第385話

 横一線の刀傷に、重要臓器のあるだろう複数個所の刺傷。

 流れ出る血はとめどなく、土を赤黒く染めていく。その流量さえ徐々に減っているところを見るに、保ってあと五分くらいか。


 浅く細い呼吸を繰り返す蛇人間を見下ろして、フィリップは淡々と問いを投げる。


 「『啓蒙宣教師会』を知ってる? 知らないなら質問はここで終わりにして、慈悲の一撃をあげよう。君がその一員だっていうなら、惨く殺す……と言いたいところだけど、その身体じゃ苦悶の声も出せないか」


 どうせ『深淵の息』はレジストされるだろうし、手足の先から切り刻むとか、原始的な拷問に頼ることになるけれど──どう見ても勝手に死ぬ身体だ。死に体だ。


 苦しみから逃れたい一心でどんな嘘でも吐くだろう有様だが、フィリップを欺くことはないだろう。

 『宣教師会』と無関係なら、真実をそのまま述べれば慈悲の一撃が得られる。だが関係者なら、『魔王の寵児』を前に嘘を吐くことはしない。


 本当のところはどうか知らないが、フィリップは少なくとも前回の邂逅を経て、彼らをそういう集団だと理解していた。

 ことを為す前であれば、或いはフィリップを欺き騙して“作品”を作り上げるかもしれないけれど、失敗した後でなら、潔く首を垂れる手合いだと。


 果たして、蛇人間は爬虫類の顔で薄く笑みを浮かべた。

 

 「私はその末席……拝謁すら許されなかった末端でございます」


 あの場にはいなかった構成員。

 言葉通り、組織の末端なのだろう。


 末端でさえ人類領域外の存在であることを重く受け止めるなら、中枢には神格がいてもおかしくないのが怖いところだ。

 一番怖いのは、ほぼ確実にナイアーラトテップが無関係なこと。カルトを利用したり扇動したりする可能性はあるが、内側に入り込んだり、自ら意図して作り出すはずがない。


 それはフィリップの逆鱗に触れる。


 「そうか。……残念だよ。もう少し苦しめて殺したかった」

 「私も……もっと、貴方様と……話が……」


 本当に心の底から残念そうに言って、巨大な爬虫類は事切れた。

 「蛇人間にもう一度繁栄を……!」みたいなことを言って死んでくれたら、次に出会った同族を凄惨に殺せば鬱憤も晴れそうなものを。


 フィリップはつまらないとでも言いたげな軽い嘆息を最後に、完全に興味を失った。

 そしてエレナとミナの方を振り返り──二人とも、そこには居なかった。


 「……あれ?」


 きょろきょろと辺りを見回すと、戦闘の収束を察知した村人たちがちらほらと顔を見せ始めていた。


 「あ、あのー……もう大丈夫なんでしょうか……?」


 おっかなびっくり声をかけてくるのは村長だ。

 彼の目に浮かぶ怯えの宛先は血溜まりの中に立つフィリップか、或いは血溜まりそのものか。


 「あ、はい。もう大丈夫ですよ。……あの、僕の連れ二人、見ませんでしたか?」

 「あぁ、さっきリールんちの方で見たぞ。……こいつ、なんなんだ?」


 やはり村の中で一番慣れているのだろう狩人が、フィリップの少し後ろからおっかなびっくり死骸を覗き込む。

 大人の人間よりさらに一回りくらい大きい爬虫類なんて見たこともないだろうが、もう死んでいることを抜きにしても、熊の方が大きいし怖い。


 「……物凄く珍しい魔物ですよ。死体は消滅しないので、適当に埋めておいてください」


 快諾……ではなかったものの、蒼白な顔で「任せてくれ」と頷いた狩人に処理を任せてリール家に戻る。


 玄関を開けると、家の中には妙な空気が漂っていた。

 エレナはリール家の人たちとベッドサイドに集まって何事か話しているようだが、明らかに意気消沈している。部屋の空気は重く淀んで濁っており、妙、というか、異様と言ってもいい。


 祭りが終わったら村を出て王都に戻る予定だったから荷造りは終えていたはずだが、エレナの荷物が解かれて荒れている。


 ミナだけがいつもどおり退屈そうに、フィリップのリュックを椅子代わりに腰掛けて欠伸など漏らしていた。


 「……なにこの空気?」

 「あの人間が死んだそうよ」


 へぇ、と適当な相槌を打ちかけたフィリップだったが、流石に聞き捨てならなかった。

 

 「へぇ……え? 死んだ?」


 死んだと聞いて、フィリップはミナの言う「あの人間」がリール氏だと思った。

 毒蛇に咬まれ、誤った民間療法で傷口を抉り焼かれて、エルフの薬を以てしても治療の甲斐なく死ぬ可能性が残る状態だったのだから。それに、今日までこの村に残っていた理由は、収穫祭ばかりではない。


 治療したリール氏の予後観察、合併症や拒否反応が出ないかを見るために二日間の滞在を決めたのだ。

 だから彼が死んだというのなら、驚きはあるが納得は出来る。


 しかし、リール氏はエレナの傍に立っていた。

 今一つ状況が呑み込めず、エレナの脇からベッドの中を覗き込む。


 横たえられた人物と視線が合うことはない。

 閉じられた瞼を見る前に、真っ先に目に付いたのは、一部が血で汚れた亜麻色の髪だった。


 「……テレーズ……!?」


 目を瞠る。

 二晩を同じ屋根の下で過ごしたとはいえ、寝顔を見たこともない少女が、まだ血色の残る穏やかな顔で眠っている。


 タオルケットをかけられた薄い胸は、目を見開いたフィリップの前で一度も上下しなかった。


 「……な、なんで?」


 あまりにも脈絡のない展開に、流石のフィリップも大いに混乱する。

 だって、テレーズのことは守ったはずだ。ヴーアミ族の司祭が現れた後、背に庇い、駆け付けた両親に預け、他の村人たちと一緒にそれぞれの家に隠れさせた。


 『ヨグ=ソトースのこぶし』を喰らったのも、ツァトゥグアが手を伸ばしてきたのも、戦闘になったのも、全部その後の事だ。


 フィリップが問いかけた先はエレナだったが、歯を食いしばり、俯いてただ涙を流す彼女は答えられる状況ではなかった。

 しかもフィリップの問いが堰を切ったように、リール氏も夫人もベッドに顔を伏せて本格的に泣き出してしまった。


 眉尻を下げたフィリップの視線を受けたミナは肩を竦めて「知らないわよ」と言外に示す。まあ、そうだろう。人間が一匹死んだからといって、ミナが興味を持つとは思えない。


 フィリップが深々と嘆息すると、リール氏が啜り泣きながら顔を上げた。


 「わ、私、私のせいなんです……」


 続けて、と視線で促すと、リール氏は時折しゃくりあげながらも訥々と語り出した。


 エレナに言われて家に戻る途中、リール氏はずっとテレーズの手を握っていたそうだ。その行為自体に意味はなく、テレーズを守らなければとだけ考えて。

 しかし村人たちが一斉に家に戻ろうとすれば、それなりに人波の交差が生まれる。そこかしこで誰かと誰かがぶつかって、死ぬほど急いでいる者同士、お互いの安否を確認する余裕もなく足早にその場を去っていく。


 普段から農作業に従事している屈強な──女性や老人でもそれなりに体力のある人間が多い村だけあって、ぶつかるくらいどうってことない。


 ただ、リール氏だけは例外だった。

 彼の片足は万全には程遠い状態だ。治療を施したとはいえ、ふくらはぎが抉れ、焼かれている。鎮痛剤は機能しているようだが、まだ引き攣る感覚があり力も入らないと彼自身が言っていた。


 村人がテレーズとぶつかりそうになり、リール氏は咄嗟にテレーズを庇ったそうだ。

 いつもならどんっとぶつかって、それだけで済む。だが足に力が入らず、転倒した──テレーズを巻き込んで。


 抱きしめて庇ったつもりだったが、甘かったとリール氏は語る。

 起き上がった時にはテレーズは意識を失っていて、抱き上げて家に帰ってきた時にはもう息をしていなかったらしい。


 エレナは蘇生措置をしなかった。

 傷口を見た瞬間、その優れた知識故に、即座に理解できたのだ。“無理だ”と。


 フィリップは事の顛末を聞き終えて静かに頷くと、穏やかに口角を緩めた。


 「頭打って死んだんだ。そっか……狂死じゃなくて良かった」


 呟いた直後、フィリップは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 ……心情的な話ではなく、物理的に。


 ミナが背後からフィリップを抱き上げ、素早くその場から──豪、と風を切ったエレナの拳線上から退かしたのだ。


 「あっぶな!? なに!?」

 「じゃれ合うのは結構だけれど、力加減には気を払いなさい」


 直撃したらそれこそ頭蓋骨が砕けるような一撃を見て、フィリップとミナが非難の声を上げる。

 内臓がブチ抜かれたくらいならミナの血で治せるが、頭部が吹っ飛んだら流石にその限りではない。


 「良かった!? テレーズちゃんがっ……こんなことになってるのに、良かったって言ったの!?」


 石造りの部屋に木霊するほどの怒声に、ミナが煩そうに眉根を寄せる。

 エレナもまさか“死んで良かった”と取ったわけではない。しかしテレーズが死んでいる──最悪の状況で、“良い”ことなど何一つない。


 たとえ慰めでも、“良かった”なんて言うべきではない。ましてや笑みを浮かべるなど、あってはならない。

 エレナはそう思っていた。


 しかし、フィリップはエレナが何を怒っているのか分からないと言いたげに怪訝そうな顔をして、口角を上げる。


 「普通の死に方で良かったでしょ。平穏な、幸せな死だよ」

 「あなたね──!」


 あの湖を訪れる前なら、或いは羨望の情すら滲ませていただろうフィリップの言葉に、エレナは益々激昂する。


 怒りに任せてフィリップの胸倉へ伸ばした手は、しかし、ミナにぺちりと払い退けられた。


 「何をそんなに興奮しているの? もう少し淑やかになさい」

 「姉さまは黙っててよ! 人間が一人死んだくらいどうでもいいんでしょ!?」


 当たり前じゃない、と言いたげな──いや、何を当たり前のことを言っているのかと言いたげな、呆れと軽蔑の綯い交ぜになった目で見降ろされ、エレナが怯む。

 

 現状、ミナの機嫌は相当に悪い。

 自分を吹き飛ばしたヴーアミ族に報復し損ね、その仲間だという蛇人間はフィリップとエレナが殺し、ただでさえストレスが溜まっていた。そんなタイミングで、エレナがペットに殴り掛かったのだ。


 殴られていないだけ有情といえる。


 「はぁ……」


 深々と嘆息したミナの双眸が血よりも赤く輝き、エレナが硬直する。

 手足だけではない。心筋、呼吸、流れ落ちる汗や涙さえもが完全に凍り付く完璧な行動阻害──拘束の魔眼だ。


 「フィル、この子の荷物も纏めなさい。私が持つから」

 「え、あ、うん……」


 まだ泣いているリール家の人々を横目に、エレナが散らかしたらしい──何か手は無いかと、分かり切ったゼロパーセントを探していたらしい──薬品バッグをもう一度パッキングする。

 支度を終えると、ミナはエレナの鞄を左手に、エレナ本体を右手で抱えて立ち上がった。

 

 「それじゃ、お世話になりました!」


 フィリップはぺこりと頭を下げ、リール家を出ようとする。

 その背に、涙で濡れた声が追い縋った。


 「カーター君! 最後に、お別れを言ってあげてくれないか……?」

 「ミナさんも、お願いします……」


 リール氏と夫人、二人の懇願を、ミナは完全に無視して──いや、耳に入ってはいるが、ただの雑音か意味のない鳴き声のように聞き流して、さっさと玄関を潜ってしまった。


 フィリップはその背に苦笑を向けつつ、テレーズの眠るベッドに向けて軽く手を振った。一日遊んだ友人に夕暮れ時にするように──死者に対する別れの挨拶には程遠い、適当な所作で。


 「……じゃあね、テレーズ。また会えるように祈ってて」



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