第442話

 「生贄? それって人間だったりする?」


 邪神召喚の儀式に生贄が要る──そんなことに今更驚かなかったフィリップは、より気にするべきところを尋ねる。

 生贄が人間であり、村長や他の村人たちがフィリップやリリウムを生贄にしようと考えているのなら、早急に方針を決めなくてはならない。


 脱出か、殲滅か、或いはギリギリまで泳がせてダゴンとハイドラにハスターをぶつけるか。

 最後の選択肢はふと思いついたにしては面白そうな案だが、それには同行者の二人が邪魔だ。安直に脱出することになるだろう。


 内心で残念そうに溜息を吐いたフィリップだったが、ルティは「えっ?」と怪訝そうな声を上げた。


 「えっ? ううん。生贄は海の生き物じゃないといけないんだよ。それからね、神様に捧げるに相応しい供物じゃないといけなくて、五年間儀式をしないと神様に叱られるんだよ」


 素っ頓狂なことを言った子供に教え聞かせるように──もしかしたら彼女が普段されているように──ルティは丁寧に教える。

 どうやら、人間は贄として不適らしい。ダゴンやハイドラ如き劣等存在にはお似合いだと思ったのだが。


 年下の子供の「何言ってるの?」と言わんばかりの怪訝そうな目に苦笑を浮かべつつ、フィリップは暫し黙考する。

 加護の持続期間は五年間。だが恐らく、与えられた時間は温情ではなく猶予期間だ。供物に適不適があるから、「五年やるから神が受け取るに相応しい贄を用意しろ」という意図だろう。


 「叱られる」というのは曖昧な言い方だが、まさか邪神が「コラ!」なんて声を上げたりしないだろうし、単に加護が消失するだけのような生温いものではなく、罰則を伴っていると考えられる。


 「そのラグーンの神殿? っていうのはどこにあるの?」


 そりゃラグーンにだろ、と突っ込まれそうな質問をするフィリップだが、ラグーンが何処にあるかを知らない以前に、フィリップはそもそもラグーン潟湖が地形であることを知らない。

 「ラグーンの」が所在地を示すと分からない以上、作り手の名前かもしれないし、何かの称号かもしれないし、智慧に無い邪神の名前かもしれないという思考に至るのは無理からぬことだった。


 普段は村人たちでさえ立ち入りが制限されているという場所だけあって、問われたルティは「うーん」と逡巡する様子を見せる。

 しかしそれも数秒で、すぐに講壇からぴょんと降りてフィリップの手を握った。


 「まあ、いいか! フィリップにだけ特別に教えてあげる! 皆には内緒ね!」


 礼拝所を出ると、言いつけ通りに門番をしていたカノンが振り返る。

 エレナもリリウムもフィリップが建物の中に入ったことに気を払っていなかったようで、彼女が役目を果たした形跡は無かった。


 「カノン、二人は?」

 「エレナはあそこです。リリウムは子供の一人と遊んでおり、現在はあの家の向こう側にいると推測されます」


 カノンが甲殻に包まれた指で示す先で、エレナがネアという子供に手を引かれて連れ回されている。ネアはどうやらどの家にどんな人物が住んでいるかまで詳細に教えているようで、連れ回されているエレナは困り顔だ。

 リリウムともう一人の子供、サリィが居ないのは少し気になるが、ルティの様子を見るに子供たちに害意はなさそうだ。フィリップがしばらく離れても大丈夫だろう。


 「そう。……僕のことは良いから、二人を守って」


 実現可否には気を払わず、出来る前提でぞんざいに言い放つ。

 カノンにエレナとリリウムを預けるのはトラウマ的な忌避感があるが、今のカノンはナイアーラトテップの手によって教育されている。フィリップが便利に扱えるようになっているはずだ。


 「えっ?」

 「え?」


 間抜けな声が聞こえた気がして、フィリップはカノンの方を振り返る。

 しかしガスマスクによって下半分の隠れた顔はそこに無く、彼女は折り目正しく頭を下げていた。


 「畏まりました」

 「……気のせいか。頼んだよ」


 フィリップは適当に手を振り、ルティに案内されるままに村を囲む鬱蒼とした森へ入る。

 村の中に漂っていた潮の臭いや、少し鼻につく魚っぽい臭いが土と木の匂いに紛れ、また強くなる。森の中にはラグーン──殆ど外海と繋がっておらず水深の浅い、殆ど湖か沼地のようになった湾──があった。


 外海までは大雑把な目測で300メートルくらいで、幅はその半分くらいだろうか。遠目に砂州と、外海に繋がる狭い水路が見える。


 ラグーンのほとりには確かに、神殿としか形容できない見事な建物があった。

 村にあった礼拝所同様の教会然とした建物だが、その装飾性は簡素な木造だった礼拝所とは比較にならない。大部分は緑色の石材で構成されているが単調ではなく、ゴシック様式の建築と精緻な彫刻とが複雑な陰影で外観を飾っている。


 「これは……人間が作ったものじゃないな」


 フィリップは神殿を見上げ、苦笑する。

 建築の美醜、建材の貴賤に詳しいわけではないが、直感的に理解できた。


 接合部のない石造りの建物なんて、王都でも王城だけだ。

 極めて高度な魔術か錬金術によるものという可能性もなくはないが、それならこの村はもっとマシな住環境をしているだろうし、恐らくは“人の手にあらざるものクリエイテッド”。ダゴンかハイドラによって齎されたものだろう。


 フィリップの独白を賞賛と受け取り、ルティは「うん! 凄いでしょ!」と無邪気に笑った。


 「今日はお掃除の日じゃないから、中には入れないの。でもね、こっちにすごいのが居るんだよ!」


 言って、ルティはまたフィリップの手を引く。

 ラグーンの水面上に半分ほどせり出して立った神殿の横に回り込むと、水面から黒っぽい物体が飛び出しているのがすぐに分かった。数秒の観察で、それが巨大な檻の一部だとフィリップは理解した。


 水に沈んでいるため高さは不明だが、横幅と奥行きは10メートル近くある。

 「凄いのが居る」というルティの──深きものの言葉に釣られて檻の中を覗き込んだフィリップは、好奇心に満ちた笑みを凍り付かせ、やがて歓喜に顔を輝かせた。


 「にっ……!?」


 檻の中、水面下からこちらを見つめ返していたのは、人間の顔だった。

 波に揺れるインディゴブルーの長い髪、どこか冷たい印象を受ける人間以上に整った顔、白く透けそうな喉元、細くしなやかな肩や腕、豊かな胸のふくらみ、芸術品じみて均整の取れた腰。


 そして──その下に、人間的要素は無かった。

 上半身の真っ白な陶磁器のような肌とは一転し、背面が黒く腹面が白いつるりとした肌。尻尾のような位置に生えた大きな背鰭、二つに分かれていない脚──尾鰭。


 一見して、それは人間の上半身と魚の下半身を持ち合わせていた。


 「人魚だーっ!? うわぁ凄い!! 本物だよね!? 実在したんだ!!」


 満面の笑みを浮かべたフィリップのテンションが振り切れる。

 フィリップのみならず大抵の人間にとって、人魚は御伽噺の中の存在だ。その存在が語られることはあるものの、大抵は海面に映ったセイレーンの姿を見間違えただけだと相手にされない。


 冒険譚の名悪役であるドラゴンや、勇者を手助けしてくれる神秘的な存在である精霊ドライアドのような、実際に存在するものとは訳が違う。フィリップにとって人魚は完全な創作物であり、会えるはずのない、居るはずもないフィクションのキャラクターだった。


 それが今、目の前にいる。

 小さなころに読んだ御伽噺のキャラクターが、手の届く距離に実在している。その光景は、フィリップから冷静さを奪い去るには十分な威力を持っていた。


 「あ、す、すみません、急に大きな声を出して! あの、僕、フィリップ・カーターです。えっと……握手してくれませんか!」


 檻にしがみつく勢いで言うフィリップに、人魚は怪訝そうな目を向ける。


 彼女は明らかに村人に捕まっている様子だし、実際、ルティには警戒心や敵愾心の籠った目を向けている。しかし「深きもの」ではなく、どうやら好意的らしいフィリップに興味を惹かれたのか、檻の中で水面から顔を出してくれた。


 水上に出て光の屈折というフィルターが取り払われた人魚の顔は、怖気を催すほど美しい。人外の美貌に慣れたフィリップでなければ一目で心奪われるだろう。

 しかし。


 「──?」


 ぱくぱくと開閉される彼女の口からは、フィリップやルティが聞き取れる音は発せられなかった。


 「……人魚って喋れないの? 物凄く綺麗な声をしてるって聞いてたんだけど」


 フィリップは可笑しそうな顔をしているルティを振り返り、尋ねる。

 本には人魚の声は天上の音楽にも勝ると書いてあったのだが、彼女の口からは息の漏れる音さえ出ていない。


 問われたルティは頭を振って否定するが、続く答えはフィリップの期待に副うものではなかった。


 「ううん、喋れるよ。でも、言葉が違うの。人魚語? なんだって」


 そりゃあそうか、とフィリップは納得と落胆を同時に抱く。

 エルフと人間は同じ大陸内に住んでいながら、言語は完全に乖離している。森という、装備と知識があれば踏破できないこともない程度の隔絶によって隔てられた二種間で、全く異なる言語体系が築かれている。陸と海ともなれば、その差異は大きくなるものだろう。


 そして人魚は普段、水中で生活しているとされる。

 空気中で音が伝播しないとか、空気中では発声が困難だとしても驚きはなかった。


 「──、──」


 今度はきゅーきゅーと甲高い、甘える子犬のような鳴き声が漏れる。

 発声に成功したのか、別種の言語や発音を試してみた結果なのかは分からないが、どちらにせよ意味は伝わらなかった。


 「うーん……、まあ、そりゃあそうか。そうだよね……」


 言って、フィリップは檻から離れる。

 先ほどの大興奮はどこへやら、すっかり意気消沈していた。


 しょんぼりと肩を落とし、「もういいの?」と問うルティに答える声にも覇気がない。「うん……」とか細い声で応じ、村の方へと踵を返す。


 神殿と檻に背を向けた、その時。


 「──『助けて』」


 その声は、フィリップの脳に電撃を走らせた。

 深さが分からないほど透き通った清涼な海を思わせる、心を揺さぶる声。耳から脳味噌が溶け出してしまいそうな、美しい音。


 だがフィリップの脳は快感と同時に、強烈な警戒心を抱いた。

 フィリップが聞き取れる、理解できる言語は二つ。しかし今の声は人語──大陸共通語ではなかった。


 今のは、邪悪言語だ。


 「っ!?」


 弾かれたように振り返ったフィリップは、今度は慎重な足取りで檻へ近づき、片膝を突いて水面へと視線を下げる。


 「……お前」


 言葉が汚くなる──智慧ある者かと思い、憧れのキャラクターではなく神話生物を前にしたときの態度が出る。

 しかし水面から顔を出した人魚は言葉が通じた安堵と期待だけでなく、その言葉が通じたことに対する驚愕も抱いているようだった。


 「フィリップ、どうしたの?」


 胡乱な顔のルティだが、フィリップの興味は完全に人魚へと移り、幼体とはいえ明確に人外である深きものへの警戒心や冷笑は吹き飛んでいた。


 「んんっ……、『この言語を解せるのか』」


 咳払いと喉への圧迫で調子を整え、いや、狂わせ、喉から絞り出すようにして無理やりに邪悪言語を発音する。

 聞き取りと理解だけは完璧な脳が「物凄く訛っているし片言だ」と我が事ながら冷笑するが、そんな思考は数秒で喉の痛みに掻き消された。


 「『少しだけ。海にいると、頭の中に話しかけてくるモノがいるのです』」


 なるほどと頷きながら、フィリップの頭の半分は別な事を考えていた。彼女の、耳から脳を侵すような美しい声のことを。


 耳触りの良い、聞いているだけで心が安らぐような声だ。

 それだけに、その涼やかで透き通った海の如き声が、発せられる邪悪な言語で穢されている気がして不愉快だった。


 それに。


 「『喉の負担は? 正直、僕はかなりキツい。人語は分かるか』」


 邪悪言語は人間が作ったものではない。

 人間には理解できない単語や文法もあるし、何より、声帯や口といった人間の発声器官では発音が難しかったり、不可能だったりする。


 外見上は人間と同一の上半身を──口や喉を持つ人魚にも、それは同じなのではないだろうか。

 その推測を、彼女は頷いて肯定した。


 「『私もです。ですが私には人の言葉が分かりません』」


 フィリップは頷き、言葉を重ねようとした人魚を片手で制する。

 興味深そうな顔をしたルティが近づいてきたのを、足音だけで察知したからだ。

 

 「なんか儀式の言葉みたい。フィリップ、もしかして人魚語を話せるの? すごいね!」

 「ははっ……」


 困ったように笑い、人魚の方に向き直るフィリップ。

 村を訪れてから抱いていた興味も警戒も冷笑も、人魚に対する好奇心で完全に吹き飛んでいた。


 しかしフィリップが再び言葉を交わすべく喉の調整を終える前に、背後から鋭い怒声が突き刺さった。 


 「──コラ、お前たち! 何やってるんだ!」


 左手を腰に佩いた龍貶しへ添えながら立ち上がり、振り返る。

 フィリップは普段は接近禁止だという位置で見つかったからではなく、劣等生物が自分の邪魔をしたことに苛立っていたが、その怒りを自覚してはいなかった。その愚昧を処刑しようと思っていることもまた。


 「あ、しまった!」


 見つかった! とばつの悪そうな顔をするルティ。

 怒声の主はよく日焼けした青年で、槍の柄のような長い棒を持っていることから、神殿か人魚を守る役目を帯びているのだと察せられた。


 「しまったじゃない! ルティ、お前はまた……。あー、冒険者の子、ここは特別な儀式の日以外は近付いちゃいけない神聖な場所なんだ。すぐに村に戻ってくれ。でないと──」

 「でないと?」


 酷薄な笑みを浮かべ、言葉を返して問うフィリップ。

 フィリップたちはセイレーンを狩るために海を目指してここに辿り着き、この村で船を借りることした。だが──別に、神話生物に対して礼儀を払う必要は無いし、彼らが存在している必要も無い。


 人里離れた場所でひっそりと暮らしているのだし、その生存に目くじらを立てたりしないつもりだったが、牙を剥くなら話は別だ。

 エレナとリリウムの目に付く可能性があるから邪神を呼ぶまではできないが、クイックドロウで青年の脳幹に風穴を開け、フリントロックを目撃することになるルティの首を刎ねれば一先ずは解決する。


 死体の処理とか銃声は隠せないとか色々と問題はあるが、どうせ面倒になったら全員殺すのだし、露見したら運が悪かったと思って貰おう。

 フィリップが「面倒だから」という理由で殺すのを躊躇う人間ではなかった、人間に生まれなかった自分は運が悪かった、と。


 そんなことを考えながらジャケットの前を開けたフィリップだったが。


 「俺とルティが村長にしこたま怒られる。頼むよ、この通り!」


 青年は明朗に、ウインクと共に片手で拝む。

 敵意や害意、戦意といったものが微塵も感じられない態度に毒気を抜かれたフィリップは、ジャケットのボタンを留め直して檻の方を振り返った。


 「……『あとでね』」


 人魚は傷付いたように曖昧な笑顔を浮かべ、全身を水の中に沈めた。




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