第366話

 木漏れ日の満ちる森の中、木立の間に哄笑が響く。

 笑う声は愉快そうで、嘲る色はない。──その主を考えると、“珍しく”という言葉で修飾すべきかもしれない。


 「ははは! いいね! 数には数でっていうのは、基本だけど盲点だった!」


 枝の上に立ち、高笑いするフィリップ。

 その表情に曇りは無く、面白いものを見た子供の笑顔そのものだ。遊んでいるときのシルヴァとよく似ている。


 靡く木の葉で揺れる夏の日差しを浴びた姿は如何にも幼気で無垢で、楽しく遊ぶ子供以外の何にも見えない。


 ──その周囲に、十二の異形を従えていなければ。


 「魔物とぴったり同じ数、都合12体のビヤーキーか」


 ビヤーキー。或いはバイアクヘー。

 ハスターの支配するアルデバラン周辺領域原産の神話生物で、地球外生命。


 一般的な牛くらいの大きさで、牛と鳥と昆虫を混ぜて死体から滴る腐敗液で薄めたような、奇妙で気色の悪い外見をした怪物だ。四足歩行に適しているとは思えない骨と皮だけのような四肢と、蝙蝠と鳥の合いの子のような痩せた翼を持っている。

 頬肉のない牛のような頭蓋に生え揃うのは草を磨り潰すための分厚い臼歯ではなく、肉を引き裂くための鋭い牙だ。


 見るからに異形の化け物と言った風情の外観をしているものの、特に神格に連なるものではなく、取り立てて強いわけでもない。

 いや、身体はデカいし空を飛ぶし、星間航行能力もある。おまけに領域外魔術を使える個体までいるが、小型の龍に魔術師が乗っかったようなものだと考えれば、絶望的な戦力ではないことが分かるだろう。


 ルキアやステラは言うに及ばず、硬い外皮以外に特殊な防御──ティンダロスの猟犬でいう次元歪曲のような──は持っていないから、一対一ならフィリップでも龍貶しドラゴルードで斬り殺せる。


 ──しかし、それは『外皮は龍骸の剣なら切り裂ける』というだけ。

 飛行や磁場の観測といった様々な用途を持つ、ビヤーキーに特有のフーン器官という内臓による外部認識は、フィリップの攻性防御である拍奪を無効化する。


 まあ、単純に空を飛んで魔術まで使う牛というだけで、脅威度は推して知るべしという感じではあるけれど。体重、体格、筋力、どれも脅威だ。


 それが12体。

 ハスター召喚の魔法陣から出てきたのはヒトガタを象る無数の触手の集合ではなく、異形の群れだった。


 「いい趣向だね。ちょっと臭いけど……ま、ティンダロスの連中に比べたらずっとマシか。──行け、そいつらを殲滅しろ」


 命令を受け、ビヤーキーの群れが磁気を持つという鳴き声を上げながら魔物を追い立て始める。残念ながらフィリップの耳には、彼らの鳴き声は嗄れて耳障りなものとしか聞こえなかった。


 数には数で。量には量で対抗する。

 質も量も関係なく天地万物を薙ぎ払うような化け物を使うのは、大袈裟だしナンセンスだ。


 単なる気まぐれか、ハスターなりの諫言のつもりか、はたまた意外とエンターテイナーなのかは定かではないが、フィリップの受けはとても良かった。


 ……それは、そうなのだけれど。


 それはそれとして、ハスター本体が出て来ないとそれはそれで困る。


 「ハスター。降りるのに手を貸してくれない?」

 「……分かった」


 配下にすべて任せるつもりだったのだろうか。地面を見下ろして「飛ぶには高いなぁ」なんて眉尻を下げるフィリップに答える声は沈んでいた。その後に続く、魔法陣から大量の触手が這い出てくるぞるぞるという湿った音も、心なしか溜息交じりな気がした。


 フィリップが触手の海をクッション代わりに枝から飛び降りた時には、魔物もビヤーキーも、暗殺者もみんないなくなっていた。




 ◇




 恐ろしい詠唱を皮切りに空が濁り、雲が蠢き、風が暴れ始めた。

 見たことのない不快な色の空は、日の光が穢されたことを示しているようだ。雲は嵐よりもっと暗い色で重く立ち込め、有り得ない挙動で垂れ下がる。穢れた光は木々の葉をも侵し、目に優しい包み込んでくれるような緑色は毒々しい黒を纏う。


 どす黒く汚れて淀んだ空間を、心地よさそうに悠々と泳ぐ異形がいる。

 ビヤーキーと呼ばれた怪物。巨大な昆虫が哺乳類を犯し、人間の胎で育てさせたような悍ましい化け物。


 見たこともない異形の群れから、『ドレッドリーシュ』と使役下の魔物たちは散り散りになって逃げだした。


 一心不乱に、振り返ることなく必死に走り続ける『ドレッドリーシュ』の魔術的感覚に、配下の魔物が次々と倒されていることが伝わる。


 広い視野と優れた空間把握力を持ち木立の合間を縦横無尽に駆け抜けるツインヘッドハウンドが、それ以上の空間把握力と運動性能を持つ捕食者に捕らえられて引き裂かれた。


 影の中でのみ発動する強力な自己隠避魔術を使うニュームーンウルフが、視覚に依らない索敵能力を持つ捕食者に狩り出された。


 厚い毛皮と強靭な筋肉に加え、鋭利な爪牙と飢餓のような攻撃本能を持つブラッドグリズリーが遥か高空へと持ち上げられたのち、地面で熟れた石榴のように弾けた。


 翼を持つとはいえ空中に滞空して超音波攻撃するのが主なデモニックバットは、空中戦ドッグファイトで撃墜された。


 直線ではビヤーキーの飛行速度を上回る疾走速度を誇るラピッドボアは、魔術によって速度を落とされて捕まった。


 しかし──逃げた獲物のうち、最も逃走・戦闘能力に欠けるはずの『ドレッドリーシュ』だけが、未だに息を荒げながら森の中を逃げ惑っている。


 背後からは聞くに堪えない汚らしい鳴き声が時折響き、合間合間に魔物の断末魔が混ざる。

 頼みの綱のもう一匹、シルヴァを追わせていたツインヘッドハウンドにも戻ってくる命令を出したというのに、自分の元へ帰り着く前に狩り殺された。


 木の根に足を取られ、泥濘で滑り、木の枝で肌を切りながらも必死に走り続ける『ドレッドリーシュ』。

 異次元のように変貌してしまった森の中を泳ぐように飛び回りながら、狩りか、或いは遊んでいるかのように魔物たちを屠った彼らが、今や残り一匹の獲物となった自分を追っていた。


 振り返らずとも分かる。背後、いや全周から感じる威圧感は、知覚力は並の人間の域を出ない魔物使いの暗殺者でも、脊髄を引き抜かれて氷柱を差し込まれたような激甚な悪寒を感じるほどだ。

 時折木々の間を太く長い何かが悠然と横切るのが見えて急転身したことも一度や二度ではない。


 魔物の断末魔が消え、森は一時の静寂を取り戻す。

 静けさも、ふと聞こえる異形の愉悦も、どちらともが『ドレッドリーシュ』の精神を蝕む毒だった。


 躓いたりぶつかったりしながら一生懸命に──それこそ命を懸けて、足を動かすことだけを考える。ほんの少しでも恐怖に囚われて足が竦めば、その先には“死”しかない。


 走り、走り、ひたすらに走り──遂に、その酸欠で狭窄し暗くなった視界の中に、灯火の如き輝きが映る。


 陽光の温かさと澄んだ水の冷たさを感じさせる、美しき湖の煌めきだ。


 ──勝った、と。

 『ドレッドリーシュ』は無意識にそう安堵した。


 あの湖には聖痕者が二人に、第一王女の親衛隊までいる。助けを求めるのに彼女たち以上に頼れる相手はそういないだろうと。そして聖痕者であれば、あの異形の怪物どもも一瞬で殲滅できるはずだと。


 当然、その特大戦力が自分を殺しにかかる可能性はある。いや、逃がしてくれる可能性の方が低い。それは勿論分かっている。助けてくれるどころか、怪物と一緒に殺されるのが関の山だろう。

 けれどそちらの方が──魔術や、剣や、弓、そういう普通の死に様で死ねるのであれば、そちらの方が断然マシだ。


 そんな考えから必死に走り、遂に『ドレッドリーシュ』は森を抜けた。


 陽光を遮る梢が無くなると、肌を刺すような日差しが燦々と降り注いで唐突に暑さを思い出す。普段なら鬱陶しいほどの熱気だが、『ドレッドリーシュ』は深々と安堵の息を吐こうとして酸欠で咽せ、それでも込み上げてくる笑いで身体が痙攣しそうだった。


 青い空。白い雲。温かな日差し。水の匂いの混じる風。


 やはり人間は、陽光の下で生きるようになっている。

 だって、ただの光、ただの熱であるのに──こんなにも心が安らぐのだから。


 しかし呆けてばかりもいられない。あの耳障りな鳴き声は聞こえないものの、まさか森を出たら襲われないなんてことは無いだろうから。

 

 「た、助けてくれ! 誰か、誰か──!」


 一番近くに居た人影に向かって走りながら、『ドレッドリーシュ』は大声を上げ思いっきり手を振る。

 砂地用のマント姿は湖畔にあっては不自然極まりないだろうが、脱いでいる余裕なんてありはしない。というか、街道が封鎖されている森を抜けて湖に来た時点で暗殺者確定みたいなものなのだし、多少怪しかろうと誤差だ。


 そして──湖畔に佇んでいた使用人が振り向いたとき、激甚な危機感に襲われて足を止めた。


 モノクロームなメイド服に身を包んだ、華奢な女だ。

 体格だけなら、特に戦闘術を身に着けているわけではない『ドレッドリーシュ』が魔物を使うまでもなく殺せそうに思えるほど。


 しかし、その顔には嫌な見覚えがある。

 貞淑な令嬢といった風情の容姿に物憂げな表情が良く似合うが──彼女が死ぬほど物騒なことを考えていることは知っている。


 あぁ──どうして、こいつの頸には頭部が付いているのだろう、と。


 「……あら? 確か、魔物使いの……」

 「つ、『椿姫』……!?」


 終わった、と、『ドレッドリーシュ』はする。

 元ギルドトップ暗殺者『椿姫』。対多数戦能力ならいざ知らず、単に人殺しの巧さだけなら『ドレッドリーシュ』は彼女の足元にも及ばないと自覚し認めている強者だ。


 その殺し方は極めてスマートで、標的は気付かぬうちに首を切り落とされて死に至る。中には自分が死んだことに気付かず数歩歩いて振動で首が転げ落ち、自分の身体を見上げた頭が驚きに目を見開いた、なんて逸話もあるくらいだ。流石に都市伝説だろうが、とにかくそのくらい凄い業前だと広く知られている。


 彼女の手に掛かるなら、一瞬で苦痛なく死ねるだろう。あんな見るも悍ましい魔物に殺されるよりずっとマシだ。


 これで終わりだと──体感時間では無限にも思える、実際はほんの数分の恐怖体験、逃亡から解放されると、そう安堵した。


 同時に、早くしてくれと急く。


 早くしないと、あいつが追い付いてくる。

 冒涜的な獣たちを従える、幼き怪物。あの恐ろしい冒涜の王が。


 ──直後。

 

 「あ、っ!?」


 『ドレッドリーシュ』は派手に転倒した。

 地面が柔らかい砂利に変わって足を取られたわけではない。何かに足を掴まれて引っ張られて、つんのめって転んだのだ。水草か木の根にでも躓いたような感触だったが、しかし、足には何も絡まっていない。


 絶望と恐怖が足から脳天へ駆け上がってくる。

 脚を掴んだ見えない“何か”は、じわじわと森の方へ──あの地獄の方へ『ドレッドリーシュ』を引っ張っていた。


 「あ、い、嫌、嫌だ、いやだ! 助けて! 『椿姫』! 助けてくれ!」


 砂利を、小さな雑草を、落ちていた水草までも掴む必死の抵抗も虚しく、『ドレッドリーシュ』は森の中に引きずり込まれて見えなくなった。


 甚大な恐怖を映した形相と絶叫に、さしものメグも踏鞴を踏んで下がる。

 『ドレッドリーシュ』、面識こそ無かったもののお互いの情報は把握していたから知っているが、彼は魔物使いだ。狂暴な魔物を手懐けるため、時には自分を囮にして拘束用魔法陣に誘い込んだり、魔物が罠にかかるまで気配を殺してじっと待っていたりもする。恐怖心は麻痺しているような手合いのはずだ。


 いや、そもそも二つ名を冠する時点で相当な手練れだ。ある日突然森の中で熊さんに出会ったって落ち着いて対処できるだろう。


 その熟達のアサシンがあれほど恐怖し恐慌するなんて、どう考えても只事ではない。……いや、勿論暗殺者だって人間だ。恐れもすれば怯えもする。しかしあんな、形振り構わない狂乱ぶりは二つ名持ちの暗殺者には似つかわしくない。


 まるで、あの吸血鬼のような恐ろしい捕食者にでも追われていたようだ。


 流石のメグもアレ相手、アレと同等の何か相手では歯が立たない。

 思わずルキアに助けを求めたくなるが、彼女はステラの水着探しで離れたところにいる。森の中をゆっくりと進んでくる“それ”が姿を見せる方が、メグが何か判断するより早かった。


 メグは逃げることも攻撃することもなく、悠々と森を出てきた彼を呆然と出迎える。


 「馬鹿ばっかりだ。ま、ビヤーキーに大した知性が無いことを知った上で、ちゃんと命令しなかった僕が一番馬鹿なんだけどね」


 へらへら笑いながら姿を見せる、金髪碧眼の少年──メグもすっかり馴染みの相手になったフィリップ。

 彼はメグに気付いたようだが、「あ、メグだ」とばかり僅かに眉を動かしただけで、特に何か話しかけたりはしなかった。


 森から出たフィリップは湖の方を見てから左右を確認し、ちょっと離れて森の上の方を見ると、こくこくと満足そうに頷く。

 ついうっかり命令し忘れていたが、森から出たビヤーキーは一匹もいない。ハスターが配慮してくれたようだ。


 「二人は……結構沖の方だな。シルヴァと遊んでるのか。よしよし……うん、知性のない配下も完璧に制御してるね。流石は邪悪の貴公子」


 やっぱり信用できるなぁ、なんて感心していると、森の方から声なき意思が届く。

 声ではない故に声色という情報が抜け落ちた言葉では感情を読み取りようもないが、なんとなく、「乾いた笑い」と表現すべきもののような。

 

 「ははは……。お褒めに与り光栄だ」

 「しかも愛想笑いまで出来る。女性の化身で顕現したら惚れちゃいそうな万能っぷりだ」


 勿論冗談──とは言い切れないのが怖いところだ。

 邪神が人間状の化身を象るとき、手癖で完璧なものを作ってしまうのか、或いは意図して作っているのかは不明だが、美形になることが多い。


 人間の美的感覚は概ね顔や身体が左右対称でパーツごとの均整がとれていれば美しいと判断するが、勿論、完璧に左右対称の身体を持つ人間はそういない。遺伝子は優れた設計図だが、自然の産物である以上、どこかに欠陥はあるものだ。


 邪神の化身作成にはそれがない。

 人間が定規を使って線を引くように、なんとなくヒトガタを作るだけで完璧なものが出来上がってしまう。なんとなく出来上がった完璧なものを、人間の側が勝手に美しいと感じているだけの場合もままあるだろう。ナイアーラトテップ辺りは慣れているから美醜を考えて意図した化身を作っているはずだけれど。


 ともかく、邪神は人体では到底有り得ない美を持った姿を象ることができる。それは自然的・超自然的なものもそうだし、人間の美的感覚に即したものもそうだ。


 フィリップがいま知っている以上の“美しさ”を見せつけられて、簡単に堕ちてしまう可能性は有意にあった。


 それも些事あわだが。

 

 「お望みとあらば、銀髪美女の姿で馳せ参じようか?」

 「なんで銀髪……? それより、処分が終わったらさっさと帰って欲しいんだけど、これは何待ちの雑談なの?」

 「ビヤーキーたちが魔物と人間を綺麗に食べ終わるのを待っているんだ。急がせてはいるけれど、所詮は生物の食事だからね。限界というものがある。食べ残し、食べこぼしは無い方がいいだろう?」


 逆の立場だったら「自分が呼んだくせに!」と怒るようなことを平然と宣うフィリップだが、応じる意思こえに呆れの色は無い。それが当然であるかのように、淡々と応じる。


 まあそもそも声色が分からないから感情なんて読み取りようもないのだけれど……そんなことより、ちょっと至れり尽くせりにも程がある。フィリップが召喚に際して命じた、念じたのは「不快害獣の駆除」だけだったというのに。


 「……今度、メイド服でも着てみる?」


 コスプレという概念を知らないからか、その手の所謂『プロの衣装』をその域にない人間が身に着けることには否定的なフィリップだったが、思わずそんなことを口走る。


 「メイドフク? どういうものだい?」

 「侍女が着る制服みたいなものかな。あ、でもハスターって男神だっけ?」

 「遺伝子で生殖する原始生物じゃあるまいし、性別なんて持ち合わせていないが……従者に扮するということかい? それはナイアーラトテップの顰蹙を買いそうだけれど」


 それはそうだと、フィリップは一瞬で納得した。


 しかし……それはそうだが、ナイアーラトテップの不興を買うのはフィリップではなくハスターだ。アレがフィリップの意向に口を挟むとしたら、それはアザトースの意向と相反した時だけだろう。

 自分の感情で主人の行動を制限するようなら、そんな奴は従僕とはとても呼べないし、そんなのは要らない。


 まあ「おや、君は着せ替え人形で遊ぶ趣味がおありでしたか。あぁ、いえ、責めるなど滅相も無い。ご自分好みの雌性を好みに従って着飾らせ侍らせるというのは、スケールの小さい話ですが上位者の遊びでしょう。えぇ、全く以て矮小な話ですが」とか、煽られるのは目に見えているけれども。


 




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