第428話

 「……これぐらいでいいか。シルヴァ、そろそろ戻るよ」


 ドロリとした樹液を小瓶に半分ほど採集したフィリップは、それを手ごとポケットに突っ込んで温めながら天を仰ぐ。

 見上げた先の梢を走り回って遊んでいたシルヴァが「わかった」と応じて飛び降り、ぱす、と軽い音を立てて雪の上に着地した。


 彼女はぽてぽてとフィリップの傍まで来ると、ぽかんと口を開けて明後日の方向を見つめた。

 大小二つの足跡が残るテントの方角ではなく、反対側の樹液を採取した木の方でもない。どちらかと言えばテント側だが、妙に斜め向きだ。


 「……ふぃりっぷ」


 どうしたの? と尋ねる前に、シルヴァがちょいちょいと服の裾を引く。

 引っ張られて開いた襟元から冷たい風が入り、フィリップはぶるりと身を震わせた。


 「ん? なに?」

 「えれなとかのんがたたかってる」


 テントの方をぴっと指差し、シルヴァは抑揚のない声で言う。


 エレナとカノンが戦っている。

 そう聞いて、フィリップは考える時間を殆ど要さず「ノフ=ケーと戦っているのだ」と理解した。


 しかし、それはそれで疑問が生じる。


 「えっ!? でも、吹雪は出て──いや、吹雪を起こさずに行動できるのか。だけどカノンはともかく、エレナが気付かなかったの!?」


 ここまで体感的には百メートル程度しか歩いていないが、木立と雪のせいでテントは見えないし、様子も分からない。

 「戦っている」ということは、奇襲を受けて壊滅とまではいかなかったらしいが、奇襲を受けたこと自体驚きだ。吹雪に阻まれなければ、森に慣れたエレナの索敵力は相当に高いはずなのに。


 フィリップはノフ=ケーの実物を見ていないし、カノンから得た情報でも「吹雪を起こすデカいやつ」程度にしか知らないが、エレナの感覚の鋭敏さは知っている。

 彼女の索敵力は視覚に頼らない。聴覚や肌感覚、更には直感などという曖昧な代物まで使い、“気配”を感じ取るのだ。恐らく、魔術で透明化できるルキアやステラでさえ、接近しての奇襲は難しいだろう。


 その知識故に、フィリップの受けた衝撃は足を止めるほど大きいものだった。


 「う? まちがえた? えれながかのんとたたかってる」


 そんなに驚く? とばかり、シルヴァがもう一度繰り返す。

 自分が人語を間違えたと思ったようだが、言葉の内容は殆ど同じだった。


 「分かって──えっ?」


 思わず笑いそうになったフィリップだが、脳裏に嫌な閃きが走る。

 エレナとカノンが戦っている。エレナがカノンと戦っている。……前者は「ノフ=ケーと」という目的語が欠落しているのではなく、後者は「と一緒に」という修飾語が欠落しているのではなく、どちらも言葉そのままであるとしたら。

 

 「……もしかして二人とノフ=ケーが戦ってるんじゃなくて、その二人が戦ってるの?」


 嫌そうな顔をしたフィリップの問いに、シルヴァは軽く頷いた。


 「そう。……りりうむはにげてる。あっち」

 「逃げてるし戦ってる? ……なんで今?」


 リリウムはいきなり戦闘が始まって逃げたと考えられるが、そもそも二人が戦いだした理由が謎だ。


 二人ともに、戦いの火蓋を切る動機が無い。少なくともフィリップには思いつかない。

 カノンのことを魔物だと思っていたエレナだが、知性を認めて会話していたから、他の大半の魔物と同じように「安全確保のために問答無用で排除すべき」とは考えないはず。


 そして、カノンが今になって牙を剥いたとも思えない。

 あのバカみたいな振る舞いが油断させるための演技、擬態で、懐に入り込んでから大暴れするためのものだった可能性はある。あるが、エレナを殺す理由が分からない。


 “魔王の寵児”については知らないようだが、それでも、どう考えても外神と何かしらの繋がりがある謎の子供だ。そんな奴と敵対するなんて、フィリップならどんな理由があれ御免だし、智慧があるなら同じ思考になるだろう。


 ……いや。カノンの中で「エレナと敵対する」ことが「フィリップと敵対する」こととイコールで結ばれていない可能性はあるけれど。


 「……とにかく戻ろう」


 思考を切り上げ、自分の足跡を辿って走り出す。


 理由について考える必要は無い。考えるべきは、止め方だ。


 エレナはフィリップが模擬戦の中で一太刀も入れたことのない白兵戦の専門家、カノンはその彼女と「戦う」ことが出来る程度には強い。

 一対一ではなく一対一対一の乱戦にはなるだろうけれど、「ならエレナにも勝てるな!」と楽観できるような戦績ではない。なんせ無勝全敗だ。向こうは全力を出さないというハンデ付きで。


 しかもエレナには戦形どころか癖までバレているし、カノンにも奥の手にして隠し玉であるフリントロックを見せてしまっている。


 無傷で制圧なんて贅沢を言うつもりは端から無いが、そもそもフィリップが真っ先に脱落しそうだ。それも手も足も出ないままボコボコにされて。


 テントまで残り半分くらいといったところで、フィリップを追い抜いて走っていたシルヴァが急にルートを逸れる。

 ここまで木を避けつつも真っ直ぐに来たはずで、足跡もくっきりと残っているからそちらが早いということはないはずなのだが、まさか二人とも移動しながら戦っているのか。いつどこからノフ=ケーが現れるか分からない、この森で。


 そう思って眉根を寄せたフィリップだったが、シルヴァが木立の間に消える前に「ふたりはそっち! りりうむひろってくる!」と言い残したことで、無駄に後を追わずに済んだ。


 「……ノフ=ケーに遭わないようにね!」


 返事は聞こえなかったが、声は届いただろう。

 音声そのものは届かなくても、「フィリップがこういう言葉を発した」という情報は伝わっている。それで十分だ。


 フィリップが足跡を辿り切ったとき、木の枝や雪で偽装されたテントは最早無く、枝葉や雪と一緒に打ち捨てられた布の塊があるだけだった。


 その残骸よりもまず真っ先に目に付いたのは、襤褸切れを纏った少女の背中だった。それから、そこに生えた翼膜のある翅。

 彼女はファイティングポーズのエレナと十五メートルほど開けて相対している。


 二人とも無手の戦闘にしては遠すぎる距離だが、それは「人間基準なら」という但し書きが付く。エレナが本気で殴り、カノンがバックジャンプで勢いを殺したら、このくらいの距離は簡単に開くだろう。


 「……カノン」

 「あ、フィリップさん! あのエルフを止めてくださいよ! 急に殴り掛かってきたんです!」


 文句を言いながら振り返ったカノンに、フィリップは思わず肩を跳ねさせる。

 彼女は顔の下半分を隠していたガスマスクを取り去り、明らかな異形を陽光の下に晒していた。


 エレナの表情は距離のせいで判然としないが、カノンだけでなくフィリップにも敵意の籠った目を向けているような気がする。


 「……ふーん? それって君がマスク外した直後だったりする?」


 不機嫌そうに尋ねるフィリップに、カノンは同じくらい眉根を寄せた。


 「見てたんですか!? だったらもっと早く止めに来てくれてもいいじゃないですか!」


 悪びれもせず、剰え文句を垂れるカノン。

 化け物の感情を上半分しかない顔に浮かぶ表情や目の色から推察するなんて馬鹿馬鹿しいが、なんとなく、誤魔化しではなく本気で言っているのだと思えた。


 フィリップは深々と嘆息し、天を仰ぐ。


 「……これ、僕のミスか」


 自分に言い聞かせるように、口を動かして声を出す。自分の声を耳に入れ、脳に染みわたらせる。

 そうでもしないと、「だから口を隠させたんだよ!」なんて怒鳴ってしまいそうだった。

 

 実際、自責の念はある。

 カノンはヒトガタではあるが、人間ではない。それは重々分かっていたのに、彼女の容貌が人間の目にどう映るかを説明しなかった。化け物を相手にしていたのに、“人間のことを理解しているだろう”なんて馬鹿げた意識を持っていた。


 化け物は所詮、化け物でしかないと知っていたはずなのに。


 ナイアーラトテップを筆頭に外神たちの化身の精度を知っているから──より上位の存在が人間をほぼ完璧に模倣しているのを見ているから、油断した。まあ、あれはあれで美形すぎるので「人間に見えるとギリギリ言い張れないことも無い」という化身ではあるのだけれど。


 そんな益体のないことを頭の片隅に思い浮かべながら、フィリップはすっとカノンを庇う位置に進み出る。エレナに「落ち着け」と言葉とボディランゲージを向けながら。

 しかし──。


 「エレナ、落ち着いて──ぐぇっ」

 「危ない! 鱗も無い場所にあんなの喰らったら、肉が飛び散っちゃいますよ!」


 襟首を掴んで引っ張り戻され、潰れたカエルのような声が漏れる。

 その目と鼻の先を、一瞬で距離を詰めたエレナの爪先が通り過ぎた。


 肉が飛び散るだなんて、とんでもない。肌に感じた風圧は剣閃にも等しい鋭さだ。カノンがフィリップを引き留めなければ、エレナの脛がフィリップの頸を斬り落としていただろう。

 

 これは多少──いや、かなり不味い。

 カノンの顔を見て「こいつはヤバい魔物だ」と思って襲い掛かった、なんて、そんな甘い状況ではないらしい。


 「エレナ、よく見て。僕だよ。フィリップだよ」

 「知ってるよ、五月蠅いな。今更会話なんかしない」


 吐き捨てるような言葉に、フィリップは思わず瞠目する。

 普段のエレナらしからぬ邪険な態度もそうだが、言葉の内容も目を瞠るべきものだ。


 「今更? 今更って何?」


 フィリップはここに来たばかりで、エレナとカノンが戦っている理由すら聞いていない。推察こそ出来ているが、確証が得られていない。

 「今更」というか、むしろ「今から」情報を集めて仮説の裏を取り、それから対処法を考えるという状況のはずだが──エレナの中では違うらしい。彼女の声は、まるで積年の恨みが籠ったように重々しいものだった。

 

 「あなたがボクを殺そうとしてたことは分かってる。……この他に、まだ何か言葉が──必要ッ!?」


 言葉を終える前に、エレナの長い脚が折り畳まれ、バネのように撃ち出される。

 心臓狙いのサイドキック。直撃すれば胸骨どころか肋骨の大半を砕いて内臓を潰し、中途半端に防いでも衝撃による心臓震盪で昏倒させる、本気の一撃だ。


 先の回し蹴りとは違い、距離を詰める一動作が無い分、動きは数倍も早く感じた。カノンが庇おうと動いたときには、フィリップの胸にブーツの硬い靴底がめり込んでいたほどに。


 「っ!?」


 しまった、とでも言うように、カノンの双眸が見開かれる。

 エレナの蹴りは人外の身体能力に優れた技量が合わさり、人間程度の脆弱な種族であれば一撃で仕留めうるものだ。


 骨を砕き、内臓を潰し、或いは背中から噴き出させる。砲弾じみた蹴撃。


 ──いや、それにしては


 「──っぶな!?」


 咄嗟に拍奪の歩法で相対位置を誤魔化し、すんでのところで攻撃を透かさせたフィリップは、声を漏らしながら慌てて十メートル以上も後退した。

 白兵戦の距離ではない。蛇腹剣を伸ばしても届かないどころか、フィリップがフリントロック・ピストルを必中させられると自信を持っているのは七メートル。完全に交戦圏外だ。


 エレナが距離を詰める動きを見てから反応して、どうにか回避や防御を間に合わせられる距離だ。


 「なんですか今の!? 当たったように見えましたけど、無事なんですか!?」


 連続する剣戟のような音に混じって、カノンの能天気な感嘆が聞こえる。

 目を向けると、エレナとカノンが拳打主体の攻防──なんてお上品なものではなく、足を止めての殴り合いをしていた。


 カノンの大振りをエレナが防ぐと、長剣同士が打ち合わされたような金属音が鳴り響く。

 両腕の肘から先がごつごつした鱗に覆われているカノンは分かるが、エレナの鍛えられているとはいえ少女の細腕からは想像も付かない音だ。フィリップとの模擬戦では一度も使ったことのない、自己強化魔術だ。


 フィリップ相手では攻撃を当てられることが無いからだろうが、カノン相手にはそれを使い、そしてカノンもエレナに攻撃を防がせている。相手の攻撃を受け止めると、押し負けたり追撃を受ける可能性があるからと、より安全な回避や受け流しを好むエレナに。


 「まあね。というか君、結構戦えるね?」


 フィリップの賛辞に、カノンは「ふへへ」と妙に気色の悪い照れ笑いを零す。

 しかし、それは流石に余裕を見せ過ぎだ。

 

 剣戟じみた金属音が素早く連続したかと思うと、エレナの姿がふっと掻き消える。

 フィリップが目を瞠ると同時──いや、それに先んじて、鈍い衝突音が森の空気を揺らした。パンチやキックで出る音ではない。しかし、フィリップが知っている音だ。


 瞬時に姿勢を落とし、体重を臍下丹田に集束させる技法。特徴的な踏み込みから“震脚”と呼ばれる予備動作。

 集めた体重は肘先の一点に乗せられ、そのままカノンの胸骨へ。“突く”でも“振り抜く”でもなく。


 腕や腰を振る、所謂「肘打ち」ではない。

 それは突撃。肘の一点に全体重を集め胸骨に乗るが如き、いやそれ以上の重さを発揮する頂心肘。


 咄嗟に羽を広げて後ろへ飛んでいなければ、カノンの人外の内臓組織でさえ無事では済まなかった。


 「あ、あっぶな!? いま一瞬体重10倍ぐらいになりましたよあのエルフ!!」

 「そんなわけ……いや、有り得るか……?」


 フィリップのすぐ傍まで後退してきたカノンが、胸を押さえながら慌てふためく。

 その慌てようを見るに、まともに喰らったら大きなダメージがあったのだろうと察せられた。


 「……ねぇエレナ。僕を殺すのはいいんだけど、その後はどうするの? ミナにバレたら確実に殺されるし、殿下とマ──レイアール卿が知れば、いよいよ国家対エルフの問題になる。最悪、戦争だよ」


 まともな思考を残しているのかは不明だが、一応言ってみる。

 “一応”とはエレナに伝わるかどうかという意味だけでなく、言葉の内容自体もそうだ。報復なんて面倒で非合理的なことをする顔ぶれではないし、レイアール卿に至っては「エルフなんていなかった」ことにだって出来る。


 エレナは答えない。

 ただ真っ直ぐに、フィリップとカノンの両方を観察する広い視界を向けていた。


 不味い。

 エレナはかなり本気だ。魔物のような人語を解さない相手と戦う時でさえ、自分を鼓舞するように言葉を発するエレナが完全に無言になっている。戦意の冴えも、模擬戦の時とは比にならない。


 いや、模擬戦どころか、あの緑色に穢れた湖でグラーキに呼ばれた時よりも、もっとだ。

 今の彼女にとって、フィリップは道を妨げる邪魔者どころか、明確な敵──強烈な殺意を向けるべき怨敵に映るらしい。


 「……仕方ない」


 と、言葉に似合いの軽い溜息を吐いて、フィリップはファイティングポーズのエレナに左手を向けた。


 「《シューヴ──、あ、いや待てよ? これって殿下の責になったりするのかな」


 脳裏に閃いた悪い予感に従い、弾かれたように手を引っ込める。


 フィリップは外交や政治のことはよく分からない。

 エレナはこれでもエルフの種族王の娘、王女様だ。それが王国内で、王国民であるフィリップの手で殺された場合、かなり大きな外交問題になりそうな気がする。


 フィリップ個人がエルフから恨まれるくらいならどうでもいいが、フィリップのせいでステラが怒られるのは申し訳ない。

 

 故にエレナには悪いが、狂気への逃避も、フィリップの手に掛かるなんて穏当な死も認めない。許さない。


 ──この無価値な泡沫の世界で、もう少しだけ生き続けて貰う。


 「。《深淵の息ブレスオブザディープ》」


 発動すればまず助からない、内臓を脱水炭化させる『萎縮』ではなく、即座に的確な処置を施せば助かる可能性のある『深淵の息』を発動する。するが──残念ながら魔術耐性に阻まれたようで、エレナは口から海水を流して苦しむ様子もなく、怪訝そうにフィリップを見ている。


 しかし、フィリップの口元は苦々しく歪むどころか、むしろ僅かながら愉快そうに吊り上がっていた。


 「……ん?」


 この感じには覚えがある、と、フィリップは懐かしむように自分の掌に目を落とす。

 身体の全てが魔力で構成されているが故に高い魔術耐性を持つ魔物を相手に撃った時とは、明らかに手応えが違う。


 この感じは。


 「……10メートルか」


 久しぶりに実戦使用できそうだと、フィリップは愉快そうに笑った。





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