第425話
「……さっきから気になってたんだけど、それ、その子は何?」
フィリップがテントを出て行ったあと、リリウムはビーカーのお湯をちびちびと啜りながら尋ねる。
両手はしっかりとビーカーを包んでおり、向けられているのは視線だけだが、意図を測りかねる方が難しい問いだ。
視線の先にいたカノンは「私ですか?」なんて惚けたことを言っているが。
「カノンちゃん。ボクもよく知らないんだけど、フィリップ君が拾ってきた魔物……?」
拾ってきた? とリリウムは思いっきり怪訝そうな顔をするが、エレナだって詳しい説明を受けたわけではない。リリウムの処置や吹雪の襲来で、敵意の有無を推し量るくらいの余裕しかなかった。
見た限り、ヒトガタではあるが格闘技術を身に付けている様子はないし、大人しくしている。
手足と翼はかなり異質に映るし、この雪の積もった森で襤褸切れ一枚なのも不自然極まるが、それ以外の部分や立ち居振る舞いは人間と然程変わらない。フィリップが炎を押し付けたときは、思わず「女の子の顔に何してるの!?」なんて怒りそうになったくらいだ。
「なんだか怯えさせてしまったみたいですけれど、私は特にあなたたちに危害を加えるつもりはありませんよ! 一時的とはいえ同道させて貰う身ですからね!」
宣誓するように片手を挙げて言うカノンに、リリウムは「魔物……?」と首を傾げる。
外見はどう見ても人間ではないが、かと言って、一目で魔物だと判別するには人間味がありすぎる。……一見したら人間で、よく見てもエルフな超上位の魔物がパーティーメンバーにいるので、外見情報があまり信用できないことを、彼女は知っているはずなのだけれど。
「同道? 一緒に来るの?」
「はい! フィリップさんが王都まで案内してくれるそうなので!」
「え? なんで……?」
それが嬉しいとか嫌だとか、そんな感情が湧き上がる前に噴出した疑問がリリウムの口を突いて出る。
エレナもそこは引っかかっていた。
あのフィリップが──ルキアやステラや衛士団を何よりも大切に思い、人類領域外の存在を苛烈なほどに警戒するフィリップが、こんな得体の知れない魔物を彼らの傍へ近づけるのは不自然だ。
「確かに会話は成立するし、敵対的でもないみたいだけど……」
「それは多分……」
顎に手を遣って考えるカノンの仕草も、視線を斜め上に彷徨わせるところも、何もかもが人間らしい。
その手は黒っぽい鱗に覆われてガントレットのようなのに、背中では蝙蝠のような翅がぱたぱたと軽く動いているのに、目につく動作や所作が全て人間味を帯びている。
分かりやすい動きを目にしたエレナやリリウムが、“人間”の動きを目にしたと錯覚してしまうほどに──目の前のそれが魔物であるという意識を薄れさせるほどに。
その一挙手一投足が、二人から警戒心を奪っていく。その一挙手一投足を目にするごとに、人間であると錯覚していく。
そして。
「多分、フィリップさんが私のことを好きだからですね!」
その言葉は、二人の警戒心を一旦棚上げするほどの強烈なインパクトがあった。
「……は?」
「えっ!?」
エレナらしからぬ低い声と、色めき立ったリリウムの声が重なる。
エレナは「そんなわけないと思うけど」と胡乱な顔だが、リリウムは不意に降ってきたパーティーメンバーの恋バナに興味津々だった。
「いやあ、私だって人間なんかに好かれたって困っちゃうんですけどね! でも「好きになった」と明言されてしまったからには、流石に自覚くらいはしておかないとフィリップさんが可哀そうですしね!」
仕方ないですねえ、と腕を組んで頷くカノン。
確かにフィリップは「段々好きになってきた」とは言ったし、実際、好きか嫌いかで言えば好きな方だ。まあ、この発言を聞いていたら二度と喋れないように喉を切っておくくらいしそうだが。
神話生物を野放しにして後々衛士たちが見つけたりしたら厄介だし、殺しておこう……と、転ばぬ先の杖的に殺さない程度には好きになった、というだけだ。
そんなことは知らないエレナとリリウムは、片や憂鬱そうに顔を背け、片や大興奮で詰め寄る。
「王都には行かない方が良いんじゃないかなあ……。ルキアちゃんとかステラちゃんとか、絶対怒るし……。お互い以外に負けるのは絶対に許せないってタイプだよ、あの子たち」
「フィリップに口説かれたってこと!? じゃあ一目惚れ!?」
視線を背けたエレナの控えめな制止はリリウムの興奮に掻き消され、いやあどうでしょうね、とカノンは照れたように頭を掻く。
「魔物としては知性があるだけ上位だと思うけど、流石にあの二人には勝てないだろうし、ボクも流石にフィリップくんが魔物と恋仲になるのはなあ……。姉さまだって嫌がりそうだし……」
というか、ペットがソドミストになったりしたら、ミナはあれこれ悩んだ挙句にフィリップを去勢しかねない。
そしてそんなことをすれば、ルキアとステラも黙ってはいない。良くて一撃必殺の神罰術式が炸裂、最悪、王都全域を巻き込む大
悲しいかな、エレナにはそれを止める力が無い。どころか、戦域にいたら巻き込まれて誰にも気付かれないまま死ぬ。
「プレゼントも貰ったんですよ!」
自分の頬を両手で挟むようにしてガスマスクを示したカノンに、リリウムはますます興奮したようにビーカーに残ったお湯を一息に飲み干し、目を輝かせてカノンに更に詰め寄る。
「そのマスクね! プレゼントのセンスはどうかと思うけど、確かに似合ってる!」
リリウムの言葉に、カノンは「えへへ」と照れたように笑う。
口元の動きは見えないが、垂れ目がちな目元が柔らかく細められ、本当に嬉しそうだ。「嬉しそうに笑っている人間」のように、見える。
「えへへ。私は口元を隠すと美人だって、フィリップさんも言ってましたからね! まあ人間の美的感覚なんて……どうしました?」
カノンは言葉を切り、不思議そうに尋ねる。
リリウムは思いっきり眉根を寄せて不愉快そうだし、エレナも「うわあ……」と呆れと苦笑の混じった微妙な表情だ。
「……それ、フィリップに言われたの?」
「フィリップくんが……? いや、言いかねないけど……」
フィリップは意外と他人を褒め慣れている、というか、慣れ過ぎている。
ルキアとステラと、ミナ──正確にはディアボリカのせいで。特に何も考えることなく、平均以上なら「可愛い」とか「綺麗」とか、普通なら照れてしまうような誉め言葉をストレートに口に出せる。
心の奥底で「まあマザーには到底及ばないけど」とか、「ミナはともかく、ルキアと殿下にもまだまだ敵わないけどね」とか、失礼な比較をしていても。
そして確かに、ガスマスクで隠れていない部分、垂れ目がちな双眸は笑うと柔和に細められ、可愛らしくはあるとエレナも思う。
しかし──。
「有り得ない! 口元隠したらとか、失礼過ぎ! カノンさん、それ取って!」
ばたばたと手足を暴れさせるリリウムの言う通り、失礼過ぎる物言いだ。
どれだけ仲良くなってもルキア相手に敬語を使い続け、ステラのことを、敬意も隔意もない渾名のような調子ではあるが「殿下」と呼び続けているフィリップらしくない。基本的な礼儀を、彼は確かに知っているはずだ。
なんてエレナは考えているが、フィリップにとって「礼儀」が適用されるべきは人間と、後は精々その領域内にいるモノ。上位者である吸血鬼や龍、精霊くらいまでだ。
その範疇外である「ミ=ゴの兵器」に、智慧を持つモノに、フィリップは礼儀を尽くす必要性を感じない。むしろその逆ですらある。
「あのクソバカ、帰ってきたら説教──、……えっ?」
ヒートアップしていたリリウムの声が途切れ、殆ど呼気だけのような驚愕が漏れる。
その視線は、彼女の言葉に従ってガスマスクを外したカノンの顔に釘付けになっていた。
顔──顔面部、という意味では、辛うじて“顔”と言える。
人間は人間の顔を、同族の顔を認識する能力に長けている。長け過ぎている。それは人間と同じ顔の造りをもつエルフも同じだ。
そして過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉の通り、人間の顔認識能力は高すぎるあまり正確性に欠ける。点が三つ逆三角形に並んでいるだけで、それを顔であると認識してしまうほどなのだから。
そんな人間の目と脳は、眼前のそれを同族の顔と認識しなかった。ゆっくりとマスクを取ったカノンの顔を。
窮屈で不必要な防毒装備に押し込められていた第一顎を解放し、籠った熱を放出するような熱い吐息が漏れるのは、ほんの僅かに人間のそれに近しい形状の第二顎。生々しい口内粘膜は涎で濡れて妖しく光り、並ぶ牙の鋭さを誇るように見せつけていた。
人間では有り得ない構造。人間では有り得ない表情。人間では有り得ないモノ。
分かっていたはずだった。
眼前のそれが人間ではないことなど、見れば分かり、見て分かっているはずだった。
鱗のあるモノ。
翼のあるモノ。
喜怒哀楽を持ち合わせ、身振りや表情で表現するモノ。
思い出すときに上を向いて、思考するときに俯く癖があるモノ。
垂れ目がちな双眸をふにゃりと細めて笑う、柔和な笑顔が可愛らしいモノ。
それが人間ではないと、外見だけで分かっていたはずなのに──その飛び抜けた異形の部位を目の当たりにして、二人はそれが人外であることに初めて気が付いたような、甚大な衝撃を受けた。
「な、ん……」
「あ、ぇ、えっ……?」
驚きの余り、エレナもリリウムも声を失う。
思わず後ずさりしようとしたリリウムは、動きを妨げる寝袋を慌てて脱ぎ去り、身体の前で抱きしめる。その柔らかで厚い布と羽毛が、眼前の化け物から守ってくれると信じているかのように。
エレナはしばらく呆然としていたが、ゆっくりと開きっぱなしだった自分の口を覆い、昏く淀んだ目を伏せた。
「あれ? どうしました?」
カノンは不思議そうに首を傾げる。
その人間らしい所作が、怪訝そうに細められた目元が、いやに人間らしく。それだけに、目から下の異形がいっそう際立って見えた。
「もしもし? ど、どうしよう、何もしてないのに壊れたー、なんて、フィリップさん信じてくれるかな……」
カノンはあわあわと慌てる。
フィリップ本人は「邪神が近くに居るだけの人間だ」なんて言っていたが、そんなはずはない。外神が顕現しようとして平然としている人間など、いるはずがない。
神官か、それに類するナイアーラトテップかシュブ=ニグラスの寵愛を受けるものだとカノンは睨んでいる。
彼自体はそれほど脅威ではないが、絶対に怒らせるべきではない存在だと。
「うーむ。無実の罪で叱られるくらいなら、ホントに殺して怒られた方が得かなあ……。いやこのヒトたちを殺す必要は別にないんだけど……」
どうせ怒られるなら、やっていないことで理不尽に怒られるより、やって怒られた方がいいのでは?
そんな危うい思考を走らせていたカノンの前で、エレナがすっと視線を上げる。
そして──甲高い金属音が鳴り響いたかと思うと、テントは内側から破裂するように引き裂かれた。
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