第410話

 フィリップたちはウォードを先頭に、リリウムを挟んでフィリップが殿を務める縦列陣形で洞窟の中を進み始めた。

 本当はフィリップが先導したかったのだが、暗闇からいきなり襲われた場合に後ろを守れるのはウォードだ。というかフィリップの戦形や訓練内容だと、咄嗟に避ける可能性の方が高い。


 予備のランタンを水溜まりの近くに置いてきたものの、穴の上までは照らせなかったから、上から見たときに目印になってくれるかは疑問だ。


 水溜まりの傍から伸びていた横穴は途中で何度か曲がったり、坂を上下したものの、概ねは先ほどフィリップたちのいた村の廃井戸方面へ伸びているようだった。


 「……なんか、臭いね」


 ぽつりと呟いたリリウムの言葉通り、横穴を進むにつれて空気に臭いが付き始める。

 少しだけ鼻を突く、どことなく酸っぱいミルクのような臭いだ。


 「確かに変な臭いはするけど、予想とは違うな。もっとこう……腐臭がするものかと思ってた」


 なんで? と首を傾げたリリウムとは違い、フィリップは薄い笑みを浮かべる。


 「食べ残さないタイプなんでしょう。蛇みたいに丸呑みするのかも。……まあ、そいつらが子供たちを殺さなかった理由が「食べるため」とは限らないわけですけど」


 ウォードは曖昧に笑ってごまかそうとしたが、その気遣いをフィリップが無為に帰す。

 の臭いを予期していたのだと分かったリリウムは顔を顰めたが、特に怯えたりはしなかった。


 「それ以外に何か理由ある? 身代金目的に誘拐するって感じじゃなさそうだけど」


 肩を竦めたウォードの言葉は冗談だったが、そうならいいと思える希望でもあった。

 身代金が目的なら、子供たちはまだ死んでいない可能性が高いし、知性と「交渉」「交換」の概念を持ち合わせた相手ということになる。


 少なくとも「殺す」という行動基準が「食う」に置き換わっただけの、魔物の変異種よりは話が通じるだろう。


 「さあ? 案外、人間と仲良くしたくてを調べてるのかも」

 「だったら最悪だね。とても仲良くはなれそうにない」


 最悪──ではない、それは。

 フィリップが想定する最悪のケースは、子供たちが邪神降臨の贄にされている、というものだ。


 勿論、あの魔物モドキが降臨儀式を行うほどの智慧を持っているとは限らないけれど──フィリップが知る数少ない儀式の術法の中には、子供を使うものがある。あれも、そういえば地下空間で執り行う儀式だった。


 即ち、ヨグ=ソトースとの交信儀式。

 まあ、あのナントカというカルトは衛士団の目を盗んで王都内で活動する程度には肝が据わっていて、かつ支配魔術の使える優れた魔術師に牽引された、中々に上等な集団ではあった。


 ここの魔物モドキが「フィリップより多少マシ」程度の魔術能力しかないのなら、あのカルト共の方が高度な儀式が出来ることになる。ヨグ=ソトースなんて外神の中でも指折りの化け物を呼び出せるかどうかは未知数だ。


 そのままでは──独力による求道では出来なさそうだが、魔導書や、“宣教師”の教えを受ければどうとでもなるだろう。


 外神である以上、出てきたところでフィリップと敵対することはないだろうけれど──それは相手がヨグ=ソトースだった場合だ。普通に外神と敵対している旧支配者や、特に敵でも味方でもないが顕現しただけで星一個がグズグズに腐敗して壊れるような邪神が出てくると困る。


 「新種の魔物だったとしても、変に色気出して生け捕りにしようなんて思わないでくださいね、二人とも」

 「捕まえたくもないわよ、あんなの──あいたっ」

 「おっと。ウォード?」


 不意に立ち止まったウォードの鞄にぶつかったリリウムが声を上げ、フィリップは巻き込まれる前に立ち止まれた。

 陥没穴を見つけたときには「全隊停止」と合図していたウォードだ。今のは意図した停止ではなく、立ち竦んだのだと二人にも分かった。


 ウォードが釘付けになったのはどうやら進む先の壁のようで、リリウムとフィリップは身体を傾けて覗く。

 軍学校卒業生さえ立ち竦ませる光景を目の当たりにして、リリウムはひゅっと息を呑んだ。


 ランタンが温かなオレンジ色の光で照らしたのは、壁のみならず天井部までにもびっしりと書かれた記号の羅列だった。

 茶色い塗料──いや、きっと血文字なのだろう。垂れた跡、滴った後まで残っている。


 「……これ、人間の血だと思う?」

 「どうでしょう。あいつらの血も結構赤かったですけど」


 衝撃から回復したウォードの恐々とした呟きに、フィリップは「気色悪いなあ」という顔に似合わず平然と答える。


 意外と血やスプラッターは平気なのか、リリウムもすぐに硬直から復帰して顔を顰めた。


 「血ってだけで嫌よ」

 「あはは、確かに」


 ウォードの横をすり抜け、ランタンを掲げて血文字を検分していたフィリップが笑う。


 リリウムは単に「血が嫌」という意図だったが、魔物だってまさか威圧が目的ではないだろうし、人間の血をインク代わりにしているなら、そこには何か意味がある。

 それが魔術的な必要性によるものならまだマシで、「血は水と違って色が付いているから描画に使えるぞ!」みたいな理由だったら知能の方が心配だし、これが同族の血だったら野蛮過ぎる。


 だが……どうやら最低限度の知性はあるようだ。


 「……どうしよう。戻る? ……フィリップ君?」


 これは、本当にだ。

 血で書かれた、文字──体系化された言語に基づいた、文字だ。


 邪悪言語と大陸共通語とフィリップも知らない記号が入り混じっていて、読解することは出来ない。だが何かの意味を持った羅列のはずだ。まあ50音表のような、「無意味な意味」である可能性もあるけれど。


 「……ここ、王都から馬車で半日くらいでしたよね」


 フィリップは深々と嘆息する。


 独自の言語体系──それも恐らく邪悪言語を母体とする言語──を持つレベルの知性を有する何かが、そんな身近に蠢いているのは気分が悪い。ずっとこの洞窟から出て来ないのだとしても。

 そしてもしも王都に出てくるようなことがあったら、フィリップはここで駆除しておかなかったことを後悔するだろう。


 「二人とも、家族は王都に?」

 「……うん」

 「えぇ」


 聞いてから「そういえばそうだった」とフィリップも思い出す。

 ウォードの実家は宿屋タベールナからそう遠くないところにあって、以前にフィリップがヤマンソの制御をしくじって周囲一帯ごと吹き飛ばしたのだ。


 リリウムとウォードは家が近所だったと言っていたし、そりゃあ二人とも家族は王都にいるだろう。なんて、フィリップ特に罪悪感を想起されることもなく淡々と考える。


 「僕の家族は王都にはいませんけど、あいつらの気色の悪い顔面を見せたくない人が沢山います。二人が戻りたいなら止めはしませんけど、僕は進みます」


 最早、懐中時計を壊されそうになった恨みがどうこう言っていられない。

 王都から数十キロ離れた地とはいえ、馬車を使えば半日だ。


 対岸の火事、ではある。


 だが対岸の火事が火災旋風となって川を渡り、我が家の庭先にやってくる可能性は摘まなければならない。

 あの魔物モドキが地上には出て来ず、地下を掘って移動しないという確証を得るか、ここで殲滅するか。


 「……そうだね。魔物じゃないってことは、繁殖する可能性があるってことだ」


 確かに、さっきミナが殺した魔物は男性器状の器官を持っていた。つまり、生殖器を。

 胎生なのか卵生なのかは不明だが、雌雄を持ち交配によって繁殖すると考えられる。


 地下で脈々と繁殖した奴らが地下を埋め尽くし、ある日遂に決壊して地上へ溢れ出す──なんて地獄絵図は避けなくてはならない。

 まあ、寿命も繁殖力も全く不明だし、これまでにこんな魔物が大繁殖したなんて話は聞いたことがないので、案外放っておいても大丈夫かもしれないけれど。


 そんなことを考えながら、血文字の書かれた壁に触れないよう気を付けつつ先に進む。

 四方八方の血痕は嫌な威圧感を放っていたが、ウォードは努めて前だけを見つめ、フィリップとリリウムは気色悪そうに身体を縮めてその後に続く。そして暫く歩いたとき、ウォードがまたぴたりと立ち止まった。


 「っ! フィリップ君、これ……!」


 ウォードは足元に落ちていた何かを、剣を使ってフィリップの方に転がす。


 それは王都外では一般的な、皮と草紐をそれっぽく丸めただけの粗悪な靴だった。

 サイズはフィリップでも履けないくらいに小さく、血の染みがついている。


 「靴……?」

 「……服を集めてるオシャレさんだったりしないかな? 子供たちを殺さなかった理由」

 「じゃあは返して欲しいし、人前に出る時にはドレスコードを気にしてほしいですね」


 まあ、靴に「中身」が入っていなかっただけ良かったとも考えられるけれど。


 「二人とも余裕ね?」


 なんて、呆れ顔のリリウムは嘆息するが、そうではない。

 

 二人とも、自分が獣を狩って食べるときに毛皮を剥ぐことを思い出してしまい、現実逃避をしているだけだ。

 厚い毛皮や気候に応じた換毛能力を持たない人間の“毛皮”とは、即ち衣服。布や皮革まで食うような悪食でなければ、野生の獣だって着衣は引き裂いて中身を食べる。


 この靴はきっとに違いないと二人は睨んでいた。


 食うタイプか、と二人が顔を見合わせた、その時だった。


 「うわぁぁぁぁっ!」


 甲高い子供の悲鳴が、洞窟の冷えた空気を切り裂く。

 音源はフィリップたちが目指していた方向のようだが、かなり反響して具体的な距離は分からなかった。


 そして、悲鳴はそれほど長くなく、二呼吸ほどで終わる。

 助けを求めることも無く、赦しを乞うことも無く、ただ只管に絶叫するだけの悲鳴は、そのどちらにも意味がないと悟った者に特有のものだ。


 「……滅茶苦茶嫌なものを聞いた気がする」


 血文字がびっしりと並ぶ天井を見上げて顔を覆うフィリップ。

 何かが液状化してぶちまけられたような音が聞こえはしないかと耳を澄ませてみたものの、自分も悲鳴を上げないよう口元を覆ったリリウムの荒い呼吸音以外は何も聞こえなかった。


 「……行くしかないよね。子供たちが捕まってる可能性だってあるし」

 「確率的にどうかは知りませんけど、擬態とか囮である可能性の方が高くないですか?」

 「そうだね……。けど、子供たちがまだ生きてる可能性が少しでもあるなら行くしかない。でしょ?」


 やだなあ、と明記された顔のウォード。

 自分の実力を正確に把握している彼は、「罠なら踏み潰せばいい」なんて雑な考えは抱かない。罠は避け、強敵は迂回し、どうしても戦わなければならないのなら、まず情報を集めるべき。そんな思想を持っている。


 だが──“どうしても戦わなければならない”状況だろう、これは。

 「子供が助けを求めていたけど、敵が正体不明で怖かったので逃げ帰りました」なんて、師匠に言ったら次の瞬間には金玉が斬り落とされている。それが玉無し野郎に相応しい恰好だと踏みつけられる様が目に浮かぶ。


 何より──衛士団なら、ここで背を向けて逃げたりなんて、絶対にしない。


 腰に佩いた剣の鞘を握りしめ、思考を回して何とか覚悟を決めようとするウォードに、フィリップは陶然とした笑顔を浮かべた。


 「……いい表情かおしますね、ウォード」

 「男同士でイチャついてないで、急ぐわよ!」


 リリウムに急かされるまでも無く、覚悟を決めたウォードと、端から「殺すか、見逃すか」という立ち位置にいるフィリップは出来る限り足音を殺して走り出す。


 慌てて二人の後ろに続くリリウムだが、斥候の訓練を受けたウォードと、日々死ぬほど走りにくい姿勢で走るために身体操作の訓練をしているフィリップに比べると、彼女はやはり鈍臭い。

 明らかに靴の音が洞窟内に反響していたが、しかし、通路の最奥部らしき広い空間に到着するまで、虫の一匹にさえ出会わなかった。


 最奥部は直径30メートルほどの広いホールで、地面がすり鉢状に陥没している。

 その壁面にも、ごつごつした壁にも、天井から垂れ下がった鍾乳石にさえも、びっしりと血文字が刻まれている。そして空間の中央、すり鉢の底の部分には、まだ鮮やかに赤い血で描かれた魔法陣が描かれていた。


 ホールに踏み込む前に通路の壁に身を寄せて様子を窺っていたフィリップたちは、ウォードの合図で姿勢を下げて膝を突いた。


 迂闊に突撃するべきではないと、空間そのものが本能へ訴えかける。

 勇気を、決意を、覚悟を、挫きにかかる。


 そして、中央の魔法陣を取り囲むヒトガタが、七つ。どいつもこいつも見分けのつかない、サナダムシのような顔だ。

 奴らは等間隔に並び、ひょろりと長い手を取り合って輪になっている。ヌタウナギのような口では当然のことだが、ブツブツと漏れる声は明らかに人間のものではない。


 その呟きは魔術儀式の呪文のようで、呼応した魔法陣が赤く輝き、空間を照らし出す。

 フィリップたちがランタンの光では到底照らし出せない空間の全容を把握できたのは、その光のおかげだ。


 物理的に発光しているわけではないのか、広い空間をはっきりと照らし出すほどの光量でありながら、フィリップたちは全く眩しいと感じない。

 しかしそれは、あまり嬉しいことではなかった。その所為で、奴らがどういう儀式を行っているのかを明確に見てしまったのだから。


 光っていない光に照らされ、魔法陣の上に寝かされていた、フィリップより更に年下の少年を見つける。


 服は着ておらず、目も虚ろで生気がないが、目立った外傷はない。

 それは何も知らなければ生贄に捧げられているように見えて、ウォードは即座に剣を抜いて突撃しようと腰を上げた。


 しかし、フィリップはそれを避けるために、既にウォードの服を掴んでいた。


 「惨く死にたくないなら止まってください、ウォード」


 フィリップの魔術能力は下の下。

 魔術発動を見て魔術の内容を見極めるどころか、そもそも魔力を見ることだって出来はしない。


 だが──


 魔法陣とは魔術の内容が克明に記された、いわば物理的に記述された魔術式。

 暗算ではできない高度な計算を紙に書いて整理するようなものだ。そこには魔術に必要な全ての要素と情報が明記されている。


 それが人類領域外の化け物たちが、より高次の存在と交信するために作り上げた別言語であっても──いや、だからこそ、か。

 現代魔術の魔術文字や文法に則って記述されたものであったなら、フィリップが一目で理解するのは不可能だ。まあこれでも魔術学院のAクラス卒業生、それも壊滅的な実践分野を理論分野で補ってきたレアケース。紙と辞書と時間があれば解読できるかもしれない。


 だが、邪悪言語であるのなら、フィリップはほぼネイティブレベルだ。


 この魔術がどういう作用を持ち、どういう結果を目的とし、どういう力を利用するものなのか。全て、そこに書いてある。


 「ねえ、あれ……!」


 リリウムが震える指で示す先では、魔術行使が完了し、その結果が現れ始めていた。


 魔法陣が蠢き、顔のない杭の頭を持った蛇が鎌首をもたげる。

 蛇の数は七。取り囲むヒトガタの足元が尾となるそれの正体は、奴らの血液だ。


 そして──蛇は次々に少年の身体に頭を突き立て、皮膚の内へ、肉の内へ、骨の内へと入っていく。

 ぼこぼこと聞くに堪えない音を上げながら、少年の身体は蠢き、隆起し、蠕動する。田舎の子供にありがちな瘦せ型だった少年の身体は、一時は爆発寸前の水死体のように膨れ上がってさえいた。


 しかし、血の蛇は彼を傷つけてはいないようで、血の一滴も零れないどころか、少年は悲鳴さえ上げなかった。


 フィリップは咄嗟にリリウムの口を覆ったが、本当に覆うべきは目元だったかもしれない。


 惨劇が終わり、少年が立ち上がる。

 彼は痩せ型の体形に戻っていたが、決して元通りなどではなかった。


 肌は蒼褪め、手足は体格に不釣り合いなほどひょろ長い。指の隙間にはカエルのように発達した水かきがあり、自分の身体を見下ろす顔はサナダムシのように変形していた。


 「元は人間だったってこと……!?」


 目に涙を浮かべたリリウムが押し殺した声で呟く。

 眼前の光景への恐怖か、或いは、既にそれらを二体ばかり殺したことを思い出したのか、声だけでなく体までもが小刻みに震えていた。


 しかし──怯える少女を慰めている余裕はない。今無くなった。


 あれを称する言葉は魔物モドキか人間モドキかは不明だが、子供を攫って変性させる時点で碌な存在ではない。幸い、同族同士の生殖ではなく儀式での変異による増殖なら、無尽蔵に増えることはないだろう。


 「でも今は人間じゃない」

 「でもあいつらは「敵」だ」


 フィリップとウォードは声を重ね、鞘走りの音を重ね、そして視線を重ねてニヤリと笑う。


 二人の心情は一致している。

 即ち──こいつらは、ここで駆除しておかなければならないと。


 「流石は実戦経験者、“龍狩りの英雄”」

 「ウォードこそ、いい割り切り方です。流石は僕の師匠。パーカーさんはここで隠れててくださいね」

 

 そして、二人は同時に突撃した。





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