第426話

 時間を少し遡る。

 六脚の熊が出たとき、ミナは思わず飛んで逃げるところだった。


 吸血鬼の目は完全な闇をも見通すが、それはあくまで光源無しに物が見えるというだけ。大量の雪が物理的に視界を遮る猛吹雪の中では、人間同様に3メートル程度の視程しかない。

 魔力のチャンネルを物質から魔力へシフトさせれば、或いは見通せるかもしれないが、この吹雪は魔術で作られたものだ。魔術的な煙幕のように働く可能性もあるし、そもそも、魔力視を使うこと自体をフィリップが嫌がっている。


 となると、ミナには周囲三メートル外を把握する術がなく、相手はミナの索敵圏外から吹雪とほぼ同等の速度で襲い掛かってきた謎の存在。


 嫌になるほど面倒な状況だ。


 「はぁ……」


 方向感覚の失せ始めたミナは深々と嘆息すると、記憶を頼りにウォードとモニカがいた方向に足を向ける。


 ミナ自身はどうでもいい、食欲も催さないくらい本当にどうでもいい相手だが──フィリップが安否を気にするのはこの二人だ。最優先がモニカ、次点でウォード。


 この森に来るまでの道中、何度か魔物の襲撃に遭ったが、フィリップは戦闘前や戦闘中、よくモニカの方を見ていた。

 自分で守ろうとするのではなく、視界に入ろうとするわけでもなく、エレナかミナかウォードがモニカを守る位置にいることを確認するだけだ。誰もいないことは一度もなかったが、もし誰もいなければ自分で守りに行っただろう。


 ミナは初め、フィリップがパーティー内で一番の弱者を気にしているのだと思っていた。

 だが、フィリップをよく見ていれば違うと分かる。フィリップがモニカに向ける視線には親密さや、時には適当な兄姉に対する呆れのような感情が濃く出ている。しかし、ふとした瞬間に青い双眸を過るのは、ルキアやステラに対するものとよく似た色だ。


 庇護欲、と言うのだろうか。あれも。

 ミナがフィリップに対して抱くものと、部分的には近い。可愛いもの、弱いもの、好きなものに対する庇護欲求ではなく、飼い主としての義務感の方に。


 ウォードに向ける目は、それよりずっと分かりやすい。

 剣の一人目の師匠である彼に、その技術と強さに向けるべき信頼と憧れ。そして冷笑と庇護欲。ミナがフィリップに向けるものの、また一部だ。


 そう考えるとペットが飼い主を真似ているようにも思えて、ミナの思考が止まって緩む。

 ペットは何をしていても、何もしていなくても、ただそこにいるだけで可愛いものだが、自分を真似るなんて可愛すぎる。この場に居たら抱きしめているところだ。


 ──なんて、そんな緩んだ思考が、急速に冷える。


 視覚と聴覚と肌感覚。

 戦闘中に使う外界認知能力のうち、視覚以外はほぼ完全に死んでいる。聞こえるのは吹雪の吹き荒ぶ轟々という音だけ、肌に感じるのは雪混じりの強風だけ。


 しかし、三メートルより先はただの白い空間にしか見えない視界の中に、一瞬だけ黒いものが混じる。


 直後、甲高い剣戟音が風の音を切り裂いて鳴り響いた。


 「……凄まじい奇襲性だけれど、肝心の不意討ちを防がれるようでは落第点ね。あの二人なら私を仕留めていたでしょうに」


 ペットのことを考えて口元を緩ませていた、子煩悩な飼い主の姿は最早無い。

 白一色の中でも眩く輝く白銀の断頭剣を手に、振り下ろされた四つの剛腕を一太刀で打ち払ったミナの双眸には、雪よりも冷たい殺意の光が宿っていた。


 「──!?」


 白い世界にぱっと赤が咲き、低い咆哮が風の音に混じる。

 その声には痛みと、不可避のはずの奇襲が容易く防がれ、反撃までされたことに対する驚愕が籠っていた。


 ミナの言葉の通り、ノフ=ケーの奇襲性は驚くほど高い。5メートル以上の巨体にも関わらず、風圧をものともせず俊敏に吹雪の中を泳ぐように移動し、何処に居るのかがまるで分からない。

 急接近してくる吹雪には気付けたミナも、三メートルに狭められた認知圏の外を知覚することは出来ない。ノフ=ケーの位置を把握して構えることは不可能だ。


 だから、


 攻撃態勢で接近してきたノフ=ケーが半径三メートルに入った瞬間に剣を構え、防ぎ、反撃を入れただけ。

 攻撃の予備動作を観察し、相手の動きに反撃を置いて合わせる、所謂“後の先”とは違う。ただ速さに任せて無理やり間に合わせ、無理なタイミングで差し込んだが故の体勢不利を力技で押し返し、最低限の術理だけ加え殆ど得物の鋭さに任せて切り裂いた。


 身体性能に物を言わせた無理やりの、拙い防御。

 そんなものが通じる辺り、ミナとノフ=ケーの性能差は著しい。吹雪も地面の積雪もないフラットな地形・環境で戦えば、ミナが瞬殺するだろう。……とはいえ、それは人間と宇宙空間で戦おうとする星間航行生物のようなもの──とまでは言わずとも、羽を捥がれた鳥と戦うようなものだ。


 だからこそ、ミナは苦々しく舌打ちする。


 「面倒な……」


 苛立ちを多分に含んだ独白は、吹雪の中でなければ自分の前に立つ資格も無いような弱者が、わざわざ吹雪を起こしてまで絡んできたことに対するもの。

 そして、そんな雑魚を殺し切る有効な手段を持たない自分への苛立ちも含まれていた。


 いや、手は幾つかある。

 例えば魔術の届く限り、全周を血の槍で埋め尽くす。例えば魔剣『美徳』の全力を解放し全周を粛清の光で薙ぎ払う。


 ……広範囲攻撃しかない。


 それは駄目だ。それではモニカとウォードまで巻き込んでしまう。

 いや、それぐらいなら最悪ペットの機嫌を損ねる程度で済むが、もしフィリップが戻ってきていて巻き込んでしまったら最悪だ。ミナはどちらかと言えば一対一に向いた性能だが、範囲攻撃でも、不運にも巻き込まれた人間一匹を血の治癒が間に合わない速度で殺し尽くすくらいの威力は出る。


 吹雪を起こしている魔術を解析して干渉する……なんてことは、あの二人なら可能だろうが、ミナは自分には無理だと自覚している。

 こと魔術センスにおいて、あれらはミナ以上の化け物だ。その化け物同士が十年、お互いを仮想敵に据えて研鑽してきたというのだから、そりゃあ化け物も敵わない化け物に育つだろう。


 魔術的アプローチだと、他にも「魔力障壁を広範囲に展開して吹雪を遮る」とか「血の繭を作る『ブラッドコフィン』で隔離空間を作る」とか、色々と吹雪を防ぐ術は思いつくが、前者は魔力障壁という魔力効率の悪い代物を長時間展開する負担が、後者はどちらにしろ外界を見通せない性質がネックだ。


 それに──愚かにも喧嘩を吹っ掛けてきた劣等種を相手に、殻に籠って守りに入るのもつまらない。そもそも籠城戦に良い思い出もないのだし、敵は殺すに限る。


 こうなると、多少、いやかなり面倒だが、保護対象の二人を手の届く距離に収めるのが先決だ。

 

 そう思い、再び吹雪の中を歩き始めた直後、また三メートルの制空権に踏み入る気配を察知する。

 先の5メートルの巨躯ではない。身長160センチくらいのヒトガタだ。


 ミナは深々と嘆息し、顔を両腕で隠して吹雪を凌ぎながらという迂闊極まる動きで突っ込んできた従妹の額を、そこそこの威力で爪弾いた。

 ぱちん! と小気味よい音と悲鳴が重なり、エレナが仰向けにひっくり返る。やがて額を押さえながら立ち上がった彼女は、ミナの冷たい目に怯むことなく何事か叫び──風の音に負けて全く聞こえない。


 「……《ブラッドコフィン》」


 ミナの魔術が一つの部屋のような巨大な血の棺を作り出し、エレナとミナを吹雪から隔離する。

 風の音と雪の礫が肌を打つ感覚が消え、俄かに快適になるが──ミナの表情は未だ硬い。

 

 「──から、とにかくボクがリリウムちゃんの方に行く! 姉さまはウォードくんとモニカちゃんをお願い! 守ってあげて!」

 「……まあ、それは構わないけれど」


 エレナに答えながら、ミナの関心は自分の展開した魔術に向いていた。


 流石は気候操作魔術、と言うべきだろうか。

 打ち付ける雪の礫の一つ一つ、風の一撫でさえもが、じわじわと血の棺を削っている。勿論ミナの魔術能力も大概規格外だし、即座に破壊されることはない。精々、展開時間が2割減るくらいだ。


 それ自体は問題ではない。問題になるのは、雪が魔力を持ち、魔術に干渉してくることだ。


 つまり、その全てが


 これは物理的な雪のスクリーンであるだけでなく、魔術的な煙幕でもあるのだ。

 

 「二人は多分、森に入ってるはず! ウォード君はさっきまでモニカちゃんと一緒だったし、吹雪は森の中なら多少マシになるって知ってると思うから! よろしくね!」


 言いたいことだけ言って駆け出していくエレナの背を一瞥し、ミナは魔術を解除して踵を返す。


 別に、言われずとも元々そのつもりだったから、ペットでも非常食でもない人間を守るくらい構わないが──は面倒だ。


 二度、剣戟の音が連続する。

 吹雪の中を異常な速さで動き、ミナの索敵圏を一秒と掛からず走破したノフ=ケーの攻撃を、ミナの双剣が弾いた音だ。


 体長五メートル、体幅二メートルはあろうかという巨躯から繰り出される、剛腕によって挟み潰す二連撃。

 弾いた腕は都合四本のはずだが、初撃の腕二本を全く同時に防ぎ、追撃もそれに倣い、剣戟の音は二つしかなかった。


 しかし、それだけの技を持つミナでさえ、反撃に出る前にノフ=ケーの巨体が索敵圏外に出る。奇襲性が高いだけあって、撤退性能も同等のようだ。


 魔眼で停まるだろうか。

 身体の一部でも視界に入れば『拘束の魔眼』の発動条件は達成だが、呪術に属するだけあって、魔眼の耐性貫通能力はかなり低い。気象操作なんて高度な魔術を使えるなら、魔術耐性も相応に高いだろうし、試すだけ無駄になりそうだ。


 とは考えつつも、一応試してみるつもりでいたミナだが、襲撃はそれ以降一度も無かった。

 吹雪が去らない辺り、まだこちらの様子を窺ってはいるのだろうが、安全圏──ミナの索敵圏外からだ。


 これでは魔眼を試すどころか、具体的な位置さえ分からない。


 警戒しつつ歩を進め、ミナは遂に森の中へと踏み入る。

 確かにエレナの言葉通り、木々が風の流れを変え、枝葉が雪を捕らえ、吹雪が和らいだように感じる。ミナの索敵圏も大きく広がるが、それでも万全とはいかないし、ノフ=ケーも狭い木立の間を泳ぐようにすり抜けて移動している。


 あの巨体でよくもまあ、器用なことだと、ミナは敵ながら感心する。


 広がった索敵圏が捉えたのは、遠巻きに獲物を品定めする肉食獣のような動きをする気配だけでなく、近くの木陰で身を寄せ合って震えている、ひ弱な小動物ニンゲンもだ。


 牽制代わりに殺気を撒き散らしてみるも、森の中を這い回る気配に変化はない。

 天敵知らずのグリズリーでさえひっくり返って逃げ出すような、多少なりとも野性本能を持つ生き物なら恐れずにはいられない濃密な殺気だ。たとえ眠った古龍でも、これを浴びれば目を覚ます。


 しかし気配が警戒に揺らぐこともないとなると、存外に鈍感らしい。

 ミナと打ち合うのは下策だと察する程度には知性があり、しかし気配を察知する能力は低い獣。……妙な感じだ。


 そんなことを考えながら、怯えて震える小動物の方へ向かう。

 人間二人が身を寄せられる程度には頼りがいのある木の陰を覗き込むと、恐怖に満ちた目が二対、ミナを見上げて見開かれた。


 「う、ウィルヘルミナさん……。良かった……」


 ミナの放つ殺気に当てられていたのか、足を震わせながら剣を構えていたウォードがへたり込んだ。

 モニカは木の幹に背を預けて座り込み、すっかり放心状態だ。パーティー内最強と合流できて気が緩んだのか、口がぽかんと開いている。


 「び、びっくりした……。吹雪の中でいきなり出てくる吸血鬼、怖すぎ……」

 「いきなりって、気配は撒き散らしながら──、っ!?」


 来たでしょうに、と、ミナは言おうとした。

 吹雪の音に掻き消される声よりも、ずっと遠くまではっきりと届くシグナルだと。


 種族的に人間離れした感覚を持つ吸血鬼とは違い、ちょっと護身術を習った程度の人間に並の殺気を感じ取ることはできないが、ミナの殺気は並ではない。


 しかし、そんな考えを声に乗せ切る前に、ミナは思わず首を竦めて言葉を切った。

 

 「奴ですか!?」


 弾かれたように振り返ったミナの動きに、ウォードは一瞬遅れで従う。抜いたままだった剣を構えてモニカを庇うが、先に反応したはずのミナは抜剣しておらず、あろうことか踏鞴を踏んで下がった。


 ウォードとモニカは目を瞠る。

 特に、ウォードの方が驚愕は大きい。


 単身で成龍を殺したというウィルヘルミナさんが、怯えた? なんて愕然とするウォードの横で、ミナは思いっきり眉根を寄せて片手で口元を隠し、一言。


 「臭い……」


 気分が悪そうに吐き捨てた。


 「……え? すみません、もう一度お願いします! 奴は何処です!?」


 吹き荒ぶ吹雪の音に攫われた呟きはウォードの耳に届かず、半ば怒鳴るような大声で聞き返す。


 ミナは彼を鬱陶しそうに一瞥すると、「離れていくわ」と答える。

 普通の声量──落ち着いたを通り越してダウナーな声だったのに、ウォードはそれを普通に聞き取ることが出来た。


 気が付くと、吹雪は訪れたときと同じように唐突に弱まっており、すぐに完全に収まった。






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