第356話

 それぞれの従者に日傘を預けて波打ち際に座ったルキアとステラは、腰の深さの辺りで遊んでいるフィリップとシルヴァを眺めていた。

 遊んでいる、と言っても、潜水や遠泳の類は呼吸不要で無尽蔵のスタミナを持つシルヴァが無敵なので、いつもの鬼ごっこだ。ただし、二人ともかなりガチになっている。


 逃げるシルヴァと追いかけるフィリップが立てる水音は、ちゃぷちゃぷ、程度ではない。ドドドド、とバタ足が盛大に飛沫を上げている。折角の浮き輪も「これスピード出ない!」と浜にぽつんと取り残されてしまった。


 「……まぁ、その、なんだ。あいつは水着を見るのも初めてだし、変な服だと思うのも無理はないさ」

 「慰めは不要よ。言っておくけれど、フィリップに見せるために選んだわけじゃないから」

 「お前の価値観は分かっているさ。だが、それはそれとしてカーターに褒められるのは嬉しいだろう?」


 けらけらと笑うステラだが、ルキアの言葉を照れ隠しの嘘だとは思っていない。

 彼女の美意識は強固で、その判断基準は自分の中にしかないことを知っているからだ。彼女が着飾る時に求めているのは誰かに見せるための美しさ、誰かに褒められるための美しさではなく、自分自身を認めるためのものだ。


 とはいえ、親しい友人の賞賛に価値を感じないわけではないので、ルキアも「えぇ、勿論」と軽く答えるのだが。


 「……ところで貴女の水着、ちょっと露出が激しすぎない?」

 「そうか? オーソドックスなデザインだと思うが。私にはむしろ、お前の水着が暑苦しそうに見える」


 胡乱な表情をお互いに向ける二人。


 ルキアの水着はパレオやアームガードも含めると、肌の露出箇所が殆ど無い。日焼け対策プラス、他人に肌を晒すことを嫌う性格の現れだ。

 

 対して、ステラは上も下も局部を隠す程度。フィリップが下着と誤解する程度の布面積だ。こちらは王城にいる間は着替えや風呂の世話を侍女に焼かれている──任せているわけではなく、のだが──彼女の、羞恥心の薄さが垣間見える。

 下着を見られるのは嫌がる辺り、見られてもいい装いだと判断した時点ですっぱりと羞恥心が消えると言うべきか。


 「日焼け対策に偏光魔術を使わなくていいし、露出もしたくないもの。なら、これが最適解でしょう?」

 「湖畔で水着だぞ? そこまで神経質に日焼けを嫌う時点で最適じゃあない。が、まあお前は肌が弱いからな」


 大真面目な顔で分かりにくい冗談を言うステラと、それを真顔で見つめるルキア。ややあって、二人は顔を見合わせて笑った。

 バカンスに合理性を求めるものではない。いや、むしろあれこれ考えず楽しむことこそ合理的だろう。


 ただでさえ、ここ何年かは慌ただしかったのだし──これまで培ってきた価値観が崩壊するような出来事を多々経験してきたのだし。


 この湖は安全だろう。

 なんせ、フィリップが邪神を使って掃除したという話だ。その上周囲をステラの親衛騎士が守っている。野外でここよりも安全な場所は無いのではないだろうか。


 そもそも正面戦闘能力がイカれている。

 邪神を使役する『龍狩りの英雄』……は置いておくとしても、ダンジョン一つを吹き飛ばせるルキアに、純火力では彼女を上回るステラ。魔術戦はともかく白兵戦能力では誰も敵わないのではないかと思われる吸血鬼。


 と、そこまで考えたステラは、件の吸血鬼の姿が見当たらないことに気が付いた。

 そりゃあ水着ではしゃぎ回るタイプではないが、遊んでいるペットを愛玩するくらいの風流心は持ち合わせているだろうに。


 「……そういえば、ミナはどうした?」

 「あぁ……あれ、見える?」


 問いを受けてルキアが苦笑と共に示したのは、かなり遠くの岸辺だ。

 遠目では分かりづらいが、白い波飛沫──いや、水柱が上がっているように見える。


 「……あれは何だ?」

 「剣で湖を斬ろうとしてるのよ。彼女の師匠は出来たんですって」


 ステラは情報が物理的な衝撃を持ったようにのけぞる。

 実現できたというミナの師匠はもうこの際置いておくとして、あの無駄や面倒を嫌うミナが試しているということは、彼女には出来るビジョンが見えているということだろう。


 「冗談だろう? いくらあいつが化け物とはいえ、力や速度ではどうにもならないだろう。魔術ならともかく……お前は出来るか?」

 「やり方は何通りか思いつくわね。重力操作で無理やり割るとか、『明けの明星』で吹き飛ばすとか」

 「ははは、水蒸気爆発でとんでもないことになりそうだな」


 軽快に笑うステラ。

 普通は魔術を使おうが何をしようが無理だから、海を割った聖人の御業が『奇跡』と呼ばれるんだよなぁ……なんて、傘を持つ従者二人の心が一つになった。



 ◇



 和やかな空気の流れる水辺から500メートル。

 湖を取り囲む森の樹上に、彼はいた。


 全身に木の枝葉を付けた男だ。顔には緑色のインクが塗られ、更に木の枝葉を付けたフードで輪郭を隠している。

 彼の衣服は全身が土や木の枝葉で汚れているだけでなく、ぶかぶかでサイズが合っていない。それもこれも森の景色の中に溶け込み、発見されないようにするためだ。


 彼は暗殺者だった。

 得物は帝国の一部で使われる金属複合弓コンパウンドボウ。滑車の力で弦を引くことから、通常のロングボウよりも強力なことが多い。


 中でも彼の使う弓は超の付く強弓だ。弓力は150ポンド──約68キログラム。

 長年の研鑽と仕事で右肩の筋肉は極限の柔軟性と強度を持ち、左腕は一本の棒のように硬く鍛えられている彼でなければ、そうそう扱えない代物だ。


 高倍率の照準器などは無いが、小型望遠鏡で標的の位置を観測した後は自分の目と空間把握力だけで命中させる腕前を持ち、標的にも護衛にも悟られることのない超遠距離から頭蓋をブチ抜いて殺す。その仕事ぶりから、与えられた二つ名は“サドンデス突然死”。


 望遠鏡の狭い視界の中心には、今回のターゲットである少年がいる。

 泳いでいる人間を狙うのは初めてだが、何も馬鹿正直に挙動の不鮮明な水泳中を狙う必要は無い。立ち上がって動きの鈍る瞬間か、或いは陸に向かって歩いている動きの遅い瞬間を狙えばいいだけのことだ。


 一発わざと外して撃ち、標的が慌てて陸地へ向かうよう誘導することもできるが──それには二人の聖痕者がネックだ。おそらくただの一射でも『サドンデス』のいる位置を正確に割り出し、魔術攻撃が飛んでくるだろう。そうなれば非魔術師の彼に為す術はない。


 故に、待つ。

 彼は背負っていたコンパウンドボウを取り出し、矢をつがえて深く呼吸した。チャンスは一度。そしておそらく、十秒以下。


 なんのことはない。その程度の難易度であれば、これまでに何度でもこなしてきた。

 龍狩りの英雄を殺すという大仕事だって、終わった後では『昔の仕事』と片付ける程度のものでしかないだろう。


 狙撃とは撃つ瞬間ではなく、それ以前の準備によって成否が決まる。優れた射手は、撃つ時点で当たるか否かが分かるものだ。


 そして、彼は既に確信している。

 撃てば当たる。当てられる。そして500メートル先からでも頭蓋骨を貫通する弓と矢だ。確実に殺せる、と。


 

 そんな彼から1000メートル。

 また別な木の上に、彼女たちは立っていた。


 「──とでも思っているんでしょうけど、駄目ですよ、そんないい位置取りしちゃったら。分かりやすく狙撃しやすい場所なんて、カウンタースナイパーが見てるに決まってるじゃないですか」

 「笑ってないで、さっさと片付けるわよ」


 けらけらと愉快そうに笑うのは、巨大な弓を手にした女だ。

 全身を覆う親衛騎士のシンボルである金属鎧もそうだが、彼女自身の身長に匹敵するほどの大弓は、樹上で扱うには不適切なサイズだろう。


 もう一人は小型の望遠鏡と温度・湿度計を持った親衛騎士。

 二人とも女性とはいえ武装を含めると相当な重量になるから、二人が立っているのは別の木だ。


 「距離1230。風偏移、無風から左2.5へ。気温27度、湿度25パーセント」

 「環境了解。補助魔術はセットA」

 「セットA了解。《ストレングス》《デクスタリティ》《ホークアイ》《デュラビリティ》《エンハンス・ピアース》」


 攻撃魔術より難易度が低いとはいえ、補助魔術五つの同時詠唱は相当に高度な技術だ。

 筋力補助、器用補助、遠見、武器耐久力向上、貫通力強化。これだけ積めば、人間を人間以上の領域へ向けて一歩か二歩は進ませられる。


 しかし、セットAは彼女が狙撃する際の最低限の補助だった。

 

 彼女が使う弓は弓力240ポンド──108キロ。それも滑車どころか照準器さえ付いていないロングボウだ。


 女性云々ではなく、もはや補助魔術が無ければ人間には扱えない代物だ。それもそのはずで、この弓は端から人間が扱うことを想定していない。

 悪魔が鍛ち、悪魔が使っていた人外の武器。それもゴエティアの悪魔の側近と目されていた、高位悪魔の持っていた代物だ。一度は王宮の宝物庫に収まり、ステラが自らの親衛隊で最も腕の立つ弓兵へ貸し与えたもの。


 狙撃は撃つ瞬間ではなく、それ以前の準備で成否が決まる。──とは言うが、この状況は論外だろう。


 縦に構えられるギリギリのサイズの弓は、そもそも人間が使うものではない。

 無風とはいえ体重だけで撓んで揺れる樹上は、安定した足場には程遠い。


 その上、標的までの距離は1230メートル。


 遠い、なんて次元ではない。

 望遠鏡や補助魔術が無ければ標的を視認することさえ出来ない距離だ。そして、大抵の弓の限界射程でもある。仰角を付けて、何とかギリギリ届く距離。狙うとか当てるとか、そんな概念を持ち込めない距離。


 しかし、彼女が構えた弓の向きはほぼ水平だ。

 真っ直ぐに狙いを付けて、真っ直ぐに撃ち抜くつもりでいる。


 弦を引き絞る腕の金属製の手甲が弓力のあまりきいきいと軋みを上げるが、つがえられた剣のようなサイズの大矢はぴくりとも震えず、真っ直ぐに1キロ先の標的を見つめている。


 そして──ばん! と、千夜城のバリスタにも匹敵する音を立てて、付与魔術で淡く輝く大矢が撃ち出された。

 弓返りで衝撃を逃がしても腕ごと持って行かれそうな反動を、付与魔術で強化された筋力と身体操作で無理やりにいなす。


 分散した衝撃と大音響が梢を揺らし、ばさばさばさ! と周囲にいた鳥や虫たちが一斉に羽ばたいて逃げていくのを、彼女は舌打ちと共に見送る。


 「まさか、外したの?」

 「当たる位置には撃ちましたけど、当たる前に森の動きでバレるかも。というか、私なら警戒して場所を変えるくらいはしますね」


 矢の飛翔速度は秒速100メートルを超えるが、それでも距離が距離だ。弾着まで10秒近くかかる以上、狙撃に気付かれれば回避される恐れがある。


 補助魔術師は険しい顔で望遠鏡を覗き、弓兵は鞘のような矢筒から二本目を番えた。



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