第358話

 フィリップたちの背後、そして頭上で超遠距離の狩りが行われていた時、実のところ、『サドンデス』はフィリップを狙撃できる状況ではなかった。

 彼がどうこう、護衛の狙撃手がどうこうではない。『サドンデス』が枝から降りたそのとき、フィリップはもう、そこに居なかったからだ。


 狙撃に気付いて湖を出たわけではない。

 その時点ではカウンタースナイパーの二人以外、誰も狙撃に気付いていなかった。


 フィリップは消えたのだ。


 忽然と。


 攻守交替して鬼役になったシルヴァから逃げている途中に、もう少しで捕まえられそうだと無邪気な笑みを浮かべていた彼女の目の前で。

 

 はしゃぎ回る年下の子供に温かな眼差しを向けていたお姉さんたちルキアとステラ、そして二人も含めた子供たちを見守っていた護衛や従者たちの、目の前で。


 「……う?」


 人間って水に溶けるものだっけ? とばかり、不思議そうに首を傾げるシルヴァ。

 始めはフィリップが水中に潜ったのだと思っていたルキアたちも、すぐ傍にいるはずのシルヴァが立ち止まってきょろきょろしていれば、流石に異変に気付く。


 「シルヴァ、どうした? カーターを見失ったのか?」

 「見失うって言っても、この透明度に、水底は泥の少ない砂利でしょう? あんなに遊んでいたのに殆ど濁っていないし、見失うなんて……」


 二人は波打ち際から立ち上がり、ちゃぷちゃぷと水の中に入っていく。

 やがてシルヴァの元まで来ると、周囲の湖面を見回して──三人で顔を見合わせる。


 いない。


 未だルキアとステラに身長の追い付かない矮躯とはいえ、同年代と比べてそう背が低いわけでもない人間一人が、澄んだ水の下の何処にも見当たらない。


 「……穴でも開いているんじゃないだろうな」


 湖にそんなものがあるのかは知らないが、海の沖合では地下空洞や大陸棚の構造、海水の温度差など様々な原因で水流が急激に下降することがあるらしい。運河の一部では渦潮という現象が見られるとも聞くし、何か自然現象で水底に引きずり込まれた可能性もないではない。尤も、ルキアたちは腰まで浸かるかどうかという深さの“底”だが。


 が、それにしたって、その現象そのものや残滓が全く見当たらないことはないだろうし、フィリップより体重の軽いシルヴァが巻き込まれていないのも不自然だ。


 フィリップが潜って隠れて沖合に行き、三人を揶揄っていると考えた方がまだ納得できる。

 尤も、フィリップがそういう悪戯を好む性質ではないのは皆も知るところだ。そうではないとしたら……。


 「魔物に襲われた……なんてこと、有り得る? だって、その……」


 メグと親衛騎士の手前、ルキアの言葉は歯切れが悪い。

 公的には「湖の異変は自然に解決した」ということになっているし、そうでなくてもフィリップが邪神を召喚して掃除したなんて言えるわけもないのだから。


 しかし会話の相手、ステラには問題なく意図が通じる。

 魔物がいる可能性は無いではない。掃除の後で住み着いた可能性は排除できないのだから。


 二人は顔を見合わせて眉根を寄せ、悩まし気に目を瞑った。

 

 黙考は一秒以上、二秒以下。

 ただそれだけの時間で、二人はきっぱりと覚悟を決めた。


 「……私が見るわ。万が一の場合でも、貴女なら私を殺せるでしょう?」

 「そう。お前の視点ではそれが最適に見える。が、違う。私が見るべきだ。一度あれを目にしている私が見た方が何事も無く終わる可能性がある分、優越する選択肢と言える」


 “見る”覚悟を。

 もしかしたら溺れているかもしれないフィリップを見つけるため、邪神が住み着き、それを邪神が掃除したという深みに、魔力を通じて物理視界より多くの情報を見る目を向ける覚悟を決める。


 その結果として発狂するかもしれないリスクを、許容する。


 ルキアはステラの強さ──魔術戦と、心の強さを信じて。

 ステラはいつものように、状況と選択肢を考えて最適の解を選んで。


 ルキアが頷くと、ステラは瞑目して深呼吸したかと思うと、内包した魔力で幽かに輝く蒼い双眸を蒼碧の湖面へと向ける。


 そして──。


 「──ば、かな」

 「なに、どうしたの? ……ステラ?」


 意味のない感嘆符。

 ステラ自身、配下が報告にそんなものを混ぜれば叱り付ける、無意味な時間の浪費。


 そんなことをしてでも自身を落ち着かせなければ、或いは声が震えて言葉の体を為さなかったかもしれないほどの衝撃と恐怖が心を揺さぶる。


 「……カーターの魔力反応が無い」


 見当たらない。

 湖の何処にも、フィリップの魔力反応が無い。


 フィリップの魔力は元から凄まじく貧弱だが、それでもステラやルキアは小さな中に確かにある個性を記憶している。


 ルキアやステラ、離れたところにいるミナの放つ膨大な魔力に目を晦ませることなく、湖のもっと深い場所に棲む魚や、最近住み着いたばかりであろう弱々しい精霊の魔力を読み解ける。

 なのに──人間大の、いつも傍に居た魔力の情報がどこにも見当たらない。


 愕然とするステラから視線を斬り、ルキアも視界のチャンネルを魔力の次元に切り替える。が、成果は無い。


 「そんな……」


 そんな馬鹿な話は無い。

 だって、生物は例外なく魔力を持っている。どれほど微量でも、どれほど低質でも、必ず。或いは物品や鉱石でさえ、魔力を内包するモノはある。


 死体でも、そうだ。


 考えたくない可能性、最悪中の最悪と言っていい可能性として、フィリップが溺れた可能性もあるにはあるが──たとえ人間が溺死したとしても、内包した魔力が発散し切って消えてしまうまでには、それなりに時間がかかる。


 いや、そもそも人間が溺水してから溺死するまで、そこまで早くは無い。

 あの恐るべき『深淵の息』、肺の中を即座に海水で埋め尽くしたときでさえ、犠牲者は苦しみ藻掻いてからじわじわと死に至る。だからこそフィリップがカルト相手に使いたがるのだ。


 もしも下降海流や渦潮の類に巻き込まれて溺れたのだとしても、まだフィリップを見失ってから一分かそこら。人間が窒息死するには早い。


 故に、これは。


 「フィリップが……消えた?」


 消えた、と表現すべきだろう。──子供とはいえ人間一人が、まるで消滅したように、何の痕跡も無く消え去った。


 エネルギー保存則? 質量保存則? そんな縛りがあるんだ、ふーん、物理現象って不便だね。と言わんばかりの利便性と特殊性を持つ現代魔術だが、それでも物質を何の痕跡も残さずに消滅させることは不可能だ。

 ルキアが同じことをしたければ、『明けの明星』の超エネルギーで消し飛ばすとか、重力系魔術で分子レベルでバラバラにするとか、何かを媒介にしなければならない。ステラもそうだ。


 すると当然、強力な魔術が巨大な爪痕を残す。

 魔力は嵐の如く吹き荒れ、大抵の魔術師は光と音のついた暴風に煽られたような衝撃を受けるし、ミナや、それこそルキアやステラのような知覚力の鋭敏な魔術師が気付かないなんてことは有り得ない。


 「……ふぃりっぷ、つれてかれた」


 シルヴァがぽつりと呟いて岸の方にぱちゃぱちゃと泳いでいく。

 流石に聞き捨てならなかったステラの手が素早く伸び、シルヴァを釣り上げるように引き戻した。


 「心当たりがあるのか、シルヴァ? なら教えてくれ。あいつを助けるにはどうしたらいい?」


 ステラの真剣な眼差しとルキアの縋るような視線を受けて、シルヴァは胡乱な顔で首を傾げた。


 「ん? むり」


 淡々と。

 至極当然のように突き付けられた拒絶に、ルキアの表情に危険な色が宿る。


 しかし、シルヴァは別にルキアやステラに対する意地悪やフィリップへの悪意で言ったわけではなかった。


 「にんげんにはむり」


 淡々と。

 至極当然のように告げられた言葉が「人間風情には」という意味を持っていることを、ルキアとステラは直感的に理解した。



 ◇



 気が付くと、フィリップは重く暗い水の中にいた。

 水面はどこまでも上に、水底はどこまでも下に。蒼碧と昏い蒼に挟まれて揺蕩う自らの矮躯を客観視する。


 この水は、不思議だ。

 掬い上げるととても軽いのに、深みに入ると二度と浮かばない。水底を見通せない碧なのに、沈みゆく最中に水面を見上げると、日の光がいつまでも煌めいている。息が出来ないのに、不思議と苦しくない。


 溺水は地獄の苦しみだと何かで読んだけれど、湖の中は温かくて、ほんの少しも辛くない。眠りに落ちるように、深く、昏い、水の底に沈んでいく。


 こんな死なら、悪くない。死の後が斯く安らかであれと、そう思わせる安らかさだった。


 口の中から、最後の空気が泡となって出て行った。

 だんだん視界が狭く、昏くなっていく。


 静かで、満ち足りた、涼やかな夜のような匂いが忍び寄る。

 その柔らかな腕に身を任せ、抱擁の中で眠りに就く。その幸福に思いを馳せて目を閉じて──ふと、声が聞こえた。


 「──行くな、カーター!!」


 水の上から、深淵へ。届くはずもない声はしかし、くぐもってはいたが、確かに耳朶を打った。


 本当に聞こえたのか、それとも幻聴か。

 それは定かではないが、フィリップにとってはどうでもいいことだった。


 声を認識した瞬間、フィリップは雄鶏の声を聞くよりはっきりと意識を取り戻した。


 ──死にたくない。


 何よりもまず、そう思った。


 死は救いだ。フィリップのような心の傷付いた者にとっては、特に。


 けれど、その救いは狭量だ。自分一人だけしか救ってくれない。


 理解者を喪うステラには、むしろ絶望が押し寄せることだろう。フィリップが彼女を失ったとき、どんな感情を抱くのかは我が事ながら全く想像できないが──正常であれば、それこそ自死するほどの苦痛のはずだ。


 であるなら、そんな苦痛を、彼女に背負わせるわけにはいかない。

 そんなことになるのなら、死んではいけない。死にたくない。危機感と共に、そう思った。


 フィリップは遥か彼方の水面に手を伸ばし──また、声を聞いた。


 「起き上がりなさい、おばかさん」


 奇妙な声だった。


 フィリップのことを「おばかさん」なんて呼びそうなのはミナくらいだが、彼女の声ではない。知らない人の声のはずなのだが、しかし、奇妙な親近感もあった。家族のように、とても親しい人のような──。


 なにより、その声は心地よい。

 フィリップも含めた人間に対して一片の価値も感じていないことが、質感さえ明瞭ではない声からでもはっきりと分かる。


 考えに浸る間もなく、再び声が聞こえる。

 今度は、今にも泣き出しそうなルキアの声だった。


 フィリップは声に言われるがまま、上体を起こした。水面に向かって泳ぐだけの酸素が残っていないことは分かっていたが、それでも、生きたいという思いがそうさせた。無為な行いを、美しい死の前で醜く足掻くことを強いた。


 そして──気が付くと、フィリップは腰のあたりまでを水に浸して、湖の中に座っていた。

 さっきまでいた場所より浅瀬に移動している、と不審に思ったのもつかの間、気管のかなり際どいところにまで水が入っていることに、強烈な刺激で漸く気が付く。


 盛大に水を吐き出して咳き込んでいると、ルキア達が水を蹴立ててやってきて、フィリップを抱き締めて団子のようになった。

 波打ち際で主人を待っていた従者たちも何事かと駆け寄ってくると、最後にシルヴァがぱしゃぱしゃと泳ぎながら。


 ルキアもステラも、さっき聞いた声のように泣いてはいない。二人とも何かに怯えたように顔を蒼白にしているが、一見した限りでは怪我や狂気の気配はない。シルヴァだけが、いつか見たような不機嫌さと胡乱さの入り混じった顔でフィリップをじっと見つめている。


 「なんだったの?」

 「何があった?」

 「今の何?」

 

 ルキアと、ステラと、フィリップと。三人の声がちょうど重なった。





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