第371話

 シルヴァの示した方に向かっていると、まず最初にエレナが足を止めた。

 次いでフィリップが「どうしたの?」と振り返って止まり、フィリップを見ていたミナも止まる。シルヴァはちょっと先に進んでいたが、フィリップが止まったのを感じて胡乱な顔で戻ってきた。


 「魔物がいる……足音からすると、六脚の昆虫型だね」


 柔らかな土に、深い木立、そして風に揺れる梢。

 人間の聴覚では足音なんて全く聞こえないのだが、エレナが「いる」と言うのならそうなのだろうし、樹上のシルヴァも頷いている。


 「……さっき言ってた人、襲われてるみたい! 助けに行こう!」


 言うが早いか、エレナは颯爽と駆け出した。

 木の根に足を取られることもなく、あっという間に遠ざかる後ろ姿に、フィリップは呆れ笑いを浮かべてついていく。


 「元気だなぁ……」


 さっきまで二人して脱水に苦しんでいたとは思えない溌溂とした動きに、「大人は凄いなぁ」なんて羨むフィリップ。大人というか、エルフの凄さなのだが。

 そんなエレナが、まさかそこいらの魔物風情に負けはしないだろうと、やや駆け足程度の舐めた速度で後を追う。


 その更に後ろを追うミナは、人間は脆くてかわいいなあ、なんて考えながら更に緩慢な速度だ。本気を出せばパーティー内で最速だと言うのに。


 ややあってフィリップが追い付いたとき、エレナはフィリップと同い年くらいの女の子を背中に庇って、頭を抱えていた。

 負傷したわけではないだろう。彼女の前には元は人間大の蟻の姿をした魔物だった、内側から爆散したような無残な残骸が転がっている。


 パンチかキックかは知らないが、あれは一撃だ。衝撃が体の内側で暴走して、逃げ場を探す間もなく全体が負荷に耐え切れず破裂したのだろう。


 「姉さまー、フィリップくーん、ごめん、やっちゃったー!」


 思いっきり目尻を下げたエレナが悲鳴にも近い声を上げる。

 確かに、今はまだ魔物の中身が散らばっていて汚らしいが、魔物の死骸は一定時間で灰のような粒子になって消える。


 そんな、顔のパーツが溶けるほど落ち込むことは無いと思うのだが。


 フィリップがそんな風に安穏と考えていたのは、魔物の頭部らしき破片を見つけるまでだった。


 「げ、メイルアントじゃん……」


 メイルアント。

 外見上は人間大の蟻で、魔物の例に漏れず人間に対する攻撃衝動は強い。昆虫と同じく硬い外骨格で守られており、革鎧なんかよりずっと防御力に秀でている。反面、攻撃性能は低い。攻撃手段は人間の腕ほどもある顎による噛みつきくらいだ。


 だが、厄介なのは個体の性能ではない。

 こいつらは頭を切り落として綺麗に殺さないと、負傷や絶命時に特殊な魔力を散布して仲間を呼ぶ性質がある。


 こんな風に身体をバラバラにして殺したら、それはもうわんさかと──あぁ、駄目だ。既に遠くの方から、フィリップにも足音が聞こえるほどの勢いで増援が来ている。


 「この子を守ろうとして勢い余ったんでしょ? 仕方ないなぁ……」


 フィリップもエレナの隣に並び、黒塗りの鞘から龍貶しドラゴルードの青白く輝く刀身を抜き放つ。


 メイルアントは一対の複眼と三つの単眼を持ち、拍奪が通じない。

 が、そもそも必死になって避けなければならないような攻撃をしてこない相手だ。動きも、模擬戦中のエレナの七割くらい。全然どうとでもなる速さと精度だ。


 全く以て、フィリップの敵ではない。……まあ、間合いを伸長しつつ外骨格を容易に切断できる優れた武装ありきではあるけれど。


 相場からすると、増援は十体くらいか、多くても二十体強。フィリップとエレナだけで十分に殲滅できる。


 そして、ミナがゆっくりと片手を挙げ──フィリップとエレナが大慌てで止めた。


 「うわーっ! ミナ、ストップ!」

 「姉さま、メイルアントは綺麗に首を落として倒さないと仲間を呼ぶんだよ!」


 ミナは雑魚狩りに地中から出現する血の槍を使うことが多い。

 獲物を貫き、磔にして晒す彼岸花。あれは対単体攻撃として非常にスマートで確実性も高いから、フィリップが「もし一つだけ上級魔術が使えるとしたらランキング」の上位にいるけれど、メイルアント相手では下策だ。


 「全部殺せばいいじゃない?」


 慌てふためくフィリップとエレナに、ミナはどうでもよさそうに答える。


 それはそう、とフィリップもエレナも頷くところだ。単純な戦力的には。

 しかし、フィリップもエレナもつい先ほどまで脱水症状気味だったから十全のパフォーマンスとは言い難いし、後ろに少女を庇っている状態だ。


 十体そこらならともかく、森の全域に散らばった同族が一斉に寄ってきたら、流石のミナでも討ち漏らすかもしれない。そうなれば最低限自衛できるフィリップとエレナはともかく、少女は死ぬだろう。


 「確かに。でも、そっちの方が面倒じゃない?」

 「……それもそうね。はぁ……剣を振る気分でもないのよねぇ……。フィル、危なくなったら助けてあげるから、エレナと一緒になんとかしなさい」


 言って、ミナは後ろ向きに跳躍して近くの木の枝に腰掛けた。ちょっと膝を使っただけのジャンプで五メートルは跳んでいる。


 「流石に、この程度の相手で危なくなんてならないよ。ねぇエレナ?」

 「うっ、気を付けるね……」


 そんなつもりはなかったのだが、「これ以上増援を呼ばせるのはやめろ」という意味に聞こえたのか、エレナはばつが悪そうに目を逸らした。


 ややあって、襲い掛かってきた魔物蟻の群れを、フィリップとエレナは危なげなく殲滅した。

 エレナの蹴りは大鉈の如き切れ味を以て首を切り落とし、龍骸の蛇腹剣は巧みな使い手の業前によって断頭台の如き精密さを持つ。近接攻撃しかできないうえ、取り立てて力が強いわけでもなければ動きが速いわけでもない魔物を十匹殺すくらい、造作もないことだった。


 フィリップにしては珍しくスマートに敵を全滅させたあと、取り出した水筒が空だったことに気付く。


 戦闘が終わって樹上から降りてきたミナに「お水ちょうだい」と言う前に、横合いから革の水袋が差し出された。見ると、エレナが守った少女だ。


 「……あ、あのっ、ありがとうございます! 助けてくれて!」


 声が裏返りかけるほど怖かったらしく、彼女は手にした水袋を今にも取り落としそうなほどガチガチに強張っている。

 お礼を返して水筒を受け取ろうとして、フィリップは今になって初めて、エレナが庇っていた少女をしっかりと見た。


 へたり込んでいたから小さな少女だと思ったが、フィリップと同い年、12、3歳くらいだ。

 亜麻色の髪に、澄んだ水色の瞳をしている。顔立ちはかなり整っている方だが、流石にルキアやステラほどではない。──いや、他人の容姿を比較して順位を付けるのは失礼な話ではあるけれど。


 水を有難く頂いて、エレナにも分けていいかと目で断ってから回し飲みする。

 口の端から零れた水を拭いながら、エレナは気にするなというように手を振った。


 「あはは、気にしないで! ボクもちょっとヘマしちゃったし、ごめんね? 怖くなかった?」

 「はいっ! お二人がずっと私を気にしてくれていたのは分かりましたし、黒髪のお姉さんが、ずっと私の上に居てくれましたから!」


 頼もしそうに、そして嬉しそうに言われて、フィリップとエレナが明後日の方向に視線を泳がせる。

 それは本当に「居た」だけで、たとえ少女がメイルアントに頭から貪り食われても、ミナは何もしなかっただろう。

 

 「……それ、ビタールート? 誰か風邪でも引いたの?」


 何か別の話題は無いだろうかと、目に付いた、少女が手にしていた物を指す。

 掘り返したばかりなのだろう、まだ土がついている、小さなニンジンのような発達した根っこのある植物だ。


 フィリップはそれをよく知っている。

 田舎の森にも生えている、そこそこポピュラーな薬草だ。血行の促進と発汗作用があり、風邪によく効く。そして二度と風邪を引きたくなくなる程度には苦い。


 「いいえ、お父さんが蛇に噛まれちゃって、すごく高熱で……もう二日もずっと動けないくらい辛そうだから、私……」


 なるほど、と頷いたのはフィリップだけで、エレナはむしろ首を傾げた。


 「蛇毒にプエラリアが効くって説は聞いたことないなぁ。どんな蛇?」


 さらりと別名称、恐らくエルフ内での呼び方で薬草を示すエレナ。

 まあ言語はともかく、製薬技術に関して、エルフは人間を優に上回っている。それこそ、彼らとの国交回復と交易再開が即座に国益となるほどに。


 エレナも「放蕩王女」だなんだと言われているらしいが、それでもエルフの王族であり、薬学知識はそれなりだ。冒険慣れもしているし、蛇に噛まれた時の対処方法も知っているだろう。


 「分かりません。お父さんが咬まれたのは畑仕事の最中だったみたいなんですけど、ちょっと痛いぐらいだから我慢してたらしくって」

 「……容体は? 熱が出てるだけ?」


 やんちゃだなぁ、と呆れる苦笑以上に苦々しく険しい表情で、エレナが問う。

 少女は落ち込んだ様子で頭を振った。


 「もっと酷いです。頭が痛いって魘されてて、ご飯も吐いちゃうし、その……おしっこにも血が混じってて。咬まれた足も、紫色に腫れてます」

 「えぇ!? そ、それでもお医者さんに見せてないの!? まさかお医者さんがプエラリアを勧めたわけじゃないよね!?」


 その言葉で、ビタールートを使うという発想がどれだけ馬鹿げたものなのか、フィリップにも少女にも分かった。

 エレナの声には怒りと侮蔑が混ざっており、そんな処方をする医者はとっちめなくちゃならないと顔に書いてある。


 「村にお医者さんがいなくって。昨日、村の人が近くの町までお医者さんを呼びに行ってくれたんですけど、領主様がご病気だとかで、いらっしゃらなくて」


 エレナの言葉が自分への叱責に思えたのだろう、少女は今にも泣きそうな声で言う。

 普段なら「ごめんね、あなたに言ったつもりじゃないんだ」と慰めそうなエレナは、険しい顔で周囲を見回していた。


 また魔物かと思ったフィリップだったが、それなら警告するだろう。


 「……フィリップ君、シルヴァちゃんを呼んでくれる?」


 なんで? と表情で尋ねると、エレナはじれったそうに手振りで急かした。


 「早く。聞く限り、その人はかなり危険な状態だ。ボクが薬を作る。けど、手持ちの薬草だけじゃ材料が足りない。幸い、この森の植生の感じからすると、足りない材料が自生してる可能性はかなり高いんだ。探して採ってくる」

 「分かった。シルヴァ、聞いてた? エレナを手伝ってあげて」


 ぴょこりと飛び出したシルヴァは、呼んでおいて先に駆け出したせっかちなエルフを追いかける。

 木々の合間を縫ってあっという間に見えなくなった後ろ姿に頼もしげな一瞥を呉れて、フィリップは本格的に泣きの入った少女の方に向き直る。


 少女は声を上げて泣くタイプではないようだが、フィリップの知る彼女の情報はそのくらいだ。少女に対する興味も同じく。

 ただ目の前で泣かれているのは気分が悪いし、それを放置するのも、なんだか人倫に悖る気がする。フィリップを後ろから抱きすくめて愛玩しているミナからの助け舟は、全く期待できそうにないし、自分でどうにかするしかない。


 「……君、この近くに住んでるの?」

 「は、はい。あっちに、村があって……ぐすっ……そこに……」


 律儀な性格なのか、フィリップの苦し紛れの話題逸らしに、少女はしゃくりあげながらも答える。


 そこからどう会話を続けようかと考えて、フィリップの脳裏にふと閃くものがあった。


 「じゃあ、この森に魔物がいるってことぐらい知ってたでしょ。それなのに、一人で薬草を採りに来たの?」


 馬鹿なことだ。

 そう詰められていると感じたのだろう、少女は唇を噛んで頷く。


 「だ、だって、お父さんが苦しそうで……お母さんもずっと看病してるけど、良くならなくって……」


 そっか、とフィリップは頷いて同情を示す。

 フィリップは別に、彼女の行動を責めるつもりはない。フィリップ自身、自分一人では到底敵わない龍を殺すため、大切な人たちを守るために自殺行為にも等しいことをした身だ。気持ちは分かる。


 「でも私、お薬のこと、なんにも知らなくて……。魔物に襲われて、皆さんにもご迷惑を……」


 すすり泣く少女に、フィリップはまた「そっか」と相槌を打つ。


 「……君、名前は?」

 「て、テレーズ……テレーズ・リール……」


 命懸けで摘んできたビタールートを取り落とし、まだ土汚れのついた手で顔を拭おうとするテレーズを止め、ハンカチを差し出す。

 彼女は王都製の薄手でありながら精緻な装飾の施されたそれを汚すことを躊躇ったか、頭を振って遠慮するが、フィリップは頬を押さえて半ば強引に涙を拭う。


 「……確かに、君は無知だった。魔物と戦う力も無く、薬草や医術の知識も無く、ただ無意味に自殺するところだった」


 厳しい言葉だ。

 しかしフィリップの声色も、涙を拭う手つきも優しさに満ちている。


 テレーズは無知だった。

 蛇毒に必要なのは対症療法的な薬草ではなく、解毒薬であることを知らなかった。


 テレーズは愚かだった。

 自らの弱さを一時の感情で忘れ、危険な場所に一人で踏み入り、死にかけた。


 だが──善良だ。

 フィリップが少しだけ羨むくらいに。


 「けれどね、その善良さのおかげで、僕たちは君に出会えた。そして、こうして非常事態を知ることが出来た。……大丈夫、君の善良さは、きっと報われるよ、テレーズ」


 フィリップはテレーズを勇気づけようとか慰めようとか、そういう演出的な意図を全く抜きにして、自信満々に告げる。


 「あのお姉さんはね、僕が知る中で三番目に薬に詳しいんだ」




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