第446話
暗い色の羽毛を持つ鳥の下半身に、人間の女性と外見的に同一の上半身を持つ魔物、セイレーン。
数十羽からなるその群れは、極めて低い位置に形成された暗雲のようだった。
個体ごとに顔や体形にはそれぞれ違いがあり、個性のようなものが見受けられるが、低位の魔物──殺戮本能のみを行動指針とする獣らしく、目に宿るのは知性ではなく野性的殺意の輝きだ。話が通じる気配はない。
群れはしばらく船の上空を飛び回りながら不思議そうに見下ろしていたが、誰も海に飛び込まないことを察して怒ったような金切り声を上げた。
尤も、その声を聞いているのはフィリップとカノンだけで、そのどちらも「人間の精神に影響する音」の効果対象ではないのだけれど。
「五月蠅い、なぁ……ッ!」
剣の届かない上空──そう思っていたセイレーンが居たその場所を、四メートルにまで伸びた蛇腹剣が薙ぎ払う。
苛立ち混じりでも脱力した鞭の動きで振り抜かれた先端部は、音速を超えて独特の炸裂音を鳴らし、不幸にもフィリップに狙われたセイレーンの人間の部分と鳥の部分を綺麗に分割した。
赤黒い血が噴出し、海鳥にしては大きな死骸と共に船の上へぶちまけられる。
そして数秒程でその全てが黒い粒子となり、風に吹かれて消えた。
「ぷーすす、フィリップ様、ちゃんと手加減しないと駄目じゃないですか」
「今のは黙らせただけだよ。……まあ、間違いなくミスではあるけど」
血を取るどころではない瞬殺具合にカノンが指を差して笑い、甲殻に包まれ鋭利な爪を備えた指先を向けられる不愉快さとは関係なく、フィリップは苦々しく表情を歪める。
今のは良くなかった。
仲間を殺されたセイレーンがフィリップの間合いを学習し、五メートル以上の高さを保って飛ぶようになってしまった。
まあ幸い、所詮は知能が低く殺意は高い魔物だ。逃げ出す様子は無く、むしろフィリップの隙を突いて爪で引き裂こうと狙っているのが下から見ても分かる。
「そんな劣等種にフィリップ様を見下ろさせたとあっては、ナイアーラトテップに叱られてしまいますね! というわけで……ッ!」
カノンが翼を広げて飛び上がり、驚愕に目を見開いているセイレーンの頭頂部をさらに上からぶっ叩く。
セイレーンは直下スパイクじみた弾丸軌道で落下してくるかに思えたが、叩いた瞬間に羽と血を飛び散らせながら破裂した。
「うわ、脆い!?」
「いや、加減はしなよ……」
船のところまで血の一滴も降って来ない即死具合に頬を引き攣らせ、フィリップはカノンをおちょくる目的でマッサージをさせるのは止めようと心に深く刻んだ。
カノンが上空で、船上ではエレナがロープを投げ縄のようにして、リリウムが魔術を使って、それぞれ試行錯誤を重ねている。
その後ろで、フィリップはセイレーンが下りてくるのをじっと待っていた。
普通、武器の精度──手加減のしやすさは、手元からの距離と概ね反比例する。
リーチの長い武器ほど力加減が難しく、短ければ調節がよく効く。カノンは例外らしいが、例えばロングソードと鞭形態の蛇腹剣では前者の方が威力を調節しやすいし、完全に手を離れる投石やフリントロックに威力調節は不可能だ。
蛇腹剣の扱いには十分に慣れているが、それでもロングソードの間合いで戦った方が手加減を確実なものに出来る。
遠巻きに隙を窺うセイレーンの群れ。
リリウムの魔術が群れに穴を開けて空へ消えたり、エレナの投げたロープが何にも当たらずに海へ落ちたり、カノンが水風船で遊んだりしていると、自衛用のオールを持って船尾で身構えていたオスメロイが不意に叫んだ。
「不味いぞ、グリゼーオだ! お前ら、絶対に船から落ちるんじゃねぇぞ!」
彼の示す先には、海面から飛び出た三角形の物体があった。
悠々と船に近づいてくるそれが水面下を泳ぐ魚の背鰭であるとフィリップが気付いたのは、澄んだ水の中に巨大な魚影を見てから漸くだった。
光の屈折のせいではっきりとは分からないが、トラウトなんかとは違う厳つい顔をした巨大な魚だ。
全体的に鋭利なフォルムをしていて、全長は3~4メートルと言ったところか。話に聞いていた5メートルには届かなさそうだが、天敵など存在しないとでも言いたげな堂々たる姿と濃密な捕食者の気配は、確かに大きさを誤認させるほどだ。
オスメロイの顔には色濃い警戒が浮かんでいて、自分が意味のない警告を叫んだ──全員が耳栓を付けていることを忘れるほどだった。
「ん? うわ、凄い……。もしかして、あれがサメってやつ?」
「はい? うわ、オオメジロザメですね。しかもでっかい……。ボートの上に居れば大丈夫でしょうけど、落ちたら噛み千切られますよ」
カノンを呼び寄せて尋ねると、そんな答えが返ってくる。
セイレーンの近くに居れば人間が食えることを理解しているのか、そいつは魔物が海面へ落とす斑な影の周りをぐるぐると回遊していた。
「そんな感じの顔だね……。僕の臭いで逃げると思う?」
「臭いには敏感だと思いますけれど……試しちゃ駄目ですよ?」
「試さないよ──、おっ」
フィリップが声を上げた先、青空を背景にすると良く映える、オレンジ色の火球が飛んでいく。
飛行型の魔物を相手取るときに最も恐るべき魔術爆撃をしてこないことから、セイレーンの魔術性能はなんとなく察せられる。
その推察通り魔術耐性もかなり低いらしく、リリウムの放った初級魔術『ファイアーボール』は数十羽の群れの中を掻き消えることなく貫いた。……残念ながら直撃を許すほど弱い耐性でもないようで、火球は何に当たることも無く射程限界を迎えて消えたけれど。
しかし効果はあった。
恐らく当たったところでそれほどダメージのない『ファイアーボール』を避けようとしたセイレーンが、急旋回したせいで仲間と激突して船の上に落ちてきたのだ。
「よっし! 落ちたわよエレナさん!」
「ナイス! じゃなくて……!」
全員耳栓をしていることを忘れて叫んだリリウムに、エレナも聞こえているかのように喝采する。その後、リリウムの耳を覆う、もこもこのイヤーマフを見て照れ笑いを浮かべながらサムズアップしていた。
「威力不足が良い方向に働きましたねぇ。まあ、普通の魔術師はそういう威力調節も出来る上で、火力の上限がもっと高いわけですけど」
「ね。手札が多くて羨ましい限りだよ」
カノンとフィリップが笑いながらエレナの方に向かうと、「あっ……」とか細い声が聞こえた。
「どうしたの? ……うわ、消えたのか」
エレナが持っていた試験管は空で、新品同様だ。
落ちてきたセイレーンに止めを刺すまでは確かに入っていた血液が、今や跡形もない。
意外と早く片付いたなんて思っていたフィリップと、自分の魔術でセイレーンを撃墜したとご満悦だったリリウムが、二人揃って肩を落とす。
対して魔物素材収集の辛さを知っているエレナとカノンは「じゃあ次」とばかり、もう攻撃態勢だ。
「面倒だなぁ……。さっきの、殆ど偶然だったのに」
「ふっふっふ……ではお見せしましょう、私の妙技を!」
言うが早いか、カノンはデコピンでもするように曲げた中指を親指で押さえた形の右手をセイレーンの群れに向けた。
石でも弾けそうなゴツい手指だが、手の内は空だ。弾丸になりそうなものは持っていないし、さて何をするのだろうとフィリップは興味深く注視する。
そして中指がバネのように溜めた力を解放すると、そこから殆ど目視不可能な速さで何かが撃ち出された。
射出された何かはスリングショットにも匹敵する速度でセイレーンの群れへ飛び込み、狙い過たず突き立つ。
フィリップが目を凝らして確かめた弾丸の正体は、黒い、一メートルほどの棘だ。
反応刺胞装甲。グラーキの棘を培養して作られたミ=ゴの兵装。星外文明の産物。
秒速24メートルもの展開速度にデコピンの威力を足し合わせ、風を切り裂いて飛翔したそれは、セイレーンの眉間をブチ抜いて青空に溶ける。
体内構造がヒトと同じはずもあるまいが、人間なら脳幹部があるその辺りはセイレーンにとっても急所だったらしい。撃ち抜かれた個体はぴくりと痙攣する間もなく絶命し、空中で黒い粒子になって消えた。
「……ナイスショット。確かに妙技だ」
フィリップは手を叩き、心の底からの賞賛を送る。
今のは正しく技の妙。フリントロック以上の隠密性を持ちながら、魔力も火薬も要さぬ遠距離射撃だ。
──で。
「で、僕はお前に、もう一度目的を話して聞かせた方がいい? それとも単に外しただけ?」
難があるのは命中精度か、頭の方か。
胡乱な顔で問いかけるフィリップに、カノンはびくりと肩を跳ね上げるほど慄いた。
「は、外しちゃっただけです! ホントは羽を狙ったんですけど! もう一回! もう一回やらせてください!」
必死に言葉を重ねるカノンに、フィリップは肩を竦めて「どうぞ」と片手で示す。
彼女はかなり怯えているが、別に、その程度のミスでカノンを殺したりはしない。ついうっかり目的を忘れてしまうことも、狙った場所とは違うところに攻撃が逸れることも、フィリップにそれほど大きな感情の起伏を齎すものではない。
少なくとも、さっきの戯言よりは。
まあ、いつぞやのナイアーラトテップのように「フィリップ君に二度同じことを言わせるなど」と、怒る外神が居る可能性は十分にあるけれど、フィリップが許したのなら彼らも許す。──その思考の不自然さ、いや有り得ない自然さに気が付く前に、フィリップの意識は別の気付きに引っ張られた。
「……質問、っていうか確認なんだけどさ、刺胞装甲って腐敗毒あったよね? 血液が汚染されたりはしないの?」
「あ……」
問いかけた直後、翼に黒い棘が突き刺さったセイレーンが落ちてくる。
それを見たエレナが「ナイスだよカノンちゃん!」とまた口で言いながら近づいてきたが、しかし、その笑顔は痙攣しているセイレーンを見た時点で怪訝そうに強張り、血を採取した時には困ったような笑顔に変わっていた。
試験管に採取された血液は明らかにどろりと粘度を増し、黒く濁って腐臭を放っている。
薬学には明るくないフィリップでも、これは元の血液と同じ性質を持ち合わせてはいないだろうと一見して分かった。
「……素直に力加減を調節しなよ」
「はい……」
フィリップの呆れ口調に、カノンはしょんぼりと肩を落としてまた飛び上がる。
結局、エレナが規定量の血を採取できたのは太陽が天頂を過ぎ、傾き始めた頃だった。
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