第374話

 「フィリップ、くん……?」


 首筋の焦れるような熱を持った敵意に、エレナが思わず身構える。


 いつもの落ち着いていながらも年相応の部分もある大人びた少年の気配でも、ティーファバルト大森林で見た決意の猛りでもない、全く対極にある空気。湖で感じた、燃えるような悪意と凍てつくような敵意が渾然一体となった、複雑に縺れた殺意。

 解きほぐすことなど敵わないと直感できる、どうしようもない衝動。


 カルト、とフィリップが呼ぶものに対しての、容赦のなさは知っている。

 最愛の夫を亡くし心が壊れてしまった女性を罵り、弄び、その死体さえ踏み躙るほどだ。


 フィリップがテレーズやこの村の人々の「カエルは神様」という価値観を信仰と見做し、彼らをカルトであると判断すれば、きっと殺すだろう。一人残らず、何の躊躇も無く、戦う力を持たない村人たちに一方的な虐殺を押し付けて殲滅するに違いない。


 一度はテレーズを魔物から助け、エレナと協力してリール氏を救うための薬を作り、同じ獲物の肉を食い同じ屋根の下で眠ろうと、何も関係ない。一言も言葉を交わしていない他の村人たちと一緒に、淡々と殺すだろう。

 そして制止に従うような甘さも無い。殺戮を止めたければ、フィリップが自発的に止まる理由を用意するか、或いは殺して止めるしかない。


 言われずともそう理解できるだけの激甚な殺意が、感覚の鋭敏なエレナには見て取れた。

 

 しかし、殺気を感じるのは相当に鍛えた戦士でもなければ不可能だ。ただの村娘でしかないテレーズには、それだけの感覚が備わっていない。


 故に、テレーズは自分の肩に置かれた手の大きさと硬さにどきどきしながら、ただ聞かれたことに答える。答えてしまう。説明が不足していたり間違えたりしたら、次の瞬間、自分の肺が海水で満たされることなど露と知らず。


 「あ、あのね、カエルって作物を食べる悪い虫を食べてくれるし、カエルが鳴くと雨が降るの。ほら、川は村の低いところにあるから、水撒きのためには何回も汲みに行かないといけないでしょう? だから、雨を降らせてくれるのって、すごくありがたいの。それに虫も追い払ってくれるから、神様」


 エレナはフィリップに悟られないよう、微妙に右足を下げる。

 一撃──蛇腹剣を持っていないフィリップが魔術を撃つ前に、一撃入れて意識を刈り取る必要がある。頚椎殴打による昏倒は後遺症の危険もあるが、背に腹は代えられない。


 身構えるエレナに気付かず、フィリップはどこか上の方を見てぶつぶつと呟きながら考える。


 「自然の神格、いや神聖視? 土着信仰の原型みたいなものか」


 口の中で転がすような独り言は、テレーズには聞こえない。しかしエレナにははっきりと聞き取れる。


 エレナがほっと安堵の息を吐くのと、フィリップがテレーズににっこりと笑いかけるのはほぼ同時だった。


 「……そうなんだ、よかった」

 「よかった? あ、うん、良い神様なんだよ。教会に置いてあるのは聖女さまの像なんだけど、玄関先にはカエルもいるの!」


 よかった、なんて笑うフィリップだが、本当に心の底から「よかった」と思っているかどうかは誰にも分からない。

 手間は省けるし、蛇蝎の如く嫌う存在とひとつ屋根の下で眠ったわけでは無かったし、自分がカルトを助けるために汗を流したと考えるだけで吐き気がするが──それも些事だ。


 カルトを嬲り殺しにする悦楽の前の、小さな段差程度の話でしかない。

 「いない」方が「いたけど殺した」より幾らかマシだと考えるのが正常だとしたら、異常なフィリップがそれに倣う可能性はどのくらいか。これはそういう話だ。


 テレーズの言葉に、フィリップは「へぇ」と感心したように頷く。


 「へぇ? ちゃんと唯一神も信仰してるんだ」

 「? 当たり前でしょ?」


 当たり前という言葉に、フィリップは薄く笑みを浮かべる。


 そう、当たり前だ。

 そして「人を殺してはいけません」とか「人のものを盗んではいけません」とか、そういう当たり前の禁忌を犯す輩がいるように、唯一神信仰という当たり前から外れたものはいる。多くは無いが、少なくも無い。そんな割合で。


 罪があるなら罰がある──いや、罰があるから罪が定義されるのだが、それはさておき、罪人がいるならそれを罰する者もいる。

 物を盗んだり人を殺したりすれば、衛兵や衛士団に捕まるように、信仰を異にすれば、教皇庁の使徒が罰を与えにやってくる。


 だがフィリップは別に、一神教を信じていないからカルトだと断じるわけではない。土着信仰、自然の神聖視、大いに結構だ。それは人間の、創造力を持つ生物の営みとして自然なことなのだから。


 「で、でも、あんまりカエルの鳴き声はしないね? 昨日の夜も結構静かだったし!」


 なにか慌てて話題を変えようとするかのようなエレナの言葉に、フィリップも記憶を探って「確かに」と頷く。

 フィリップの地元はそれほどカエルが多い土地ではなかったが、それでも夕方から夜にかけては五月蠅いくらいに鳴いていたものだ。


 まあ、この辺りには毒を持った蛇もいるらしいし、食物連鎖の定めに呑み込まれたのかもしれない。

 

 「それでね、収穫祭は唯一神さまと、カエルたちにも感謝を捧げる日なんだけど──」


 フィリップが腰を折ってしまった収穫祭の話に戻るエレナとテレーズ。

 

 そういえば自分もミナと話していたのだったか、と振り返り──いない。


 「……あれ? ミナ?」

 「姉さまなら、さっきあっちの方に歩いて行ったよ? シルヴァちゃんと一緒に」

 「え? うわホントだ! シルヴァが離れてる!? 何やってるんだろう……」


 まあ近くに森があるとき、シルヴァは勝手に飛び出して行くことがあるけれど……村近くの森はもう十分に満喫しただろうに。


 いや、シルヴァのことはいい。彼女は見た目通りに無邪気で、人間を襲うようなことはまずない。

 問題はミナだ。彼女は人間を襲うことに価値を感じない程度には上位の存在だが、同時に、戯れに人間を吹き飛ばして遊ぶ程度には人間に近しい存在だ。フィリップが良い感じの棒を拾って振り回すとか、手頃なサイズの石を蹴っ飛ばすのと同じ感覚で人を殺す。


 ミナの目に留まらなければ大丈夫だとは思うが、あの美貌だ。声をかけるだけの勇気を持った男がいないとも限らない。


 そんな懸念から少し慌てて二人を探すと、流石に長身の黒髪と若草色の幼女のペアは目を惹いて、何ら苦労することなく見つけられた。


 「目立つねぇ二人とも」


 トラブルを起こしていないようで何よりだと思いながら近寄っていくと、二人は村の片隅にある小さな教会を見上げて立ち止まっていた。


 「ねぇフィル、この教会みたいな建物はなに?」


 フィリップが来たことにすぐ気付き、ミナが眼前の建物を示して言う。

 そこらの民家より一回り大きいだけの簡素な建物だが、尖塔状の屋根に十字架を掲げることを許された建物は一種類しかない。


 「僕の目には教会そのものに見えるね」

 「そうよねぇ、建築物だけなら間違いなく教会なのだけれど……なんというか、古いのよね……」

 「そうかな……?」


 王都外の建物なんてどれもこれも質素な造りだし、こんな、村人が30人いるかどうかの小さな村なら尚更だ。

 教会はその例に漏れず、周りの家々と同じくらいに簡単な造りだ。しかし、特に突出して古い建物という感じもしない。きちんと手入れもされているようだし、ボロくはない。


 「あぁ……。いい、フィル? 教会には基本的に、神の加護が与えられているの。だから生半な悪魔や吸血鬼では敷地に入ることさえ出来ないわ。勿論、ゴエティアの悪魔や上位の吸血鬼なら別だけれど」


 「加護ぉ?」と小馬鹿にしたような顔をするフィリップに、ミナはくすくすと笑う。

 神が信徒に加護を与えるというのがフィリップにしてみればもう胡乱な話だ。そんなものがあるなら、ルキアもステラもフィリップとお近づきになっていないだろう。……まあ、単純に運命干渉を外神が撥ね退けただけかもしれないけれど。


 聖痕というシステムはあるが、あれは別に魔術の才能や威力を強化するものではなく、単純に「現生人類の中で一番強い」ということを示すだけのものだし。


 「神域級設置型防護魔術、と言い換えてもいいわ。きみにはそちらの方が分かりやすいかしら?」

 「あ、うん。かなり現実味を帯びて考えられるようにはなったかな」


 それならまあ、ルキアやステラにも出来そうではあるとフィリップは頷く。本当にできるかどうかは別として。


 「けれど、この教会に掛けられた加護はかなり古くなっているわ。四年か、五年か……もうそのくらいは更新されていない。……この建物はもう、教会として認められていないのよ」


 ほえー、と間の抜けた相槌を打つフィリップ。

 別にこの村の教会がどうなっていようと、フィリップにもミナにもどうでもいいことだ。


 ただ、頭の片隅に引っかかることがあった。


 「……投石教会はどんな感じ?」

 「全然違うわね。あの教会は普通よ。普通に小綺麗で、普通に加護があって、普通に吸血鬼を遠ざける。──なのに、物凄く臭い。遊びに行っただけのきみに臭いが移って、しばらく遠ざけたくなるくらいにね」

 「そ、そうなんだ……」


 それはよかった……のだろう、たぶん。

 ミナが教会の外観から加護の有無を判別できた理由は魔術的なものだろうが、彼女の魔術センスはルキアやステラと同格──つまり、聖痕者であれば同じくそれが判別できるということ。


 もしもヘレナが投石教会の加護を判別して、もし無かった場合、まあ順当に調査の手が入るだろう。その後どうなるかは、然して思考するまでもない。


 「ここは単に、加護を与えられなくなっただけ。廃棄された教会に近いわね。大方、司祭が祭壇の扱いを間違ったとか不敬を働いたとか、そんな理由でしょう」


 ミナは一人で結論を出して、一人で納得した。

 フィリップも特にコメントすることはない。


 加護が失われたのは玄関先でぬぼーっとした顔をしているカエルの置物が原因だろうが、まあ、どうでもいい。フィリップにとってもミナにとっても、この村は明日まで滞在するだけの場所だ。悪魔や吸血鬼に襲撃されたときの緊急避難場所が機能不全を起こしていて、万一の場合に村人が全滅したなんてことになっても、至極どうでもいい。


 「……で、シルヴァは何してるの?」


 ミナと手を繋いでぼーっと教会を見上げていた幼女に問う。

 相当なことがないと死なない、怪我さえしない二人だし、勝手に何処かへ行くなと強く止める気はないが、一言くらい欲しかった。特にシルヴァ。


 「みなとおにごっこしようとしてた」

 「……勝負になるの?」


 聞いてから、そういえばシルヴァはミナにやたら懐いていたなと思い出す。案外運動神経が近く、お互いに遠慮する必要のない遊び相手なのだろうと思ったこともあったと。

 

 「あら、森の中ならいい運動になる程度には善戦するのよ、この子? 私も偶には真面目に剣を振らないと技が鈍るから、丁度良いわ」

 「そ、そう……」


 鬼ごっこで剣を振るシーンなんてあるかなぁ? と首を傾げるフィリップだったが、シルヴァとミナが楽しいならそれでいいだろう。

 流石のミナも剣で森を伐り倒すことはできないだろうし、シルヴァが怪我をすることもないはずだ。


 二人と別れてエレナとテレーズのところに戻ってくると、エレナがテレーズのことを頻りに褒めていて、テレーズが物凄く照れていた。


 「何を話してたの?」

 「あ、フィリップ君。テレーズちゃんの踊りを見せて貰ってたんだけど、凄いんだよ! ね、テレーズちゃん、もう一回見せて!」

 「え、あ、えっと……そんなことより、明日のお祭りで飾るカエルの神像を見に行かない? 明日は捧げものの山でよく見えないから、見るなら今日だよ! あんまり可愛くはないんだけど、みんなで作ったの!」


 つい先ほどまで照れつつも嬉しそうにしていたテレーズだったが、フィリップの興味深そうな視線を受けると躊躇ったように視線を逸らす。嫌悪感は見て取れないが、どう見ても乗り気ではない。

 なにか嫌われるようなことをしただろうかと思考を巡らせるも、思い当たる節はないし、フィリップがどうこうではなく催促されて踊るのが恥ずかしいとかだろう。


 フィリップもなんとなく上機嫌で口笛を吹いていたら、エレナに「いい感じのメロディーだね! もう一回聞かせて!」と言われて、小恥ずかしくなって拒否したことがあるし。


 タイミングが悪かったと肩を竦めて、テレーズの提案通り、神像が保管されているという教会に向かう。

 つい先ほどミナと話した場所だからフィリップは案内を受ける必要も無かったが、率先して歩き出したテレーズの後に続く。


 かと思うと、テレーズが踵を返して、ととん、と軽いステップでフィリップに近づいた。

 不思議そうにしているエレナをちらりと見て、そっとフィリップの耳元に顔を寄せて囁く。 


 「あ、あのね、フィリップに見せたくないわけじゃないんだよ、踊り……。でも、あの、明日はちゃんとした服を着るから、その時に見て欲しいなって……」

 「ん? あぁ、楽しみにしてるね」


 ドレスとヒールではないだろうけれど、大事な祭りの踊りなら大切にしたいという心理もあるか。なんて、筋違いなことを考えて頷くフィリップ。


 楽しみにしている、なんて完全に社交辞令だ。

 なんとなくこの場面における普通の答えっぽいから選んだ音の羅列で、フィリップ自身の感情は一ミリも乗っていない。


 しかし、


 「っ! ……うん!」


 なんて、花の咲くような笑顔で喜ばれてしまっては、適当な答えを返したことに罪悪感の一つも抱くだろう。


 フィリップでなければの話だが。





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