第362話

 マザーの膝に頭を預けて横になったフィリップは、マザーの手が頭を撫でるがままに身を任せる。


 しばらく無言で、できれば目も瞑って、太腿の柔らかさや上質な布の肌触りや月と星々の匂いを堪能したいところではあるけれど──そうするとこのまま寝てしまいそうなので、仰向けに姿勢を変え、気力を振り絞って言葉を紡ぐ。

 喪服越しにもはっきりとその存在を主張する豊かな双丘の稜線が微妙に顔を隠してしまうが、マザーが姿勢を変えて何とか目を合わせることはできた。


 「貴女の守り……僕の精神の防御は、完璧なんですよね?」

 「えぇ、勿論よ。……どうしたの? 何か気になることでもあった?」


 優しく柔らかに頭を撫でる手が急激に眠気を呼び、名残惜しく思いつつも手を取って自分の胸の上へ置く。

 嫋やかで温かい手が、心臓と、重ね合わせた手を通じて全身を温めてくれるような気がして、フィリップの口も軽くなる。


 「はい。実は──」


 フィリップは精霊の食事場に迷い込んだこと、精霊が人間の無意識を食うこと、そして自分の心が食われたかもしれないことを語る。死への恐怖は微塵も無いままなのに、どうしてか死にたくなくなったことも。


 恐怖の告白──とまでは行かずとも、不安を吐露しているというのに、フィリップはむしろ幸せな気持ちで話せていた。

 自分の言葉をマザーが聞いてくれている。相槌を打ったり、驚いたり、笑ったりしてくれる。ヴェール越しの銀色の双眸が自分を見つめて優しく細められ、慈愛と愛玩に満ちた柔らかな眼差しを独占している。そう感じるだけで幸せだった。


 やがてフィリップが語り終えると、マザーは右手をフィリップの胸に置いたまま、左手で口元を隠して笑った。気品を感じる仕草だが、それ以上にぞっとするような色香があった。

 

 「ふふ。大丈夫よ。貴方の全ては、貴方が自ら捨てるまで永劫に貴方のものよ。私たちが守っているのだもの」


 でも、と言い募ろうとしたフィリップだったが、その前に頬を撫でられて言葉を飲み込む。


 「えぇ、えぇ。あの■■が貴方に不信感を与えていたことは分かっているわ。けれど、ね、フィリップくん」


 ふ、と呼気交じりに笑みを浮かべるフィリップ。

 名前を呼ばれただけで、脳髄が耳から溶け出そうな多幸感に包まれる。言葉の中に人間の脳では理解できない邪悪な罵倒が混じっていたことには気付いていたが、気を払う余裕までは無かった。


 「フィリップくん、よく考えてみて。私たちは外なる神、時間の外に在るものよ?」

 「僕を守り損ねたら、守り損ねる前に時間を戻すか、その時点に再干渉すればいい。それは分かります」


 そうよね、と満足そうな相槌を打つマザーだが、フィリップに分かるのはそこまで──外神に何が出来るかまでだ。彼らがどう動くのかは所詮推測の域を出ないし、ましてや自分のことなど。


 「でも、僕が死んだ後にどう思うかは分からない。人間の身命なんてさっぱり捨ててしまうかもしれない」

 「そうね。貴方の心は貴方だけのもの。貴方がどう思ったとしても、私たちは説得なんてせず、貴方の望みを叶えるだけだと思うわ」


 半ば予期していた通りの答えを受けて、フィリップは緩やかに目を閉じた。


 「それは……怖いよ、マザー」


 ぎゅっと、硬く目を瞑ったフィリップが恐怖を吐露する。

 いや、恐怖ではなく単なる懸念か。どちらにしてもマザーには理解も共感もできないものだが、だからといってフィリップの感情を笑ったりはしない。


 「なのに、貴方は不死を望まないの?」


 代わりに投げられた問いは、フィリップには妙に遠くに聞こえた。

 だが、マザーの体温も匂いもそこにあるし、胸に置かれた手をフィリップはしっかりと握っている。


 だから声が遠くなったのではなく、フィリップの意識が遠退いているのだ。

 目を瞑ったことで睡魔への抵抗力を喪ったか、或いはいつもの通りか。

 

 「僕は……なるべく人間でいたい。そして僕の価値観だと、不死身アンデッドは人間とは呼ばないんだ」


 答えている間にも、どんどん意識が沈んでいく。目を開けようとしても瞼が重く、目を開けようという気にもならなくなる。

 

 「だから、僕はずっと──」


 マザーの膝の上で、フィリップの頭がゆっくりと傾いでいく。

 言葉は尻切れに消え、やがて微かで規則正しい寝息が聞こえてくると、マザーは困ったように微笑して握られていた手をそっと外す。


 彼女は権能や触手を使わず自らの腕でフィリップの矮躯を抱き上げ、重さを感じさせないほど滑らかに、そして腕の中で眠る子供を起こさぬよう静かに立ち上がる。足を向けた先はフィリップの泊まる宿、湖畔のコテージだ。


 何ら魔術を行使した様子もなく平然と歩き、当然のように立哨の親衛騎士が開けた扉から入り、フィリップの部屋へ向かう。


 「けれどね、フィリップくん。成長するにつれて嗜好が変化するなんて、学習と成長の機能を持った生き物なら当然のことよ」


 フィリップをベッドに横たえてタオルケットをかけながら、マザーは穏やかに語る。

 返事は無いし、マザーとて寝入った人間が会話に応じないことくらいは知っている。それでも聞こえているのか、或いは聞こえていなくてもいいのかはマザーにしか分からないことだ。


 「──おやすみなさい、良い夢を。貴方が大人になっても、幼いままでも、ずっと変わらず愛しているわ」


 枕元に立ったマザーが腰を折り、フィリップの額へ唇を落とす。

 ヴェールを少しだけ持ち上げる仕草も、キスをするまでの一連の所作も、何もかもが怖気を催すほどに艶めかしい。窓から差し込む星明りに照らされた姿を見たものがいれば、性別を問わず腰が砕けるような色香を纏っていたのに──その光景は聖人の影に口付けする信徒のようにも見えた。


 新月から降り注ぐ漆黒の光が翳り、やがてそんな物理法則に反したものなどあったはずもないと言わんばかりの星明りに満ちた夜が戻る頃には、この場にいるはずもない王都の神官の姿は無かった。


 ただ、フィリップは幸せそうな寝顔を浮かべ、悪夢も含めた何にも邪魔されることのない穏やかな一夜を深い眠りの中で過ごした。




 翌朝。

 旅先の慣れない枕だったとは思えないほど快眠だったフィリップは、朝から上機嫌に鼻歌など歌いながら洗面所へ向かい──折角なので湖の水で顔を洗おうと玄関に向かった。


 夏場とはいえ朝は涼しく、湖の水もひんやりと冷えていて心地いい。

 顔を洗うだけでなく思いっきり飛び込みたい衝動に駆られるが、少し離れたところで既にぱちゃぱちゃ泳いでいるシルヴァに合流する前に、背後から呼び掛けられた。


 「フィル」という呼び方と、不機嫌でかったるそうな声で振り返るまでもなく人物を特定できる。

 天地万物が面倒臭いと言いたげな声はいつものことで、それ故に、振り返ったフィリップは怪訝そうに眉根を寄せることになった。


 「おはようミナ。ここで顔洗うの、気持ちいい……なんか怒ってる?」

 

 ミナは波打ち際に立っていたが、高いヒールのおかげで足やコルセットドレスは殆ど濡れていない。しかし、眉根だけでなく鼻筋にも皺を寄せて、ぞっとするほど冷たい目をしている。


 「怒ってはいないわ。不愉快なだけ」

 「寝起きが悪いの、珍しいね」


 毎日ではないにしても、そこそこの頻度でミナと同じベッドを使っているフィリップだが、起き抜けのミナが不機嫌なのは珍しい。無理やり起こされたのなら話は別だが、自分の意思で起きたのなら、早起きに慣れているフィリップよりも寝起きが良いくらいなのに。


 不機嫌だからと言ってフィリップペットに八つ当たりするタイプではないし怖くは無いのだが、それでも癇癪で軍隊一個を殲滅できる相手だ。怒らせたいとは思わないし、逆鱗に触れるような真似は避けるが吉だろう。


 具体的に逆鱗はどの辺なのかなぁ、と探るような問いに、ミナは表情を不機嫌の形に固定したまま──この湖を訪れたときのエレナを彷彿とさせる顔で答える。 

 

 「臭いのよ。コテージも、この辺りの空気も、きみも」

 「え? いや、湖はちゃんと……あっ」


 唐突に「お前臭いよ」と言われて傷つく程度には人間性を残しているフィリップだが、ミナが最後に言ってくれたお陰で事なきを得た。ショックを受けるより先に思考が始まっていなければ、「寝汗か……?」と見当違いなことを考えて、朝から湖にダイブしていたかもしれない。


 「そう。きみが教会に行った後の、形容しがたい悪臭よ。どうしてここでそんな臭いを付けているのかは知らないけれど、なるべく早く落としなさい」


 落としなさいと言われても、とフィリップも眉根を寄せる。

 ミナが悪臭という形で知覚しているのは、シュブ=ニグラスの気配或いは神威の残滓のようなもので、物理的に匂うものではない。


 石鹸で落ちることもあったが、駄目なときは焚火で煙の臭いを付けても駄目だった。そして反応的に、今回は後者のようだ。前者の場合は「なんとかしろ」なんて曖昧なことは言わず、問答無用で風呂場に連れて行かれる。


 「どうやって……あ、今日って吸血の日!? 完全に忘れてた……」

 「それは別に構わないわよ。適当に済ませるから」


 ごめんね、と手を合わせるフィリップだが、ミナは言葉通り別に怒ってはいないし、食事の心配もしていない。

 彼女は王都に居る間の食事は二日か三日に一度、フィリップの血を少量飲んで吸血衝動を紛らわせているが、別にフィリップの血が特別美味しいとか、フィリップ以外の血は飲みたくないとか、そういうわけではないのだから。


 手頃な人間を襲って、吸い殺せばいいだけの話だ。惜しむらくは、栄養状態もよく魔力も極めて良質でおまけに処女という最高の血液の持ち主が身近に二人もいて、そのどちらも食えないこと。

 迂闊に手を出せば返り討ちにされるのは確実だし、ペットも嫌がる。


 「……僕が食べないでって言った人、覚えてるよね?」

 「私、きみのお願いを忘れるほど薄情じゃないつもりよ。心配するなら、記憶力じゃなく個体認識力の方にするべきね」


 ミナの言葉に、フィリップは口元を苦々しく歪める。ミナは確かに化け物だが、人間の顔が識別できないほど逸脱していないはずだ。


 「それって冗談? 勘弁してよ、笑えない」


 ミナは薄く笑って肩を竦めると、どこかに飛び去った。

 また手頃な人間の集団か、或いは適当な村落を襲って人間を食い、殺すのだろう。


 どうでもいい。


 ルキアやステラとミナならフィリップは前者を選ぶが、赤の他人とミナなら後者を選ぶ。ミナに餓死しろと言うつもりはないし、飢餓状態で狂暴化したミナがルキアとステラに殺されるようなことを避けるためになら、フィリップの知らない誰かが恐怖の中で食い殺されたって知ったことじゃあない。


 フィリップはミナが飛び去った方を見つめ──正確にはその下の森を見つめて、安穏とした考えを浮かべていた。


 「僕も湖で遊ぶって言ったら二人とも心配しちゃうかもしれないし、今日は森で遊ぼうか、シルヴァ!」


 シルヴァは少し遠くで泳いでいたが、歓喜と興奮、そして「大賛成」という意思は激しく伝わってきた。





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