第450話

 目が覚めた。

 フィリップはそう自覚した後、自分が硬い地面に横たわっていることと、自然に呼吸していることを知覚する。殴られた頭も蹴られ踏みつけにされた体も、どこも痛まなかった。


 「んん……、……えっ?」


 地面がいやに硬い。

 ラグーンの傍の柔らかい土でも、水の中やボートの上でも、どこかの浜に打ち上げられたというわけでもない。目を開けると、緑色の石が規則的に敷き詰められた石畳の道が見えた。


 身体を起こして周囲を見回すと、同じ石で作られた建物が整然と並んでいる。ただし建物それ自体は奇妙に歪んでおり、柱や屋根の線を辿っていくと有り得ない部分と交わるような、空間が歪んだ形状をしていた。


 ここは、街だ。だが確実に、人間が住む場所ではない。人間に、歪んだ空間に立体物を建造するような技術力はない。


 改めて注意深く周りを見渡してみると、周りの建物の窓や影から、幾つもの人影がこちらを遠巻きに観察していることに気が付く。

 それらは皆一様に、人間の姿をしていなかった。魚と蛙が交わって生まれたような二足二腕の存在。鱗に覆われた身体は共通しているが、その色はくすんだ灰白色や鮮やかな緑色、煌びやかな水色まで様々で、魚のような細長い顔にも個性がある。


 深きものディープワン

 ──それも、フィリップにもはっきりと分かるほど存在感が濃い。後天的に変わったものや血が目覚めた交雑種ではなく、ダゴンやハイドラ級の原種だ。クトゥルフの故郷であるゾス星系に棲んでいたものか、その三世以内の個体。千年もすれば神格を手に入れてもおかしくない、半分上位者だ。


 そんな彼らは道のド真ん中に寝ていたらしいフィリップに、警戒の色濃い目を向けるばかりだ。近づいてくる気配も、攻撃の意思も、害意や敵意さえも感じない。


 「……え? もしかしてルルイエ? なんで……?」


 ルルイエ──旧支配者クトゥルフと、その最も忠実にして精強な下僕たちが住まうという都市。大昔に海底に沈み、今や人間が海底であると思っている場所よりも更に深い海溝の底に眠っているという、人類領域外の場所。


 足を踏み入れた記憶が無いどころか、具体的な位置すら知らないところだ。


 フィリップは困惑交じりに笑おうとして、失敗した。

 感情は閾値だった。これ以上の感情が生まれる余地が無いほど、一色に染まり切っている。憤怒と憎悪を混ぜ合わせた、昏い黒の一色に。


 「……ふむ」


 小さく息を吐き、フィリップは迷うことなく道を進み始めた。

 目指す先は分かっている。町の中で一等大きく、恐らく中心部であろう場所にある、城のような宮殿だ。非幾何学的な造形でありながら荘厳さを感じさせるそこに行けば、概ね解決するだろう。


 頑なに道へ出て来ない深きものどもは、どうやらフィリップを避けているようだ。

 建物の影からこちらを窺う彼らの、恐れに満ちた囁きが時折フィリップにまで届く。


 「『盲目白痴の魔王の■■』」

 「『外神の■■』」

 「『悍ましき■の■■』」


 人間の脳では理解できないレベルの邪悪言語が入り混じり、フィリップは不愉快そうに眉根を寄せる。

 その感情さえ、より膨大な憎悪に押し流されてすぐに消えた。


 ややあって、フィリップは目指していた壮麗な宮殿に辿り着いた。

 門扉も入口も十メートル以上ある巨人サイズで、門の両側にはいつぞや遭遇したゾス星系よりのもの──クトゥルフの兵が警衛に立っていた。液体とも金属ともつかない物質で形作られた鎧を身に纏い、歪に曲がりくねった槍のような武器を携えている。


 兵士個体──いや、以前に遭遇したものよりさらに上位だ。言うなれば騎士個体。


 遠目からはその二人しか見えなかったが、彼らの正面に立つと、宮殿は等間隔に並んだ彼らによって包囲されていることに気が付いた。

 巨大な宮殿の全周を守っているのだとすれば、総数は百では済まないだろうと察せられる。


 大量のクトゥルフの騎士に、原種級のディープワン。もしもルルイエが浮上すれば、文明を構成する全人類が駆逐され、地上における文明構築者はヒトから彼らへとシフトするだろう。それだけの戦力が、存在が、ここにはあった。


 ……


 「ここを開けて僕を通せ。でなきゃお前たちの主人をここに連れて来い」


 宮殿の門前に立ち、フィリップはクトゥルフの兵を見上げることも無くぞんざいに命じる。

 声を張ってさえいない呟くような命令に、当然、彼らは何の反応も見せない。


 フィリップは億劫そうに溜息を吐くと、門に向かって一歩踏み出す。


 そして──その眼前に、巨大な槍の石突きが叩き付けられた。フィリップは足を止めるが、しかし、それは制止に従う意思によるものではない。


 「……ねぇ、肺に海水を抱かされて、頭を思いっきり殴られて、お腹を蹴られて踏みつけられた挙句、海に落とされたことある? 僕はあるよ。どんな気分だと思う? 僕は今、どんな気分だと思う?」


 疑問形の言葉ではあったが、フィリップは眼前の劣等種に答えを求めたわけではなく、そもそも会話をする意思も無かった。


 「……僕は今、死ぬほど気分が悪い。僕は今、死ぬほど機嫌が悪い。……まあ、死ぬのはお前なのだけれど」

 

 静かに。淡々と。機械的にも感じるほど無感情に。

 クトゥルフの兵に一瞥も呉れず、フィリップは吐き捨てる。


 そして次の瞬間、フィリップの行く手を阻むように突かれていた巨大な槍がゆっくりと傾ぎ、巨躯もそれに続いた。

 膝から頽れ、ゆっくりと倒れ伏すクトゥルフの兵によって石畳が割れる。横倒しになった神話生物の骸に、フィリップは気色悪そうな目を向けた。


 死んだ。


 何の前触れも無く、一切の外傷も無しに即死した。

 ゾス星系のものは基本、寿命を持たない不老存在だ。実は極度に老衰していたとか、病に侵されていたということはない。


 本当に、ただ死んだ。心臓が止まり、呼吸が止まり、脳活動が止まり、細胞機能が止まり、生命活動の全てが完膚なきまでに完全停止した。

 否──


 その不自然極まる死に眉根を寄せて、フィリップの反応はそれきりだった。


 「……聞こえてるかな、クトゥルフ。差し支えなければ、僕を元居た場所……は不味いか? まあ、適当に安全な場所に戻して欲しいんだけど、出来るかな?」


 返事は無い。勿論。

 フィリップもそれは分かっている。今は死にも等しい眠りの中に封じられたクトゥルフの力が復活するには、地球も含む数多くの天体が特定の配列になる──星辰が揃う必要がある。


 その時を迎えていない現状、彼に出来ることは精神波によって交信することくらいだ。あとは精々、程度。


 フィリップは怒りに満ちても絶対に理性を失えない頭で冷静に思考し、語る。


 「……お前の信者が怒りに任せて僕を殴った責任を、お前に押し付ける気はないよ。いや、あの状況で僕を殴った事だって、悪いことだとは思ってない。敵が居たら攻撃するなんて、当たり前のことだしね」


 まあ害虫が大人しく駆除されず、変に抵抗してきたことに対する嫌厭はあるけれど。


 そんな自覚は、事実に全く即していない。


 「僕は殴られたから殴り返そうとしてるだけ……、うん、それだけなんだ。その当たり前のことをするために、帰らなくちゃいけない。帰る必要がある」


 必要。そう語る。

 『神がそれを望まれた。故にそれは必然である。』──そんな聖典の一節を捩った洒落だと気付く者は、流石にこのルルイエにはいないだろうけれど。


 端的に言って──フィリップはブチ切れている。

 精神防護が狂気的な激情と理性を分け隔て、身を焼き焦がすほどの憤怒と、それもまた泡沫だと諦めを以て静観させる理性を同居させているだけだ。


 数秒ほど待っても返事は無く、フィリップは小さく肩を竦めた。


 「……無理か。じゃあいいや。ごめんね、寝てたのに。助けてくれてありがとう」


 フィリップはにこやかに、緑色の宮殿に笑いかける。

 そして踵を返し。


 「いあ いあ はすたあ くふあやく──」


 何の躊躇も無く、クトゥルフの天敵にして最大の敵対者であるハスター召喚に方針を切り替えた。


 ここがクトゥルフの目と鼻の先であるとか。そのクトゥルフはなけなしの力でフィリップを安全な場所に匿ってくれたのだとか。もしもここにハスターを呼べば、彼は自身の憎悪に従ってルルイエを破壊し大虐殺を引き起こすだろうとか。そんなことは全く気に留めなかった。


 そして──視界が白く染まる。

 閃光を浴びたかのような、しかし全く眩しくはない白さに目を瞑る。


 再び目を開けたとき、フィリップは目と鼻と頭と腹が──もうとにかく「痛い」という情報で混乱するほど、全身のありとあらゆる場所が痛んだ。


 しかし最優先で処理された情報はどの場所の痛みでもなく、顔表面の水没。本能が発する窒息や溺水への危険信号だった。


 「──ごぼぼぼぼ……っ!?」


 足の着かない、昏い水で底が見えもしない水中で、フィリップは我武者羅に水を蹴って藻掻き、無意識に上を目指す。

 幸い三半規管に異常は無く、動揺のあまり半分以上無駄に吐き出してしまった酸素が底を突く前に、顔が水面を突いた。


 「ぷはっ!? なんで海の中──、っ!」


 左腰に佩いた剣が主人を水底に誘うのに抗いながら、どうにか立ち泳ぎから背浮きの姿勢に移行する。

 浮力を十分に得られる安定した姿勢になって一息つくと、側頭部が激しく痛んだ。


 手を遣ると、海水ではないぬるりとした触感が返る。だが見て確認するまでも無く、潮の匂いに血の臭いが混ざっていた。

 傷が治っていない。ルルイエに居たときには治っていたはずなのに。あれは夢──いや、精神体だけが隔離されていたのだろうか。


 そんなことを考え、暢気なほど美しい星空に目を向ける。


 岸を目指すでもなく──そもそも見渡す限りの黒い海で、ここは何処なのかさえ判然としない──ぷかぷか浮かんでいると、夜空と海面の間を何かが横切った。黒っぽいが夜の空より明るく、茶色に近い小汚い色をした何か。

 不審そうに目を凝らしていたのはフィリップだけではなく、その黒いものも同じだった。そしてフィリップが同じものが複数体いると気付いたとき、上空のそれらは海面に人間が浮いているのだと理解した。


 直後、周囲に自死衝動を引き起こす魔の歌声が響き渡った。


 「セイレーン!? ってことはあの辺り……!?」


 フィリップは咄嗟に潜り、海面すれすれまで急降下してきたセイレーンの攻撃を躱す。

 最悪の遭遇だが、おかげで現在位置に見当がついた。今朝にオスメロイの船で出てきた辺り──船を使っても一時間以上かかる、かなりの沖合だ。


 泳いで村まで戻ることはできない。そう確信出来る位置。


 頭の傷はそもそも派手に血が出るうえに、定期的に水没していては止血もクソもない。失血による失神は陸地でもかなり危険だが、泳いでいる最中だったらそれはもう死を意味する。

 幸い、海は意外にも温かく、低体温症よりはスタミナ切れの方が早そうだ。


 水面下を懸命に泳ぎ、セイレーンの目を一時的に誤魔化すことに成功したフィリップは、見当違いの場所を探している馬鹿な鳥から離れようと試みる。

 そして、自分がどちらを向いて泳ぐべきか分からないことに、漸く思い至った。


 ここが何処かは、確証はないにしても予想は出来た。

 では漁村はどちらかと言うと──前後左右、どちらを向いても黒い海と黒い空しかない。星の並びから方位を測定することは可能だが、そもそも東西南北どちらに村があるのかが分からない。


 「はぁ……。っていうか、さっき嫌なものが見えた気がするんだよね……」


 フィリップは心底嫌そうな溜息を吐き、頭が完全に沈む程度に潜る。


 そのほんの数メートル前方に、白いキノコのような物体──カノンがキロネックスと呼び、オスメロイが殺人クラゲと呼んだモノが漂っていた。


 ……いや。

 その後ろに、横に、フィリップの下に、後ろに、そこら中に──この海域の至るところに、星明りを受けて淡く光る儚げな死神が浮かんでいる。


 賢いなあ、とフィリップは思わず笑ってしまった。


 セイレーンの喚声は自死衝動を引き起こし、船乗りを海へ身投げさせる。

 しかしそれは耳栓で防ぐことができ、また屈強な船乗り同士であれば身投げする前に妨害することも出来る程度の、強制力の低いものだ。もし海に入ってしまっても、すぐに引き上げれば問題なく助かる。


 ──このクラゲの群れが居ない場所でなら、という但し書きは付くけれど。

 ほんの一瞬、足の先が海に入っただけだったとしても、そこにクラゲが居たら終わりだ。触れた瞬間に心拍と呼吸を止める猛毒に曝露し、死ぬ。


 セイレーンが自らの能力を十全に活かすために、クラゲのいる海域を選んで縄張りにしたのか。或いはクラゲの方が、死骸漁りの小魚を狙ってセイレーンのいる海域に寄ってきたのか。

 生物と魔物の共生。人によっては興味をそそられるテーマだろうが、危険の只中にいるフィリップにとって重要なのは、学術的意味ではなく脱出の方法だ。まあ、それが思いつかないから「賢いなあ」なんて現実逃避気味に考えたのだけれど。


 「僕は「安全な場所に戻せ」と確かに言ったはずだし、ハスターを呼んだ気もするんだけど……まあいいや」


 もう一度呼べばいいだけのことだと、フィリップはもう一度背浮きの姿勢になって浮力を確保し、詠唱に備える。

 幸いにしてクラゲは攻撃的ではなく、動きが速いわけでもないから、ハスターを召喚する余裕は十分にあった。


 「漁村まで戻るのは不味いよね。エレナもパーカーさんもまだいるだろうし……一旦ラグーンの方に戻るべきか」


 そんなことを考えていたフィリップは、近くの水面に影を見た気がして静かに潜った。フィリップを探すセイレーンが近寄ってきたのだと思ったからだ。


 しかし──それは影は影でも、空から海面に投げかけられた影ではなかった。

 影の主は潜った先、水面のすぐ下にいた。それは魚影だったのだ。全長四メートルもの巨大な魚影。オスメロイがグリゼーオと呼び、カノンがオオメジロザメと呼んだ、トラウトなんかとは比較にならない捕食者の顔をした魚が、そこにいた。

 

 そして、彼はどうやらフィリップを餌と認識しているらしかった。


 フィリップの周りを悠々と泳いでいたそいつは、フィリップの頭の傷から流れ続けている血の臭いを嗅ぎ続け、もう我慢の限界とばかり鋭角に方向転換して急接近してくる。


 鋭利で大きな歯が乱雑に並んだ口を大きく開け、慌てて剣を抜こうとする雑魚の肉を食い千切ろうと。





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