第357話

 『サドンデス』は、遥か1キロ先で鳴り響いた音には気付かなかった。

 しかし、彼の視覚は今なお全盛と言ってよい性能を誇る。標的を見据えた視界の端、不自然に多くの鳥が一斉に飛び立ったのを認めた彼は、反射的にそちらへ弓を構えた。


 駆動音を殆ど立てずに滑車が回転し、弓弦が引き絞られる。

 撃つべき敵は見当たらない。当然だ。“敵”は彼の──人間の直感知覚圏外、1230メートル向こうにいるのだから。


 しかし、彼は自らの脊髄が氷柱に取って代わられたような激甚な悪寒を、気のせいと切り捨てはしなかった。


 いや。


 


 シュカッ! と小気味よい音を立てて、真後ろの木の幹に剣のようなサイズの矢が突き刺さったのだから。


 「っ!?」


 矢は射撃姿勢で半身を切った『サドンデス』の腹の辺りを掠めていた。

 ほんの数秒前までの待機姿勢のままでいたら、胸元か頭を貫かれていただろう。


 馬鹿な、と思うより早く別の枝に飛び移り、木の幹に身体を隠す。

 相手も弓矢、直線兵器だ。射手は確実に矢が飛んできた方向にいるのだから、飛び降りて森の木々を遮蔽にすればこれ以上狙撃されることは無い。


 「……見事な腕前だ」


 『サドンデス』が思わずといった風情で感嘆の言葉を漏らす。

 彼とて狙撃手だ。カウンタースナイパーには十分に気を付けていたし、敵の潜んでいそうな位置、潜みやすい位置を入念に確認したうえで狙撃場所を選んだ。


 周りに敵はいないはずだった。加えて、あの遠方で一斉に飛び立った鳥の不自然な動き。

 併せて考えると、こちらを狙えるはずがないと警戒の外に置いていた超遠距離からの狙撃という可能性が浮かぶ。一キロ狙撃。武器の性能もそれを扱う射手も、どちらも尋常ではない。


 狙撃勝負は無理だ。相手はこちらの射程外で、こちらは相手の射程内。それも恐らく、いや確実に必中圏内だ。勝負にならない。


 二択だ。

 場所を変えて引き続き暗殺対象を狙い続けるか、尻尾を巻いて逃げるか。


 現状は敵方が圧倒的に有利な状況に見えるが、二人の狙撃手同士の撃ち合いであればの話だ。

 敵方の目的は暗殺の阻止。『サドンデス』撃破はそのための手段に過ぎない。次の一射で仕留められたとしても、その前にこちらがターゲットを殺していれば、実質的には敵方の敗北だ。


 暗殺者と護衛の戦いは、いつだって暗殺者の側が有利な状況なのだ。


 そのはずなのに、悪寒が止まらない。

 標的に一射撃ち込めば勝ちと、愚かにも急いた獲物は直後に仕留められるだろうという直感がある。


 予感を裏付けるように、少し離れた地面にさっくりと大矢が刺さり埋まる。

 最速で標的を狙うのに最も適した位置。そして、最速で標的を狙っていたら、ちょうどそこにいただろうタイミングだった。


 先刻の一射と今の予測射。二つの入射角を考えると、狙撃地点は相当に遠い。リリースから着弾まで10秒弱。矢の飛翔時間まで加味した正確無比な予測射は、敵方の技量が『サドンデス』以上だと明確に示していた。


 「素晴らしい。そんな死神なら、この魂を懸けて競うのは光栄なことよ」


 言って、木の枝葉が全身に付いた偽装迷彩服を脱ぎ捨てる。

 これは発見されにくくするためのもの。そして発見された後、逃げるときに照準を付けられにくくするためのものだ。


 相手はこちらを見て的を探して撃っているのではなく、こちらの動きを予測して撃つだろう。静止目標なら兎も角、不規則に動く的を狙える距離ではない。

 偽装は無意味だ。ギリースーツはこうなると、動きを妨げる枷にすらなる。


 外套が取り払われ、白く染まった髪や口髭、深く彫り込まれた皺が木漏れ日の下に晒される。

 老年といっていい齢であることは明らかだが、その技量、殺人能力には些かの衰えも無い。視力、筋力、指先の感覚、空間把握能力、全て健常だ。


 或いは、死神の手を逃れ得るほどに。


 「…………」


 黙考する。

 二射目以降、追撃は無い。これだけの距離があってなお射手がセオリー通りに狙撃位置を移動しているのか、こちらが慎重になったことを悟って待っているのか。


 今の位置からでは狙撃手も、標的も見えない。

 前者から隠れつつ後者を射界に収める位置が最適だが、相手もそれは承知のはず。相手が移動していたら、こちらが迂闊に動けば無防備に横腹を晒してしまう可能性もあるが──さて。


 最適解を探る思考の中、ほんの僅かな悪寒──ちょっとした嫌な予感程度のものが首筋に走る。

 彼がそれに従って素早く動き、身を隠す遮蔽を別の木へと移したのはなんとなくだ。なんとなく嫌な予感がしたから、取り敢えず移動してみた。


 その直後、森の柔らかな地面に再び音も無く大矢が突き立った。

 ほんの一瞬前まで、彼が身を隠していたその場所に──木の幹という頼もしい遮蔽の庇護下であるはずの、その場所に。


 「っ!」

 

 曲射だ。

 それも重力を使う放物線状のものではない、この超遠距離を利用した横カーブ状の。


 弓矢は勿論、直線兵器だ。曲がって遮蔽を避けるようなスマートな機能は無い。

 だが射手の習熟度次第で、その直線性には差異がある。いや、むしろ狙った場所に真っ直ぐ飛んでいくようになるまで、長い練習が必要だ。未熟な者が撃てば的に届かなかったり、あらぬ方向へ飛んでいくこともある。


 今のはその、弓矢という武器に生じるブレを利用した曲芸だ。敢えて射形を崩して撃ち、矢が曲がるよう狙った。

 1000メートルもの長い距離をかけて、ゆっくりとなだらかに──しかし最終的には、障害物を避けるほどの角度を持つように。


 逃げ隠れてもなお命を刈り取る、禍々しく湾曲した死神の鎌を彷彿とさせる技だ。


 「素晴らしい……!」


 『サドンデス』は獰猛な笑顔を浮かべ、再び遮蔽を移動する。少し遠く、また標的を撃てるわけでもない場所に。最善どころか次善でさえない、四番手くらいの位置だ。

 一見無駄に思える判断はしかし、最善の位置と次善の位置に当然のように遮蔽を搔い潜って突き立った大矢によって、彼の命を救ったことを証明していた。


 今の二射、着弾のタイミングにズレが殆ど無かった。

 つまり、射手はこれだけの曲芸射撃を立て続けに行えるほどの技量を持っている。


 そして超遠距離から標的と遮蔽、そして“標的の標的”の位置を加味して動きを予測する思考の速度と精度も。


 強力なマルチタスク? いや──。


 「バディか。確か、射手シューター観測手スポッターの二人一組で狙撃手を運用するシステムが、王国の一部部隊で実験中だと聞いていたが……これがそうなら、お荷物どころか脳と手、同体だな」


 周辺の状況を観測し、獲物の動きを予測して射撃地点を指示するのはスポッターの役目。シューターはその指示通り、身に着けた技術を最大限に発揮すればよい。そういうシステムだ。


 『サドンデス』のような狩人気質の弓兵、自分で考えて自分で撃つ、技量と経験を最も重んじるタイプの人間が考え付くことではない。

 そしておそらく、こればかりはあの有能な国王や第一王女の発案でもないだろう。特に第一王女は個人で軍隊を殲滅できる大戦力。この手の、何か欠けた技能を他人で補うことを発想するのは、もっと劣った人間だ。


 噂を聞いたときには、移動や隠蔽の邪魔になる他人など連れ歩くべきではないと思ったものだが──なるほど、恐ろしい。


 単一の強力な才能を集中運用できるだけではない。

 複数の強力な才能を並列運用することで、最終的な威力を何倍にも高めている。


 「さしずめ『死神と鎌デス&サイズ』と言ったところか。持つべき者が持つべき物を得た、と」


 恐ろしく、素晴らしい。あぁ、それは認めよう。


 だが、まだ甘い。

 『サドンデス』の長い経験に裏打ちされた直感によって、敵手の攻撃は既に四度、外れている。


 敵方、射手の技量は『サドンデス』を上回る。それは間違いない。認めざるを得ない。

 だが、観測手の予測は些か素直すぎるようだ。老獪な狩人である『サドンデス』の直感、いや経験が一歩優っている。


 血沸き肉躍るが、どうやら出来そうだと獰猛に口角を吊り上げる『サドンデス』。


 しかし、だ。


 彼は一つ失念している。

 敵手、『死神と鎌』は、単独隠密行動を取る暗殺者ではない。いや──『サドンデス』のように、個人の技量だけで事を為すことを至上の誇りとする狩人気質の弓兵ではない。


 彼女たちは親衛騎士。

 護衛目標であるステラ、そして今はフィリップをも守ることを至上命題として行動する、だ。或いは組織、部隊と言い換えてもいい。


 「っ!?」


 がさがさと、何者かが藪をかき分けて枝を払い除けながら森に入ってくる音がする。

 それも一つではない。二人、いや三人か。弓兵一人が相手取るには多い数だ。相手が魔力障壁を使える魔術師や盾を持った騎士なら、多すぎると言ってもいい数。


 『サドンデス』は即座に悟る。

 彼ら──いや、彼女らは、『サドンデス』を狩り出すための部隊。狙撃手と連携したマンハント部隊だと。


 先刻からの狙撃は、勿論『サドンデス』を仕留めるつもりの攻撃ではあった。しかしそれ以上に、時間を稼ぐ目的の方が大きかったのだ。彼をこの場に釘づけにして逃がさないために──遅れてやってくる人狩り部隊が、彼を見つけて殺すために。


 「猟犬か。ふぅむ……」


 呟きつつ、そろそろ頃合いだという直感に従って遮蔽を移すと、先ほどまでいた場所と、最善と次善の位置に矢が突き刺さる。『サドンデス』が移動先に選んだのは、やはり少し遠い四番目くらいの位置だった。

 

 『サドンデス』は手中の愛弓を見下ろし、暫し黙考する。

 150ポンドの複合弓に、錬金素材の高級矢。500メートル射では厳しいが、同じ森の中──いま入ったばかりでも精々200メートルだ。ならば相手が錬金金属のフルプレートアーマーを身に着けていても、問題なく致命傷を与えられるだろう。


 猟犬を逆に狩るのは、武装的には可能だ。

 だが『死神と鎌』から逃げ回りながら、更に手練れの騎士を相手取るのは骨が折れる。不可能とまでは言わないが、余裕とも言えない。生きるか死ぬかの戦いにはなるだろうし、死ぬ確率の方がやや高いくらいだ。


 老狩人──否、老いた獲物は数瞬の思考の後、森の外、湖とは反対側へ駆け出す。


 依頼は無期限だ。ここは一度撤退し、再びの機会を伺うべきだろう。

 勿論、今日を逃せばチャンスは二度と無い可能性、他の暗殺者に獲られてしまう可能性は十分にある。それを厭うプライドも持ち合わせている。

 

 あれほどの腕を持つ射手にならば、標的を討つと同時に撃たれて死んでも本望だとは思っていたが、猟犬に狩り殺されるのではまた違ってくる。その死に様で屍を晒すのは不本意だ。


 故に、ここは一度退く。


 老体とは思えない健脚で木々の合間を縫う『サドンデス』は、慎重に狙撃手を探しているらしい猟犬たちがどんどん離れていくのを感じ取り──これまでで最大の悪寒に襲われた。

 背骨が氷柱に変わったどころではない。身体の全てが凍り付いたような──なのに、背中の一点だけは焼き印を押されたように灼熱だ。


 「く、──はっ」

 

 自然、笑みが零れる。

 左胸、背中から心臓を穿って胸に抜け、眼前の木に突き刺さった大矢を見て。赤く汚れたそれを、地面に点々と零れ落ちる赤を見て、自然と。


 穴の開いた胸に宿るのは、僅かな自嘲と、大きな賞賛だ。


 そうだった、と、当然のことを忘れていた自分を嘲る。

 猟犬とは仕留めた獲物を持ってくるばかりではない。獲物を狩人の前へと誘い出す役目もあるのだ。


 そして、大笑する。喝采する。

 これまでの自分の動きから、完璧に性格を読み切ったのだろう。そうでなければ、この距離で一射で確実に逃げる標的を仕留めることはできない。


 観測手の方は未熟だと思ったが、如何せん、情報を与えすぎたようだ。


 反省点はある。判断が遅れた場面が多かった。年のせいと諦めたくはない。

 後悔も、未練もある。冷汗が止まらないような時間だったが、叶うなら今度は500メートルのフィールドでもう一度出会いたい。


 だが──あぁ。


 悪くない死だ。


 その歓喜を最後に、彼の意識は完全に消滅した。

 満足そうに笑って息絶えた『サドンデス』の死体が発見されるのは、そのすぐ後のことだった。



 倒れ伏した老暗殺者から一キロ。

 当初と変わらず木の上に立っていた親衛騎士たちは、枝に腰掛け幹に背を預けて肩で息をしていた。


 「ねぇー!! なんなんですかアイツ! 並の獣よりよっぽどカンいいじゃないですか! 化け物ですよ化け物! どんな野生児なのか顔見に行きましょう!」

 「老人……いや老兵だったわよ。というか頭痛いからちょっと喋らないで。響く。今すぐ殺して黙らせたいぐらい響く」

 「私だって腕も肩も背中も痛いですぅー! 先輩の腕引きちぎってくっつけたいぐらい痛いですぅー!」


 ぎゃいぎゃいと姦しく言い合っていた二人だったが、やがて気力も使い果たし、二人同時にぐったりと項垂れた。


 「……増援とか来ないんですか? 王都の方でも状況は把握したころでしょ?」

 「ばーか。王都からここまで何日かかると思ってんのよ。来るとしてもまだ先」

 「そっかぁ……。交代要員もいませんしねぇ……」


 へへへ、と虚ろな笑い声を漏らしていた二人は、かくんと操り損ねた人形のように天を仰ぐ。


 そして、絶叫。


 「……王女殿下ぁー! 狙撃手増員しましょぉー! あいたた、肩が……」

 「私たち有用でしたー! 実験成功でーす! っはははは! あー……頭いった……」

 

 補助魔術で人外級の筋力を普段を数倍する時間発揮し続けた弓兵が、叫びに合わせて振り回していた右肩を庇う。

 短時間ではあるものの極限の集中と共に目と脳とを酷使し続けた観測手が、こめかみを押さえて項垂れる。


 そして二人は同時に、大きな達成感と疲労感に満ちた溜息を吐いた。







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