第360話

 シルヴァとの密談を終えて森を出ると、皆がすぐそこで待っていた。

 森と湖畔とを隔てる境界線、ぼんやりとだが直感的に把握できる木々と藪の壁のラインの一歩手前に、ルキアとステラと二人の従者、そしてミナまでもが。


 「……それで? シルヴァが知っているということは、カーターがいきなり消えた理由はヴィカリウス・システム絡みなのか?」


 先刻の、声も出せずにただ抱きしめることしかできないほどの動揺からは、流石、すっかり立ち直ったステラが問う。


 フィリップは「えーっと」と考えを纏めている風を装って時間を稼ぎつつ、残る二人の様子を窺う。


 ミナは、多分殆ど何も聞かされていないのだろう。不機嫌そうに、そして退屈そうに立っている。それでも途中だった剣技の練習に戻っていないのは、フィリップ絡みの事だからだろう。飼い主としての責任感が億劫さを上回る程度には愛されているらしい。


 落ち着くまでステラ以上に長時間の抱擁を要したルキアは、もう表情こそ穏やかで上品な微笑だが、視線はフィリップに固定されて動かない。……なのに頼りなく儚い印象を受けるのは、赤い双眸の奥に隠しきれない不安の光があるからか。


 「……」


 フィリップはそれを払う方法を知らない。

 どんな言葉が、どんな行動が効果的なのかを考えるには年齢も経験も、他にもいろいろと足りていない。


 けれど──けれどまさか、無視も出来ず、懸命に思考を回す。


 ルキアの不安の原因は、フィリップが先ほどまで気にしていたものとは違うはずだ。

 俗に水の精霊と呼ばれる数種類の精霊種の、そのうちの一種は人間の無意識にある感情や思考を食う……なんて話は、精霊の登場する物語を山ほど読んできたフィリップでさえ、さっき知ったほどマイナーな知識だ。


 それに、そもそも王都の人間は精霊との──言い換えるなら、自然との関わりが著しく薄い。フィリップは田舎にいた頃に日常的に森に入るからドライアドのことを知っていたし、祈りを捧げる習慣もあるが、都会ではそもそも森や湖といった自然の環境が身近にない。


 となると、やはりフィリップが溺死しかけたこと、或いは急にいなくなったことが理由だろう。

 あの憔悴ぶりには覚えがある。記憶の片隅、忘却の淵に引っかかるようにだが、確かに。


 「……あぁ、二年前の」


 思い出した。

 なら──フィリップは、彼女の不安を払う方法を知っている。


 「ルキア、ちょっと屈んでくれませんか?」

 「? えぇ、構わないけれど……っ!?」


 ルキアが声を詰まらせる。

 彼女が最初に感じたのは、風情も雰囲気もないことに、湿り気だった。岩肌や漂流物から身を守るためだという、田舎では常識的らしい長袖シャツが吸った湖の水の匂い。


 そして──体温と、呼吸と、鼓動。


 ルキアの頭を抱きかかえるように抱擁し、髪を梳くように撫ぜる、ルキアよりも温かい子供の体温。濡れた服で冷えて風邪をひいてしまうかもしれない、なんて場違いな心配もさせる、幼い温度。


 一定のリズムで上下する、しなやかに鍛えられ、それでもまだまだ小さく薄い胸板。頼りがいは、正直ない。けれどその分、年少者に対する慈愛や庇護欲はそそられる。


 とく、とく、と、静かに穏やかに、それでもしっかりと脈動する、命の音。自分を抱きしめておきながら、昼寝をしているときのような穏やかさを保っているのは少しだけ気に入らないけれど。


 フィリップは生きている。いまここにいるのだと、直感で理解できる。閃きも驚きもなく、すとんと胸に落ちて沁み込むような、滑らかで温かな納得に落ちた。


 驚きに見開かれていた目がゆっくりと閉じ、両腕が恐る恐る抱擁を返す。

 ルキアもフィリップも、他の誰も何も言わないままどのくらいが経っただろうか。ルキアの身体から硬直が抜けきったのを確認したフィリップが柔らかに口元を緩め、頭頂部へと唇を落とす。


 ステラの従者が思わず声を漏らしかけたが、主人が片手で制した結果、最も大きな反応を見せたのはミナになった。と言っても、彼女もフィリップの仕草が自分の真似であることに気付いて愛玩の笑みを浮かべただけだが。


 ルキアの手に再び強張るような力が加わるが、フィリップは変わらず慈母の如き笑みで受け入れる。そうしてまた幾らかの時間が過ぎ、フィリップが漸く口を開いた。


 「──僕は、生きていますか?」

 「……えぇ」


 当たり前のことを尋ねられて、しかし、ルキアは抱き着く手に一層の力を込める。フィリップに些かの苦痛も与えないよう気を配りつつも、腕の中にある命を手放すまいとするかのように。


 「僕は生きている。ここに存在している。そうでしょう、ルキア?」

 「……」


 言わんとするところを測りかねたか、怪訝そうな赤い双眸がフィリップを見上げる。フィリップは意図を言語化しようと試みて口を開いたものの、結局は何も言わずに口を閉じ、銀色の髪を梳くように撫でる。


 その甘やかでありながらもどこか退廃的な空間は、ルキアが立ち上がったことで終わりを迎える。

 少しだけ名残惜しそうにしながらも離れて立ち上がったルキアの微笑みに、もう翳りは無い。


 いや、むしろ目に見えて晴れて──照れている。

 フィリップから離れた直後は穏やかな微笑を浮かべていたのに、数秒経った今更になって頬を耳まで赤く染めて、視線を明後日の方角へ泳がせていた。


 表情こそ平静を装ってはいるものの、肌が白いだけに血色が分かりやすいルキアに、フィリップは「そんなに照れることかなぁ」なんて内心首を傾げる。このくらいのことはマザーもミナもやるし、実家に居た頃は母親にだってされていた。フィリップもシルヴァにはよくやることだ。


 まあ、四つ五つ下の子供に慰められるというのは、彼女の美意識や自尊心には適わないことではあるだろうけれど。


 「おや、私にはしてくれないのか?」


 物も言えない様子のルキアを見かねたステラが揶揄い交じりの助け舟を出す。が、ルキアには感謝の視線で迎えられたその言葉に、フィリップは怪訝そうな一瞥を返す。視線だけでなく表情全部で、下手な冗談を聞いたと呆れている。


 「え……? いや、下着姿の女性に抱き着くほど無神経ではないので……」


 さも自分が常識人であるかのような、そしてステラが非常識的であるかのような言い種に、ステラはけらけらと軽快に笑う。

 そして笑ったかと思えば、フィリップが消えた時と同じくらいの唐突さで表情が消えた。


 「ははは。次下着って言ったら爵位の件、前倒しにするからな」

 「ごめんなさい。以後は厳重に気を付けます」


 同じく表情の消えた真顔で、フィリップは宣誓するように右手を掲げてみせる。


 そんな他愛のない遣り取りで気まずくなりかけた空気を日常に戻すと、ミナが穏やかに──愛玩の情を滲ませる微笑と共に口を開いた。


 「フィル。番のご機嫌取りは結構だけれど、先に何があったのか教えてくれる?」

 「あ、うん」


 ミナに頷きながら、フィリップは今度はステラの目をじっと見つめて観察している。


 ルキアの心配は感情に依るところが大きく、自分の目で見た「フィリップは無事だ」という事実でさえ、心の内にある恐怖が邪魔をして安心材料にしきれない。しかしそれ故に、合理も論理も無視した感情的なアプローチで溶かすことができる。


 ステラは逆だ。

 彼女も先刻はフィリップを抱きしめることしか出来なかったが、今では軽口を言える程度には持ち直している。それはフィリップの無事という明確な事実が、彼女には大きな安心材料として働いたからだ。


 しかし、フィリップが無事ならそれでいいルキアとは違い、ステラはその先──或いはその大元を気にする。フィリップが突如として失踪した理由や対策を、その知識を求める。

 彼女を安心させるには、感情ではなく論理──どうしてそうなったのか、どのように防げばよいのか、そういった確固たる理屈と理由が必要だ。


 尤も、ステラの目には分かりやすい恐怖の色はないけれど、それはそれ、フィリップが彼女の心配をすることとは別の話だ。


 「僕がいきなり消えたのは精霊の仕業で、湖のヴィカリウス・システムが助けてくれたらしいです」

 「ヴィカリウス・システム……?」


 ステラに向けた言葉だったが、ミナが反応した。

 シルヴァに向いたその視線の意図するところは正しいと首肯する。


 「うん。シルヴァの同族だね。多分、例の汚染が気になって見に来たか、ここに発生したか……勿論、元々ここに居たっていう可能性はゼロじゃないけど」

 「星の表層の何処に居てもおかしくないし、いない時間だってあるのでしょう? 偶然と考えるよりは……シルヴァの飼い主、きみを見に来たんじゃない?」

 「どうだろう? ヴィカリウス・システムが人間に興味を持つ理由にはなる……のかな?」

 

 森の中にいるとき限定だが、シルヴァは昔の──今の“シルヴァ”のものではない、かつて存在した“ヴィカリウス・シルヴァ”の記憶や、森林という環境が経験してきた歴史を断片的に思い出すことが出来る。

 記憶は知識となり、知識は価値観となる。シルヴァの価値観はゆっくりと、しかし確実にヴィカリウス・システムのそれへ変化、いや成長しているのだ。


 そのシルヴァに問うてみると、彼女は翠玉のような目を胡乱げに細める。


 「……たぶん」

 「そ、そう……だよね?」

 

 表情から「何言ってんだお前」みたいな辛辣なことを言われるかと身構えたフィリップだったが、シルヴァの答えは平凡で、平穏なものだ。声こそ胡乱そうだが、少なくとも言葉の内容は。


 「それで? ヴィカリウス・システムはカーターを助けてくれたそうだが、精霊は何のためにカーターを消したんだ? ただの悪戯か? 姿を消したというか、存在が消えたような有様だったが」

 「精霊の悪戯なんて珍しい話でもないでしょう? ドライアドだって、森を不用意に傷付けたり汚したりしたら、陰険で苛烈な制裁を加えるって話ですし……まぁ、ドライアドのは“悪戯”とは少し違いますけど」


 やっぱり気になるよね、とフィリップは内心苦笑するが、懸命に表情を制御する。

 尤も、フィリップの素直な表情筋は心の内をそのまま反映してしまうのだが、幸い、それは傍迷惑な精霊に対するものと受け取られた。


 「……フィリップじゃなくて、私たちを揶揄うためだった、と? それなら……それなら、私にも怒る権利はあるわよね?」

 「無駄よ。精霊が住むのは魔力次元と物理次元の狭間、ふたつの裏側。どんな攻撃魔術でも、その壁を無理やりに壊すことはできないわ」


 元通りなのか、或いは意図して元通りを演じているのか、ルキアが湖に険の籠った眼差しを向ける。

 湖は清涼なだけでなく、広く、深い。だが『明けの明星』なら数発で干上がらせられるだろう。貫通力と射程が最大の特徴であるルキアの切り札だが、エネルギー化された光は強烈な熱を振りまく。中程度の出力で一発撃ち込めば水蒸気爆発を起こし、水位が目に見えて下がるはずだ。


 が、そんなことをしても精霊たちには傷一つつかない。時間と労力と景観を無駄にするだけだ。


 「……まあ、フィルに怪我がないのならそれでいいわ。精霊に魂だけ連れ去られたとか、取り替えられたってことも無さそうだし」


 ミナは「休憩は終わりね」と伸びをして飛び立ち、剣の練習に戻っていった。

 どうでもよさそう、というと少し語弊がある。飼い主としてペットの安否を確認しに来たわけだし、場合によっては湖そのものを干上がらせるくらいの報復措置だって視野に入っていたのだから。


 「相変わらず自由な奴だ……が、ふむ。言う通りではある」


 意外にも頷いて同意を示したステラが、フィリップの腰に手を添えて抱き寄せる。身長差故に必然、フィリップはステラの胸元に顔を寄せる形となった。


 水着はオーソドックスなデザインで、布面積は決して少なくない。が、逆にステラのプロポーションは非凡なもの。要所こそ完璧に隠されているものの、肌の露出具合は『惜しげも無く』という表現が過剰ではなく当てはまるもの。フィリップが下着だと思ってしまうほどのものだ。

 

 そんなステラに抱き寄せられても、フィリップは照れたり恥ずかしがったり、或いは興奮したりはしない。それがステラにはフィリップらしく思えて、ふ、と僅かな呼気と共に表情を緩めた。


 「お前が無事であるなら。お前が無事に生きていて、変わらず今まで通りのお前であるのなら、それだけで安心できるよ、私は」


 ステラは穏やかに、まだ湿気を含んだフィリップの髪に頬を寄せて囁く。静かで甘やかな、一夜明かしたような空気が流れかけて──とす、と軽い衝撃で霧散する。

 見ると、ステラに抱かれたフィリップは、反対側からシルヴァに挟まれていた。そしてルキアもしずしずと淑やかに歩み寄り、フィリップをシルヴァと一緒に抱き寄せる。


 「じゃあ、すてらはしょうがいしんぱいむよう。ふぃりっぷはずっと──なにがあってもふぃりっぷのまま」

 「そうなのか?」


 幼児の言葉と断じるには、シルヴァの言葉は重すぎる。しかし森の外の彼女は、ヴィカリウス・システムとしても精神的にもまだまだ未熟な幼子に過ぎない。


 ステラがどう解釈したものかと悩む台詞に、彼女自身が補足をくれた。


 「ん! しるばとずっといっしょって、やくそくしたから」


 疑う余地など何もない。

 満面の笑みでそう示すシルヴァに、ルキアとステラだけでなくフィリップも柔らかな笑みを浮かべる。


 フィリップはもう、自分の中にあったはずの何かが食われたかもしれないなんて気にしてはいなかった。


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