第427話

 吹雪の去った森の中で、ミナたち三人は木の根や枝に腰を下ろして簡単な休息を取っていた。

 いつまた吹雪と共に怪物が現れるか分からない以上、テントや焚火の設置は下策と判断して、水分補給くらいしかしていないが。


 誰も負傷したり低体温症になったりはしていないし、体力の消耗もそれほどではない。これで十分だ。


 「……臭い」

 「え!? 私、臭い!?」


 苛立ちを多分に含んだミナの独白を受けて、モニカが弾かれたように距離を取った。

 ふんふんと鼻を鳴らしながら自分の臭いを嗅ぐ間抜けな姿に、ミナは呆れと怪訝さの混じりあった一瞥を呉れる。視界の端に「僕か?」とばかり同じ動きをしているウォードが映り、呆れは倍増だ。


 「は? はぁ……人間の感覚ってそこまで鈍いの? 森の奥に凄まじい臭気の塊があるでしょう?」

 「でしょう? って言われても、分かんないです……」

 「……そう」


 まあ、こればかりは種族差だ。

 自分の身体性能が優れていることは変えようがないし、変える必要も無い。それによって不利益が生じるのも仕方のないことだし、その苛立ちを他人にぶつけるほどではない──いや、その苛立ちをぶつける相手になるほど、人間は強靭ではない。


 「……ちなみに、どのぐらい臭いんですか?」

 「私一人だったら……貴様らがいなければ、飛んで逃げているくらいには。と言っても、どうせ逃げられないのだけれど」


 これまでに嗅いだどの臭いとも違う──いや、もはやこれは“臭い”とは呼べない。

 吹雪より冷気よりもっと全身を打ち付けるような、強い“圧”だ。

 

 それを感じてなおフィリップを回収して飛び去っていない理由は二つ。

 その“圧”の中に、フィリップが投石教会に赴いた後で漂わせているような強すぎる香水の匂いにも似たノートを感じたこと。そして、もしフィリップがここにいたとしても、この森から出られないこと。


 先刻、吹雪が消え去った後に森を出ようとしたミナたちの前に、透明な「壁」が立ちはだかったのだ。

 それはミナの魔術や剣による攻撃を受けてもビクともせず、その上どうやらドーム状になっていて、ミナが飛び越えることも出来なかった。


 「あの透明の壁が無ければ、森の外に逃げられたのにね……」

 「魔力視が使えないから手応えからの推測だけど、あれを破りたければ術者を殺すしかないわ」


 ミナが語った内容は、ほぼ正解だ。


 隔壁力場の創造。

 一度森を出ようとした三人を阻んだのは、そう呼ばれる領域外魔術だ。


 術者はその内側に居なければならず、発動後に拡張や縮小ができず、壁の内から外への干渉は出来ないくせに外から内へは素通しする。つまり、盾にはならない。ついでに言うと魔力消費が死ぬほど──文字通り、長時間展開し続けると魔力を食い潰すほど──多い。


 しかし制限に見合うだけの強度はあり、術者による解除か、術者の死以外に突破する術はない。


 狩り場を作り出すには魔力消費が大きく、盾にできる性質は無く、何に使うのかよく分からない魔術設計だが──このように、魔力視を封じた状態の相手や魔力を見ることが出来ない相手であれば、そこに壁があると勘違いし続け、「逃げる」という選択肢を自発的に放棄してくれる。


 「……その、無礼とは思うのですが、ウィルヘルミナさんならアレに勝てるのでは? 探して殺すのはどうでしょう?」


 無礼と断ったのは、「勝てないの?」という問いだからではない。「勝てるだろうから探して殺してくれ」という懇願だからだ。


 とはいえ──今のミナには枷がある。

 フィリップのように、自らに課した戒めが。


 「えぇ、勿論。殺すだけなら簡単よ。けれど、私の剣は“女王の剣”だもの」


 肩を竦めて言うミナに、「……なるほど」と納得を示したのはウォード一人。

 モニカは「……どういうこと? そういう流派?」とウォードに身を寄せてひそひそ訊いている。


 「いや、流派というより傾向かな。技とか戦形を一言で言い表したものだよ。僕の剣術は“騎士の剣”。軍の一員として大多数と連携して他人を守る、そういう戦形で、そのための技を身に付けてる。対して“女王の剣”は、眼前敵の処刑を第一にした戦形で──自分以外が全員敵、っていう状況を想定してる」


 軍学校では悪い戦形の例として、蔑称のように使われていた表現だ。

 近衛騎士が全員殺されて漸く剣を執る女王のように、仲間が全員殺された後のことを考えている軟弱者の剣だとか、仲間が死ぬまで自分は戦わないつもりの臆病者の剣だとか、概ねそういう意味で。


 だが本来の意味は違う。

 

 味方を守るとか、連携するとか、そういう余分な思考を一切排し、敵を殺すことに特化した処刑の剣技。一対一か、一対多、単騎戦に主眼を置いた戦形のことだ。城塞のように、玉座に坐す王者のように動かずに。


 カバーに動くとか、庇いながら戦うとか、そういう技術が無い。

 勿論肉体の基礎スペックに物を言わせて、やってやれないことはないだろう。しかし、そこに磨き上げた技は無く、なんとなくそれっぽいだけの動きになる。


 「なるほど……? つまり、どういうこと? 勝てないの?」

 「いいえ? 力も技も速さも私が上よ。私が戦って負けることはまず有り得ない相手。……けれど、あの奇襲性は厄介ね」


 どういうこと? と首を傾げるモニカに、ミナも同じく「いま説明したでしょう?」とばかり首を傾げる。

 流石に殆ど剣士の間でしか通じない表現を使ったのは不親切だったと感じたのか、追加で説明をくれるが……モニカの首は傾いだまま、眉根は寄ったままだ。


 「……つまり、あの熊モドキみたいなやつは吹雪の中から急に現れるから奇襲に優れてて、単騎戦特化のウィルヘルミナさんは自分の身を守るだけなら簡単だけど、僕たちを狙われたら守るのは難しいってこと」

 「おぉ、分かりやすい……」


 難しい、という表現に気遣いを感じ、ミナは僅かに眉根を寄せる。

 人間風情が自分の戦力を評価すること自体が既に多少腹立たしいが──戦力評価をするなら正確にすべきだ。


 、と。


 吹雪の中で、ミナは自分の全周三メートルに入った相手を知覚し、そこから防御を差し込んで間に合わせられる。

 しかしそれは、その場で自分を守るという、ミナの戦形や身に付けた技に適したことだからだ。


 誰かを庇い、守る動きをして、間に合わせるのは不可能だ。


 初めから魔術で守っていればいいのだが、ミナは基本的に、魔術より剣技を信頼する傾向にある。魔術による防御より、自分で動いて守った方が確実だと。

 実際、魔力障壁や血の繭を作る魔術は、ミナ自身の剣戟で簡単に壊れる。ノフ=ケーの攻撃で破れるかどうかは五分五分だが、変な賭けはしたくない。


 「……ウィルヘルミナさん、意外と仲間思いなのかな?」

 「あー……どうだろうね。吸血鬼が人間に仲間意識を持つとは思えないけど」


 ひそひそと声を潜めていた二人だが、ミナには筒抜けだった。


 「えぇ、そうね。けれどあの子が気に掛けている人間二人くらい守らないと、飼い主として薄情というものでしょう?」


 聞こえていないと思っていた相手から平然と返され、二人の肩がピクリと跳ねる。

 聞かれて困る会話はしていないが、それは驚きの強さに影響しなかった。


 「……フィリップが、って言うなら、やっぱりエレナさんの方に行くべきじゃない? ここでこうして待ってても、何も変わらないし」


 フィリップがパーティーの中で一番懐いているのはミナだと誰もが分かっているが、二番目は意見が分かれる。

 モニカはそれがエレナだと思っての発言だったが、ウォードは「ん?」と疑問顔だし、ミナは呆れ混じりの溜息を吐いていた。


 「はぁ……。あの子を理解しているわけでもなく、あの子に何か恩恵を与えるわけでもない。なのにどうして……」


 数秒ほど悩む様子を見せていたミナだが、やがて「まあいいわ」と肩を竦めて疑問を全て脇に置いた。

 いや、置いたのは自分の疑問だけでなく、モニカの疑問と質問に対する答えもだ。訊かれたことは覚えていたが、答える義務も義理もないし、面倒だからもういいや、と。


 「あははは……。モニカちゃん、この森に来るまでの道中、何回か魔物に襲われたでしょ? その時ずっと、フィリップ君が真っ先に安全確認してたのはモニカちゃんだよ」

 「え? そう?」


 ウォードは「だと思う」とか曖昧な言葉を使わず断定したが、モニカは懐疑的だった。

 だが無理もない。ちょっと護身術を習っている程度の人間と、連携訓練を積み重ねてきた軍学校卒業生では見えているものが違う。


 「うん。フィリップ君が自分で守ろうとしてなかったから気付きにくかったかもしれないけど、視線と立ち位置を見れば分かるくらいには露骨だった」


 戦闘開始前に一瞬、戦闘中に何度か、戦闘終了後に一瞬。

 モニカの前にエレナかウォードがいること──誰かに守られていることを常に確認し、最後には怪我がないことを確認していた。


 同質の視線をリリウムにも向けるなら、パーティーの弱い部分を気にしているだけかもしれないが、あくまでモニカにだけ。しかし自分で守ろうとしないし、モニカの視界に入ろうとするわけでもない辺り、好意や下心からの行為ではない。


 ウォードはその謎の庇護欲のようなものがずっと気になっていたし、ミナも理由は知らないがペットの大切なものとして認識していた。


 モニカには、ウォードの言う立ち位置や視線に心当たりはない。

 しかし──フィリップから向けられる視線に、何か重いものを感じることはあった。パーティーを組んで一緒に冒険をする前から、ずっとだ。


 「あー……、フィリップって、ちょっと過保護なところあるから。丁稚してた頃も、私が近くの教会に行くってだけで絶対ついてきたし」


 呆れ口調を装ってはいるが、痛ましげな表情は取り繕えていない。

 モニカの表情の意味を測りかね、ウォードだけでなくミナも再び会話に参加する。


 「同族意識の希薄なあの子が気に掛けるのは、強い人間ばかりだと思っていたけれど」


 フィリップは確かに、偶に過保護になる。

 交流戦の折には自分より遥かに強いルキアやステラを部屋に押し込めて自衛しろと強く言い聞かせていたし、戦士としてはミナから見ても多少は上等な部類に入る衛士団を死なせたくないから、なんて理由で龍狩りに行くと言ったほどだ。


 強い人間に惹かれるのだろうな、なんて、ミナはなんとなく考えていたが──モニカはどう考えても、どの要素を考えても強くない。


 意外そうな顔のミナに、モニカは苦笑を返す。


 「気に掛ける、って言っても、私は別にフィリップに好かれてる訳じゃないですよ。そりゃ、嫌われてはいないと思うけど……。庇護欲……ううん、“守らなきゃ”っていう義務意識みたいなものだと思う」


 ほう、とミナから感心の息が漏れる。

 モニカとフィリップの付き合いは古くはあっても、そう長くないと聞いていたが、意外にフィリップをよく見ているらしい。


 「……前言を撤回するわ。存外、あの子のことを分かっているのね」

 「一緒に居た時間はそんなに長くないけど、でも、フィリップが私のことを守ろうとしてるなら、その理由くらいは分かるつもり」


 どこか挑戦的にも聞こえる声。モニカの心中にある自信がそうさせるのだろうか。


 ミナは僅かな苦笑と共にそれを聞き、無言で先を促した。


 「フィリップは……まだ、あの地下牢から抜け出せてないんだと思う。吹っ切れてるように見えるけど、心のどこかを縛られて、囚われたままなんだよ」


 地下牢? とミナとウォードが同時に眉根を寄せ、首を傾げる。

 二人ともフィリップとはそれなりに親密だと思っていたし、ミナは特にそうだが、それでもフィリップとした会話で思い当たるもののないワードだ。


 ミナはこれまでを数倍する興味をモニカに向ける。正確には、モニカの話す内容に。


 「私に対して過保護だったのも、今も守ろうとしてくれるのも、それのせい。私を守ることで、地下牢に居た自分を守ってるような気になってるだけ」


 フィリップにとってモニカは、同じ地獄を共有した相手──では、ない。

 自分が地獄を味わっているとき、幸運にも一人で助かった相手だ。裏切り者、と、そう思われていても不思議も無理もない。

 

 けれどモニカも同じ無力な子供で、奉公先の娘という距離を置くことも出来ない相手で、それに初めのうちは見当違いな親近感や義務感からあれこれ絡みに来て。


 だから恨みをぶつけることも、逃げることも出来なくて──せめて最後まで無事でいられるように、「あの地獄は無駄ではなかった」「モニカを救うことは出来た」と思うために、ただ教会に行くだけのサボリにまで付いてきたのだろう。道中で危険な目に遭ったりしないように。

 冒険中によく目を向けているというのなら、それが今もまだ続いているというだけのことだ。


 「だって──だって、そうじゃなきゃ、フィリップが私を許せるわけないもの」


 木の根に三角座りしたまま、モニカは自分の足を強く抱いて縮こまる。

 その姿は神罰を前に身震いする罪人のようにも、告解の昏い喜びに打ち震える信徒のようにも見えた。


 「私とフィリップはただの順番で、地獄を見る方と助かる方がはっきり分かれた。ただの順番で、助けが来るまでの間に、ほんの三十分の間に、あんな──あんな目、見たことない!」


 モニカの語りが殆ど悲鳴のようになり、ウォードがびくりと肩を震わせる。


 モニカは未だに、あの日のことを夢に見る。

 路地裏で魔術をかけられて眠らされたことより、目が覚めたら地下牢で鎖に繋がれていたことより、フィリップがカルトの男に連れて行かれたことより、もっとずっと怖かったことを。


 二人の神官に助け出されたフィリップが、モニカの無事を確認して浮かべた安堵の顔。フィリップを、そして助けを呼び続けて喉を痛め、咳き込んでいたモニカに向けた心配そうな顔。鉄格子の扉を開けようとした時の慌てた顔と、鍵が無いことに気付いて呆然とした顔。

 ころころと表情を変えるのが幼くて──二才しか違わないが──可愛いと、そう思った直後だ。


 フィリップの目が、見たことのない感情で昏く淀んでいることに気付いたのは。

 感情に応じて表情を変えているし、その仕草は自然で作られた感じは全くしなかったのに、目だけがずっと同じ色に染まっていた。


 「……モニカちゃん、落ち着いて?」

 「フィリップは私を恨まなかった。羨まなかった。そんなこと有り得ないのに……あの状況でそんなこと……!」


 ウォードがモニカの様子がおかしいと気付いたときには、彼女はもう完全にヒートアップしていた。息は荒く、心拍まで加速しているのか顔が赤い。


 ミナは腰掛けていた枝から飛び降り、木の幹を何度かノックして力加減を確かめる。

 それがパニック状態から無理やり引き戻すためにぶん殴る前の、頭蓋をふっ飛ばさないための調整であると察したウォードは、少し慌ててモニカに語りかける。


 「落ち着いて。こんな状況でパニックになってトラウマが刺激されてるんだ。ちょっと怖いことを考えちゃってるだけだよ。フィリップくんの身に何があったかは知らないけど、あの子は善良だ。確かに異質な空気を纏う時もあるけど、それもサークリス聖下や王女殿下の身の安全を守るためだった」


 「……らしい。詳しくは知らないけど」と最後に続くはずだった部分を喉元で押し留め、ウォードは別の言葉を続ける。


 「君とフィリップくんが怖い目に遭ったのは分かった。けれど、今は二人とも平穏に暮らしてるし、こうして一緒に冒険してる。フィリップくんなんて、今や龍狩りの英雄だよ? 過去を忘れてはいなくても、今はきっと幸せなはずさ」


 努めて明るいことを言うウォード。

 その穏やかで優しげな笑顔に宥められたように、モニカの過剰なほどに加速していた心拍と呼吸が落ち着きを取り戻す。


 荒れ狂う吹雪の中、ウォードとモニカがどこまで同じものを見ていたか定かではないが、同じものを見たのだとしたらこの反応も無理はないとウォードは思う。

 二等地の民家かと思うサイズのシルエットが雪をスクリーンに映し出され、厳つい角のある頭が獲物を探して動くさまは、その視線がこちらに向いていなくても腰が抜けそうなほどだった。


 具体的な色や形、細部なんかは見て取れなかったが、自分より遥かに大きい生き物がすぐ傍で動いているだけで、本能的に恐怖を抱いてしまう。


 異常事態に晒された瞬間ではなく、こうして落ち着いたタイミングで少し遅れたパニックがやってくるのも、ウォードは軍学校の演習で何度か見た。ウォード自身も、対夜襲訓練が完全に終わり、皆で紅茶でも飲もうかという時になって手が震え出したことがある。


 落ち着いたならもう大丈夫──そう思ったウォードだったが、残念ながら、はモニカの精神状態にまで気を配ってくれなかった。


 「今のはもしかして、カルトに関係した話かしら?」


 好奇心に従うミナに、ウォードは物言いたげな目を向ける。

 不満そうな顔をするだけで内心を口に出すわけではない物分かりの良さ、というか、分の弁え方は、ミナも気に入っているところだ。


 「……フィリップから聞いてないんですか?」


 黙り込んでしまったウォードと興味をそそられたらしいミナを交互に見て、モニカは不思議そうに首を傾げる。


 二人とも親密そうなのにフィリップが言っていないなら、もしかして言いたくない──知られたくないのではないだろうか。そう思い至ったのはいいが、残念、それはミナの関心を買う前でなければ意味が無かった。


 「えぇ。だから詳しく聞かせて」


 言っていいものかと悩むモニカに向けられたミナの双眸が、血よりも赤く輝いた。






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