第372話

 「文明未開の猿なの!? 次そんなことしたら、ボクがあなたを殺すからね!」


 蛇に咬まれたというテレーズの父を見て、応急処置をしたというテレーズの母、彼の妻へとエレナがぶつけた言葉だ。テレーズも彼女の母親も、エレナ自身も半泣きになっていた。


 ベッドに横たえられ、苦悶の表情で呻くテレーズの父は、蛇に咬まれたというふくらはぎ付近の肉を抉り取られ、余燼の薪か何かでその傷口を焼かれていた。


 典型的な民間療法、フィリップも授業で習う前だったら同じことをしていたかもしれない処置だ。

 根拠には諸説ある。毒を注入された部分を切り取れば大丈夫で、焼くのは切除後の傷の止血と殺菌だとか、蛇毒は熱によって無毒化されるから焼けばいいとか、一番毒が強い部分だけ切り取ればいいとか、色々と。


 だが冒険者コースで行われた応急処置の授業で、特別講師のステファンはその手の民間療法を唾棄していた。


 「医者の見様見真似が定着した、馬鹿が馬鹿なことをしているだけの愚行です。いいですか、人間の血液は一秒でおよそ15センチ進みます。蛇に咬まれ、慌てて蛇を振り払い、ナイフを抜く。この動作に三秒かかったとしたら、指先を咬まれて血管内へ侵入した毒は大体二の腕の辺りまで進行しますね。……もう分かりますね? 傷口を焼く? 切る? 毒を吸い出す? 馬鹿馬鹿しいにもほどがあるでしょう」


 ──と、田舎出身で、親などから「蛇に咬まれたら毒を吸い出すんだよ」と教わってきた一部の生徒を知らないうちにボコボコにして。


 「……傷口の腫れは毒じゃなくて火傷だ。でも、血尿と発熱は間違いなく蛇毒……。よし、薬の材料は足りる。問題は本人の免疫力と体力、あとは解毒剤の拒否反応と合併症か……でも、やらなくちゃこのまま死ぬ……!」


 ぶつぶつと苛立たし気に呟くエレナ。

 その言葉からは、処置したとしても一定の確率で死ぬのだということが窺える。


 しかしエレナが悩んでいたのはほんの一瞬だ。

 ほんの僅かな逡巡の後に、彼女は決断を下した。


 何もせず見殺しにするくらいなら、足掻くだけ足掻いた結果、自分のせいで殺すかもしれない可能性を許容すると。


 「フィリップ君、水を用意して! なるべく綺麗で不純物の少ないやつ!」

 「……オーケー。ミナ、悪いんだけど、宿屋を探してきて。最悪、三人一部屋でもいいから」


 応じるフィリップは僅かながら不敵な笑みを浮かべている。

 エレナの善性はよく知っている。それこそ、時折邪魔だと思うほどに。

 

 これは長くなると察したフィリップが言うと、ミナは意外そうに見つめてきた。


 「……私の血を使おう、とは言わないのね。もしかして、まだ脱水とやらの影響が抜けていないの?」

 「ん? あぁ……。こんな理由でも使ってくれるの? 駄目だと思ってた」


 それに残念ながら初回の冒険実習以降、フィリップ以外にミナの血を使うことはフレデリカに厳しく禁じられてしまった。


 なんでも、「人間は馬鹿だから、その手の万能薬はどんな手を使ってでも欲しがるんだ」とのこと。「斯く言う私もその一人でね、彼女の恐ろしさを知らなければ、検体になってくれとお願いしていたかもしれない」とまで言われては、フィリップとしても納得するしかない。


 大多数の人間はフレデリカよりは馬鹿だろう。絡んでくる馬鹿もいるはず、というか、現に居るので、今以上に増えるというべきか。

 それが血を金で買おうとする程度ならまだしも、ミナを傷つけて血を奪おうとするほどの──ミナに傷を付けられると驕るほどの馬鹿ではないと、誰も保証できない。


 だからミナが「あ、人間って邪魔だな」と思わないように、そもそも秘匿しておいた方が得策だ。


 フィリップの言葉に、芸を覚えた犬を見るような目をして抱きしめ、頭頂部に唇を落としてから離れた。多分、フィリップの判断は正解だったのだろう。フィリップが絶対に譲れない理由があるなら兎も角、「助けたいから」みたいな漠然とした甘い理由では、ミナは動いてくれないらしい。予想通りに。


 「頑張りなさい、フィル」

 「……うん」


 頑張るも何もフィリップは魔法の水差し兼魔法の火種で、調合は全部エレナがやるのだけれど……そんなことを言っている余裕も無さそうな声で急かされて、フィリップはエレナの助手に回った。



 ◇



 処置には二時間ほどを要し、終わった時にはもう夕暮れだった。


 フレデリカは「錬金術はレシピ開発と試行錯誤が七割、二割が錬成とか調合の待ち時間、作業時間は残りの一割だよ」なんて言っていたけれど、薬学はまた別らしい。

 薬草を何種類もブレンドして3種類の薬を作るのに、待ち時間も何もあったものではなかった。というか、濾過や精製の間に別の作業をこなさなければ、或いは手遅れになるかもしれない状態だった。


 精密さとタイミングなどの知識が求められる部分をエレナが担当し、切る・潰す・挽くなどの単純作業をフィリップが担当して、二人とも疲労困憊だ。

 エレナは普段の格闘戦の比ではないほど神経を使ったし、フィリップに関しては肉体疲労もだが綺麗な水を出す『ウォーターランス』を何度も撃って魔力欠乏ギリギリというのもある。


 というか、最初はこの村の水源だという川からテレーズと一緒に水を汲んできたのだが、「なんか葉っぱ浮いてるけど?」と言われて「川に流れてたやつかな」と返した直後、呆れとも諦めともつかない乾いた笑いを漏らしたエレナに「もっと綺麗なのがいいかな」と言われて、いよいよ魔法の水差しとしての役割が確定した。

 なお、フィリップは「別に煮沸したらいいかなって」などと供述していた。煮沸したとて不純物が消滅するわけではないのだが。


 「……っ!」


 単に薬を飲ませて終わりではなく、火傷や化膿部位の外科的処置まで終わらせたあと、汗びっしょりになったエレナはフィリップにVサインを突き付けた。


 汗なんて全く綺麗なものではないと分かっているのだが、それでも、やり遂げたと吼えんばかりの不敵な顔で光る玉の汗は、爽やかな輝きを帯びて見えた。勿論、エレナの容姿が人間離れして整っているのも大きな理由だろう。


 「ぉおう……何? 勝利のピース?」


 その文化エルフにもあるんだ、と場違いな感想を抱くフィリップに、エレナはむっと眉根を寄せた。


 「ちがーう。二日! 二日、様子を見ます! いいよね?」

 「さっき言ってた、拒否反応とか合併症が出ないかを見るんだよね。いいよ。旅程にはまだ猶予があるし、村があるなら位置も分かる。最寄りの駅宿か、最悪、街道まで出ればどうとでもなるしね」


 エレナが、というか、フィリップ以上の知見を持つ者が必要だと判断したことに口を挟めるほど、フィリップも馬鹿ではない。まあ、最悪の場合はエレナだけ残して一人で学院に戻ることになっていたが、二日遅れたくらいなら減点も無い範囲だ。


 「あ、あの、夫はどうなるんでしょうか……?」


 作業中にあれやこれやと話しかけたり手伝おうとしたりして、遂には「ちょっと黙ってて! いまミリグラム単位の作業中だから!」と一喝されて以来静かにしていたリール夫人が、おずおずと問いかける。テレーズもずっと固唾を呑んで作業風景を見守っていたが、今は治療を終えた父親の傍についていた。


 投薬と外科的処置は完璧に済ませたはずだが、リール氏はまだベッドの上で呻いたまま、意識さえ取り戻さない。

 まあそりゃあ、毒は二日かけて体内に浸透したのだから、数分で抜けきることはないだろう。数十分か、数時間か、目に見える効果が出るまで、最低でもそのくらいはかかるはずだ。


 「解毒剤の投与と外傷の治療はしたけど、身体の内側が傷ついてるからね……。体力勝負かな。……ところでこの家、食材とかは倉庫にあるの?」


 言って、エレナはこぢんまりとした家の中を見回す。

 簡易な石造りの一軒家で、快適さは王都の建物とは比較にならないほど劣悪だ。ただ、エルフのツリーハウスよりは頑丈そうに見える。


 竈に、食卓、木枠と藁とシーツで作られた簡易なベッドが三つ。家の中にあるのはそれだけだ。家の外に水瓶があるのは来るときに見たが、食料保管庫に類するものは無かった。


 村の中を丹念に見て回ったわけではないが、家に来るまでの間には野菜や果実の類が鮮やかに実る果樹園や、黄金の海のような畑が広がっていた。この十世帯程度の小さな村を、十分に満たすほどの食糧があるはずだ。


 「いえ、ちょうど明後日が収穫祭なので、それまでは作物を使えなくて……。今は麦粥と川魚が主です」


 収穫祭の前に作物に手を付けてはいけないルールでもあるのか、リール夫人はさも当然のように答える。

 フィリップの故郷では特にそんなことは無かったのだが、まあ、場所が違えば風習も違うだろう。


 「うーん、経験則だけど、こういう時はお肉の方が……」

 「では、村の狩人に──」

 「いや、それよりボクたちが──」

 

 なんだか物凄く不穏なことを言おうとしているエレナを止めようと手を伸ばしたフィリップだったが、その前にノックも無く扉が開いて振り返る。

 気心の知れた僅かな人間しかおらず、盗るような金品もない田舎では玄関に鍵をかけないのは珍しくないことだが、だからといって平然と入ってくるのも非常識な話だろうに。


 そう思ったフィリップだったが、挨拶も無しに入ってきた長身の人影を見て、間違っているのはフィリップの方だと気付いた。


 吸血鬼の女王に、人間の習慣など求めるべきではない。


 「あ、おかえりミナ。ちょうど終わったところ……なにそれ?」

 「この村、宿屋が無いらしいわ。今夜は野営にしようって言いそうだから、きみとエレナのご飯を獲ってきたの」


 野営だろうから、ではなく、野営にしようって言いそうだから。

 言葉の違いは、ミナ一人だったら村人を全員殺して居心地の良さそうな家を使うからだろう。そして勿論、フィリップもエレナも一緒に冒険する中でそんな提案をされて、「それなら野営にしよう」と断固主張したことがある。


 私もきみの我儘の傾向が分かってきたでしょう? と言わんばかりの優しげながらも自慢げな顔に笑顔を返す。


 仲が深まってきたことも嬉しいが、それよりもっと嬉しいものがある。


 ミナが左手で軽々と持っている、巨大な肉の塊──シカだ。


 「いいね、ありがとう! 猪より鹿の方が好きなんだよねー」


 肉付きはどんなものかと獲物を検分するフィリップ。

 その後ろで、エレナがリール夫人に問いかける。


 「ねぇ、ボクたちと取引しない?」

 「と、取引ですか?」


 リール夫人の顔が目に見えて曇る。

 効果のほどはまだ分からないとはいえ、手を尽くしてもらった恩がある。治療費だってまだ支払っていない。そんな状態で持ちかけられる取引は、どれだけ重いものでも受け入れるほかないだろう。


 何を言われるのかという不安。そして、きっと何を言われても応えられないことへの無念が表情に過る。


 しかし、あのエレナだ。

 他人の弱みに付け込むような真似、戦闘中でもなければまずしないだろう。


 半笑いで成り行きを見ているフィリップの予想に違わず、エレナはにっこりと笑う。


 「ボクたちからはこの鹿肉の一部を提供する。代わりに、二日間の宿を貸してよ」


 鹿肉──リール氏に不足している、栄養の提供。喉から手が出るほど欲しいものだろう。

 対して、夫人たちの側が物質的に提供するものはほぼゼロだ。そりゃあ、自分の生活圏内に見ず知らずの他人を入れて、あまつさえ二晩も泊めるというのは普通ではない。ないが、金銭的負担はない。


 一見してリール家が有利すぎる、すぐにでも飛びつきたくなるような提案のはずだ。

 しかし、夫人は言い募る。


 「し、しかし、それでは私たちが一方的に得をしています! 治療費だって──」


 有利すぎる、それこそが問題なのだと。

 恥を知っているのか、或いは不相応に自尊心が高いのか。どちらでもいい。


 エレナは蛇毒で苦しむ者を、そして苦しむ家族を見て居ても立ってもいられなかった善良な少女を救いたかった。ただそれだけだ。お礼が欲しくて、汗だくになってまで難解な調合と治療を施したわけではないのだから。


 それに──。


 「あぁ、治療費ならもう貰ったよ」


 え? とテレーズとリール夫人の声が揃う。

 エレナは水色の目をぱちくりしているテレーズに、にっこりと笑いかけた。


 「さっき、ボクたちはテレーズちゃんに水を貰った。実はボクたち、あの時ちょっと脱水症状気味で水筒も空っぽでさ。テレーズちゃんが水を分けてくれなかったら危なかったかも。だから、命のお礼を命で返そうとしただけ。お礼にまたお礼を貰っちゃったら、無限ループしちゃうでしょ」

 「え? で、でもあれは、私を助けてくれたから、そのお礼で……」

 「そうだっけ? ボクがメイルアントを潰しちゃって、あなたを危険に晒しちゃったことなら覚えてるんだけどなー……」


 そんなこと、と言い募るテレーズと、なんとか躱そうとしているエレナ。どちらも共に、笑えるほどに善良だ。


 「……テントの方が快適そうじゃない?」


 薄く笑みを浮かべるフィリップの後ろで、家の中を見回していたミナがぽつりと呟く。

 確かに王都製のテントは居心地がいいし、寝袋やマットは石の床より断熱性と快適さに優れる。というか、この家で寝ることになっても寝袋は使うだろう。


 リール家の人々に聞かれていないことを確認して、フィリップは困ったように眉尻を下げた。


 「妹分がカッコ良いこと言ってるんだから、カッコ付けさせてあげるのも姉貴分の務めだよミナ」


 まだリール夫人やテレーズと話しているエレナの、人間以上の聴覚を誇る細長い耳が、仄かに赤くなったのが分かった。




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