第411話
フィリップもウォードも、戦士としてはそれなりに上位だ。
一対一で相手の攻撃を掻い潜りながら会心の一撃を虎視眈々と狙う単騎型と、相手の攻撃を一身に引き受けて防ぎながら後方支援による掃討を待つ騎士型。戦形に差はあれど、相手を斬り伏せる能力は二人とも高い水準で持っている。
相手が化け物とはいえ、背を向けている個体を不意討ちで狙えば、むしろ殺さない方が難しい。
ウォードの直剣、彼が師匠から譲り受けたただの業物はひょろ長い化け物の頸を容易に斬り落とす。
フィリップの龍骸の蛇腹剣、最高級の素材を最高の錬金術師と付与術師が鍛え上げた大業物は、化け物の胴体を逆袈裟に二分割した。
不意討ちは完璧で、残った化け物たちも心なしか驚いたように動きが鈍い。
もう一体ずつ、欲をかいて良いのならもう二体ずつ獲れる。フィリップがそう確信するほど隙だらけだ。
しかし──ウォードは片手で合図を送りながら、追撃を止めて後退した。
流石に単身で敵の只中に突出するほど馬鹿ではないフィリップもすぐに従うが、顔は不満をありありと表している。
「ウォード?」
「反応した奴がいた! 後ろの二匹! 何か……何かされたかも!」
どういうつもりで口にしているのかと言いたくなる不明瞭な警告に、フィリップは眉根を寄せてウォードを一瞥する。
しかしフィリップは気付かなかった──斬り伏せて頽れる死骸がちょうど被っていて見えなかったが、ウォードは化け物の群れの中でも特に異質な存在感のある二匹が、フィリップたちの方へ右掌を差し向けたのを見ていた。
何かの魔術を使われた。
ウォードはそう判断したが、如何せん二人とも魔術適性はゼロだ。一般人と何ら変わりない感知能力しかなく、魔術を使われたことにさえ気付けない。
フィリップも少し考えて意図に気付き、「何か」と呟きながら再びウォードに目を向ける。
彼の身体が内側から炭になったりしたら、流石にもう笑うくらいしか出来ることは無いが──幸いにして、ウォードの身体自体には何の影響も現れていなかった。
その代わり、腰に吊るしたランタンの光が寒々しい色に変わっていた。
先の魔法陣が放った光と同じ、輝いていないのに周囲を照らす奇妙な光だ。
「ウォード、ランタンが」
「っ、フィリップ君、君のも……!」
見遣ると、フィリップのランタンも同じく、その輝きを失っていた。
熱のない炎、眩しくない光は、目で見ているものが本当に正しいものなのかという疑いを抱かせ、足場が不安定になったかのような不安感を催させる。
だが、そんなことはフィリップにはどうでも良かった。
「領域外魔術……。僕やミナに襲い掛かるような低劣な知性しか持たない劣等種が、なんでそんなものを使えるのか……」
蒼褪めた肌のヒトガタ。目に付く異形は顔と、手足の指間に張った水かき。それから全体的にひょろ長いシルエット。
そんな化け物のことを、フィリップは知らない。それが地球産の原生生物なのか、宇宙から飛来した異星生物なのかも分からない。
神威を感じないどころか、野生動物でさえ忌避するフィリップの“臭い”に気付かないような、強くもなければ聡くもない劣等存在の知識を、フィリップは与えられていない。
そんな塵芥、シュブ=ニグラスは認知してさえいないのだから。
「それって生まれつき? それとも、誰かに教わったのかな」
言葉を解するかどうかさえ定かではない明確な化け物を前にして、いきなり話しかけだしたフィリップに、ウォードは思わず一瞬だけ敵から視線を切ってしまう。
幸いにして怪物たちはウォード同様にフィリップを不思議そうに見ていて、明らかな隙を突いてはこなかった。
いや──動けなかった、が正しい。
蒼褪めた肌色からすると不自然なほど赤い血を流す死骸を挟み、不気味な異形を前にして、フィリップはどこか期待感を滲ませて目を輝かせている。剣先は下がり、表情は僅かに緩んで笑みの形を描いている。
それなのに、激甚な殺意と悪意が全身から噴き出ているようだった。フィリップに剣を教える立場であり、未だ立ち合いでは一度たりとも剣を当てられたことのないウォードが怯えるほどに。
それは化け物たちも同じようで、知性を持たない彼らはむしろ、野性由来の警戒心で殺意に敏感だった。
「“啓蒙宣教師会”って知ってる? 答え次第で殺し方が変わるんだけど──」
フィリップはだらりと剣を下げ、一人一人の顔を順番に見るかのように化け物の群れを睥睨する。
その視線が一番近くに居た個体に向いたとき、そいつの内側にあった不意の襲撃者に対する恐怖心は限界を迎えた。
「──!!」
悲鳴なのか雄叫びなのか判断の付かない奇声を上げ、水かきを備えた手の鋭い鉤爪で襲い掛かる化け物。
ひょろ長い貧弱そうな腕だが、あの大穴を登攀するだけの握力と腕力を持っていることは間違いない。
人間の皮膚や血管を引き裂いて致命的な損傷を与えるのに、龍の骸を鍛えた剣なんて必要ない。刃渡り五センチの彫刻用ナイフでだって、人は簡単に殺せる。
そいつの爪は指先から更に三センチくらい伸びて尖っていて、首筋に当てることが出来れば一撃で人を殺せそうな威圧感があった。
……だが、それだけだ。
その攻撃が持つ印象は、「当たったら痛そう」程度のもの。
ミナと相対したときのような絶望感も、エレナと相対した時の底知れない感じも、ウォードやマリーのような堅実な技術も、何も感じない。
そんなのは、棒を振り回す子供と同じだ。
素手で傷つけないように制圧するのは難しいが──戦闘技術を身に付け、圧倒的格上との戦闘に慣れ、殺傷武器で武装し、端から「制圧しよう」なんて考えを持っていない殺意を剥き出しにした人間を相手取るには、流石に役者不足が過ぎる。
エレナに文字通り叩き込まれた対徒手の動きを、フィリップの身体が勝手に再現する。
後ろに下がって間合いを外しつつ切り上げで手首を、返しで肘を斬り落とす。腕の無くなった防御の甘い方へ回り込み、心臓と肺を一息に切り裂く。
外皮、筋肉、肋骨──そんなもの、錬金金属に付与魔術をかけた全身鎧でさえ紙のように切り裂く龍骸の剣の前には、何の防御にもならない。
完璧な角度で刃が入り、完璧な方向に力を受けた刃は、使い手に一切の抵抗を感じさせずに怪物の胴体を横一文字に裁断した。
あまりの手応えの薄さは、まさか外したのかと一瞬戸惑ってしまうほどだ。弧を描いて飛び散る赤い雫を見ていなければの話だが。
フィリップは剣を空振りして血を払い、断末魔さえ上げずに絶命した青白い骸を気色悪そうに見下ろす。
「なに? なんか怒ってる? ……あぁ! そりゃそうだ! さっき不意討ちで一匹ブチ殺したもんね! あははは!」
また剣を下げ、身体を揺らして笑うフィリップ。
一連の動きを見ていたウォードは「なるほど」と内心納得している。フィリップは奴らに一定の知性と感情を見出し、煽ることで平静を失わせ、数的不利を少しでも緩和しようとしているのだと思って。
「で、質問には答えてくれるの? 元は人間だったんだし分かるでしょ、人語」
早く言えよ、とばかり顎をしゃくるフィリップ。
相手が人間と同等の知能を持っているのなら、苛立ちか、或いは「こいつは状況を分かっているのか?」という疑問を表情に乗せそうな態度だ。尤も、サナダムシのような顔に浮かぶ表情を読み解くのは、フィリップにもウォードにも難しいけれど。
まるで答えるかのように、一匹が口を開いたのはウォードにとって驚きだった。
意思の疎通が出来るのかと思ったのも束の間、耳障りないびきのような音を聞いて落胆することになったのだが。
「あー……なるほど。その口じゃあ喋れないか。じゃ、イエスかノーかで──おっと」
会話を試みたヤツとは別の個体が、またフィリップに襲い掛かる。
それは嫌に人間味のある、心の内に溜め込んだ恐怖の感情が閾値を超えて爆発したような動きだった。
動作は緊張がそのまま動きに転化したようにガチガチに硬く、精彩を欠くどころか、意思と動きにズレがあるような、ついブレーキをかけているような思い切りの無さだ。
ウォードからすると、剣を始めたばかりの素人が他人を傷つけることを無意識に避けているときのような、戦闘以前の話だと思える動き。
フィリップには覚えのない、見たことも無いような鈍臭い動き。
殺すのに何の苦もない、的みたいな動きだ。
「顔が気色悪すぎるなあ……。中途半端に人間味を残してるからかな」
斬り落とした首が地面に落ちる前に切っ先に突き刺し、赤い血を垂れ流す球体を不機嫌そうに見つめるフィリップ。
ミナは斬り落とした巻き藁を地面に落ちるまでに四度斬れる速さで手を返せと彼に教えていたが、今のフィリップにはこれが限界だった。
そんな訓練中にやる遊びが出るほどの緊張感の無さは、この場における力関係を端的に示している。
怪物は残り三匹で、そのうち冷静っぽいのは、先ほど魔術を使ってきた異質な存在感のある二匹だけ。
そして、すぐに残りはその二匹だけになった。
そりゃあそうだ。武装こそフィリップが勝るが、剣技では圧倒的に負けている。フィリップはウォードに刃を掠めることさえ出来はしないのだから。
「さて、残りは君たちだけなんだけど……」
「フィリップ君、もう遊びは無しだよ。……こいつらは別格だ」
残るは二匹。
こいつらが、恐らく純正なのだろう。
ウォードの言う通り、他の個体とは存在感が違う。神威はないし誤差みたいなものだが、棒を振り回している田舎の子供と、町の門番くらいの差はある。
こいつらが子供を攫い、変性させ、同族を増やしていた
……“宣教師会”の影はない。どうやら、ただ単純に人間を変性させて繁殖する、ただの領域外存在らしい。
「つまんないなぁ……」
フィリップは心底面倒臭いというように呟く。
斬り殺した死骸から流れ出す血溜まりがじわじわと広がり、フィリップはブーツが汚れる前に気色悪そうに数歩下がる。
それだけの動作でさえ億劫だ。
こいつらがカルトに由来するものであったのなら、フィリップは憎悪によって悪意と害意を向けただろう。
只人に智慧を与え、譫妄に憑りつかれたカルトではなく正しく蒙を啓いた求道者へと導く「カルトを教導するカルト」、“啓蒙宣教師会”が絡んでいたのなら、より苛烈に。
さっきまではその疑いがあったから、少しばかりテンションが上がっていたが──それだけに、違うと分かった時の落差が大きかった。
「カルト絡みじゃないなら、別に、お前たちを僕が殺す理由はないわけなんだけど……。いや、その不細工な顔面をルキアや殿下に見せられても困るから、ここで駆除するのは変わらないんだけどね? 要は何が言いたいかっていうと、「勝手に死んでくれない?」ってこと。どうかな?」
眼前の化け物は駆除すべき不快害虫だが──虫の翅と肢を捥ぎ水に落として殺すような、無惨な死を押し付けるべき相手ではない。
弄んで殺す必要はない。薬剤を撒くとか、殺虫剤入りの団子を置いておくとか、効率を求めて駆逐すればいいだけの、ただの虫。隣にウォードが、上層にモニカたちがいなければ、さっさと邪神を呼んで丸投げしているところだ。
「自殺するのが怖いなら殺し合ってもいいよ。まあ残った方は殺さなくちゃいけないけど、二匹より一匹の方が、勿論楽だしね」
くるくると剣を回して弄びながら、フィリップはぞんざいに告げる。
外神の智慧は反応せず、フィリップがロングソードで遊び半分に殺せる。そんな面白くも無ければ訓練相手にもならないような存在価値のない相手に、これ以上時間も労力も使いたくないと言いたげに。
しかし──。
「馬鹿、油断しすぎだ!」
叱責が飛ぶ。
瞬きの後にはウォードはフィリップの目の前にいて、振り抜いた剣が跳躍しようとした化け物を完璧なタイミングで牽制していた。
剣も構えずぼさっと突っ立っていたフィリップでは防げず、回避を強いられていた──避けられないことはなかっただろう。だが、ウォードとフィリップと化け物二匹の二対二ではなく、一対一を二つ、或いは二対一の状況に持ち込まれていた。
怒声の通り、フィリップは油断しすぎていた。
ウォードはさっきから「別格だ」と言っていたし、フィリップだって、オリジナルと変異した人間では大人と子供くらいの差はあると感じていたのだ。
虚を突いて攻撃してくることくらい、警戒しておくべきだった。
……一般的な理屈の上ではそうなのだが、フィリップに「一般的な理屈」は通用しない。
「フィリップ君、こいつらは挑発が効く相手じゃない。ちゃんと戦ってちゃんと倒さなきゃ、こっちがやられるよ」
フィリップが“敵”と認識できる範囲は限られている。
まず、人体が勝手に恐れる、本能的恐怖を抱く相手。単純に自分よりずっと大きい生き物とか、蛇や蜂や肉食獣に似ているとか、遺伝子が刺激されるような相手のことは警戒できる。
それから勿論、智慧が警告を発する相手。
例えばショゴスや、アイホートの雛、シュブ=ニグラスの落とし仔、クトゥルフの兵など。シュブ=ニグラスが「人間を殺せる」と判断して、愛し子に注意を促す相手。
しかし、ここにはある致命的な不具合がある。
フィリップ自身は智慧を持ち、外神のことを殆ど完璧に知っている。理解や納得は別として、知識としては確かにある。
三次元存在が外神に抗うことの愚かしさも無意味さも、その不可能性も十分に分かっている。彼らから見た三次元存在は、文字や絵のようなもの。自由に書き換えられて、簡単に消し去れて、その気になればキャンバスや用紙を破り捨てることだってできる。そんな程度のもの。
その智慧があるが故に──他の智慧あるモノもまた、フィリップと同じくらい物分かりがいいはずだと思っている。
その考えは一部正しい。
ハスターやクトゥグアくらい強大になると、物事が正しく見えるようになる。外神の強さ、圧倒的格差、そしてフィリップの異常性。アザトース──この世界を夢見る盲目であり白痴のモノが、知覚し認知し思考し指向したことの異常性。
そういうことを理解している相手は、フィリップには逆らわないし、外神には楯突かない。そんな無意味な終わりを迎えるほど愚かではない。
しかし、だ。
「最上級の智慧を持つハスターとクトゥグアはフィリップに敵対しない」という二つの例から、「智慧を持つものはフィリップに敵対しない」という法則へ帰納するのは、流石に強弁が過ぎる。
かつてシュブ=ニグラスの落とし仔がフィリップを生贄に母の恩寵を受けようとしたように、かつてクトゥルフの兵が役目通りにフィリップを殺そうとしたように、反例は出揃っている。アイホートなんか、フィリップを外神の尖兵であると思っていたくらいだ。
「智慧があるものは僕に従うはず」というのは、フィリップのただの勘違いに過ぎない。
尤も、無意識の根底に「天地万物は僕に従うものである」なんて認識があっては、表層意識でそんな勘違いをしてしまうのも無理はないかもしれないけれど。
「……了解です」
ウォードに言われて漸く、フィリップの目がすっと据わり、魔物の群れを相手にしていた時のように敵全体を見る目になる。
フィリップが敵を正しく敵と認識するもう一つの条件は、「敵であると意識すること」。
相手が魔物でも、模擬剣を持った訓練相手でも、今にも殴り掛かってきそうなチンピラでも、客観的に見て戦うべき状況だと判断すれば、脳内のスイッチが切り替わる。
誰かに言われた、同行者が戦おうとしている、先制攻撃された。そういう理由があって、その段階に至るまでは、フィリップの世界に“敵”はいない。
非武装で暗い路地裏を歩いていたら絡まれるかもしれないとか、ジャケットの前を閉めず懐中時計のチェーンを見せびらかしていたら盗まれるかもしれないとか、そんな一般常識的な危機感でさえ持ち合わせない。
しかし、一度敵と認識すれば、フィリップはその優れた攻撃性能を遺憾なく発揮する。
「ウォード、僕に合わせられますよね」
「はは……勿論!」
じゃらら、と鎖の擦れる音を立てて、龍骸の蛇腹剣がだらりと垂れ下がる。
フィリップの武器や戦技は一般的な騎士のまるで違う、連携や耐久を端から視野に入れていない独りよがりのものだ。
だが、そもそもフィリップに戦闘の基本を教えたのはウォードだ。そして二週間ほどだけではあるが、フィリップがどんな訓練をするべきか一緒に考えて、実際に試してみて、更には同じ師に教授された。師であり、同輩であり、戦友だ。
フィリップのフォローには慣れている。
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