第444話

 フィリップとリリウムがカルトについて話し合っているとき、エレナとカノンは馬の世話をしているところだった。

 辺りは既に夜闇に沈み、明後日には新月を迎える細い月の明かりは森の中までは照らしてくれないが、二人とも明かりは持っていない。


 「ボクだって姉さまほどじゃないけど夜目は利くんだし、ついてこなくても良かったんだよ?」

 「いえ、フィリップ様の御命令ですので」


 邪魔ってわけじゃないけど、と付け加える気遣いを見せるエレナに、カノンは無感動に答える。


 「変わったよね、カノンちゃん。神父の魔物用支配魔術が人格にまで影響を及ぼしたとかで、感情が希薄化したんだっけ?」


 初対面の時とは別人のような態度には、勿論、変化してから初めて会った時にはエレナもリリウムも驚いていた。それから十日ほど同じ馬車に揺られて、今なおこうして触れてしまうくらいに。


 フィリップに受けた説明は覚えていたが、エレナは確認するような口ぶりで──どこか疑念を滲ませて尋ねる。

 当然、カノンは「はい」と淡々と肯定するが、その答えを受けたエレナの顔からは明朗な笑顔が消え、代わりに翠玉色の双眸がすっと細まった。


 「嘘だよね」

 「えっ」


 鋭い声に、間抜けな声が返される。

 僅かながら肩まで跳ねさせたカノンの反応を見て、エレナはいつもの彼女らしい明るい笑顔を浮かべた。


 「あはは。ほら、今も「ぎくっ」って聞こえそうな反応してる。前のカノンちゃんだ」


 けらけら笑っているエレナに、カノンは恨めしそうな目を向ける。

 別にバレたところで問題は無い。フィリップや外神に「そうしろ」と命じられたわけではないし、元の性格通りに振舞ったってナイアーラトテップの「教育」に反することもない。


 ただ演技を見破られたことに対する、多少の悔しさがあるだけだ。


 そしてエレナも、カノンが演技をしていることを見咎めたわけではない。


 「そのこと自体にどうこう言うつもりはないよ。カノンちゃんがどういう振る舞いをするかは、ボクが口出しすることじゃないから」


 じゃあ触れないで欲しかったと眉根を寄せるカノンだが、エレナの言葉は「でも」と続く。


 「でもカノンちゃん、フィリップ君のことを怖がってない? もしフィリップ君と喧嘩したとかそんな理由で演技をしてるんだったら、ボクから──」

 「喧嘩ぁ? ぷーすす、その勘違いは流石にちょっと蒙昧に過ぎ──あ゛っ」 


 演技を忘れ、素で笑ってしまったカノンが慌てた声を漏らす。

 その表情はガスマスクで半分が隠れていてもはっきりと分かるほどころころと変わっていて、遅かれ早かれ演技が破綻していたことを確信させた。


 「あ、戻った。そっか、喧嘩したわけじゃないんだ……」

 「……まあ、はい」


 バレたものは仕方ないと開き直ったのか、カノンは目を逸らしながらも頷く。


 「でも、じゃあどうしてフィリップ君のことを怖がってるの?」

 「私からすると、あの方を畏れずにいられることの方が不自然ですけどね……。はっ! いやいや、これも多分言っちゃ駄目なことだ……!」


 ぶんぶん激しく首を振るカノン。

 フィリップがいれば道端に吐き捨てられた痰でも見るような一瞥を頂くところだが、エレナは興味深そうに首を傾げた。


 「どういうこと? フィリップ君って、実はなんか凄い人なの?」

 「そ、それはもう……。あの方を守る存在を考えれば、粗相一つで首が百回飛ぶんですよ!? あの吸血鬼もそうですけれど、聖痕者に、神官に……」


 あわあわと言い訳を重ねるカノンだったが、なんとかエレナに「……確かに?」と納得させることに成功する。

 しかし安堵の息を吐いたのも束の間、「でも、カノンちゃんが恐れてるのはフィリップ君本人だよね?」と追撃されて、カノンは「んぐぐ、鋭い……」と唸った。


 だがフィリップのことについて──ナイアーラトテップから“教育”されたことについて他人に語ることは制限されている。

 罰則規定によって禁止されているわけではなく、そもそも口外できないようにプログラムされているのだから話しようがない。


 「本人に言いにくいようなことなら、ボクからそれとなく伝えてあげるよ?」


 エレナは100パーセント善意からそう言うが、カノンは暫しぽかんと呆けた後、目元だけで分かるほど明らかな苦笑を浮かべた。


 「いやぁ……フィリップ様に言ってもどうにもならないことというか、エルフがエルフであることにケチ付けたって仕方ないというか……」


 フィリップが“魔王の寵児”であることも、「その先」も、全てはどうしようもないことだ。

 エレナは勿論、カノンにも、フィリップ自身にも、あのナイアーラトテップやシュブ=ニグラスにさえ。たとえ三次元世界が滅びようと、上位次元の全てが平面化されようと、この夢が弾けるまでは何者であろうと変えられない。天地万物そのものであるヨグ=ソトースにさえも。


 だからカノンの言葉の意味を測りかねて「うーん?」と唸っていたエレナが、


 「よく分からないけど、何か問題があったら相談してね!」


 と会話を結んだときには、化け物らしからぬ乾いた笑いを零す他なかった。



 ◇



 皆が寝静まった夜中。

 眠ってしまいそうなのを必死に堪えていたフィリップは、誰も起きていないことを確認してこっそりと家を抜け出した。


 目指すは森の中に隠されたラグーン、その畔に立った神殿だ。

 ここで行われている儀式の内容には察しがついているが、人類領域や社会を侵害する術法ではないことを確認しておいた方がいいだろう。

 

 それから、「あとで」と言って別れた人魚のことも気になる。


 トイレに行く振りをして村の中を少し歩き、起きている村人がいないことを確認してから森へ入る。

 それほど木立が深くない森だったのと、ラグーンまでそれほど遠くないおかげで、シルヴァの案内無しで昼間と同じルートを辿ることが出来た。


 しかし、どうやら神殿には見張り番がいるらしく、微かに話し声が聞こえる。

 木立の合間から篝火の光が見えた直後、フィリップは慌ててランタンの火を消した。


 「──で、村長に怒られてさ──」

 「ははは、そりゃお前──」


 まだ遠い話し声を聞きながら、フィリップは躓いたり枝葉を踏んで音を立てたりしないよう細心の注意を払いながら歩を進める。

 徐々に話し声が鮮明になってくると、フィリップは木の幹に身体を隠してそっと覗き込んだ。


 見張りは二人。昼間ルティとフィリップを叱った青年と、近い年頃の若者がもう一人だ。

 どちらも槍の柄のような長い棒を携えているが、余所者を阻む厳戒態勢という空気ではない。棒を地面に置いて座り込み、篝火の光の中で談笑している。


 「村長と言えば、村長の判断、どう思う? 儀式の期限も近いってのに、余所者を村に泊めるなんて」

 「仕方ないんじゃねぇか? あの子供が魔物だって言ってたの、ありゃあユゴスの連中の玩具だぜ」

 「だから何だよ。ナイアーラトテップの加護でもあるってか? 馬鹿馬鹿しい」

 「まあ、焦る気持ちは分かるよ。今年で五年目……今年も儀式が出来なきゃ、俺たちは……」

 「……」


 重々しい溜息を最後に会話が途切れる。

 フィリップは左腰に佩いた蛇腹剣と、右脇に吊られたフリントロックを確かめ、しかしどちらも使わないことに決めた。


 深きものだろうと人間だろうと、その命に対する価値認識はゼロだ。

 だが、「邪魔だから」という理由で殺す状況には、まだない。今彼らを「無価値だから」「邪魔だから」と殺すのは、流石に非人間的すぎる。


 ここは穏便に、静かに済ませるべきだろう。そう考えるだけの冷静さを、今のフィリップは持っていた。


 「シル──」

 「──フィリップ様」


 見張りの方に視線を戻し、森の支配者とも呼べるシルヴァを召喚しようとした直後、背後から呼びかけられる。

 耳に馴染みのない声に飛び上がりかけたフィリップは、ジャケットの右脇に手を入れて指先で声のした方を指しながら、すんでのところで引き金を引かずに留まった。


 「ッ!? びっくりしたぁ……!」


 光源も音も無く忍び寄ってきたのは、怪訝そうな目をしたカノンだった。

 フィリップは急加速した鼓動を胸に当てた手から感じながら、安堵と呆れの綯い交ぜになった溜息を吐いた。深々と、喉元まで上がってきた怒声を散らすように。


 「こんな夜更けに何をされているのですか? ちゃんと寝ないと背が伸びませんよ」

 「五月蠅いなあ……。まあでも丁度いいや。ちょっとあっちの方で物音を立ててくれない?」


 なんでちょっと煽ったんだコイツと思いながら、フィリップは適当に遠くの方を指す。

 

 「え? あ、いえ、畏まりました」

 「……なんかちょっと戻ってる?」


 戸惑いを見せつつもぺこりと一礼して、カノンは夜闇の中に去っていく。

 そして数秒後、こぉん! と、大木に斧をフルスイングしたような甲高くも小気味の良い音が夜の静寂に響き渡った。


 「……なんの音だ?」

 「分からん。……魔物だったら嫌だし、一緒に見に行かないか?」

 「賛成……」


 言って、二人は並んで離れていく。


 その後ろに回り込む形で神殿へ近づき、フィリップは緑色の石材で出来た重厚な門扉を押してみた。

 馬鹿正直な挑戦はやはり、無意味に終わった。外見通り二人以上で押さないとビクともしないくらい重いのか、内側に閂でもあるのか、はたまた魔術的な錠でもあるのか。


 側面に回り込んでみると、窓には薄いガラスが張られている。精緻な装飾の施された彫刻ガラスで、割るのに苦労はなさそうだが、やるなら明日だ。

 まだ船を借りなくてはいけないのだし、いま村人たちと敵対するのは賢い行いではない。


 フィリップは神殿内部への侵入をさっぱり諦め、海から上部が飛び出ている檻の方へ向かった。


 「ねぇ、起きてる?」


 篝火の光が僅かにしか届かない暗がりの水面に向かって囁くと、インディゴブルーの髪が飛沫を殆ど立てずに現れ、同色の瞳がフィリップを見つけて見開かれた。

 「あとで」と言い残して別れたはずだが、まさかこんな時間に来るとは思わなったのだろうか。


 「『助けて』」


 喉を締め付け咳き込むようにして無理やり発音された邪悪言語。

 命の危機に瀕して無理矢理に捻り出した声なのに、思考が一瞬止まるほど美しい。


 フィリップは唇の前で指を立て、人間相手には「静かに」という意味で通じるジェスチャーを送る。


 「『喉を痛めるよ。僕が話す。肯定なら頷いて否定なら首を振るんだ』」


 言うと、人魚は少しのラグ──恐らく邪悪言語を脳内で翻訳する時間を挟んだ後、これでいいのかと確認するような目をして頷いた。


 「『それでいい。綺麗な声なんだから大切に──げほげほっ!」


 無駄話をするなとばかり、本来とは違う発声を強いられていた喉が咳と痛みで主張する。

 フィリップは自分の身体の反抗を素直に受け入れ、本題に移る。今の咳は自分で思っていた以上に大きな音が出たし、聞きつけた見張りが戻ってくる前にここを立ち去らなくてはならない。


 「『助けてもいい。だけど今日は、今すぐは駄目だ。僕たちにもやることがある』」


 端的に言うと、人魚は裏切られたような顔をして口元までを水に沈めた。

 水面にぶくぶくと泡を立てながら恨めしそうな目だけで不満を伝える彼女に、フィリップは愉快そうな視線を返す。囚われのお姫様にしては子供じみた振る舞いだと。


 「『大丈夫。奴らは僕たちがいるうちは儀式をしない。……はずだ。まあ、僕やパーティーメンバーがいるのに大っぴらに儀式を始める間抜けなら、殿下の国の片隅に存在されても困るんだよね。その時は全員仇敵の触手で絞め殺される。どちらにしても君は助かるよ』」


 半笑いで告げられた、殲滅の執行猶予。

 「馬鹿なら殺す」と、端的に換言すればそうなる傲慢な言葉に、人魚は何も返せなかった。


 目を瞠り、浮かびかけた疑いの眼差しを瞬きで消し、頷く。


 「信じてくれるんだ?」と邪悪言語で問うフィリップに、彼女は困ったように笑った。「信じる他にありませんもの」と邪悪言語で、揶揄うように言い添えて。


 「そりゃあそうだ……」


 フィリップは間抜けなことを聞いたと笑う。

 確かにこの状況に於いて、彼女にフィリップの言葉を信じる以外の選択肢はない。いや疑っていたとしても、どの道、囚われの身である彼女に出来ることは無い。


 「『御恩は必ずお返しします。どうか──』」


 どうか、の後に続く言葉に、フィリップは興味を持たなかった。

 また人差し指を唇に添え、「静かに」と無言で示す。その視線は人魚ではなく、自分の真横──耳元を見るように傾けられていた。


 そこには誰もいない。見張りの村人も陽動に出したカノンも、まだ戻ってきてはいない。


 しかし、そこには音があった。

 フィリップの聴覚を常に保護し、悪魔の音声を介した支配術を撥ね退け、たとえすぐ傍に雷が落ちたとしても一時的な失聴さえ起こさない完璧なイヤーマフ。


 アザトースの無聊を慰める踊り子と楽団たちの指揮者にして、自らも楽器である。化身も実体も持たない外神、音そのものであるトルネンブラだ。


 「め、珍しいですね。あなたが僕に歌いかけてくるなんて」


 言語を介さず、音のみで構成された意志が耳朶を打つ。

 大陸共通語と邪悪言語しか知らないはずのフィリップは、唸り声や鳴き声よりもさらに古く原始的な波形から、彼の存在が意図するところを正確に汲み取っていた。


 「僕のための「生きた楽器」? いや、要らないです……」

 

 フィリップは苦笑と共に頭を振る。

 いきなり独り言を零し始めたようにでも見えたか、人魚は怪訝そうな顔でフィリップの一人語りを見つめる。


 「確かに凄く綺麗な声をしているとは思いますけど……」


 人魚には伝わらない人間の言葉で言い、視線を檻の中へ戻す。

 しかしそれも一瞥程度の時間だけで、彼はまた隣の虚空へ向き直った。

 

 「まあ、そうですね。この声をダゴンなんかに渡すのは、確かに惜しい」


 顎に手を遣り、フィリップは真剣に考えこむ。誰に何を言われたわけでもないはずなのに──耳元で囁く者などいないはずなのに、大真面目な顔をして。

 そして何か面白いことを聞いたように、顔全体に愉快そうな表情が浮かぶ。


 「え? それこそ冗談でしょう? 僕は音感もリズム感覚も人並みですけれど、アザトースよりマシですよ」


 ──沈黙。

 フィリップのその独り言に、返す者は誰もいない。森の木々が揺れる音、寄せては返す波の音、潮の香りを孕んだ風の音さえも。


 そして、きっと彼の耳元に居る何かが、気の利いた冗談でも返したのだろう。


 フィリップは気の置けない友人と軽口の応酬でもしたように、楽しそうに破顔する。


 「はははは……! じゃ、そういうわけだから……おっと、『近いうちに助けに来るよ』」


 最後に囚われた人魚へ邪悪言語で言い残して手を振り、彼は笑いの余韻に肩を震わせながら夜闇の中へと戻っていった。




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