのヌシ、頂点捕食者だという話だったのに。
逃げるべきか。
四メートルもの巨躯を持つ魚を殺す化け物が、どうやらいるらしい。しかし、迂闊に動けば殺人クラゲに触れて毒にやられる可能性が高まる。
結局その場に留まることにしたフィリップは、剣を抜き顔を沈める。
セイレーンに、クラゲに、サメ。今度は一体どんな怪物が現れたのか、即刻ハスターを呼ぶべきなのか、それを確かめようと星明りの差す海中で目を開き──暗い海の色をした瞳と、目が合った。
波に揺れるインディゴブルーの長い髪、どこか冷たい印象を受ける人間以上に整った顔、白く透けそうな喉元、細くしなやかな肩や腕、豊かな胸のふくらみ、芸術品じみて均整の取れた腰。
そして──人間的なのは、そこまで。
上半身の真っ白な陶磁器のような肌とは一転し、背面が黒く腹面が白いつるりとした肌。尻尾のような位置に生えた大きな背鰭、二つに分かれていない脚──尾鰭。
呆然としているフィリップを、同じく呆然と見つめ返していた彼女は、手にしていた白っぽい塊──抉り取ったサメの内臓、その最後の一口を隠すように口に含み、何度か咀嚼して嚥下した。
二人は同時に海面から顔を出す。
フィリップはすぐ真上に浮上しただけで、彼女──アンテノーラはフィリップのすぐ目の前まで来てからだったのに、頭を上げたタイミングは同じだった。
その驚異的な泳力に驚く暇も無く、フィリップは更なる驚愕に襲われる。
「……こんなに早くお会いできるとは思いませんでしたわ。いずれ私の方からお礼に伺おうと思っていましたのに」
耳朶を打つ、耳触りの良い声。
冷たく澄んだ海のような、よく通って、それでいて五月蠅いとは感じない、脳の奥底まで染み入るような。心に安らぎを与えてくれる、マザーの穏やかな声によく似ている。
これまでは無理矢理に邪悪言語を発声したときの声しか聴いていなかったから、彼女の本当の声を聴くのはこれが初めてだが──ただ話しているだけで、脳が耳から溶けだしてしまいそうだ。
その上、トルネンブラが認めるほどの音楽の才能を、つまり当代屈指の才を持っているとなれば、その歌声への期待も否応なく高まる。
だが、それはともかく、だ。
それはともかく、フィリップが驚いたのは鈴の音でさえ恐縮する美声ではなく、語られた言葉。より正確には、言葉を紡いだ言語に。
邪悪言語ではないし、フィリップに聞き取れない人魚語でもない。彼女が使えないと言ったはずの人語、流暢な大陸共通語を喋っている。
怪訝そうに眉根を寄せたフィリップだが、目の前でアンテノーラも同じ表情をしていた。
「……あの、どうしてこちらに? それに、その頭の傷はどうなさいましたの?」
「いや君こそ、なんで人語……ん?」
心配そうな顔でフィリップの側頭部、今もなお血を流し続けている傷を見遣るアンテノーラ。
フィリップは間違いなく彼女の言葉を人語と認識し、難なく理解していたが、彼女の口元に僅かな違和感があった。
「あの、差し支えなければなんだけど、手を握って貰ってもいい……ですか? 実は立ち泳ぎがそろそろしんどくて……」
違和感の正体を確かめるためばかりではなく、フィリップはそこそこ焦りながら言う。
実際、手も足もじわじわと疲労が溜まって力が入らなくなってきている。波のある海で長時間の立ち泳ぎ、それも腰に長剣という重りを付けてとなると、これが初めての経験だ。
ただし、言うのは邪悪言語ではなく大陸共通語でだ。
通じなければ邪悪言語で言い直すつもりだが、フィリップはその必要は無いだろうと半ば確信していた。
そして、その確信自体は間違っていなかった。
彼女はフィリップの予想通り、人語を聞き取ってくれたのだが──フィリップの希望を聞き入れてはくれなかった。
「あら、それでしたら……」
「ん? うわっ!?」
アンテノーラは水面のすぐ下で仰向けになり、フィリップを易々と抱き上げて腰の上あたりに乗せてくれた。人間一人分に水をたっぷりと含んだ服の重さはかなりのものだろうに、軽々とした所作で。
「お、おっきい……」
フィリップは思わず呟く。
アンテノーラの上半身、人間部分はヒトの女性と変わらない。しかしフィリップが感嘆の声を漏らしたのは、仰向けでもその大きさがはっきりと分かる胸のふくらみに対してではなく、彼女の下半身──魚の形をした部分に対してだ。
大きい、と、本能が微かに戦慄するほどの体格。
頭の先から尾鰭の先まで、およそ五メートル。フィリップが上に乗ってもどっしりとした安定感があり、触れてみると強靭でしなやかな筋肉がぎっちりと詰まっているのが分かる。予想に反して、鱗のざらざらとした手触りは無かった。
「ずっと気付きませんでしたけど、人魚って意外と大きいんですね……」
いや──単純に大きいだけではない。
身体が勝手に怯える、この感覚。飢餓状態寸前のミナに相対したときのような、絶対上位の捕食者を前にしたときの不随意反応だ。
そのことに対する疑問は、続くアンテノーラの言葉で生まれた、より大きな疑問に飲み込まれた。
「確かに私たちの種族は、マーメイド属の中でも大きい方ですわね」
「? 人魚って、一つの種族じゃないんですか?」
そもそも人魚が実在したこと自体、フィリップにとっては驚愕の事実だ。
嬉しい驚きだし、会えたことはもっと嬉しいが、つい昨日までは創作の産物だと思っていた。
そしてなんとなく無意識に「人魚」というのは一個の種族、「ヒト」「エルフ」「マーメイド」と区分されるという認識だったのだが。
首を傾げるフィリップに、アンテノーラは淑やかに笑う。
「ふふ。魚だって、「魚」という一種類だけではありませんでしょう?」
「あぁ、そういう……人魚の中にも種類があるってことですか。アンテノーラさんは何族なんですか?」
数種類の川魚と、あとはサメくらいしか知らない──調理後なら、海魚も何種類か見たけれど──フィリップの浅い知見の中に、アンテノーラの下半身の特徴と一致する魚はない。
人間の上半身とはアンバランスに大きく、全長の八割を占めるそこは、背中が黒くて腹側が白く、鱗が無い。本当に魚なのか疑わしいくらい、すべすべだ。
丁寧に話している余裕も無かった邪悪言語の会話と違い、一見してルキアやステラと同じくらいの年齢に見えるアンテノーラに、フィリップは半分癖で畏まる。残りの半分は、自分より大きな生き物に対する本能的な萎縮によるものだ。
邪悪言語で話していた時とは打って変わった態度のフィリップが可笑しかったのか、アンテノーラは品のある仕草で口元を隠して笑った。
「そう畏まる必要はありませんわ。確かに私の方が年上ですけれど、貴方様は私の所有者ですもの」
所有者。
そう聞いて、フィリップはぴくりと眉根を寄せた。
『命の恩人』の誤訳かと思ったが、違う。
さっきからフィリップは人語を、アンテノーラは人魚語を話している。にも拘らず、全く違和感を感じないレベルで会話が成立しているのは、トルネンブラがリアルタイムで両者の言葉を訳しているからだ。
それも恐らく、言語ではなく、音に乗せられた意図を訳している。別言語を無理矢理に訳した時の、独特の違和感が微塵も無い。今更、言葉の意味を間違えるとは思えなかった。
「……どこまで知ってる?」
「私が貴方様の無聊を慰める楽器であること。それだけは、確かに」
深々と嘆息したフィリップの問いに、アンテノーラは淀みなく答える。
自分の言葉がどういう意味で、どれほど恐ろしいことなのかを理解しているとは、まるで思えない声で。
「……そう、か」
フィリップの態度から習慣づいた丁寧さが消える。
その代わりに表れるのは、智慧を持った者に対する傲慢さだ。
「困ったなぁ……。君の声は正直、魅力的に過ぎる。殺してあげたいのは山々だけど──ごめん、惜しい」
「あら、ふふ──殺してあげるだなんて。それは些か不正確な表現ですわね」
神妙な表情で心の底からの謝意を伝えるが、フィリップを見上げるアンテノーラは可笑しそうに口元を綻ばせる。
そして徐に身体を沈めると、フィリップを水面に残して潜ってしまった。
怒ったようには見えなかったが、気分を害してしまったのだろうかとフィリップが不安になった、その瞬間。
「え? うわ──ッ!?」
下方向へ押さえつけるような強烈なGを感じたかと思うと、直後には浮遊感に襲われる。
反射的に硬く瞑っていた目を開け──水面を、遥か下に見た。周りに何もない海上では高さを測りにくいが、アンテノーラの表情が見て取れないどころか、夜の暗い海面に紛れて見えなくなるほど高い。
二十メートル、いやもっとか。
さっき飛んでいったサメなんかよりもっと高い位置に、フィリップは放り上げられていた。
そして、翼の無いフィリップはもう、後は落ちるしかない。
痛いでは済まない衝撃を与えるだろう、石の硬さになった水面へ向かって。
不味い。それは分かるが、思考がそこで止まる。これは流石にハスターを呼ぶしかないと思い至った時には、もうハスター召喚の呪文を詠唱する暇はないところまで落ちていた。
落ちたら死ぬだろうか。死ななかったら滅茶苦茶痛いだろう。
そう考えて思わず目を瞑ると、予期した激痛ではなく、むしろ心地良いふわりと抱き上げられるような浮遊感に包まれる。空中でフィリップを抱き留めたアンテノーラは、背中で水面を叩くブリーチングの動きで着水した。
一度深く潜った二人は、もう一度先ほどと同じ姿勢で浮上する。
姿勢だけで言えば、フィリップがアンテノーラを組み敷いたマウントポジション。そしてフィリップの腰には龍骸の蛇腹剣があり、彼女は丸腰だ。服さえ着ていない。
しかし──フィジカルが、あまりにも違い過ぎる。
今のは浮かせるようにしてくれたから、フィリップは飛んで落っこちるだけで済んだのだ。遊んでくれたから、弄ばれるだけで済んだのだ。
サメを、人間を、水の抵抗をものともせずに吹っ飛ばすだけの筋力が、もしも純粋な打撃に使われたら、人体なんて簡単にバラバラになる。エレナのパンチを喰らったときにそうなるというカノンの言葉を使うなら、「ばっちゃーん」だ。
残念ながら、フィリップが殺してあげられる相手ではなかった。不意討ちなら可能性はあるかもしれないが、正面戦闘では邪神召喚以外の勝ち筋が見えない。
「私は貴方様の所有物。所有者である貴方様が不要であると仰るのなら、捨てられることも受け入れましょう。けれど──」
アンテノーラは組み敷かれた姿勢のまま手を伸ばし、フィリップの頬を優しく包み込む。
冷たい印象を受ける美貌に浮かぶのは、蠱惑的で挑発的で煽情的な、劣等生物に向けるべき愛玩の情を含んだ冷笑だった。
「けれどその時は、私が貴方様に殺されて差し上げるのですわ」
フィリップが息を呑んで硬直するほどの、背筋が凍るような美しい笑みを浮かべ、アンテノーラが囁く。
そして──フィリップはなんだか物凄く居た堪れない顔をして、水を掬って顔を洗った。
そういう化け物っぽいことを言うのは止めて欲しい。好きになる。ただでさえ美人に弱いことを自覚しているというのに、ミナと近しいものを感じるほどの上位種ともなれば尚更だ。
「けれど、声を褒めて下さったことは光栄ですわ。……竪琴もないソロなんて、お嫌いかもしれませんが」
言って、アンテノーラは歌詞の無い独唱曲をソプラノ・リリコで歌い始める。
特に音楽への造詣が深いわけではないフィリップは、歌唱技術の巧拙は分からない。しかし、数個のフレーズを繰り返す三十秒ほどの短い曲で、フィリップが言葉を失い心を奪われるには十分だった。
しかも、それだけではない。
「……っ!?」
側頭部の傷がじわりと熱を持ち、気付いたフィリップが手を遣った時には血が止まり、傷口も完全に塞がって薄く跡が残っているだけだった。
じわじわと痛んで存在を主張していた胴体の打撲も完全に消え、慣れない立ち泳ぎで疲れていた手足にも力が漲っている。
素晴らしい歌を聞いて精神的に充足したとか、そんな心情的なものではない。傷だけでなく疲労をも癒す回復魔術はとても高度なものだと習ったが、これはその域だ。
「凄い……」
「人魚の歌は魔術耐性があると効きが悪いのですけれど……つい本気で歌ってしまいましたし、むしろ竪琴が無くて良かったかもしれませんわね」
思わず呟いたフィリップに、歌い終えたアンテノーラが悪戯っぽく笑う。
その口ぶりからすると、効果過剰による副作用、エレナの言うオーバードーズに似た危険があるのだろうが、精神的にも高揚しているフィリップは気に留めなかった。
「あの、治療して貰っておいて厚かましいとは思うんですけど……さっきのラグーンまで僕を連れて行ってくれませんか?」
「それは構いませんけれど、見ての通り、私は陸上戦ではお役に立てませんわよ? 勿論、海に逃げた相手を追いかけて殺す程度であれば、喜んで協力いたしますが」
嗜虐的な笑みを浮かべるアンテノーラに、フィリップはぞくりと背筋を震わせる。
ミナやマザーにも似たその表情はただでさえ刺さるのだが、声から感じる報復への渇望が、フィリップの内心とちょうど一致しているのも大きな理由だ。
「それこそ構いませんよ。第一──報復は、もう始まってるので」
鏡写しの表情を浮かべたフィリップに、アンテノーラは僅かに怪訝そうに眉根を寄せて首を傾げたが、何も訊かずに身体を反転させて泳ぎ出した。
背中に乗る形となったフィリップは振り落とされないように足に力を込めつつ、気を抜けば攫われてしまいそうな水の抵抗と、それを生むアンテノーラの航行速度に目を瞠る。
船の比ではない。というか、整えられた芝生を走るフィリップどころか、馬の襲歩にも匹敵する。抵抗の大きな水中でこれだけの速さは驚異的の一言だ。
「ところでアンテノーラさん……アンテノーラは、なんで深きものなんかに捕まったの? 滅茶苦茶強いと思うんだけど」
防御力はともかく、これだけ筋力があるなら攻撃能力も高いだろう。
深きものが使っていた漁網なんか、簡単に千切れるはずだ。流石に魔物用の檻は破れなかったようだが、それも亀裂さえあれば強引に曲げていたし、脱出するには一手足りなかったのだとしても、そもそもどうして捕まったのかが謎だ。
フィリップがそんな疑問を投げると、彼女は少しだけ言い淀んだ。
「……恥ずかしながら、少し油断を。私は魔術耐性があまり高くないので、普段は歌で強化をしてから戦闘に入るのですけれど……あの日は竪琴が壊れて気が立っていたので、つい」
「なるほど。……ちょっと親近感湧くなあ」
耳を赤くして本当に恥ずかしそうに答えたアンテノーラに、フィリップは少しだけ嬉しそうに笑った。
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