第432話

 森の中というのは存外、方向を見失う。

 同じような木々が不規則に並び、目印になるものがないのに、木や藪を避けるせいで真っ直ぐ進むことも出来ないからだ。


 テントが弾け飛んだかと思うと、目の前でエレナとカノンが殴り合いを始め、しかも明らかに化け物といった外観のカノンに庇われたことで、リリウムは軽くパニックになった。

 それでも「とにかく逃げて、このことをフィリップに知らせないと」と考えて走り出せたのは重畳だろう。下手にエレナを止めようとしたら、いや、カノンがワンミスするだけで死んでいたのだから。


 しかし、フィリップの足跡はカノンのずっと前、エレナの後ろへ続いていた。

 いまそちらへ走ればエレナに殴り殺されることを、リリウムは直感的に察知している。そこで彼女は一旦後ろ向きに大きく進み、木立に紛れながら二人を迂回することにした。


 幸いにして二人に引き留められたり、追撃されたりはせず、剣戟のような音から逃げるように走ることは出来た。出来たが──案の定というべきか、フィリップの足跡を見失った。足跡の位置を12時として、初めに6時方向へ進むつもりが木を避けるうちに4時方向へずれ、そこから大きく広がりつつもなんとか弧を描くように移動するが、9時辺りで「まだだろうか。もしかして見落として通り過ぎたのでは?」と心配になり、遂に10時辺りで「見落としたに違いない」と確信して戦闘音の真反対へ走り出した。


 彼女のルートは残念ながら、フィリップの足跡と概ね平行になっていた。

 どこまで行っても探すものと交わることのない足跡を残しながら、リリウムは必死に走る。雪と枝葉に音を吸われていることにも気付かず名前を呼び続け、酸素を浪費しながら。


 そして──ぽふ、と、目の前の雪に何かが降ってきた。

 木から雪崩落ちてきた雪に埋もれた経験がある……というか、ついさっき経験したリリウムは、ばっと大袈裟に距離を取り、落ちてきた緑色の物体をじっと見つめる。


 柔らかな新雪にも埋まらない軽さのそれは、胡乱な顔でリリウムを見上げていた。


 「……どこいくの?」


 無機質な声なのに、呆れの感情が妙に強く滲む。

 馬鹿かこいつ、と明記された顔は、リリウムにも見覚えのあるものだ。


 「シルヴァ、ちゃん……?」


 ヴィなんとかという種族名や詳細について聞いてはいるが、今一つ理解も実感も出来ていなかったリリウムは「どうして一人で? 危ないじゃない」と訝しむ。


 そんな内心はシルヴァには伝わらないし、彼女にとってどうでもいいことだ。

 

 「ふぃりっぷはあっち。にげてもいいけど、こっちはだめ。のふけーがいる」


 淡々と、事の重大さを全く感じさせない声で語られて、リリウムは怪訝そうな顔のまま首を傾げた。


 「……のふけーって何?」

 「う?」


 問われて、むしろシルヴァの方が困惑する。あのフィリップでさえ「それは不味い」と判断することなのに、妙な反応だと。


 そう言えば、とシルヴァは自身の記憶と、森の記録情報の二つを遡る。

 そう言えば、フィリップもエレナもカノンも、リリウムにはノフ=ケーについて何も教えていない。その能力や生態だけでなく、名前すらも。


 エレナに話したときにリリウムはテントの中で微睡んでいたのも理由の一つだ。

 だが最大の理由は、シルヴァとカノンはともかく、フィリップとエレナはリリウムを戦闘要員としてカウントしていないことにある。フィリップがそもそも情報を広く開示するタイプではないというか、死ぬなら何も知らず幸福に死ねというスタンスなのも大きいかもしれない。


 「……でっかいくま。うでがむっつあるやつ」


 両手を挙げて「がおー」とでも言いそうなジェスチャー付きで説明され、リリウムは逆に理解までに時間を要した。


 「あ、さっき森の外で襲ってきた魔物のこと!? 嘘!? は、早く逃げないと! シルヴァちゃん、フィリップはあっちだっけ!? 大変なのよ、今エレナさんと魔物が戦ってて! でも魔物って本当の魔物じゃなくてカノンって子なんだけど、そもそもフィリップはあれを──」

 「りりうむ」


 パニックからか早口に捲し立てるリリウムに、シルヴァは無機質な声で呼びかける。

 それは既知の情報を垂れ流す無意味な時間を終わらせるためではない。この場から一刻も早く逃げなくてはと警告するためでもない。


 「知って──何!?」


 ──


 「みつかった」


 シルヴァの声は、やはり内容に反して淡々としている。し過ぎている。

 相手と危機感を共有するために早口になったり、トーンを上げたりといった感情表現が全くない。そのせいで、リリウムは何を言われているのか即座に理解できなかった。


 「……え?」


 困惑するリリウムの手を、シルヴァがきゅっと掴む。

 手を繋ぐ、というよりは、リリウムの手に両手で掴まったような感じだ。


 「ふぶきがくる。ふぃりっぷはしるばをさがせるから、もってて」

 「えっ!? ちょっ──、っ!」


 無感動な声に応じる暇もなく、発したはずの自分の声が掻き消える。握ったはずの小さな手の感触を見失う。


 暴風。暴圧。

 吹き荒ぶ風と打ち付ける雪に身体が攫われてしまったと錯覚するくらい、外界把握が希薄になる。視界は真っ白に染まり、聴覚は耳元で轟々と鳴り続ける風音に妨害され、肌感覚が「冷たい」のか「痛い」のかも曖昧だ。


 リリウムは自分の顔と、風圧で飛んでいきそうになっているシルヴァを守ろうと雪の上に蹲る。

 腕の内に包んだシルヴァが「むぎゅ」と呻いたが、リリウムに姿勢を変えるほどの余裕はない。


 もう一歩も動けない。

 吹雪の風圧、気圧に押し潰されているわけではない。風の勢いだけで言えば、特にフィジカルに優れているわけではないリリウムが、風に逆らって歩くことができる程度だ。


 だが動けない。

 体が竦み、精神が萎え、恐怖に釘付けられて。


 「んー……」


 どうしよう、とシルヴァは頭を悩ませる。

 ノフ=ケーの動きは人間を襲う時のそれだ。方向から言って間違いなくリリウムを捕捉し、狙っている。


 このままではリリウムは確実に死ぬ。


 だが──正直、シルヴァにはどうでもいいことだ。

 フィリップに「リリウムを拾ってくる」とは言ったが、無理だったとしても怒られはしないだろうし、シルヴァ自身もリリウムに守るほどの価値は感じていない。


 シルヴァは再発生から約四年。

 ヴィカリウス・システムとしての権能は未だ殆ど取り戻していないし、戦闘能力は皆無だ。ノフ=ケーが何をしようが傷一つ付かないが、シルヴァにもノフ=ケーと戦う術はない。というか、吹雪の風圧で飛んでいく。


 だから能力的にも、そもそもリリウムを守って戦うことは出来ない。

 戦う力も、戦うつもりもないシルヴァは、抱きしめられたまま退屈そうな溜息を零し──どうやら間に合いそうだと無感動に思った。

 


 ◇



 雪を踏みしめる足音が鋭く、そして素早く連続する。深い木立の中を進んでいるとは思えないほどの速度だ。

 段々と、なんて言葉が鈍重に思えるほどの速さで接近してくるその音にリリウムが気付いたときには、もう目と鼻の先にいた。


 「──、っ! フィリップ!」

 「木の傍に! 早く!」


 フィリップはシルヴァとリリウムが一緒にいるのを確認すると、リリウムの腕を強引に引いて立ち上がらせる。

 怯えている女の子に対する気遣いなんてものは一片も無く、握られた腕が痛むほど力任せに引っ張っているが、リリウムの動きは鈍重だった。恐怖で竦んでいるのも理由の一つだが、吹雪の中でじっとしていたせいで筋肉が冷え固まっていた。


 「急いで! せめて背中は壁にしないと!」


 リリウムを急かしつつ、シルヴァを送還して非実体状態にする。

 ノフ=ケーが情報通り大きいだけの熊ならヴィカリウス・シルヴァを傷つけることなど不可能だろうけれど、それはそれだ。


 幸いにして、足元の雪はかなり薄く、積雪量は一センチそこらだ。濡れた下草を踏んで滑りさえしなければ、問題なく“拍奪”が使えるが──拍奪はその性質上、相手の位置や間合いを把握していなければ意味がない。最悪、範囲攻撃に自分から突っ込んでしまうことになる。

 

 視界が限りなく制限された中で走り回ること自体も大きなリスクだ。正直、棒立ちの方がまだマシなのではとフィリップは思う。滑ってコケるとか、木にぶつかるとか、間抜けな自滅をすることはなくなるだろうし。


 「ちょっと、痛いって!」

 「ごめん我慢して! 今走らなきゃここで死ぬよ!」


 震える華奢な腕を無理やりに引いて走らせ、手近な木の幹にリリウムの背中を押し付ける。

 フィリップはリリウムを背に龍貶しドラゴルードを抜き放つが、相手が普通の熊でも剣で戦うのはかなりの愚行だ。熊は首を刎ね飛ばせば死ぬが、それは人間も同じ。そして人間には首を刎ねるための剣と技があり、熊には剛腕と鋭利な爪がある。これを互角と強弁するのなら、体重と敏捷性、そして厚い毛皮という装甲で勝る熊が有利だ。


 聞けばノフ=ケーは体長5メートルを超えるという。

 普通の熊なら立ち上がってもギリギリ首に剣が届くけれど──斬り飛ばせるかどうかは別としてだが──、5メートルとなると蛇腹剣を伸長してやっと届くレベルだ。


 そして蛇腹剣を最大に活かすのは鞭の動き。横振りだ。斜め上くらいまでなら対応できるが、5メートル上に届かせるとなるとほぼ直上。狙えないことはないが、最大威力は出ない。


 いや──そもそも、そんな足を止めて斬り合う圧倒的に人間が不利な想定でさえ楽観的すぎる。


 「……シルヴァ、ノフ=ケーはどこ?」


 非実体状態のシルヴァに魔術的な繋がりを通じて問いかける。

 フィリップは声を出す必要があるが、シルヴァの側からは意思を直接返答できる。つまり、声を介した会話よりも発声分のラグが減る。


 ヴィカリウス・システムの基本機能の一つ、環境内の完全掌握をそのまま垂れ流すことが出来ればそれで良かったのだが、それは実験済みであり、不可能だという結論が出ている。刻一刻と変化し続ける非言語的情報が大量に流れ込み、認知活動の根幹を言語的解釈に依存する人間の脳は結局、それを情報として把握出来なかった。

 

 脳のキャパシティが一瞬で埋まり、なんとか理解しようとした情報は次の瞬間には別な事を言っている。一つの情報が無限に更新され続け、それが無限に連なっているせいで、脳が何も処理できない。処理を終えられない。どんな要因であれ狂気に至ることのないフィリップでさえ、理解できない情報の大洪水に襲われて嘔吐したほどだ。


 だからシルヴァも、得た情報を人間の使う尺度に変換して伝える。


 『真正面』と。


 平地なら視界を3メートルにまで狭める吹雪だが、木々に遮られてそれほどの強さは失っている。しかし、それでも視界は10メートル以下だ。


 フィリップは左手をジャケットの内側に入れ、木と鉄の感触を確かめる。


 熊と斬り合うなんて馬鹿なことはしない。

 接敵した瞬間、脳天に弾丸を撃ち込んで終わらせる。


 ──でなければ、死ぬのはこちらだ。


 方針を決めた直後、自然現象では有り得ない唐突さで吹雪が終わる。

 雪が顔に打ち付けるのを庇いもせず目を細めて堪えていたフィリップは、不意に訪れた解放感に浸る間もなく絶句し、瞠目する。


 眼前5メートル。

 そいつは図体に見合わぬ隠密性で吹雪の中を気付かれることなく進み、いつの間にかそんなところまで近づいていた。


 二つ肢で立ち、四つの腕を生やした毛むくじゃらの怪物。

 熊と言われれば、なるほど、厚そうな毛皮や太い腕、その先にあるマチェットのような爪は、確かに熊にも似ている。


 だがこいつの前では、たとえグリズリーだってテディベアみたいなものだ。軽く抱き上げられ、引き裂かれて中のワタを散乱させることだろう。


 「──!!」


 太く、鈍い咆哮が上がる。

 肉食獣の唸る声は原初の恐怖の一つだ。人間を含む大抵の生き物の遺伝子に、それを畏れるようプログラムされている。


 フィリップも身体が勝手に硬直するが、精神的な、“本物の”恐怖はない。

 こんなド辺境の星の原生生物の威嚇に怯えるほど、可愛らしい精神はしていない。


 鈍重になる身体を苛立ち混じりに動かし、フリントロック・ピストルを抜きざまに引き金を引く。

 シュッと短い風を切るような音は、火皿に注がれた点火薬が薬室内へと火種を運ぶ音だ。そして乾いた炸裂音が森に響き──狙い過たずノフ=ケーの額へ吸い込まれた弾丸は、キン、と金属質な音と共に火花を散らした。


 シルヴァやカノンから聞いていた話の通りノフ=ケーの頭には小さな角があるが、きちんとその下を狙って、当てた。


 今の銃撃を弾いたのは角ではなく、毛皮だ。


 「──!!」


 ダメージは無さそうに見えるノフ=ケーだが、何かをぶつけられた程度の刺激はあったらしく、今度は威嚇ではなく怒りの籠った咆哮を上げ、六つの足全てを地に着けて突撃態勢を取る。


 フィリップは応じるように銃を仕舞って剣を構え、ふと気づいて苦々しく顔を歪めた。


 「……嘘でしょ? 無傷?」


 驚愕の声は、銃弾を弾いたことに対するものではない。

 フレデリカが再現してくれた火薬は、現在の人類文明で開発可能な最大威力のものではない。手元で扱い、携行可能な厚さの鉄筒の内部で燃焼させ、火薬それ自体もある程度の量を持ち運ぶ。勿論、安静にではなく、極めて激しい運動を課すこともある。そんな想定をしているから、高威力だが刺激に弱く暴発しやすい火薬は使えないのだ。


 ナイ神父が語った通り、低質な火薬に鉄を丸めただけの弾丸、滑腔の銃身では射程も威力もまだまだ未発達といえる。

 フィリップも威力検証実験のとき、鉄製のプレートアーマーくらいなら距離次第で貫通できるが、錬金金属製のフルプレートは至近距離でも貫けないことを確かめているから、銃弾が跳ねたって「うわあ硬いなあ」と小さな感心を抱く程度。


 だが──エレナの話によれば、こいつはミナと戦っているはずだ。


 ミナと戦って無傷で済んだのか、ミナから無傷で逃げおおせたのか、高い再生能力を有しているのか、それはまだ分からないけれど──どうであれ特大のバッドニュースだった。






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