第449話

 その夜。

 一行は森の中に停めた馬車の中で寝泊まりしていた。


 エレナは結局、誰も殺さなかった。

 あのドラッグスープが悪意を含んだものなのか、彼女はフィリップにもリリウムにもカノンにも明かしていない。そしてフィリップも、「どうせ明日の朝には村を出るんだし、気にすることないよ」と言った彼女に反駁しなかった。


 彼女の言う通り、気にすることはない。


 村人は全員、明日の朝には死んでいるのだから。

 

 フィリップは寝袋に入ったあと、眠ってしまわないよう気を張り続けた。時折懐中時計を確認しながら、待ち遠しそうに。

 そしてエレナとリリウムだけでなく村人たちも寝静まったであろう深夜になると、モゾモゾと起き出して馬車を降りた。


 虫除け代わりの焚火の傍では、不寝番を言いつけたカノンが座って……座ってはいたが、うつらうつら舟を漕いでいる。焚火に顔面を蹴り込んでやろうかと頬を引き攣らせながら、フィリップは肩を叩くに留めた。


 「ちょっとカノン、それ寝てない?」

 「はっ! い、いや寝てませんよ! 確かに私の処理装置は人間の脳ベースなので休眠は必要ですが、一月くらいは不眠不休で活動できます!」

 「寝てた時の言い訳の仕方だよそれは」


 呆れ笑いで溜息を吐き、フィリップはそのまま森へ入る。

 背後からの「どちらへ?」という問いには、「探検」と適当に答えた。


 適当ではあるが、嘘ではない。

 昨日は村人との間に不要な軋轢を生むべきではないと断念した、ラグーンの神殿への侵入を試みるつもりだからだ。


 覚えのある道順に沿って森を進むと、星明りを映して輝く潟湖と、緑色の石で作られた荘厳な教会が目に入る。見張りはまだ来ていないのか、昨日の若者たちはおらず、篝火も焚かれていなかった。


 これ幸いと神殿の側面へ回り、精緻な彫刻の施された飾りガラスへ躊躇なく龍貶しの柄を叩き込む。

 魔術的な防護でもあるかと思っていたが、ガラスは涼やかな音を立てて崩れ落ちた。


 神殿内部は信徒用の椅子を取り払い、回廊の中心に祭壇を置いたおかしな教会と言えば、概ね語り終える程度の簡素なものだ。壁には戯画的でありながら儀式の様子が描かれていると分かる、複数枚の絵が流れに沿って飾られていた。


 そして神殿の最奥、普通は聖女像かそれに類するものが置かれている場所には、やはり巨大な像がある。

 人骨と思しき大量の骨の上で、魚と蛙の合いの子のような異形「深きもの」が台座を支えている。その上に跪き天を仰ぐのは、数十倍の体躯を持つ巨大な深きものが二体……ダゴンとハイドラだろう。仰ぐ先には、より明らかな異形──蛸のような触手を備え肥大した頭部と蝙蝠のような羽を持つ巨人、クトゥルフであろうものが玉座に坐している。


 「……なんか、思ったより何もないな」


 フィリップはつまらなさそうに呟き、邪神像に対する興味を失う。

 人間の集落に置いてあったら即刻焼却を決める代物だし、目にしたところで即座に発狂することはなくてもルキアやステラに見せたくはないモノだが、この村に置いてあるのは何ら不思議ではない像だ。というか、まあそんな感じの物はあるだろうと思っていた。


 それよりは、大雑把ながら儀式の内容が分かる壁の絵の方が気になった。

 絵は全部で五枚。どれもこれもフィリップが一人では持てないほど大きく、戯画的だが具体的で、内容が直感的に理解できる。


 一枚目の絵は、深きものが自分の腕を切り落として海へ投げ入れている絵だ。漁で狙った獲物に遭遇できるという儀式を描いたものだろう。贄を探す方法を表しているようだ。


 二枚目の絵は、深きものが幾つもの獲物を獲ってきた場面で、贄となる獲物の種類を示しているようだ。絵の通りなら、贄に適しているのは十数メートルはありそうな巨大な魚と、蛇のように細長い魚、人魚、そして龍。いや、水棲の龍なんているのかどうかは知らないが、描かれているのは龍としか形容できない、長い首を持った爬虫類っぽい生き物だ。手足が魚の鰭のようになっており、首の長い亀に見えなくもないが、深きものとの対比を考えると3メートルはある。


 三枚目の絵は、深きものどもが黒い月──恐らく新月を示している──の下で贄を解体し、その心臓を天に掲げている。これは見たまま生贄の儀式だろう。


 四枚目は、跪く深きものどもの見つめる先に一対の巨大な個体──ダゴンとハイドラだろう──が降臨し、魚の雨を降らせている絵だ。不漁を避ける加護か何かを授けてくれるのだろうと察せられるが、流石に詳細までは分からない。


 五枚目──ダゴンとハイドラは神殿のあるラグーンへ帰っていく。その時ラグーンの水面は、城があり複数階層の建物が並ぶ大きな都市を映している、という絵だ。都市の建物はどれも緑色で、このラグーンの神殿とよく似たデザインに見える。


 「……意外なほど意外性が無いな」


 何から何まで予想通り過ぎて、逆に怖い。

 地下に続く隠し通路とか、ルルイエに繋がる異空間の門とか、隠されていたりしないだろうかと不安になる。


 「実は像の下に隠し階段が……無いか。絵を外すとスイッチが……無いな。祭壇の下に……っ! あ、釘で固定されてる……」


 像の周りを一周してみて、壁に掛かった絵を全部外してみて、祭壇を思いっきり押してみて、それでも何も見つからない。


 そして結局、フィリップはあるかどうかも分からない隠された秘密を探すのは止めた。

 どうせ村人は全員殺す。その後でまだ神殿が気になるようなら、地下ごとひっくり返してペシャンコに潰せばいいだろう。


 フィリップは人魚のいる側、入ってきた場所とは違う窓を態々割って、そこから外に出る。

 ガラスの割れる音に驚いて水面から顔を出した人魚と、窓枠を乗り越えている最中のフィリップの目がばっちりと合った。


 「やあ。『助けに来たよ』」


 喉を締め付けるような邪悪言語で言いながらにっこりと笑ったフィリップに、人魚は胡乱な目を向ける。

 どうしてそんなところから出てきたのかと顔に書いてあるが、口元は期待に満ちた笑顔の形だ。それを歪める必要を感じなかったフィリップは、檻の前に立つと龍骸の蛇腹剣を抜き放ち、金具を操作して鞭形態へ伸長する。


 素材になった古龍の気配か、王国トップクラスの錬金術や付与魔術に気が付いたのか、或いは剣がだらりと垂れ下がったことに驚いたのか、人魚が目を見開いた。


 「『頭を低くしてて』」


 言って、フィリップは全身を大きく使う鞭の動きで檻の天井部を開けるように切り裂く。

 幅も奥行も10メートル近い檻を一撃で開けることは出来ないから、何度も切りつけて穴を作るつもりだ。


 しかし、彼女にはその程度の損傷で十分だった。


 けたたましい音と激しい波がほぼ同時に上がり、フィリップは思いっきり水を被って踏鞴を踏んで下がる。濡れた顔を拭い、何事かと目を戻したとき、檻の天井部は内側から凄まじい力が加わったように歪み、大口を開けていた。


 人魚はと言うと、檻から離れたところを自由を喜ぶように泳いでおり、時には水面から五メートル以上も飛び跳ねている。

 目を瞠るような速度で泳ぐ彼女にとって、一辺十メートルの檻は窮屈に過ぎただろう。それが傍目にも分かる、解放感を全身で表現する舞踏のようだ。星明りを映す飛沫が、人間の上半身の艶めかしい色香と、魚の下半身の強靭な生命力を煌きで彩った。


 彼女はそのまま外洋へ泳ぎ去るかに思えたが、フリントロックが濡れてしまったと苦笑しているフィリップのいる岸辺に戻ってくると、スカートの代わりに両手を広げるような独特の礼を見せた。


 「『この御恩は絶対に忘れませんわ、優しい御方。どうか、お名前を頂けませんか』」

 「『……フィリップ・カーター。と言っても、忘れ……いや、君は?』」


 忘れた方が幸せになれる。そう言おうとして、止めた。

 今はまだ精神面の変化はないようだが、トルネンブラが認めた以上、遅かれ早かれ変容が始まる。それはフィリップにも、誰にも避けようのないことだ。彼女が、いやフィリップがどれだけ望もうとも。


 代わりに名前を尋ねると、彼女は自信を感じさせる目で静かに笑った。


 「『アンテノーラ。もしも再びお会い出来たら、貴方様の為に歌わせてくださいませ。それでは、ごきげんよう』」


 言って、アンテノーラは水中に身を沈めて泳ぎ去る。

 ラグーンと外洋を繋ぐ小さな水道を越えて見えなくなるまで、彼女は何度もジャンプしたり、振り返って手を振ったりしてくれた。


 そんな程度のことでも、フィリップにとって人魚は御伽噺の登場人物だ。思わず笑いながら手を振り返してしまうくらいには嬉しかったが、それだけに、後悔もひとしおだ。


 結局、彼女を殺せなかった。

 彼女の為を思えばこそ殺すべきだったのに、あの声がこの世から失われることを惜しんでしまった。


 「でもホントにいい声だったしなあ……」


 じわじわと、「やっぱり逃がしてよかったんじゃないかな」という思いが後悔を拭い去っていく。

 そんな自分に呆れ笑いを零していると、ふと声なき意思が届いた。


 トルネンブラではない。聴覚を介さず、もっとフィリップ自身の深いところから直接語り掛けてくるような感覚は、シルヴァだ。


 内容はいつもと同じ、警告未満の報告。

 森の中をこちらに向かって近づいてくる人外が居ると。

 

 言われた方向に向き直ると、棒を持った二人の若者──神殿の見張り役の二人が、木立の中から血相を変えて飛び出してきた。


 「お前……あれを逃がしやがったのか!?」


 拉げ、大口を開けた空の檻を見て、若者が叫ぶ。


 思ったより早く見つかってしまった。だが、最早どうでもいいことだ。

 フィリップはもう、村人は全員殺すと決めている。


 エレナやリリウムを逃がした後、最終的に邪神を使って掃除することまで想定しているから、逃げられても問題ない。自分の手で殺す必要も、凄惨に殺す必要も無い。


 これは楽しい楽しいカルト狩りとは違う。面倒極まる害虫駆除だ。


 退屈そうな溜息と共に龍貶しの柄へ手を掛け──その時点で、フィリップの敗北は決定した。

 物理的耐久力だけでなく魔術耐性も貧弱なフィリップは、先手必勝を選ばないのであれば、取り敢えず『拍奪』による攻性防御を展開するべきだったのだ。


 「このっ……! 《深淵の息ブレスオブザディープ》ッ!!」

 「ごぼっ──!?」


 先手初撃での魔術攻撃。 

 棒を持っていたから近距離型だと思い込んだ──というわけではなく、そもそも眼前の劣等生物が自分の敵になるなど思っていなかった。害虫を踏み潰す程度の意識では、向けられる全ての攻撃が意識外からのものになる。


 突如として肺の中を満たした大量の海水。

 重りであり枷であるそれが息を詰まらせ、フィリップは喉を押さえてよろめいた。


 意外にも、肺に痛みは無かった。しかし気道や喉、鼻の奥が海水によって刺激され、反射的に咳き込もうとするのに息が吸えない。その状況はフィリップを一瞬でパニックに陥らせるには十分だ。


 正常な思考を失ったフィリップが真っ先に思い浮かべたのは、「怒られる」という心配だった。

 魔術師相手に照準妨害の『拍奪』や、フィリップが持つ最速の遠距離攻撃であるフリントロック・ピストルのクイックドロウを使わなかった時点で、ルキアとステラに滾々と説教されるレベルの大失態だ、なんて。


 手足の力が抜け、剣を抜くことさえ出来ずにいるフィリップへ、魔術を撃ち込んだ男がずんずんと近寄る。

 そして持っていた棒を振りかぶると、フィリップの横面を思いっきりぶん殴った。


 もんどりうって倒れたフィリップだったが、エレナやミナとの白兵戦訓練が効いている。身体に染みつかせた接近戦の動きが、寸前で身体を流して辛うじて直撃を避けた。それでも棒は側頭部を掠め、頭皮がぱっくりと割れて血が噴き出す。


 「この、人間風情が!! お前のせいで俺たちはッ!!」


 怒声と共に、頭の痛みに気を払うこともできないほどの溺水の苦しみに藻掻いているフィリップへ、何度も何度も蹴りが入る。腹、頭、腕、顔と、滅茶苦茶に蹴られて踏みつけられて、それでも何も感じないところまで、窒息が進行していた。


 いや、もし痛みを感じていたとしても、苦悶の声さえ上がらない。

 口から出るのは海水と、肺が絞り出した呼気の泡だけだ。


 そして度重なる暴行はフィリップの矮躯を徐々に動かし、遂に海へと蹴り落とした。


 サンドバッグを失った男は大暴走がぷっつりと途切れ、力を使い果たしたかのようにへたり込み、泥濘で汚れるのにも構わず地面に頭を付けた。何度も何度も、泥と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。


 「終わりだ……。俺たちは、もう終わりだよ……」


 ぶつぶつと終末を呟く男。

 ややあって、初めに怒声を上げてからずっと放心状態だった片割れが多少の理性を取り戻し、よろよろとラグーンへ歩み寄る。


 「……おい、あいつは何処だ?」

 「たった今俺が蹴り落としただろうがよボケカス。その辺に浮いてなきゃ沈んでるんだろ」


 力のない声に、涙声の罵声が応じる。


 そして、片割れは呆然としながら頭を振った。


 「……死体が無い」


 ラグーンの、底が見えるほど美しい水の中に、人の影は無かった。



 

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