第431話
溺水時の応急処置方法は学院の授業で習ったし、きちんと覚えている。
胸骨圧迫による心拍補助は心停止時のみで、最優先は人工呼吸。肺に溜まった水を排出する必要はないと教わったときは意外だった。なんでも、その過程で嘔吐すると後遺症や死亡リスクが格段に高まるし、とにかく少しでも多くの酸素を取り入れさせることが大切なのだとか。
とはいえ肺に水が溜まっていては呼吸も何もないだろうと思っていたのだが、人工呼吸は水中でも可能らしい。
エレナが「ぬかったねフィリップ君!」と跳ね起きないことを確認し、エレナの頭側に膝を突いて下顎を持ち上げる。そしてフィリップは何の躊躇いもなく唇を重ねた。
「わあ、ちゅーするんですか! 私は見ない方がいいですよね!」
などと言いつつ、カノンは顔を覆った指の隙間からガン見している。
カノンにも後で『深淵の息』を使って窒息させ、助けを乞うその目の前で「で、でもちゅーすることになっちゃうし……」と照れてみせようか、などと邪悪なことを考えつつ、フィリップの動きに淀みは生まれない。
繰り返し息を吹き込みつつ、時折胸に耳を当てて心拍を確認する。確認は最小限に済ませ、また人工呼吸を再開する。
本当に水の中で溺れたのなら服を脱がせたり水気を拭ったりしなければならないが、このケースでは当てはまらないだろう。とはいえ、そもそもが寒冷化した環境なのだし、気絶すると体温は下がる。加温は必要か。
「馬鹿言ってないで火を起こして焚火作って。これ燃えやすいっていう樹液ね」
「焚き付けだけ渡されても困るんですけど!? もう……良さげな薪を探してきます……」
なんだかんだ言いつつ、トボトボと哀愁漂う背中で去っていくカノン。心なしか背中の羽も項垂れているように見える。
「うん、よろしく。……あ、ちょっと待って! マスクは!?」
エレナが目を覚ましたあとどんな状態かは未知数だが、発狂前の記憶を失くしていた場合、戻ってきたカノンを見て再発狂、なんて冗談にもならない事態に陥りかねない。
それに、これからフィリップたちはミナたちとの合流を目指す。モニカとウォードまで発狂したら笑えないし、ミナが発狂したら最悪全滅だ。
「あー……、戦闘のドサクサでどっか行っちゃいました」
すみません、としおらしく謝るカノン。
至近距離でエレナに奇襲されたのなら仕方ないと、フィリップは理解を示すように苦笑した。
「だよね。僕のあげるから、僕がいいって言った時以外取っちゃ駄目だよ。君の顔面、パンチ力高めだから」
「あ、やっぱりさっきのって私のせいですか……フィリップさんが平気だったので大丈夫かと」
言い訳を残して薪探しに行ったカノンを見送ることなく、フィリップは救命措置を続ける。
魔術の効果はとっくに切れているはずだが、エレナの意識が戻らない。心拍こそ途切れていないが、人工呼吸を怠れば死ぬだろう。
フィリップがエレナの肺代わりになって数分。いい加減海水の味にも慣れてきた時だった。
「──ごぼっ!?」
何の前触れもなくエレナが咳き込み、胸に耳を当てていたフィリップはびくりと跳ねて飛び退いた。
彼女は四つん這いになると、すぐ傍にフィリップがいることにも気付かないほど必死に咳き込み、吐き戻すようにして肺の中の海水を排出する。
「……おはようエレナ。僕と会話する気はある?」
フィリップは構えもせず、腰に佩いた剣を抜きもせずに語り掛ける。
無いならもう一発、なんて考えていることが丸分かりの声なのに、立ち上がりさえしない非戦闘態勢なのが逆に不気味だ。
エレナは肺の中の水を全て吐き出したあと、水っぽい咳をしながら頭を下げた。
「ふぃ、フィリップ君、あの、ごめんなさい! さっきまでのは、ボクにも何が何だか──」
「あぁ、うん。それはいいよ。それより、エレナは自分の傷をなんとかして……何とかできそう?」
フィリップは焦って早口になっている謝罪ではなく、恐怖と苦痛で涙目になった翠玉色の双眸を見てにっこりと笑った。
狂気の色は消えているし、譫妄に駆られて襲い掛かってくることもない。偏執病はあくまで他者への不信感を励起するもので、演技力を底上げするものではないから、いつものエレナが戻ってきたなら狂気は治ったとみていいだろう。
それより問題は、カノンが腐敗毒があるといった棘の傷だ。
エレナの右前腕部はボロボロで、少し変な臭いもする。滴り落ちるものが血か毒液かも分からないどす黒い色なのも不安だった。
フィリップの問いに、エレナは苦い顔で腕を見下ろす。
「鎮痛剤と化膿止めは入れたけど、物理的な傷はちゃんと処置しないと不味そうかな。……一応、手持ちの薬だけで何とかなると思う」
ほう、とフィリップは感心したように目を瞠る。
フィリップなら諦めて腕を斬り落とし、ミナに泣きつくような大負傷だが、エルフの薬学は流石だと。
「……ボクたち用の薬だから、人間には使えないからね? ボクを当てにして無茶しちゃだめだよ?」
「あ、そうなんだ……」
フィリップの思考を見透かして苦笑するエレナ。
エルフ用の薬が人間には使えないのはちょっと考えれば分かることだ。体重こそ人間とほぼ同じだが、身体強度が段違いなのだから。
「腕はともかく、失神するレベルで窒息したわけだし、帰ったらステファン先生に診て貰おう。……あ、いや、帰り道でエルフの里に寄る? ミナに頼めばどうにかなるかもだけど、肺とか脳は難しそうだし」
溺水は時に重篤な後遺症を残すと習っていたフィリップは、その教えを授けてくれた応急処置の授業担当、王国随一の医師であるステファンの顔を思い出しながら言う。後遺症と言っても植物状態から呼吸器の軽微な異常まで幅広いが、無いに越したことはないだろう。
吸血鬼の血は腹どころか内臓まで切り裂かれても治すほど強い効果があるが、残念ながら病気には効かない。食べすぎや食あたりもそうだ。これは実証済みなので間違いない。
脳震盪のような外傷ならともかく、窒息による内的損傷に効くかは怪しいところだ。
「うん……溺水となると、人間の方が知見がありそうかな」
エルフは基本的に山や森の中で暮らしている。
川や湖のような大きな水源があり、溺れるだけの場所はあるが……身体能力的に、普通に滑落した程度で溺れる方が難しい。後遺症の症状そのものについての知見はあるだろうが、溺水それ自体への知見は薄いだろう。
身体能力に優れた種族故の、思わぬ欠落だ。
「そうなの? じゃあステファン先生に。今は取り敢えず腕の応急処置だけでもしよう。手伝いが必要なら何でも言って」
片腕の潰れたエレナでは包帯を巻くどころか、鞄から薬を出すのも一苦労だろう。
そんな善意からの申し出に、エレナは微妙な苦笑を浮かべる。怪我も溺水もフィリップとカノンのせいだが、それはエレナが発狂したせいだ。ではなぜ発狂したのかと言えば、やっぱりカノンと、フィリップの伝達不足のせい。過失の割合はフィリップが4でエレナが6ぐらいだと彼女は思っていた。
「ありがと。じゃあ取り敢えず──っ! フィリップ君、リリウムちゃんは!?」
苦笑を浮かべていたエレナは言葉を切り、明後日の方向へ鋭い視線を向ける。
フィリップは「カノンが帰ってきたのかな」なんて甘いことを考えながら視線を追うが、雪の積もった木立の中に人影はない。
「シルヴァが拾いに行ったよ。一緒にいるなら、100メートルくらい向こう──ん?」
雪景色にはもう慣れたフィリップも、数秒程で異変に気が付く。
木立の間から見える、少し離れた場所が異様に白い。──いや、その地点から向こうに、木立が見えない。まるでそこに、白いスクリーンがあるかのように。
雪の壁──いや、吹雪の壁がある。
吹雪は見えない壁に遮られたかのように広がらず、明らかに自然のものではない挙動だった。
ノフ=ケーの気候操作に間違いない。
「不味いよ。助けに行こう!」
エレナがさっと──魔力欠乏による強い眠気に襲われているフィリップより余程俊敏な動きで立ち上がる。
右手に突き刺さったままの棘同士が擦れて耳障りに軋むが、鎮痛剤が効いているらしく、エレナは全く無頓着だった。
「怪我の具合は?」と尋ねてみると、「大丈夫だよ!」という全く大丈夫そうではない外見とは合致しない答えが返される。
フィリップは腕を組み、その動作でジャケットの内側に左手を入れる動作を隠した。
「……僕がエレナとパーカーさんを二人とも守りながら戦わなくちゃいけないような状況にはならないんだね?」
「そうなったら見捨ててくれていいから!」
「……あのねえ」
エレナを殺したり死なせるのは不味いと判断して、態々『深淵の息』を使い、応急処置までしたのだ。
万全の状態なら熊でも殴り殺せるエレナだ。デカい熊でも問題ないかもしれないが、窒息と失神から回復した直後で、さらに負傷していて、本人も「守られるような状況にはならない」と断言できない状態。
流石に、他人を助けに行けるコンディションではない。
足の何処に穴を開ければ動けなくなるだろう、と冷たい目を向けていたフィリップだったが、クイックドロウを披露する前に暢気な声が聞こえてきた。
「戻りましたよーフィリップさん! 薪は大量、良い感じにしっとりしてます! 燃える気は全然しませんね!」
言葉の通り大量の木の枝を両手で抱えたカノンが、折よく帰還した。
「あぁ、丁度良かった。カノン、エレナを見張ってて。傷の手当てが終わるまでノフ=ケーの方に来させちゃ駄目だからね!」
言うが早いか、フィリップはざくざくと雪を踏みしめながら木立の中に姿を消してしまった。
「え? あ、ちょっと!?」
「えぇぇ!? ちょっとフィリップさん!?」
フィリップは吹雪の中でもシルヴァの位置を頼りにリリウムを探せるが、エレナには三メートル程度の視界しかない。フィリップが先行した時点で、エレナにはリリウムを救助するどころか、探す術さえ無くなる。
更にその上、白兵戦等能力が拮抗しているカノンに監視されているとなると、後を追うことも出来ない。カノンを出し抜いたところで、吹雪の中で出来ることも無い。
呆然とフィリップの背に手を伸ばしていたエレナは、「……足もイっときます?」という不穏な呟きに慌てて両手を挙げた。
「わ、分かった分かった、大人しく治療に専念するから傷を増やすのはやめて……」
今のは牽制じゃなくて本気の声だった、というエレナの直感の正誤を確かめる術はないが──正しかったと記しておく。
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