第430話

 反応刺胞装甲が具体的にどんなものなのか、実のところフィリップはよく分かっていなかった。

 なんとなく「相手の攻撃に反応して棘が飛び出るんだろう」と想像は付くが、それは「反応装甲」という名前とグラーキの甲殻をベースにしているという情報からだ。それも割合としては、全体に棘のある巨大な甲殻を持つ邪神グラーキの外見からの連想が半分以上だ。


 “刺胞”という単語を、フィリップは知らない。

 それが一部の海生生物などが持つ防衛器官であることや、時に強烈な毒を伴うこと、その尋常ではない射出速度のことも、何も知らない。


 それはエレナも同じだった。

 優れた聴覚で聞き取った二人の会話から、カノンが何か特別な装甲を持っていること、それが攻撃に反応するものであることは察せられる。


 だがそこまでだ。

 イソギンチャク、クラゲ、サンゴ……そういった刺胞動物のことを、彼女は知らない。


 彼女がこれまでに対峙した魔物の中にはローパーやゲイザーといった、触手を持ち、そして同種の能力を持つ種もいる。しかし、それらは一般に、そしてエルフにも「触手に毒がある」とだけ認知されていた。

 触手の表面に0.5~1ミリメートルという極小の毒針を内包する器官が無数に並んでいることなど、知りようがない。魔物は死骸が残らないのだから、解剖さえできない。


 故に予めその攻撃の名を、体を表す名前を知っていたエレナにも、その攻撃は奇襲となった。


 「──ふッ!」


 また迎撃の隙も与えないほどの高速で距離を詰め、鋭い呼気と共にエレナの左手が突き出される。

 マチェットはない。本命は背中に隠した右手だ。


 しかし、空の左手を無視できるわけではない。喉元を狙って伸びた左手は鉤のように曲げられており、パンチや手刀ではなく握撃系の攻撃だと分かる。


 カノンは咄嗟に上体を逸らしながら右手で払おうとしたが、触れられない。

 複眼によって動きは完璧に見切っているが、それはあくまで動きが追えるだけ。


 虚実を使い分け、言語や術理を解さない獣や魔物を動きによって騙すエレナを相手に、動きが見えるだけでは駄目だ。

 エレナとカノンのトップスピードが同じで、カノンがエレナの動きを完璧に把握できるとしても、エレナは相手の呼吸や意識の虚を突いて動きを変えたり切り返して翻弄する。一つの挙動で、カノンが一歩以上遅れていく。


 それでは駄目だ。それでは永遠に追い付けない。


 首を狙った攻撃を防ぎ損ねたと思ったカノンは、半ば反射的に肩を上げて首を竦める。


 しかし──エレナの狙いは首ではなかった。


 右手が伸び、手の内でマチェットの柄が180度回転する。

 道を阻む枝を斬り落とすための大振りな刃が妖しく光り、脇下を目掛けて突き上げられた。


 脇をブラフに喉を狙った先の攻防の逆。

 「喉を狙って仕留めに来る」という意識を逆用するだけではない。エレナはもう、カノンが脇を狙われた時にどう防ぐかを知っているのだ。


 ほんの一瞬以下の時間だけ腕を止め、打ち払うような防御を透かしたマチェットが脇下へ突き立ち──鉄の刃が外皮を貫くその直前の、もう意味のないタイミングでカノンの手がエレナの腕に触れた。

 

 力を込められる位置や姿勢ではないカノンと、勢いのままに力を込めれば腕を落とせるエレナ。どう見てもカノンがピンチという局面のはずだが、しかし、エレナは咄嗟にマチェットから手を放して全力でバックステップを踏んだ。


 反応装甲。

 その言葉を覚えて、警戒していたからだ。攻撃に反応してカウンターをしてくるはずだと。


 警戒は正しい。だが、不足だ。

 カノンに触れたら即座に離れるよう強く意識して、反射に等しい速度で反応したとしてもまだ足りない。


 エレナがバックステップを踏む時には、既にカウンターは終了していた。


 身構えていたエレナの虚を突いたのは、圧倒的な速度だ。


 完全展開に要した時間は0.45秒だが、反応から展開までは0.7マイクロ秒。

 エレナが攻撃を防がれ、反射で腕を引くのに50ミリ秒──マイクロ秒換算で、50000。


 反射したときにはもう、針のように細い棘に腕を貫かれていた。


 「いっ──!?」


 苦悶の声が漏れたときには、カノンの左前腕部辺りから長さ一メートルほどの棘が無数に生え出で、エレナの右腕を滅多刺しにしていた。

 マチェットは手を離れ、くるくる回って少し離れた地面に突き立った。


 棘自体はそれほど硬くないようで、エレナが反射的に後退するとポキポキと折れる。そのせいで、エレナはカノンから距離を取った後も右腕の前腕部を黒々と染めている。


 ヤマアラシに喧嘩を売ったってそこまで深くはならないだろうと思えるほどの深手を負い、しかし、エレナは半泣きになる程度で済んでいた。

 目尻に涙を浮かべながらも、昏い憎悪を宿した瞳はフィリップとカノンの一挙手一投足を見逃さないよう油断なく眇められる。右手の負傷には一度目を遣ったきりで、ポケットから取り出した鎮痛剤らしき錠剤を嚙み砕いて飲んだあとは一瞥もしない。


 しかしファイティングポーズに構えられた右手には、刺胞装甲を収納したカノンの代わりのように黒い棘が残り、黒く腐敗した血液を滴らせている。

 見ていてとても痛々しいし、痛みを嫌うフィリップは見るだけで自分の腕まで痛むとばかり表情を歪めていた。


 「ほら、やっぱりボクを殺すつもりだったんだ。さっきからずっと、少しも躊躇しないもんね、フィリップ君」


 責めるような色を孕むエレナの言葉に、フィリップは胡乱な視線を返す。

 今更何を言っているのか。フィリップが敵相手に躊躇するような、人を殺すことに躊躇いを覚えるような甘い性格ではないことくらい、彼女はとうに知っているはずだ。


 しかし「やっぱり」というのは気になる。さっきも「今更」とか言っていたし、フィリップがエレナを殺そうと目論んでいたみたいな糾弾もされた。

 支離滅裂な言動は狂気の常と言うか、一番オーソドックスな形の狂気だと思って聞き流していたけれど。


 「被害妄想? なら説得できる……か? 殴り掛かってくる相手に説得なんてまだるっこしいコトしてられないけど」


 思考や感情が全部吹っ飛んで殺戮機械になったとか、廃人化にも等しい重篤な狂気だと説得の余地はない。

 しかし妄想くらいならどうにかなるかもしれない。「もしかしたら」という但し書きは要るけれど。


 「ん? あぁ、偏執病ですよ。周りが全部敵に見えて仕方ないってヤツです。さっきはちっこい方の子を優先して狙ってて大変だったんですよ?」


 説得とかまず無理ですよ、とカノンは心なしか胡乱な表情に見える。目元以外の表情なんてあってないようなものだけれど。


 しかし言葉の内容は、フィリップに落胆ではなく感心の念を抱かせるものだった。


 「……パーカーさんを逃がしてくれたの? いい判断だよ。ありがとね」

 「……まあ、はい」


 見直したよ、なんて微妙に失礼なことを言うフィリップに、カノンは歯切れの悪い頷きを返す。「もっと褒めてくれてもいいですよ!」なんて言いそうなものだが。


 逃がした、というか、リリウムはカノンに怯えていたらエレナとカノンが戦いはじめ、エレナが守ってくれているのかと思えばそのエレナに攻撃され、逆にカノンに庇われたわけだ。

 ただでさえカノンの異形の顔面という大きなショックを受けた直後だったのに、一目で理解できない状況を見せられて、リリウムは逃げるという選択をした。カノンもまた、リリウムがこの危険な森の中を一人で逃げ回る原因の一つだった。


 カノンの妙な態度を不審に思いつつ、フィリップはより重要なことに思考の焦点を当てる。


 「偏執病ねえ……。じゃあ何をしても、何もしなくても、エレナは僕らのことを敵だと思い込むってことか。……というか、そりゃあ僕も多少は狂気について勉強したけど、君はなんでそんなに詳しいの?」


 勉強したと言っても、図書館で何度も寝落ちしながら学術書を読み漁ったくらいだ。

 修道院や病院のような実地で学んだわけではないし、読んだ──というか、言葉の意味を調べながら読んで理解できた本の総数は10にも満たないから、「多少の知識がある」程度。


 しかしそれでも、まさか人ならざる化け物に人間のことで負けるとは思わなかった。


 「ふっふっふ……ミ=ゴは人間の脳に特に強い興味を持っていますからね! その働きや異常動作についても深い知見があるのです!」

 「へぇ……。……えっ?」


 そういえばさっき、「人間の脳を培養・改良した」とか言っていた……なんて考えて、フィリップは思わず視線を顔ごとカノンの方に向ける。

 人間の脳について深い知見があるのに、その人間の前でマスクを取ったのかこいつ、と明記された顔を。


 いや、おそらく知識として「人間はある状況下で精神病的症状を呈する」と知っているだけで、まさか自分の顔面を目にすることが「ある状況」の一つであるとは思わなかったのだろう。


 そう考えると猶の事、「お前の顔面は人間には害になるから隠そう」と言わなかった怠慢や、「まあ言わなくても分かるだろう」「智慧があるなら僕の意に沿うだろう」という思い込みが悔やまれるけれど……悔やむのなら、今はエレナから視線を切った愚行を悔いるべきだ。


 「しまっ──!?」


 エレナが爆発的な加速で距離を詰めてくるのを視界の端で捉え、フィリップは慌てて剣を構え直す。

 防御自体は流石に間に合うが、技量でねじ伏せられる可能性が高すぎる。打ち合うこと自体を避けるべきだ。


 だがステップバックは間に合わない。


 「……っ!」


 仕方がない。

 覚悟を決め、迎撃態勢を取る。


 守るべきは頭と左手。即死箇所である脳幹部と、照準補助に使う左手だけでいい。


 相討ち覚悟で『深淵の息』を撃ち込み、あとは心臓が止まろうが腎臓をブチ抜かれようが、最優先で『エンフォースシャドウジェイル』を発動。ミナに治療を任せる。これしかない。


 フィリップが負傷すれば勿論、エレナへの救命措置は遅れる。

 溺水の応急処置は数秒の遅れで助かる確率が下がり、後遺症が残る可能性が高まる時間との戦いだが、生きていれば取り敢えずそれでいいだろう。他に問題が生じたら、それについては後から考えよう。


 エレナの右手が動き──やばい、と、フィリップの背筋が直感に凍る。


 エレナの視線はフィリップの右手、現時点で最も警戒すべき武器である龍貶しドラゴルードに向いている。ズタズタの右手はまともに握ることも出来ていないが、棘のせいで、ただ振り回すだけでも十分に凶器だ。その狙いはフィリップの頸。


 これは問題ない。攻撃の位置と向きからして、頭部を守るつもりで構えた剣で防ぐことが出来る。


 エレナの攻撃は続き、無傷の左手が喉を目掛けて伸びてくる。

 フィリップの剣は初撃を防いで流れている。片手ではエレナの腕力に対抗できないから、両手持ち──魔術もフリントロックも撃てない状態だ。どんな防ぎ方をしても、確実に押し負けて、剣を、防御を押し退けられる。


 喉狙いの追撃を防ぐ術がない。


 喉を潰されたら、無詠唱や、指を弾くなどの代替詠唱を習得していないフィリップは魔術を使えなくなる。

 顎を引いて防いだって、エレナの握力なら顎骨を握り割れるだろう。迎撃態勢だったから、咄嗟に「拍奪」を使ってもずらしが足りずに捕捉される。


 詰む。いや、詰んでいる。一秒後から始まる攻防で、フィリップにも分かるくらい明確に詰まされる。


 ──一対一だったら、詰んでいた。


 「はいはい、横から失礼しますよっと!」


 ぎっ、と軋む音を聞く。

 それはフィリップの顎骨が握り砕かれる音ではなく、エレナの右腕がカノンの蹴りを防ぎ止めた音だった。


 カノンはエレナの左側にいたが、エレナは態々フィリップを諦めて向き直り、態々右腕一本で防げるように立ち方まで変えていた。


 かなり無理な姿勢だが、しかし。


 「うわ凄い!?」


 カノンが驚愕の声を漏らす。

 エレナの腕に接触した脛部の反応刺胞装甲は起動していたが、その大半はエレナの腕に残った棘に阻まれ、殆ど刺さっていない。全て防げたわけではないが、右腕がそもそも死に体だったことを考えると、実質的には無傷で防いだと言ってもいいくらいだ。


 しかし、フィリップの目の前で隙を見せたのは致命的だった。


 「っ!?」


 蹴りを防ぎ、未だ腕と足の交錯しているエレナとカノンの間に、地面を這う蛇のような超低姿勢のフィリップが突っ込んでくる。

 普通は入れない隙間だが、そんな姿勢でもそれなりの速度を出せるよう常に訓練しているフィリップにとっては、十分に“道”だった。


 「しまっ──!?」


 先のフィリップと同じ呟きを漏らし、エレナは咄嗟に下がろうとする。

 しかし、腕にはカノンの足の重みがずっしりと乗っている。下手に姿勢を崩せば押し切られ、あの恐ろしい棘がバイタルゾーンに突き刺さると確信させるだけの重みが。


 エレナは苦し紛れに片足を振り上げる。

 普段ならそれを蹴りとは呼ばないような、術理も何もない悪足掻きだが、エルフの身体能力なら人間一人程度容易く吹き飛ばせる。


 だが──振り上げた足はフィリップの頭部をすり抜けた。


 「拍奪」の相対位置認識欺瞞。

 そう思った時には、目で見た位置より一歩後ろに居たフィリップの掌底が壇中へと叩き込まれていた。


 咄嗟に腹筋を固めたエレナだが、筋肉の薄い胸骨を狙われては意味が薄く──そもそも、フィリップの掌底はただの照準補助だ。たとえ全身鎧を着ていても意味がない。


 「《深淵の息ブレスオブザディープ》!」


 詠唱が完了した直後、フィリップは魔力が失われていく感覚を自覚する前に、全速力で距離を取った。

 魔術が発動していたとしても、あのエレナが即座に行動不能になるとは考えにくい。胸の中に突如として2~3キロの重りが生じ、呼吸できなくなった……だから何? 二分ぐらいは死なないでしょ? と殴り掛かってきそうで怖かった。

 

 しかし流石にそんなことはないようで、エレナは口から大量の海水を垂れ流しながら膝を突き、頽れる。

 

 「……効いた?」

 「……みたいですね。うぅ、目が乾きました……」


 カノンは人間の目と同じ外観の瞬膜を何度か開閉し、やがて閉じた状態で瞼を開閉する。

 その動作を「瞬き」と表現していいものかは疑問だ。エレナが一連の動作を見ていたらまた発狂しそうな程度には気色悪かったが、フィリップは「うわぁ」と表情を歪めて、それきり興味を失った。


 「……さて、それじゃ」


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