第367話
暗殺者『ドレッドリーシュ』を返り討ちにしてから一週間。
あれ以来何事も無くバカンスを過ごした一行は清涼な湖畔に別れを告げ、王都への帰路に就いていた。
暗殺依頼の取り下げと、既に依頼を受けていた暗殺者が六人だという情報は王都から届いていたが、それとは関係なく王女と公爵令嬢の乗る車列だ。行きと同様、警備は物々しく大所帯だ。
四人乗りのクーペに揺られて一時間も進むと、森を抜けて街道へ出る。昼前に出発したから、今日は少し進んだ街道沿いの宿で一泊の予定だ。
「やっぱり遊び足りないか?」
街道に面した森を眺めていると、隣に座ったステラが揶揄い交じりに問う。
フィリップが気を遣った甲斐あって水遊びをそこそこ満喫できたルキアやステラとは違い、フィリップはずっと森でシルヴァと遊ぶか、戻ってきたミナと足場の悪い環境での戦闘訓練をしていた。
ルキアもステラも何度か「私たちが見ているから湖で遊ぼう」と誘ってはみたものの、フィリップは頑として水に入ろうとはしなかったのだ。
一度神秘体験をしたくらいで怯えるような可愛い性格ではないだろうし、フィリップ自身「もう二度とあんなことは起こらない」と言っていたのだけれど。
「少し。また来ればいいだけのことなんですけどね。エレナも遊びたがってたし、ミナも「もうちょっとで斬れそうなのだけれど」って言ってたし……」
斬れそう、とは言うまでも無く湖のことだ。……いや、明言してなお意味不明だが、とにかくミナはもう少しで湖を斬れそうだと言っていた。
エレナも前々から水遊びがしたいとは言っていたし、誘えば喜んで来るだろう。
ルキアとステラと一緒に、とは行かなくても、水遊びの機会はまだまだある。来年の夏にまた来るという選択肢だって。
「……一度起こったことは二度起こり得るぞ。普通ならな」
再び精霊の悪戯で拐かされるかもしれない。
そして今度こそはヴィカリウス・システムの助力を得られず、帰って来られないかもしれない。
そんな懸念を滲ませるステラの言葉に、フィリップは柔らかに笑う。
「大丈夫ですよ。確かに、同じ現象が起こることは考えられますけど……出てくればいいだけの話ですから」
「……またたべられない?」
ぴょこ、とフィリップの膝上に現れたシルヴァが見上げつつ問う。
唐突な出現だが三人ともよくあることだと平然と受け止めているし、ルキアの隣に座っているメグも、この旅行の間ですっかり慣れているようだ。
食べられる、という言葉にピンと来なかったのは三人だけで、フィリップは「今更何言ってるの?」とばかり首を傾げて半笑いだった。
「ん? あれ? この前の話、聞いてなかったの? 僕とマザーの」
きいてない、とシルヴァは頭を振る。
まさか生物ではあるまいし、ヴィカリウス・システムに睡眠なんて必要ないはずだが、あの夜に限って寝てみたのだろうか。
不思議そうなフィリップと同じく怪訝そうな顔のルキアとステラに気付き、フィリップはシルヴァと一緒に抱いていた懸念のことを話す。水の精霊の一種が無意識の感情を食うことと、フィリップが餌場に迷い込んだことを。そして、何事も無かったことを。
「結局、僕はなにも食われてなかったんです。……考えてみれば当たり前ですよね」
マザーとナイ神父の両方を知るルキアも、片方しか知らないが他に二柱の邪神を知るステラも、「当たり前」という言葉には納得できるはず。
そう思って、苦笑交じりの安堵が返ってくることを予期したフィリップだったが、二人は相変わらずの──いや、より色濃く怪訝そうな表情を浮かべている。……そして、ちょっと怒っているようにも見えた。
ルキアもステラも不機嫌を他人にぶつけるタイプではないから、怒るときは絶対にこちら側に理由がある。
しかし、フィリップには今一つ思い当たるところがない。もう全部解決したのに、なんて考えているから当たり前なのだけれど。
「……そもそも水の精霊が人間の感情を食うという話は初耳だが?」
淡々と──どこから詰めていくべきかと考えていることが、ステラにしては珍しく丸分かりの声。
フィリップは「確かに」と安穏と頷いているが、
「僕も初めて聞いたときは驚きました。けどまあ、英雄譚の類だと水の精霊に勇気を貰うのはポピュラーな展開ですからね。“勇気を与える”じゃなくて“恐怖を失くす”が正確だったわけですけど、湖の精霊が英雄を作り出したことには変わりないですよね」
なんて言っていては、二人の不機嫌は増す一方だ。
「私の言っている意味が、意図が伝わらなかったようだな。──どうしてそれを今まで黙っていたのかと、そういう問いのつもりだったんだが」
「……? ……! ……」
フィリップはそうだっけ? と首を傾げ、そういえばそうだ! と思い出して愕然とし、しまったやばいどうしようと目が荒海に繰り出す。
別に何も食われていないのだし、精霊なんぞより余程上位の存在からのお墨付きなのだから、伏せるべき部分だけしっかりと伏せて説明すればいいのだが、やっぱり怒られの気配には敏感なのだった。
怒りと心配が綯い交ぜになった赤青二つの視線に縫い留められたフィリップに、思わぬ場所から助け船が出される。具体的には膝の上から。
「いったらふたりともしんぱいするから。ばかんす、たのしめなくなるから」
「っ、シルヴァ」
それは言わない約束のはず、と焦るフィリップは、どうして緘口令を敷いたのかさえ忘れているようだ。
「う? ばかんすおわったけど、まだだめ?」
「……いや、もういいよ」
そうだった、と思い出す。
ルキアとステラに知られたくなかったのは、知ってしまえばバカンスどころではなくなると思ったからだ。優しい二人は、きっとフィリップのことを心配してくれる。もしかしたらバカンスを切り上げて王都に帰ろうと言い出すかもしれない。そう危惧してのことだった。
もうバカンスは終わったのだし、何より、説得に失敗しても二人を気遣わせることはない。いや、説得に失敗した場合には、きっと二人とも納得したフリなんてしないだろう。その必要が無いのだから。
だから、まあ、ある程度は話していいだろう。
「……何か、取られたの?」
不安そうに尋ねるルキアに、フィリップは努めて穏やかに安心させるよう頭を振る。
「いえ、何も。それを許すほど、マザーもナイ神父も寛容じゃあありませんからね」
考えてみれば当たり前の話。
しかし──そうなると、フィリップの変化はどういうことなのだろうか。
希死念慮の喪失。死への忌避感が芽生えたというより、死への渇望が薄れたというべきような、曖昧な変化。
これは確かに、あの湖に沈んでから変わったことだ。
絶望と諦観の水底で、ルキアとステラの声を聞いてから。
そう考えて、フィリップの中でかちりと何かが噛み合った。
「そうか。僕は──」
「どうした?」
思わず口走り、ステラが首を傾げる。
フィリップの口元は嬉しそうな笑みの形に緩んでいた。
「ルキア、殿下、僕は──」
あの声を聞いて、死にたくなくなった。
普段は冷たいほどに涼やかなルキアの、今にも泣き出しそうに悲痛な声を聞いて。
普段はどんな状況でも一抹の余裕を残しているステラの、恐怖と焦燥に満ちた声を聞いて。
──結局は幻聴だったらしい二人の声を聞いて、フィリップはこれまで胸の奥底で燻ぶらせていた死への渇望を喪失した。
二人に悲しんでほしくない。苦しんでほしくない。
二人のためになら、このクソみたいな世界で生き続けることくらいは出来る。二人のためになら、そのぐらいの無為な苦痛は背負える。
ルキアとステラのために、生きられる。
そんなことを口走りかけて、フィリップは寸でのところで自分が何を言おうとしているのか気が付いた。正気付いた。
「……照れ臭いからやっぱナシ! 今の無しでお願いします!」
顔を赤くして言葉の通り照れ笑いを浮かべたフィリップからは、深刻さは全く感じられない。
しかし普段は羞恥心など持ち合わせないかのように振る舞い、水着を見ようが下着を見ようが喜ぶどころか照れさえしない少年の頬を赤らめた顔というのは、中々に嗜虐心をそそるものだった。
「おいおいおい気になる切り方をするじゃないか」
続きを吐けとばかり、フィリップの頬を指先でうりうりと突き捏ねるステラ。
心を読む術を持たない彼女だが、なんとなく、直感的に、フィリップが物凄く嬉しいことを言おうとしたのだと察していた。内容までは分からないが。
「ちょっと。フィリップが嫌がってるんだから、無理に聞き出そうとしないで」
そこそこ本気で止めるルキアだが、彼女も彼女で口元が緩んでいる。
彼女がもう少し我儘だったら、ステラと一緒にフィリップを揶揄っていたかもしれない。
「あー、もう! 二人が大好きって話ですよ! 大体は!」
ぷにぷにと頬肉を弄ばれ続けていたフィリップが遂に激発し、顔を真っ赤にしてステラの手をぺちりと払い退ける。
それが意外と痛かったのか、或いは声が少し大きすぎたか、ルキアもステラも鳩が豆鉄砲を食ったような顔で黙った。
筋肉の柔軟性も鞭術で培った身体操作も使わず、全くと言っていいほど強く叩いていないはずだけれど、と心配そうな顔になったフィリップに、ステラは目をぱちくりさせ、一言。
「……それより恥ずかしいことを言おうとしていたのか?」
フィリップは話題が完全に変わるまで、窓の外を眺める人形になった。
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キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
シナリオ15『希死』 グッドエンド
技能成長:なし
SAN値回復:通常1D6、またはバカンスによる心の休息として妥当な量の回復。
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