第363話

 ルキアとステラは、フィリップの身の安全のため、そして自分たちも含めた三人のバカンスのため、精霊を排除するかフィリップを泳がせないようにする必要があった。精霊の悪戯に心を掻き乱されるのは二度と御免だ。


 とはいえ、湖まで来て「泳ぐな」というのも酷な話だ。二人ともフィリップには楽しんでほしいし、そこまで苛烈な制限を付けるのは本意ではない。


 何が何でも水遊びがしたいわけではないフィリップを説得するのは、幸い、至極簡単なことだった。

 朝食の席でルキアとステラが二人がかりで説得に臨まずとも、従者に伝言させるだけですんなり受け入れただろう。

  

 フィリップの安全と二人の安寧の兼ね合いを色々と考えて「水に入るときは常に私かルキアがお前の片手を握っている。振り払ったら即、お前を陸に打ち上げるからな」とまで言ったというのに、あっさりと、「今日はシルヴァと森で遊ぶので」と言い放って、強烈な肩透かしを食らわせたくらいだ。


 まあ二人としても交代で監視なんて子連れの夫婦みたいなことをするのは不本意だし、それでは流石にバカンスを満喫するどころではないので、フィリップが泳がないならそれで構わないのだが……ちょっと釈然としないものはある。


 しかしフィリップにも言い分はある。

 彼とて水遊びをしにここまで来たのだから、遊泳制限は地味に悲しい。勿論二人に余計な心労を負わせることの方が悲しいので、説得して二人の懸念を完璧に払拭できる自信が無い以上は従う。


 「マザーが大丈夫って言うからには大丈夫なんだろうけど、この理屈は僕ぐらいしか分かんないだろうしなぁ……」


 変に言い募って「じゃあ手つなぎ遊泳で」というのが、フィリップが最も避けるべき展開だ。だってきっと、それが二人の心労が一番大きくなる。


 「これが最適解のはず……。旅行が終わってからなら殿下に訊けるかな?」


 流石に今日明日に訊くと、ステラは「気遣いは不要だ。邪神が保証したなら大丈夫だろう」とか言って水遊びを許して、それでも気を張り詰めたままバカンスを過ごす可能性がある。


 「ふぃりっぷ、みっけ!」


 頭上からの──樹上からの、声。 

 フィリップはいま、湖を取り囲む森の中にいる。青空の半分以上が林冠に隠されるような、よく成長した森だ。


 「うん……やっぱり逃げる側は話にならないな。というか、まだ三分ぐらいしか経ってないのに」


 誰の真似か、しゅたん、とやけに格好よく樹上から降りてきたのは、先の声の主であるシルヴァだ。かくれんぼの探す側、鬼役でもある。


 逃げる側、子役だったフィリップに与えられていたタイムカウントは100秒。100秒使ってシルヴァから離れて隠れたのに、80秒かそこらで見つかった。


 「つぎ、ふぃりっぷがおに! ひゃくかぞえて!」

 「オーケー。流石に逃げる側は厳しいけど、鬼側なら負けないよ! いーち、にーい、さーん……」


 フィリップが木の幹に向かって顔を伏せると、背後で僅かに気配が動く。ルール上カウントダウン中には振り向けないが、直感的に、今のは跳躍──いや、それは不味い。というかズルい。


 いやそもそも、森の中で何かする時点でシルヴァが思いっきり有利だ。

 鬼ごっこだと勝ち目はないが、かくれんぼでも大概だろう。なんせシルヴァは森の全域を掌握しているのだから、その気になればフィリップがどこでどう隠れているかも一瞬で分かるはずだ。


 勿論、それでは遊びにならないし面白くもなんともないので、流石に目は瞑っているだろう。


 条件的には、フィリップも似ている。

 領域外魔術の召喚術式で結ばれているフィリップとシルヴァは、お互いの位置をなんとなく把握できる。その相互把握は距離が近ければ近いほど正確になるから、これもかくれんぼではチートの範疇だろう。


 だからフィリップも魔術的な感覚には頼らず、自分の目と推理力だけでシルヴァを探すつもりだ。


 そのつもりだが──いや、よしんば魔術的感覚をフルで使ったとしても、目の届かない頭上に隠れられては見つけようがない。木登りは苦手ではないが、取り立てて得意というわけでもないのだし。


 「じゅういち、じゅう……に、ってちょっと待って!? 木の上はナシだよ!?」


 かなりのスピードで遠ざかっているだろうシルヴァに届くよう、大声で叫ぶ。ややあって、シルヴァから「わかった」と意思だけが返ってきた。


 隠れる場所を地上に限定したとしても、シルヴァを探すのは相当に難しい。一応ハンデ代わりのルールとして「初めに隠れた位置から動くのは禁止」と決めてあるが、それでも相手はヴィカリウス・シルヴァ。森そのものと言っていい存在だ。

 どこが死角か、どこに隠れたらどの場所からの視線が切れるかを完璧に把握しているだろう。おまけにあの出で立ちだ。背景との同化率が物凄い。


 「99……ひゃーく! いくよー!」


 返事が無いのを承知で声をかけて、フィリップは顔を伏せていた木の幹から身体を離す。


 100秒間の暗闇の後に見る森の景色は明るく、それ以上に美しい。

 自分たちの分の日光を確実に確保しつつ低層にも淡い木漏れ日をくれる古い木々は、樹齢を感じさせる太く強そうな高い幹と、若々しく青々とした林冠を持つ。未だ年若い低木たちは木漏れ日を受けて若葉を煌かせ、時に果実を鮮やかに魅せつける。下草は柔らかく、時に深く険しい藪となり、優しいだけではない森の二面性をよく表している。


 深く、広く、そして密度の高い森だ。──この中から幼女一人を探し出すことを思うと、ちょっと尻込みするくらいに。


 「み、見せてやるぞ、狩人の息子の底力ってやつを……!」


 魔術経路になんて頼らねぇ、聞きかじりのトラッキングで追跡してやる! ……なんて息巻いていたのは、シルヴァの痕跡の開始直後十数秒分が、発見不可能な頭上にあることに気付くまでの数十秒だけだった。


 シルヴァに心を読む力が無くて良かった、と久々に思う。

 ドライアドとは違い、ヴィカリウス・システムに読心能力は無い。人間──700万年前に生じたサヘラントロプスの末裔程度、四億年の存在歴を持つヴィカリウス・シルヴァにはいてもいなくても変わらないモノなのだから。


 だから──フィリップがちょっとだけズルしたことに、シルヴァは気付いていないだろう。距離には目を瞑って、方向だけ確認したのだけれど。


 ……確認、したのだけれど。

 けれどフィリップは、もう三十分も森の中を彷徨っていた。


 「ぜ、全然いない……! シルヴァー? ホントに地上にいるー?」


 やや大きめくらいの声で叫んでみるも、シルヴァからの返事は無い。声が聞こえない距離にいるのか、聞こえるけれど無視しているのか。


 いや、シルヴァは人間の心こそ読めないものの、森の中で起こっていることは完璧に把握できる。フィリップが呼びかけたことは分かっているはずだ。

 つまり意図的に返事をしていない。……息を殺しているのだろう。


 「この辺にいるってこと……?」


 木の幹の一つ一つを回り、ゴソゴソと藪をかき分けて、時に飛び出してきた虫に驚いたりすること数分。やっぱりシルヴァが見当たらない。


 これはそろそろ、もう一回ズルするべきかもしれない──フィリップがそんなことを考えていたとき、森の外、湖では大事件が勃発していた。



 ◇



 僕に気を遣わず、二人は湖で遊んでてください。

 そうまで言われてしまったルキアとステラは一緒に森で遊ぶとは言えず、無理について行っても「気を遣わせてしまった」と思わせてしまうだろうから、二人で水遊びをしていた。


 折角の機会だから普段は使わない筋肉を使おうと、ステラは身長以上に深い場所で、そこそこ本気で泳いでいる。ルキアも付き合い程度には泳いだが、変な日焼けをすると気付いてからは岸辺にいた。


 ルキアの視線は綺麗なフォームで泳いでいるステラではなく、森の方に向いている。流石に魔力視までは使っていないが、「フィリップはどうしているのだろう」という心配が顔に明記されていた。日傘を持つメグも苦笑気味だ。


 昨日ほどではないもののバカンス中とは思えない緊張感のある空間に、慌てた声が響く。


 「ルキア! ルキフェリア! 問題発生だ! ちょっとこっちに来てくれ!」


 見ると、遠く──ルキアより背の高いステラが首まで浸かる深さの辺りで、繰り返し呼んでいた。


 「……? なに、どうしたの?」


 ステラらしからぬ慌てように、ルキアも流石にただ事ではないとメグにパレオを預けて水に入る。

 黒いレースの布地が取り払われ真っ白で柔らかそうな肌が、健康的な肉付きと曲線美を兼ね備えた脚が露になるが、従者も親衛騎士も全員が女性だ。フィリップ以外の男が居れば歓声でも上げそうな美しさだったのだが。


 大仰に呼び立てた割には首まで水に浸かる位置から一歩も動かないステラに、もしや足が岩に挟まりでもしたのかと急ぐ。


 岩を砕いて退かすのは、水中ではルキアの方が適切だろう。ルキアの方が、というか、火よりも重力の方が。

 岩棚を吹っ飛ばすくらいの火力は余裕で出せるステラだが、そうすると同時に大量の水が蒸発し、水蒸気爆発を起こす可能性がある。勿論、熱操作や魔力障壁で自傷は防げるが──それよりは、重力操作で簡単に事を為せるルキアに頼った方が早いし安全だ。


 そしてステラのすぐ傍まで来たルキアは、彼女の姿に違和感を覚えて立ち止まった。


 濡れて艶めく陽光のような金髪。

 少し視線を下げて、艶やかに水の滴る白く嫋やかな首筋や鎖骨に。


 そして視線をさらに下げ、水面下に。

 最強の証である赤い聖痕。ルキア以上の大きさを誇る胸の双丘、女性的魅力に富んだその曲線美を追い──やけに肌色の面積が多い。僅かなくすみもない美しい肌がずっと続き、そして、丘陵の頂点に咲くピンク色──。


 それを認識して、ルキアは思いっきり胡乱そうな顔でステラの顔を見た。

 ステラは笑顔だ。見覚えのある──フィリップが難問に躓いたときに見せる、諦観に満ちた笑顔だった。


 「……探せばいいのね?」


 命に別状はないなら、まぁ、想定した状況よりは幾分マシだ。

 それでも友人の尊厳が懸かっているので、そこそこ非常事態ではあるのだが。


 「あぁ。カーターが出てくる前に頼む」

 

 実際のところ、生まれて以来ずっと着替えや風呂を侍女任せにしていたステラの羞恥心はかなり希薄だ。

 みだりに肌を見せるべきではないとか、恥ずべきことだという常識は持ち合わせているが、別に見られたところで死にはしないし発狂もしないのだから良いんじゃないかとは思う。


 しかし、当人の感情とは別に、彼女には地位というものがある。

 婿前の王族の裸を見た? なるほど、目を抉ったのち首を刎ねよ。──これが、通常の展開。


 問題はフィリップの“救国の英雄”という立場と、国王の思惑。

 ステラも父の考えの全てを読み解いているわけではないが、それでも家族であり、背中を見つめ続けてきた相手だ。


 「ステラの裸を見た? ふむ。フィリップ君、君も魔術学院で学んだ学識と知性、そして品性と良識を持つ人間だ。責任の取り方くらい、知っているだろう? ……なに、今後二度とこのようなことが起こらぬよう、君が生涯を懸けて守るだけのことだ。死が二人を分かつまで、ね」


 ……とか、言いかねない。


 「見つける前にフィリップが帰ってきたら、メグに私のパレオを借りなさい。運が良ければバレないでしょう」

 「あれはレース……いや、無いよりマシだな。有難く借りるよ」


 流石にステラの心配までは共有していないものの気遣ってくれる友人に、ステラは心から感謝した。






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