第382話
フィリップが気道に入りかけたジュースを涙目になりながら咳込んで排出した後、真っ先にやるべきは何だったのだろう。
武器はない。
だが、詠唱は止めさせたい。フィリップが一番に考えているのはそれだった。
もしもルキアやステラのような最優先庇護対象が居れば、その保護に動いただろう。咳き込みながら身振り手振りで「逃げろ」と示していたかもしれない。
何を措いても守るべき相手ではないミナとエレナしか傍に居ない状態では、思考が攻撃寄りになってしまうのも無理はない話だ。
しかし、それを為すための武器がない。
人外相手に殴り掛かって勝てるなんて甘い幻想を抱くには、身近にいる人外が強すぎる。武器が要る。人外相手でも通用し得ると安心できるだけの、強力な武器が。
「ミナ、剣を貸して!」
「殺していいのね?」
我が意を得たりとばかり、ミナは右手の内に血の大槍を作り出し、同時に左手で漆黒の長剣をフィリップに向けて放る。
フィリップがキャッチできるギリギリの速度で飛来したそれを空中で掴み、『拍奪』を使わず全速力で司祭へと突撃する。
ミナが攻撃魔術を展開しフィリップが剣を持って駆け出したことで、村人たちが驚愕の声を漏らす。
だが、遅かった。何もかもが。
フィリップの眼前で、祭壇が神像や捧げもの諸共に消滅する。
何の前触れもない消失の後、そこには渦巻く闇があった。地面にぽっかりと空いた虚穴、触れたものを地底へ引きずり込むかのような渦だ。
「な、なんだ!? 祭壇が消えたぞ!?」
「穴に落っこちちまったのか!? いやそもそも、その穴は何だ!?」
剣を構えて油断なく穴を警戒するフィリップの前で、司祭の姿が変わる。
変化や変態の類ではない。霧が晴れるように、或いは蜃気楼が揺らめくように、目に映るものが変わったのだ。
人間の姿がどうなったとか、手や足がどう変わったとか、そんな次元ではない。フィリップが睨みつけていたものは、彼の目の前で全く別のものに変貌していた。
それはまるで、人間大に巨大化して直立したトカゲのようだった。
錆色の鱗を全身に備え、体格に対して不釣り合いなほど小さい四肢をもつ爬虫類。
それが確かな知性と智慧を持った生き物であることを、縦長の瞳と目を合わせた者は否応なく理解する。
「リザードマン系の魔物……じゃあないな」
高度な知性を備えている、ということは、戦闘と殺戮の本能にのみ基づいて生きる魔物ではない。
最低でも悪魔や吸血鬼のような、明確に人間に優越するナニカ。フィリップに与えられた智慧の範疇外のようだが、感じる気配はレッサーショゴスと同等──人類領域外の存在だ。
「し、司祭様が魔物に変わった!?」
「何がどうなってるの!?」
村人たちの間に恐怖と混乱が伝播していく。
子供たちは親の方に、大人たちは子供たちの方に駆け寄り、危機意識の高い家族はさっさと家に引っ込んだ。それでも未だ半分以上が広場に残っている辺り、平和ボケしているのか、目の前の光景がそれだけ衝撃的だったのか。
「……フィル、下がりなさい。私の後ろに。……その穴、物凄く嫌な気配がするわ」
血の大槍を待機状態にしたミナが、有無を言わさぬ口調で命じる。
直後、穴の底から真っ黒な人影が現れた。
仕立てのよいローブ姿は、その要素だけを見れば高位の司祭にも見える。しかし滑らかな生地に隠された肉体は異常なほどに隆起し、身の丈も二メートル近い。極めつけは頭部、フードも何も被っていないその場所は、猿とも獅子ともつかない野獣の形だった。
「あの印は……ツァトゥグアの司祭か」
獣の司祭の頭部に刻まれた幾何学的な文様に、フィリップは忌々しそうに眉根を寄せる。
旧支配者ツァトゥグアの印を刻まれた異形の司祭。異形へと変貌した──いや、強力な認識阻害系の魔術で外見を誤魔化していた村の司祭。そして村人たちの反応。
村人たちはみんなシロか。
──アンラッキーだ。
そうなると、ミナとエレナだけ逃がして、あとは邪神を呼んでカルト虐殺パーティー……という、最短最速の解が選択できない。
邪魔をするなら殺すが、邪魔になる分には守ってしまう。フィリップはその甘さを自覚していたし、捨てるつもりもない。
だが、邪魔だ、とは、どうしても思ってしまう。
「──此度の祭祀、我らが神は大変喜んでおられる。偉大なる神は貢物をご所望である。大いなる神は特に仔羊の肉をご所望である。幼過ぎては食い応えが無い故……そこの小娘。お前がちょうど良い塩梅だろう」
妙な訛りのある邪悪言語で紡がれた言葉を理解できるのは、フィリップと司祭──いや、司祭に化けていた化け物だけだ。
しかし言葉は分からずとも、毛むくじゃらの手で指を差されて、言葉に込められた意思はなんとなく伝わった。
テレーズが選ばれたのだ、と。
村人たちの反応は様々だ。
テレーズや獣人から逃げるように後ずさる者、テレーズを庇う位置に動く大人、親に泣きつく子供。
ミナは自分の知識と経験に無い謎の魔物を警戒しているが、エレナは誰よりも直情的だった。
「フィリップ君、テレーズちゃんを守るよ! 皆は家に戻って隠れてて!」
「……うん!」
フィリップは魔剣『悪徳』を持ったまま、エレナは両の拳を握りしめて、テレーズを背中に庇う。
そのままでは戦い辛いところだが、騒ぎを聞きつけてやってきたリール氏と夫人がテレーズを連れて家に避難していく。
後顧の憂いは断たれた。
フィリップとエレナは顔を見合わせて獰猛な笑顔を交わし──。
「我らが神へその身を捧げる栄誉を求める心は、我ら皆が共有するところ。それ故に、横紙破りは許されぬ。──《ヨグ=ソトースのこぶし》」
獣の司祭から強烈な圧力が放たれ、何の抵抗も出来ずに吹っ飛んだ。
エレナが近くにあった倉庫に突っ込み、崩落した屋根と中にあった作物に埋もれる。ミナは民家に激突して壁に大穴を空けて見えなくなり、フィリップは出店のテーブルと民家の生垣を薙ぎ倒した後、家の壁に衝突して止まった。
「……ぅ」
目覚めたフィリップは甲高い耳鳴りと霞む視界に戸惑い、鈍痛と共に背中に感じる冷たい石壁の感触で、自分が一瞬だけ気絶していたことを理解した。鍋や食器類が乗った重いテーブルに激突したところまでは覚えていたのだが。
そして──すっかり無人になった広場に、もう一つの異形が現れる。
地底に繋がる大穴から出でたのは、巨大な腕だ。
不自然な角度の関節を複数個備え、厚い毛皮で覆われた剛腕。指の先には邪悪な鉤爪があるが、それは戦闘や狩りに使うためではなく、不摂生によるものだろうと思われる汚らしい形だった。
形容しがたい悪臭を放つその腕は、フィリップの元へ蛇のように伸びる。
しかし、害意は感じられない。拳を握るでもなく、握り潰すでもなく、そこにあるものを掴もうとするかのような動きだ。
フィリップは僅かに眼振の残る目でそれを見つめ、不快げに片眉を上げた。
「ツァトゥグア……外神ザズル=コルースの末裔か。寝惚けているのか知らないけど、その臭い手で僕に触るなよ、劣等種」
フィリップが吐き捨ててなお、「腕」は止まらない。かと思えば、「腕」は本当に寝惚けていたように、妙なラグを挟んでびくりと硬直した。
そして、するするとその全体を大穴の中に戻していき、あっという間にいなくなった。
「我が神……?」
人語を解さないか、フィリップの言葉が聞こえなかったのかは不明だが、獣の司祭はその動きを困惑交じりに追っていた。
「……彼らは私にお任せを。貴方は我らが神に捧げる別な贄を探してください」
「……ふむ。了解した」
司祭同士が邪悪言語で会話し、獣の司祭は大穴の中へ姿を消す。直後、大穴そのものも掻き消えた。
後には祭壇と篝火の消え失せた空虚な広場と、無機質な瞳でこちらを見つめる異形の爬虫類だけが残る。
「痛いなぁ……」
耳鳴りと乱視が収まると、全身の色々な部分が痛み始めた。
骨折や骨亀裂レベルの重傷はなさそうだが、生垣に突っ込んだときにあちこち切れているし、打撲箇所も多い。
一発は一発なんて理屈が通じる子供の喧嘩の域はとうに出たが、報復すべき相手は帰ってしまった。
だが、まあ、元より報復に論理的な整合性など求めるものではない。
八つ当たりだろうと何だろうと、鬱憤を晴らすのが先だ。ステラならまた違うのだろうけれど、フィリップは──今のフィリップは特に、感情に忠実だった。
「……で、君と、さっきの猿モドキは誰なのかな。邪悪言語が使える辺り、智慧のある生き物なんだろう?」
智慧があるならば自分の問いには素直に答えるはずだと、フィリップは当然のようにそう思考する。
フィリップが「魔王の寵児」だから、ではない。
軽微な脳震盪で思考の表層が吹っ飛んだフィリップは、何の理由も根拠もなく、天地万物は自分に従うものだと思っている。
考えている、というには自覚が足りない。「自分の意に何もかもが従うべきだ」とか「自分の意に沿わないものなどあってはならない」とか、そんな甘い思考はない。
当然そうなるものなのだから、そんな思考が挟まる余地はないのだ。
「ツァトゥグアのことは知ってる。あんな低劣な旧支配者でも一応は外神の末裔、ルーツを遡ればアザトースに至るからね。でもお前たちのことは知らないんだ。リザードマンではなさそうだけど」
知性のない魔物と同列に語られて、爬虫類の無機質な瞳が細長く眇められる。
不満はありそうだが、しかし、態度には「ニック司祭」であった頃と同等の敬意が込められていた。
「……私は蛇人間。蛇の神イグを祖に持つ種族。そして貴方を攻撃したのはツァトゥグアに仕えるヴーアミ族です」
イグという名前は知っている。遥か古代に遠い星からこの惑星に辿りついた旧支配者だ。
智慧はそれを、殆ど脅威と見做していない。存在歴も浅く、存在格も大したことはないが、それ以上に人間に対して極めて無関心だからだ。たとえ人間と蛇人間が全面戦争を始めても、イグはどちらにも加担しないだろう。
「イグの末裔? なら種族的には地球圏外の存在なのかな?」
異星から来た存在──即ち、自分とは何から何まで違う異形。
そう理解した時に去来する全ての負の感情は、フィリップには無縁のものだった。
あるのは多少の興味と、親近感。
フィリップ本来の感性ではなく、外神の価値観に基づく自己認識には、人間や地球の存在よりも彼らの方が身近だった。声も僅かに明るくなっている。
しかし、蛇人間は長い首を横に振る。
「いいえ。私たちは紛れもなくこの星に根付いた、歴としたこの星の民でございます。三億年前には地表を覆うほどに繫栄し、5000万年もの栄華を誇ったのです。……我々と祖を同じくする恐ろしき同胞、恐竜たちが地表を踏み荒らすまでは」
「恐竜……? 分かんないけど、流石に同じ祖を持つ相手とは戦えなかったか。……で、それがどうしてツァトゥグア信仰に繋がるの?」
フィリップの問いに、蛇人間は僅かに眉根を寄せたようだった。
如何に外神の智慧を持ち邪悪言語をネイティブのように解するフィリップも、爬虫類の顔に浮かぶ表情を読み取るのは難しいが、なんとなく不愉快そうだ。
「……ヒトが、我らを駆逐しに来たからです」
ヒトという呼び方をするのに僅かな時間考え込んだ理由を察し、フィリップは朗らかな笑顔を浮かべる。
「遠慮しなくていいよ。5000万年も栄えた種族なら人間の文明なんか新興もいいところだろうし、それこそ文明未開の猿ってやつだろう? ……いや、君が三億年生きてるとは限らないか」
「私は一万年前に存在した蛇人間最後の王国の生き残りでございます。しかし長く冬眠しておりましたので、活動時間は百年程度かと」
フィリップの表情も声も、朗らかに明るい。
しかし彼の心中に友愛の情は一片も無かった。
話が終われば、聞きたいことを聞き終えれば殺す。
彼に攻撃の意思がないのであれば、ツァトゥグアやその司祭が消えた今、戦う理由は無いのだけれど──フィリップはカルト化した人間には苛烈に反応するし、身近な人の心身を損なう可能性のある神話生物は容赦なく駆除するが、人間以外が何を信仰しようと興味はないのだけれど。
けれど、先の一撃による痛みの分、苛立ちの分は返させてもらう。
「私が祖なるイグ神を信仰していた頃にも、人間との抗争がありました。イグ神を祀る神殿を、あの美しい建物や壮麗な美術品の数々を、あの猿共はその価値も理解しないままに破壊したのです。抵抗した私の同胞たちも、弓や槍によって斃れていきました。イグ神のお膝元で、です。私たちは何度も祈りました。何度も、何度も、子たる我らをお救い下さいと願い奉りました」
「それでもイグは応えなかった? だからツァトゥグアに鞍替えしたのか……いや、怠惰さではどっちもいい勝負じゃない?」
ツァトゥグアもただの信者が希ったくらいで戦争に手を貸したりはしないだろう。エイボンのようなとびきり気に入った信者であれば或いはといったところだ。
まあ神が信者には優しいなんてのは幻想だし、異種族間戦争なんて、神の力の強弱に関係なく面倒臭いだろう。
弱い神なら一個種族を絶滅させるなんて不可能だし、強力な神格だとむしろ一個種族だけを滅ぼすなんて繊細な作業ができない。
フィリップの使うハスターだって、人間と、例えばエルフが戦争をしているからエルフを滅ぼせと言われても厳しいはずだ。この星を砕け、とかなら容易だろうが。
まあ外神ならどうとでもなるだろう──なんとなく不器用なイメージのある数柱は、勢い余って銀河ごと壊してしまいそうではあるけれど。
「ツァトゥグア神は少なくとも、献身と奉仕に見合った報酬を下さる。私たちは彼の神の下で力を溜め、やがては思い上がった猿共をこの星から駆逐するのです」
深い憎悪を感じさせる言葉に、フィリップは「ふーん」と気のない相槌を打つ。
隣家の今夜の献立くらいにはどうでもいい話だと。
長命な、そして恐らくは個体の記憶ではなく種族の歴史を重んじる種族だけに、いつ頃の予定なのかは少し気になるが──いや、そうでもないか。
ルキアやステラといったフィリップの大切な人たちが存命のうちに仕掛けてくるなら、どうせ殲滅する。ハスターでもクトゥグアでも、ナイアーラトテップでもシュブ=ニグラスでもヨグ=ソトースでも外神連合軍でも、なんでも使ってだ。
カルトのような特別な思い入れのある相手ではないから、ナイアーラトテップ辺りに適当に丸投げすれば片付くだろう。その時にフィリップが、今と同等の気分──外神の思考を表出させた状態であればの話だが。
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