第445話

 翌朝。

 フィリップたちはオスメロイに連れられて、未だ日も登らぬ時刻から船着き場を訪れていた。


 幾つもある桟橋には、また幾つもの船が泊まっている。どれもこれも帆のない手漕ぎ型で、小さいものでは二人乗り、大きくても六人乗り程度のサイズしかなかった。

 オスメロイの船は全長6メートルくらいで、六人ほど乗れそうな比較的大きめのものだったが、櫂は一セットしかない。普段は一人でそれを操っているのだろう。


 一行は促されるまま続々と船に乗り込んだが、オスメロイは桟橋に残り、何をしているのかと見遣るフィリップたち四人の前で大振りのナイフを取り出した。

 徐に振りかぶられたそれは一回、二回と振り下ろされ、彼の腕の肉の一部を海へと削ぎ落とした。


 リリウムが悲鳴を、エレナが制止の声を上げるのに構わず、オスメロイは跪いて祈るように両手を組んだ。


 「“現在”を捧げ“未来”を拝領する。私の血肉は子の糧である。我が神よ、私の献身があなたと我が子を助けますように」


 「いあだごん、いあはいどら」と呪文を結び、オスメロイは予め用意していたらしい薬と包帯で自分の傷を手早く処置する。

 一連の動作をエレナの後ろに隠れながら見ていたリリウムが「うわあ……」と複雑な感情の籠った声を漏らした。


 「フィリップ君──」

 「……いや、警戒しすぎだよエレナ。僕が邪教と見るや飛び掛かる狂犬だとでも思ってる? “使徒”じゃあるまいし」


 エレナはオスメロイの儀式的な動きを呆然と見ていたが、復帰した次の瞬間にはフィリップに確かめるような目を向ける。


 応じるフィリップは苦笑気味だ。 

 この程度の儀式的術法が使われていることくらい、この村の住人の正体に気付いたときから半ば確信を伴って想定していた。深きものがクトゥルフやダゴンを信仰するのは、種族的に自然なことだ。そんなことに、一々目くじらを立てたりしない。


 「あ、ごめん……」


 気にするなとエレナに手を振って示し、フィリップは船に乗り込んだオスメロイに興味深そうな目を向けた。


 「今のは何?」

 「漁で狙った獲物に出会えるまじないだ。尤も、出会ったことに気付くかは経験次第だし、気付いたところで釣り上げられるかは腕次第だが」


 それは便利なのだろうか、とフィリップとエレナは怪訝そうに顔を見合わせる。

 経験と技量さえあれば狙った獲物を必ず仕留められると考えると、狩猟に於いては正しく神の加護のような代物なのだが、二人とも食料探しでは適当に見つけた獲物を狩っているからピンと来なかった。


 「へぇ。それ、魔物にも使えるの?」

 「どうだかな。まあ、魔物はどうせ殺戮本能で生きてるんだ、こっちを見つけたら勝手に寄って襲ってくるさ」


 肩を竦めるオスメロイだが、彼は魔物にも効果があると確信しているだろう。

 彼の腕には漁の最中に負ったと思しき怪我の跡はちらほら見受けられるが、刃物で削ぎ落したような大きな傷跡は、すっかり治ったものしか見受けられない。この儀式は日常的に行われているものではないと、簡単に察しが付く。


 昨日の夜に神殿の見張りが話していたことと併せて考えると、ダゴンとハイドラの接触儀式が近く控えているから、フィリップたちになるべく早く目的を達成して村を出て行って欲しいのだろう。

 フィリップとしても──船が出たあと、ずっとオスメロイから離れた位置にいるリリウムとしても、この村はなるべく早く出たいので、有難いことだけれど。


 オスメロイの操る船に揺られて沖へ出て、セイレーンが出没するという海域へ向かう道すがら。

 紺碧の水面を顔を輝かせて見つめていたエレナが、ふとはしゃいだ声を上げた。


 「うわ、フィリップ君、リリウムちゃん、見て! なんか凄いのが浮いてる!」


 エレナは船べりから身を乗り出し、ばしゃりと水音を立てて海中から何かを掬い上げた。

 白い半透明の、キノコのようなモノだ。全長はエレナの胴体くらいだろうか。柄の部分が複数の触手のように分かれていて、傘の部分は飾りガラスのように透明な中に白い模様がある。ブヨブヨしていて、とても触ってみたいとは思えない外観だ。


 「うぇ、なにそれ……?」

 「なんか気持ち悪いわね……」


 フィリップとリリウムは顔を顰め、両手で柄と傘の部分を持ったエレナから距離を取る。

 エレナが手にしたモノを見て、気持ち悪がるのではなく驚いたのはオスメロイとカノンの二人だ。


 「あ? おい馬鹿! そいつは殺人クラゲだぞ!」

 「うわ、キロネックスじゃないですか。えーんがちょ。フィリップ様に触る前にちゃんと手を洗ってくださいね」


 慌てたオスメロイが櫂を取り、間違ってもエレナが自分の方に近寄らないように牽制する。

 カノンはフィリップを背に庇い、エレナに足を向けて追い払うように振った。


 「え? ……あ、ホントだ、こいつ毒ある。二人とも触っちゃ駄目だよ」


 気が付いたように呟いたエレナは、手にしていたクラゲを海へ放り投げた。

 ぼちゃん、と水の弾ける音が虚しい。


 「んー、この感じは……ふむふむ……」

 「お、おい、大丈夫なのか? 今の、見間違いじゃなきゃこの辺りで一番毒が強いヤツだぞ。刺されなかったのか? 痛みは?」


 今の今までクラゲを持っていた手を開閉しながら、虚空に視線を投げて唸るエレナ。

 痛みや苦しみを感じているようには見えないが、オスメロイの慌てようとカノンの反応を見るに、本当に強力な毒があるのだろう。


 しかし、エレナはにっこりと笑って掌を見せる。


 「うん、大丈夫! このぐらいの量なら効かないかな」


 言葉通り、彼女の白い掌には傷も、ほんの僅かな腫れさえも見当たらない。

 

 「……ちなみに人間が触るとどうなるの?」


 興味本位のフィリップの問いに、エレナは今なお体内を駆け巡っている猛毒の感覚に集中し、過去に体験した毒と照らし合わせて推理する。


 「ボクでもちょっと痛いから、多分気絶するんじゃない? 複合毒みたいだから詳しいことは分かんないけど、ボクの体感が正しければ数分で呼吸と心臓が止まって死ぬ」

 「こ、呼吸と心臓が止まって死ぬ?」


 リリウムがオウム返しする声は完全に震えていた。

 蜂だの蛇だの蜘蛛だの、毒のある生き物はそれほど珍しくはない。だが数分で死ぬレベルの猛毒は、陸上の生物ではかなり稀だ。少なくともリリウムはそんな生き物を見たことも聞いたことも無かった。


 「あとは外皮の壊死とか、血液の機能不全とか。簡単に言うと……死ぬ」

 「馬鹿でも分かる簡単な説明だ……」


 フィリップは引き攣ったような苦笑を浮かべる。

 呼吸と心臓が止まるのを「死ぬ」と表現することを考えると、呼吸と心臓が止まる毒は正しく「死ぬ毒」だ。


 海の美しさに惹かれてフィリップの中に芽生えていた「飛び込んでみたい」という欲求が、一瞬で完膚なきまでに枯れ果てた。


 「サメもいるらしいですし、落ちたら結構危ないですね」

 「そのサメっていうのも今一つピンと来ないんだけど……」


 今乗っている船が六メートルくらい。件のサメとやらが五メートルくらいという話なので、サイズ感的にはフィリップやエレナが上に乗っかれることになる。

 フィリップの脳内でサイズを補正されたトラウトの姿がぼんやりと想像されるが、やはり脅威は感じなかった。


 と、そんな時だった。


 「おい、見ろ! セイレーンだ!」


 オスメロイが叫ぶ。

 彼の指が示す方向を見ると、確かに、鳥にしてはいやに大きい生き物が群れをなして飛んでいる。まだ黒っぽい塊にしか見えない距離だが、地元の漁師が海鳥ではなくセイレーンだと言うのならそうなのだろう。


 「よし、皆、耳栓を付けて! ハンドサインは覚えてるよね?」


 エレナの号令に従い、カノンを除く船上の全員が一斉にポケットや鞄を漁って聴覚防護用の装備を取り出す。

 フィリップとエレナは耳孔に入れるタイプの耳栓で、リリウムとオスメロイは耳全体を覆うタイプのイヤーマフだ。白兵戦型の二人は頭が重く動かしにくくなるのを嫌った故のチョイス──いや、フィリップはトルネンブラ任せで耳栓のことを忘れていて、ナイ神父に貰ったものをそのまま付けているのだが、エレナは「お、分かってるね!」と上機嫌だった。


 そんな声も、カノン以外には聞こえない。

 フィリップとリリウムは事前の取り決め通りサムズアップで『準備完了』と示し、それを見たオスメロイも倣う。


 その数秒後、接近する人間に気が付いたセイレーンの群れが一斉に移動を開始し、同時に、周辺海域へ自死衝動を引き起こす魔の歌声が響き渡った。


 「わぁ……、こんなのが美しい歌声なんですか? 人間の価値観って変わってますねぇ……」

 「いや、これならあの人魚の声どころか、モニカの鼻歌の方が余程──、ん?」

 「……え?」


 フィリップはごく自然にカノンと言葉を交わし、一瞬遅れで顔を見合わせる。

 耳栓をしていないカノンはともかく、フィリップまで平然と会話しているのはおかしい。その両耳には、ナイ神父から貰った耳栓がきっちりと詰まっているのだから。


 「……聞こえてるんですか?」

 「うん。普通に……っていうか波の音とかが小さくなって、むしろカノンの声が滅茶苦茶クリアに聞こえる」


 それだけでなく、セイレーンの歌声──いや、金切り声もしっかりと。

 酷い音だ。ガラスを釘で引っ掻いたような、ただひたすらに気分を害する耳障り極まりない声。歌と呼ぶには音階が存在しない、単なる叫び声だ。


 聞いていた話と違う。

 精神影響が取り払われているからだろうか。

 

 「えぇ……? だ、大丈夫なんですか……? サメだのクラゲだのがいるんですから、身投げなんかしないでくださいよ?」

 「害ある音はトルネンブラが遮断してくれるから、そっちは大丈夫。問題はこのクソ不愉快な音の方だよ。今すぐ殺したいぐらいだ」


 とはいえ、だ。

 魔物の死骸は黒い灰状粒子になって消滅するが、流れ出た血や切り落とした部位もその法則の例外ではない。低確率で死後にも消滅せず形や性質を留め続ける、所謂ドロップが残る場合もあるが、船底にぶちまけられた血を持って帰るわけには行かないのだ。


 エレナ曰く、セイレーンの血は滋養強壮剤の素材として利用されることがあるらしい。王子が何を目的にこの依頼を出したのかは定かではないが、薬になるなら採取時の衛生状態に気を配っておくべきだろう。


 生き血を取り、その後で殺す。それでも採取した血が一定確率で消えることを考えると、魔物素材の収集は籠で水を汲むような作業だ。


 待ち受ける面倒な作業に溜息を吐いたフィリップは、青白い光を放つ蛇腹剣を抜き放ちながら、ふと思い出したようにカノンに向き直った。


 「……ところでカノン、人格が戻ったの?」

 「……あっ」


 しまった、と明記された顔を明後日の方向に向けるカノン。

 迂闊で間抜けな以前の彼女らしい所作に、フィリップは愉快そうに笑いながら鷹揚に手を振った。


 「良かった、そっちの方が面白くて好きなんだよね。ポンコツピエロっぽくて」

 「ぽ、ぽんこつピエロぉ!? ゆ、ゆるせん……! フィリップ様、ご自分が魔王の寵愛を受けていることに感謝してくださいね! でなきゃサメの餌にするところですよ!」


 キャンキャンと吠え立てるカノンに、フィリップは懐かしむような笑みを浮かべる。

 古い友人に再会したかのような笑顔はしかし、目だけが全く笑っていなかった。


 そう言えば、と懐かしむ。

 そう言えば──こいつは初対面でも僕の逆鱗に触れていたと。


 「ははは……、次それ言ったらお前をバラして黒山羊の餌にするぞクソ劣等種」

 「ひぇ、ご、ごめんなさい……」


 中指を立てると、カノンは慄いて身を竦める。

 馬鹿の言うことに気分を害することこそ馬鹿らしいとは思うけれど──それだけは、馬鹿の言葉だろうと認めるわけにはいかなかった。 


 そんなことをしていると、セイレーンの群れがいよいよ近づいてくる。個体の姿が鮮明になるほどにまで近づくと、船首にいたエレナが大きく腕を振って合図した。


 『戦闘開始』、と。





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