第359話
フィリップが迷い沈んだ、或いは連れて行かれたそこに、人間が呼び習わすような名前は無いそうだ。
そこは精霊たちの狩り場──と言うと、少し物騒だ。
人間は悲喜交々の複雑な感情を持つが、自覚できていない感情、無意識にほど近いものもある。彼女たちはそれを餌にしており、その結果として、時に様々な逸話を生んできた。
強さへの憧れを心の表層に燃やし、その裏では戦いへの恐怖を抱いていた少年の恐れを喰らい、勇猛果敢な英雄を作り出した。
自分より善く国を治める者がいると笑っていた王家の人間の、心の裏側にあった諦観を喰らい、内戦を引き起こした。
食事の間、その場所は心の形に景観を変える。
強くなりたいと一心に願う少年の心は、何処までも続く綺麗な鏡の如き湖面だった。
どす黒い策謀に触れ続けて疲れ切った男の心は、荒波の猛り狂う嵐の海だった。
フィリップが見たのは、何処までも遠く、それでも確かに輝く水面。そして、日の輝きなど届かぬ深さの底。ただただ昏く、見通すことさえ叶わぬ深みにある、水底。
「……凄く比喩的で示唆に富んだ話だけど、全然分かんないや。結局、僕はどんな精神状態で、何を食われたの? というか、ホントに食われたの?」
湖を囲う森の中で、フィリップはシルヴァと共に木陰に座り、彼女から詳しい話を聞いていた。
一先ずはフィリップだけだ。ルキアとステラは森の外で待機している。勿論シルヴァはあれは邪神絡みではないと二人に断言してくれたのだが、フィリップの心を語るのなら邪神についての話をしないわけにはいかないのだから。
「シルヴァはある程度分かってると思うけど、僕の精神はシュブ=ニグラスに守られてる。たとえ僕自身が自覚していない領域だとしても、精霊風情が彼女の守りを抜けるものなの? あぁいや、その守り自体が大雑把な可能性はあるけどさ」
フィリップはらしくもなく焦っているようで、先の問いの答えも返されていないというのに問いを重ねる。
仕方ないな、と言いたげな溜息混じりに答えるシルヴァの方が、むしろ──或いはちゃんと年上に見えた。
「ふぃりっぷがみたのは、ていかんとぜつぼう。たぶんだけど」
「あー……まぁ、そうだろうね」
呆れ混じりにフィリップは頷く。
水遊びが楽しいとか、木陰は涼しくて気持ちがいいとか、そういう表層の部分を全部取り除いたら、諦観と絶望の二つが残るのは分かる。
いや──あの、夜闇なんかよりずっと寒々しい水の色を思い出せば、思考するまでもなく直感できる。あれは、鏡の中にある色だ。瞳を濁らせる影の色。
「しゅぶにぐらすのことはしらないけど、ふぃりっぷのへんかがつごうのいいものなら、たぶん、きょようする」
「確かにそうかも。じゃあ僕が無意識の何かを食われた結果、シュブ=ニグラス……外神たちは得をするってことか。何だろう……反感とか?」
「いまあるならちがう。……そもそも、ちょっとかんがえたくらいでわかるわけない。むいしきだもん」
「そりゃそうだ」
言葉遊びのようだが的確な指摘に、フィリップも目から鱗が落ちた気分だ。
やっぱり森の中にいるシルヴァは頼りになるなぁなんて頷いていると、そのシルヴァが意外そうな顔で見上げて首を傾げた。
「……ふぃりっぷ、ぜつぼうにおぼれなかったの?」
これまた詩的な表現だが、あの空間を訪れたフィリップには言わんとしていることは分かる。
「うん……よく覚えてないんだけど、ルキアたちが僕のこと呼んでたでしょ? それで引き戻されたんだ」
あそこで何も考えず沈むままに身を任せていたら、恐らく、フィリップは現実世界に帰ってこられなかっただろう。あれはそういう場所、そういう現象だ。
自らの心の景色、心底の絶望と諦観に溺れて、心が溺死する。
今のフィリップが──狂気という状態にさえ踏み入れないフィリップが、その先とも言える廃人の域に立ち入れるものかと思わないでもないが、試す気にはならない。
精神の平穏が訪れるのなら試す価値はあるが、あれは多分、肉体にもフィードバックがある類のものだろうし。
そこまで考えたフィリップは、ふと自分の思考に疑問を抱く。
しかし具体的にどの部分へ違和を感じたのか自覚する前に、シルヴァが怪訝そうに頭を振った。
「う? んーん。だれもよんでない。さがしてるうちにかえってきたし、しるばもよびにいくところだったし」
「え、嘘? じゃあ幻聴か……」
幻聴や幻覚の類は、流石にシュブ=ニグラスの守りの範疇外だろう。外部からの精神影響ではなく脳の誤作動とか、単にフィリップ自身の妄想の産物だとしたら、そこまで干渉される方が逆に嫌だ。
まあそれはそれとして、幻聴も幻覚も症状としては喜べるようなものではないので、フィリップの浮かべた笑みには苦みの色が強い。
「よばれて、どうしたの?」
「どうしたってこともないよ。あー、ここで死ぬのは不味いなーって思って……そうだ、声がした。身体を起こしなさい、おばかさん、って。もしかしてあれ、精霊の声だったのかな!?」
だとしたら湖の精霊と話したことになる! と喜ぶミーハー少年。
歓喜の理由は言うまでも無く、湖の精は英雄譚の類ではポピュラーな登場人物だからだ。
無意識の領域とはいえ自分の感情を食った相手だが、それはそれ、これはこれ。そうすっぱりと分けて考えられる辺り、フィリップはいつものフィリップなのだろう。いつも通りの無頓着さだ。
シルヴァは呆れ混じりに笑いながら、また頭を振って否定する。
「ちがう。それはたぶん、らーくす。しるばとおんなじ、かんきょうのだいりにん」
「ヴィカリウス・システムってこと? ……へー、湖にもそんなのいるんだ」
心なし、ではなく、明らかに声のトーンが落ちる。
精霊じゃないのか、とがっかりしているのは明らかだが、どう考えてもヴィカリウス・システムの方が遭遇確率は低い。というか、接触経験のある人間などフィリップくらいだろう。下手をすれば邪神よりレアだ。
「しるばがいるからでてきたのかも。ふつうはにんげんなんかにかかわらないし」
「そりゃそうだ。というか、シルヴァみたいに実体があるのも稀なんでしょ?」
シルヴァは頷くのではなく、自慢げに胸を張る。
それがヴィカリウス・システムとって凄いことなのかどうかは、人間と外神の価値観しか持ち合わせないフィリップには分かりかねるのだが。
「あー……考えることが多いなぁ。とにかく最優先は、僕が何を食われたのか、だけど」
「ん。ふぃりっぷ、しるばのこと、ちゃんとすき?」
真正面からの問いをしっかりと受け止め、フィリップは目を瞑ってまで真剣に考える。しかし、結論を出すまでは一瞬だった。
「……勿論。それは無意識じゃないし、ちゃんと好きだよ」
「えへへ。じゃあなんでもいい」
ふわり、花開くような笑顔を浮かべるシルヴァ。
その幸せそうな表情と穏やかな笑い声につい頷きそうになるが、そうもいかない。
「いや良くないよ!? 気になるじゃん!?」
無意識なら何を食われてもいい、というわけではない。
そりゃあ人間であることへの拘りや人間性への憧れ、あとはカルトに対する憎悪辺りは明確に意識できていることだから、フィリップ・カーターという人間を構成する上で重要なものは無事のはずだ。
だが無意識領域にも重要なものはあるだろう。
例えば社会性……は、元からあるかどうか微妙だが、少なくとも宿の仕事に支障がない程度にはあるはずだ。遵法意識も同族意識も薄い人間に社会性も何もあったものではないと、そう思わなくもないけれど。
あとは、死や痛みへの恐怖。これを失くした生物は、その生存能力を著しく低下させる……が、これも正直、元からあるかどうか怪しい。
「……ふぃりっぷがだいじにしてるものは、ぜったいぶじ。ふぃりっぷがだいじにできてるなら、それはむいしきじゃないし、しゅぶにぐらすがゆるすわけない」
「いや、そうだけど……うん? いや、それなら別にいい、のかな? 分かんなくなってきた……」
実はそんなに大きな問題ではないのでは? なんて思ってしまったが最後、フィリップの関心は簡単に別のところに飛んでいく。
「っていうか、この話、皆には内緒ね? 特にミナには」
「なんで?」
呆けたような声色の問いに、フィリップは何も気負わず、何も恐れず、柔らかな微笑さえ浮かべて言う。
「もしも食われたのがシルヴァだったら、僕なら精霊を根絶やしにするからだよ」
「……ん」
ぽふぽふ、と、細かな葉の手袋を纏った柔らかな手がフィリップの頭を撫でた。
ただの通行人に必死に吠え立てる子犬を宥めるような、或いは「落ち着け」と諭すような仕草だ。フィリップはくすぐったそうに、照れ笑いで受け入れる。
「るきあとすてらは? せいれいにもらーくすにもてだしできないよ?」
「変に心配かけたくないし、二人にも内緒。そもそも自分のどこがどう変わったのかも分からないしね。……どうせなら、諦観と絶望の方を食って欲しかったんだけどな」
「……まずそう」
確かに、と思ったフィリップだったが、相槌を打つ前に話が逸れていることに気付いた。
「シルヴァは、さ。僕の何が食われたと思う? ……今のシルヴァなら、分かるんじゃない?」
今の──森の中にいるシルヴァは、容姿こそ変わらないものの、知性は普段を遥かに超えたものになる。
森の全域を完全に掌握し、過去に森の中で起きた出来事から情報を汲み取って知識とする。森を出ればじわじわと忘れてしまうらしいが、森の中にいる限り、シルヴァは殆ど別人だ。
思考の速度や精度、観察力、把握力、記憶や知識。そういったものが普段とはまるで違う。それも森に入る毎に、徐々に強度を増している気がする。
だから今の、森の中にいるシルヴァなら、或いはフィリップが何を食われたのか分かるのではないか。
駄目元で聞いただけだったが、しかし、シルヴァは少し首をひねったあと。
「んー……わかんない」
あっけらかんと、軽々に否定した。
しかし、言葉はそこで終わらない。
「もうたべられたものなのに、それでもきになる? むだなのに」
突き放すような、或いは揶揄うような言葉に、フィリップは思いっきりに瞠目する。そして深く大きく息を吸うと。
「た、確かに……」
囁くようなか細い声で言って、今日はシルヴァに気付かされることが多いなぁ、と益体のない頷きを返した。
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