第361話
その日の夜。
フィリップはベッドに寝転がりながら、窓の外の遠い星空を眺めていた。
消灯してから既に一時間が過ぎていることは懐中時計で確認済みだ。健康優良児のフィリップがそれほどの時間、眠りに落ちずにいられたのはむしろ珍しい。特別な理由が──悩みが無ければ、昼間は散々遊んで疲れているのだし、一分そこらで眠っていただろう。
今日は全く寝付けない。もぞもぞとベッドを抜け出して靴を履き、コテージを出て行くほどに。
「カーター様、どちらに?」
「うわっ!? あぁ、なんだ、親衛隊の……ちょっとお散歩に」
玄関の外に立哨がいると思わなかったフィリップは声を掛けられて飛び上がるが、声の主が全身鎧姿であるのを見てほっと安堵する。声こそ女性だがフルフェイスヘルムに隠された素顔を確認しないのは不用心ともいえるが、そもそもフィリップはステラの親衛騎士たちの顔や名前を正確には把握していない。誰何したくても出来ないのだった。
「明かりをお持ちでないようですが」
「ちょっとそこまでですから」
誰か呼んでランタンを持ってこさせよう、という意図は汲めたものの、それがフィリップの安全のためとまでは読み切れなかったフィリップは、適当に手を振って歩いて行ってしまう。
見送る騎士はヘルムの下で困り顔だ。彼女たちの最優先は勿論ステラだが、高い地位を持つルキアだけでなく友人であるフィリップも、同様に護衛対象として命じられているのだが。
かといって、本人の意思を無視してでも守るほどではない。立哨という立場上、玄関に入って誰か呼ぶなんてことはできないから、声を上げることになるのだが、それではルキアやステラを起こしてしまう。
ランタンの重要性は、それほどではない。寝入った主君を起こすほどでは。
今宵は星月夜。湖面は波打ちながらも夜空を反射させて明瞭だ。そもそも岸辺からいきなり深みになっている部分は、コテージ周辺にはない。多少視界が悪くても問題ないだろう。
そう判断してくれて、フィリップは一人、夜の散歩に繰り出すことができた。
と言っても、行先は本当にすぐそこの波打ち際なのだが。
波の届かない場所で靴を脱ぎ、裸足で砂利の地面を踏む。仄かに熱を持っていた昼間とは違い、浜はひんやりと冷えていて心地良かった。
「無意識を食う、ねぇ……」
聞く者のない独り言は、心の底からの疑問だ。
何が食われたのか今更気になって、不安になったわけではない。ただ──気になることが無いわけでもない。
「シルヴァは“外神にとって都合が良いなら許容する”って予想だったけど……」
白く打ち寄せる波に足を付け、冷たい感触を楽しみながらぼやく。
森の中にいるときのシルヴァの言ゆえに、そういうものかと納得してしまったが、落ち着いて考えると納得しかねる仮説だ。
勿論、外神の行動基準として彼らの気分や利益が挙げられるのは確かなのだけれど、それだけならフィリップを守ったりしないだろう。フィリップを守ることだけが目的なら、外敵全てを予め駆除した平和な世界を作ればいいだけのことだし、フィリップが怪我も病気も、誰かに絡まれたり訴えられたりもしないように運命を操作することだって可能だ。
そうなっていないということは、少なくともフィリップが過干渉を嫌い人間のまま人間らしく生きていたいという願いを持っていることは知っていて、それを積極的に壊そうとはしていない。
いや。
「僕の利益、僕の意思。それに殉じないのであれば、僕を守ろうが僕に従おうが“従僕”とは呼べない。だから少なくとも、ナイアーラトテップはそう動いている」
アレがフィリップに嘘を吐くはずがない。
だから以前に言っていた「従僕でありたい」という言葉は真実、誠心誠意の表れだろう。
ヨグ=ソトースの忠誠も目の当たりにした。アレも大概大雑把ではあるが、フィリップの意思を汲むという一点ではナイアーラトテップを上回る。まぁフィリップそのものなので、当たり前と言えば当たり前なのだが、それを言い出すとキリがない。
なにせ天地万物だ。フィリップどころか、ナイアーラトテップもシュブ=ニグラスも本質的には彼のもの。誰かの意を汲むことなど造作もないどころか、「意」そのもので、「意を汲む」という動作そのものだ。
「……まあ、深く考えると面倒なことは置いておくとして」
人間の脳は言語に基づいて思考するが、ヨグ=ソトース絡みは大陸共通語どころか邪悪言語でも体系化して理解できない複雑さだ。ヨグ=ソトースが“何”なのかなんて気にしていられない。
「無意識だろうが何だろうが、僕のものであるなら、僕の意思で捨てるまでは守るはずだ。つまり、僕が無意識的に捨てたがっていたものか、捨てた方が僕にとって有益なものか……」
無論、シュブ=ニグラスとナイアーラトテップでフィリップに対するスタンスが違う、という可能性もあるにはあるけれど。
考える。まずは時系列に沿って、主観的な事実だけを順番に。
あの恐ろしくも心地の良い水の中に沈み、幻聴を聞いて、ヴィカリウス・システムに助けられて、シルヴァと話して──そうだ。あの時、何かに違和感を抱いたのだ。
何だったか。何に対する、どういう違和を感じたのか。二日前の夢のように判然としない。違和感を覚えたことだけは記憶しているのに、細部が全く思い出せない。
もう一度、思考をリセットして初めから考え直す。もっと細かく、昼間のことを思い出すように。
あの時、フィリップはシルヴァと遊んでいた。
そして不意に、とても深い水の中のような空間に──フィリップの心を映したという空間に沈んだ。そして幻聴を聞き、死にたくないと足掻いて藻掻いて──?
「あ、っ?」
おかしい。おかしかった。いま、何かが。
当ての分からぬ違和感に襲われ、同じ思考を繰り返す。
遊んでいて、転移紛いの超常現象に見舞われ、幻聴を……違和感は幻聴に対するものか? いや、違う。フィリップの意識や思考はともかく脳の構造自体は人間、人体のそれだ。幻覚や幻聴は機能不全であるにしろ、不全状態の機能としては珍しくない。
その後だ。
「死にたくない、だって?」
思わず、フィリップは愉快そうな笑顔を浮かべる。
死にたくない、なんて、生物であるのなら当然持っているべき思考だ。いや、思考以前に、自己保存は本能レベルで備わっている。つまり──無意識だ。
しかしフィリップは夜空を映す水面に目を落とし、半端な笑顔を、愕然として硬直した自分の顔を見つめる。
死にたくない、なんて。それはフィリップが抱くにしては、あまりにも真っ当すぎる──正常すぎる思考だ。異常な価値観を、異常な視座を、異常な精神性を持つフィリップの中に混じった、ひとかけらの“正常”。
それこそが異常だ。
正常か異常かは母集団によって変わる。
青い目を持つ者の多い王国の中でルキアの赤い瞳は“異常”だが、例外なく赤い瞳を持つ吸血鬼しかいない千夜城では青い目のフィリップこそが“異常”だったように。
異常なフィリップの中に、唐突に生じた正常は──何かの異常だ。
「あの水の下で、僕は……」
溺水の苦しみも無く緩やかに沈んでいく中で、フィリップは確かに思っていた。
これが“死”であるなら、この安らかさに身を任せたいと。それはどんなにか幸福であろうと。
あの月夜から、フィリップにとって“死”は遥か遠くにある救済だった。死ねないことが分かっていたから──死後に安寧など訪れないことを理解していたから。
人間として平穏無事に死に至り、そこで何もかもが終わるのなら、今すぐに死んだって良いと思っていた。……いや、死んだっていい、なんて言い方では不足だ。
死にたい、と。
死が終焉で救済であるのなら、他の何を措いてでも死にたいと思っていた。
……そのはずなのだが。今は、全くそう思わない。思えない。
死ぬのが怖いわけではない。死の後に訪れるものは嫌だが、もう諦めは付いているし、怖くはない。ヨグ=ソトースをはじめとした外神たちに守られているのだから、早々死ぬことは無いと高を括っているのもある。
死への恐怖は無いのに、死を厭う心はある。恐怖ではなく、何か別の理由なのだろうか。
いや、違う。
何か特別……ではなくとも理由があって“死にたくない”のではない。これは、この状態は、“死にたくなくなった”と言うべきだ。
「僕は、それを食われたのか? 希死念慮を? ……不味そう」
呟きは不味い状況かもしれない、ではなく、味についての言及だ。
精霊の味覚なんて知る由もないのだが──そもそも精霊が人間同様に味を感じながら食事をしているのか、エネルギーを吸収するようなイメージなのかは知らないが。
シルヴァのようなことをいうフィリップだが、その口元は笑みの形に緩んでいる。
死への渇望なんて、あって良いことはないだろう。それは精神医学に明るくないフィリップでもなんとなく分かるから、心の内にあった希死念慮が無くなったのなら喜ばしい。
が、全然、全く、これっぽちも実感が無い。
「無意識が無くなったって言われてもなぁ……」
声に出してみると、殆ど言葉遊びだ。
元々意識の範囲外にあったのだから、無くなったってピンと来ないのは仕方ない。が、元々はあったものが消えているというのに、「意識してみればそうかも……?」程度にしか認識できないのはどうなのだろうか。
その程度の影響だから、一々守るまでも無いと──フィリップが介入不要と判断すると思って、シュブ=ニグラスの精神防護が発動しなかったのか? 或いは単純な喜怒哀楽、外界との接触による精神の動きと同じ、自然のものだと判断してか?
いや、そもそも、ずっと当然のようにあった『シュブ=ニグラスの精神防護』だが、これはどういうものだ?
フィリップの精神──或いは脳か魂か──に設置された自動防御なのか。それとも、シュブ=ニグラスがフィリップを逐一監視していて、精神影響に対して随時対応しているのか。
……どちらもありそうだし、どちらでも有り得る。
「……その辺、どうなんですか?」
振り返りつつ尋ねるが、当然、背後には誰もいない。
砂利の浜と、夜の闇。景観にそぐわぬ豪勢なコテージまで届く声量ではないし、フィリップの問いは虚ろに消えるはずだった。
しかし──ぞる、と、聞くに堪えない湿った音と共に、夜闇が蠢く。
闇がより昏く黒く汚濁し、触手となって蠕動する。一本、十本、百本と増殖したそれらは蠢き絡まり合い、やがて見覚えのあるカラスのカリカチュアになった。
ちょんちょん、と跳ね歩く動きは、夜闇で姿がはっきり見えない今なら可愛らしく思える。
使い魔はフィリップをじっと見つめると、無数のミミズか蛆虫のような単一の触手へと分裂し、砂利の浜に変形した文字や歪んだ記号で構成された魔法陣を描く。
「……んっ!?」
フィリップはシュブ=ニグラスに与えられた智慧によって邪悪言語をネイティブレベルで読解できる。
その智慧によると、この魔法陣は超高次の召喚術式──いや、邪神の側から作り出した門、降臨術式とでも言うべきか。
「まあ、世界は狭いし脆いから、確実に安全な方法で来てくれるなら、それはそれでいいんだけど……」
こんな仰々しいものを介さずとも、ただの一歩を踏み出す程度の労力で宇宙さえ渡れることを知っているから、「何やってるんだろう」なんて思ってしまうが……なんとなく、フィリップの勝手なイメージとして、シュブ=ニグラスは不器用なイメージがある。
世界を渡るつもりで宇宙を跨ぎ、同一世界内を歩くつもりで別世界を踏み潰し、座標間を移動するつもりで座標そのものを蹴り飛ばしてしまいそうな。
魔法陣が星の光を呑み、新月が漆黒の光を注ぐ。黒い光、見覚えのある、光の原色からは作られないはずの色をした輝きに目が眩む。
眩しくて目を庇ったフィリップが再び目を開けると、波打ち際に一人、静かに立つ人影があった。
月が夜天ではなく地上で輝くことを選んだかのような、黄金とも白銀ともつかない月光色の髪が星明りに煌めく。夜闇の中に浮き上がる漆黒の喪服に包まれた肢体が膝を折って腰を下ろし、ぽんぽんと膝を叩いた。
苦笑を浮かべたフィリップに、精緻な装飾の織り込まれたヴェールの向こうで柔らかな微笑みが返されたのが分かった。
「……うん」
フィリップは諦めたように、或いは待ち焦がれていたようにマザーの元へと歩き、膝に頭を預けて丸くなった。
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