第355話

 なんだか王都を出る時にはいつも急いでいるような気がするけれど、今度はややのんびりと──道中で暗殺者が襲ってくるのではと警戒に警戒を重ねながらの旅路だった。警戒していたのは主に親衛隊の皆さまだが。


 そんな馬車旅行も一旦は終わり、遂に例の湖──“心鏡の湖”に到着した。


 緑色に淀み腐臭さえ放っていた湖は、あの汚濁が嘘のように美しい姿を取り戻していた。

 水は完全に透き通り、かなり深いところでも水底がすぐ近くにあるように錯覚するほどだ。そして水深が増していくにつれて、緑から青へと色を変えていく。エメラルドグリーンからコバルトブルーへのグラデーションだ。

 波打つ湖面から吹き抜ける風は涼やかで、あの吐き気を催す悪臭は欠片も残っていない。


 フィリップですら目を瞠るほど美しい──が、あまり鏡っぽくはない。これが正常なのだとすると、名前の元になった『湖の精に心を覗かれた』という逸話は、外観から作られたものではないのかもしれない。

 湖の精といえばニンフやウンディーネだが、彼女たちがドライアドのように心を読む力を持っているとは聞いたことがないけれど。


 「……カーター、そこで立ち止まるな。後ろが閊える」

 「おっと、失礼しました」


 後ろから突っつかれて、フィリップはなんとなく一列になって森を抜けたところだったと思い出した。

 汚染の話は聞いていても実際に見たわけではなかったルキアとステラは「懐かしいわね」「何年ぶりだろうな」なんて話しているが、エレナが体調を崩すほどの汚染具合を目の当たりにしたフィリップとしては、この変貌には感動すら覚える。思わず立ち尽くしてしまうほどに。


 「流石旧支配者、何でもできる。ドブさらいだってお手の物だ」


 砂利の浜辺を歩き、波打ち際で水を掬う。

 指の間を落ちていく水は滑らかで、夏の日差しを受けて煌めいている。臭いを嗅いで、口に含んでみるが──無味無臭、ただの水だ。


 「完璧だ……」


 では、とばかりの直結思考でフィリップは駆け出す。

 目の前に泳げる水溜まりがあるならダイブしてみるのは少年クソガキの本能だが、至極当然のように襟首を掴まれて阻止された。


 「おい待て。そんな恰好で泳ぐつもりか?」

 「……っと、確かに」


 フィリップは自分の服装を見下ろして、気持ちが急きすぎたと自省する。

 何の変哲もない半袖シャツと半ズボンにスニーカー。ダメダメだ。せっかくルキアにお願いして取り寄せてもらった浮き輪も荷物の中に詰め込まれたままだし、水遊びには全く適していない。


 「あれが今回私たちが泊まる宿だ。取り敢えず荷物を置いて着替えよう」


 ステラの示す先は、元は管理人の住まいであるこぢんまりとしたコテージがあるはずだった場所だ。

 しかし、あの小さくも風情のあった建物は完膚なきまでに取り壊され、今では一等地の邸宅じみて豪奢な、景観にそぐわぬ不細工な建物に変わっていた。田舎育ちのフィリップも、美的感覚の鋭敏なルキアも、何とも言えない顔でそちらに向かう。


 湖畔の朴訥な景色の中で異様な存在感のある別荘は、外観から受ける印象と同様の内装だった。即ち、絢爛豪華で装飾華美。玄関を潜っただけで住み心地は最高なのだろうと想像できるが、フィリップとルキアは「それはいいんだけど、なんだかなぁ」と心を一つにする。


 ステラは自分が泊まるのだから当然のこととすんなり受け入れているが、彼女も苦笑気味な辺り、景観を壊しているという印象は受けたのだろう。


 「……カーターの部屋はそこだ。ルキアはこっち、ミナはそこだ。それじゃ各自、支度を済ませよう」


 ぞろぞろと指定された部屋に入ると、後ろから親衛騎士が付いてきて荷物を運び入れてくれる。

 この旅行のために作られた建物なのか、部屋の扉にはそれぞれの名前が彫られていたし、フィリップの部屋には龍貶しドラゴルードを置くための台座まであった。


 薄い高級ガラスの嵌った窓を開けてみたり、ベッドの柔らかさを確かめてみたり、元宿屋の従業員としての興味を満たしていると、声なき意思が届く。

 魔術的異空間にいるシルヴァからの、『そんなのはどうでもいいから早く遊ぼう』という催促だ。


 フィリップは確かにと頷き、荷物を漁って着替えと浮き輪を引っ張り出す。浮き輪は革袋より伸縮性や強靭さに長けた錬金繊維製で、浮力も大きいらしい。


 着替えを終えた時には、シルヴァはもう実体化して扉の前で待っていた。


 「よし、GO!」

 「ごー!」


 どたどたと無作法に廊下を駆けていく二人の子供に、親衛騎士たちは怒りではなくむしろ安堵したような生温かい目を向ける。

 二人は砂利の浜を踏みしめ、燦々と照り付ける太陽の下、煌めく水面へ飛び込──もうとして、急停止した。止まったのはフィリップだけだったが、フィリップが止まったのを見てシルヴァも足を止める。


 「……なにしてる?」

 「準備運動。人体にはね……足が攣るっていう奇妙な自殺機能があるんだ……」


 地元の川で遊ぶときでさえ、準備運動をしろと父親から耳にタコができるほど言われてきたのだ。

 さっきはついはしゃいでしまったが、フィリップはこの湖に入ったことがない。何処までが浅瀬で何処からが深みなのか、どの辺りまで砂利肌でどこから岩肌なのか、そういう情報がまるでないのだから、迂闊に飛び込むなど自殺行為だ。


 「ふーん……じゃあしるばもやる」

 「いや、シルヴァは溺れないと思うけど……まぁいいや。この辺の筋肉を伸ばして……」

 

 そもそもシルヴァに筋肉や骨格という概念があるのだろうかと頭の片隅に疑問符を浮かべつつ、教わった通りの準備運動をきっちりとこなす。特に溺れたことがあるわけではないのだが、生来の真面目さがそうさせるのだろう。


 そして準備運動を終えた二人は、改めて煌めく湖面に向き直る。そして。


 「よし、GO!」

 「ごー!」

 「ストップ。待ちなさい、フィリップ」


 全速力で駆け出したつもりだったフィリップだったが、気が付くと地面から数センチ浮いていた。当然、地面を蹴っていないのだから一歩も前には進んでいない。ちょうど足元を見たタイミングで浮遊が終わり、ふわりと衝撃なく着地する。

 

 重力操作なんて闇属性魔術の中でも特に高度な術式だ。一行の中で使えるのは一人だけだし、フィリップのことを「フィリップ」と呼ぶのも一人だけだ。


 一足先に湖へダイブして楽しそうに泳いでいるシルヴァを羨ましそうに一瞥して、フィリップは少し不貞腐れながら振り返る。


 「なんですか、ルキア? 着替えも終わったし準備運動もした、し……え? なんですかその恰好」

 「私も丁度それを尋ねようと思っていたところよ。なに、その恰好?」

 

 怪訝そうに見つめ合う二人。その装いはほぼ正反対だった。


 ルキアは黒いワンピース型の水着に、ゴシック調レースのアームガードとシースルーのロングパレオという出で立ちだ。パレオは右脚が太腿のかなり上の方まで露出するように巻かれている。流石に鼠径部までは見せないが、普段のスカートの比ではない。

 水着とは言うが露出しているのは肩回りと片脚くらいで、更に日傘まで持った徹底ぶりは、直射日光に弱い先天性色素欠乏アルビノゆえか。


 しかし水着は水着だ。泳ぐ際に支障が無いよう、身体に密着する素材で作られている。露出などせずとも肢体の曲線美は存分に主張されていたし、黒で統一されている分、脚や肩回りの肌の白さが際立って映える。もしも近くにフィリップ以外の男がいれば魅入られて立ち竦むほどの色香を纏っていた。


 そんな彼女を怪訝そうに見るフィリップはというと、長袖に長ズボン、片手に浮き輪、足元に至っては底の厚いブーツだ。森を通り抜けてきた時より重装備、というか、むしろ森を歩くときにその恰好をしておくべきだったと突っ込みたくなる装いだ。


 「何って、湖に入るので。ルキアこそ……いやまあ上半身はいいとして、なんですかそのスカート半分みたいなの。しかもサンダルって。森で足首怪我したの、忘れたんですか?」

 「これはパレオよ。……待って? これ、私がおかしいの?」


 頭痛を覚えたようにこめかみを押さえるルキアと、「暑さで熱でも出たのでは?」と訝るフィリップ。

 どちらがおかしい、どちらが悪いという話ではない。これはどちらともが無知なのだ。それだけにこのままでは埒が明かないところだったが、幸い、第三者の介入があった。


 「どうした? 水着姿のルキアに見惚れたか?」

 「あ、殿下。ちょっと見て──は?」


 合理性の化身たるステラなら、ルキアを一瞬で説得できるに違いない。

 そんな期待と共に揶揄う声のした方へ視線を移したフィリップだったが、台詞は自分自身の素っ頓狂な声に遮られた。


 ステラが着ていたのは、真っ赤なビキニだった。

 勿論彼女とて淑女だ。俗にマイクロビキニと呼ばれるような過度に露出するものではない。


 しかし普段シャツの下からでもはっきりと存在を主張している豊かな双丘は一枚目のヴェールを脱ぎ、その大きさをより鮮明に見せつけている。健康的に鍛えられ引き締まったお腹も、腰から尻へ、尻から太腿へ、そして脚全体へ続く美しい曲線の流れもだ。

 彼女自身と侍女以外は見ることのない、隠されていなければならないはずの場所が大胆にも晒されている。


 綺麗な身体だ、とか、えっちじゃん、とか。そういう感想は持てないにしても、普段のフィリップなら「へぇ、殿下の方がルキアより胸が大きいのか」と、内容に反して虫を観察するような目を向けていたかもしれない。


 だが、フィリップの目は怪訝そうに細められていた。


 「……なんで下着? ふざけてるんですか?」

 「そんなわけないだろう。水着だよ」


 フィリップはステラを頭の先から爪先まで一通り眺めたあと、呆れたように頭を振る。勘弁してくれと言いたげだが、それはルキアたちも同じ気持ちだろう。


 「水着? まぁなんでもいいですけど、二人とも最低でも靴だけは何とかしてから出直してください。サンダルなんか論外ですよ。水遊びは初めてですか?」

 「いや、私に言わせればブーツの方がおかしいぞ? お前はこれから森にでも行くのか?」


 うんうんとルキアも頻りに頷く。

 フィリップの装いは二人にしてみれば森歩きのそれなのだが、それにしては浮き輪が邪魔だった。湖をぐるりと取り囲む森に繰り出すつもりではないだろう。


 どういうつもりなのかと視線で問い質すステラに、フィリップは全く同じ視線を返す。


 「はぁ? 岩とか尖った石で怪我しないように厚みのある靴を履く、常識じゃないですか。岩肌とか流れてくる枝なんかで怪我しないように長袖と長ズボン。それだと泳ぎにくいから、流れと深さを知らないところではフロートを使う。子供でも知ってますよ」


 ルキアとステラは答えに詰まり、顔を見合わせる。

 僕より小さい子供って意味ですけど、と補足するフィリップだが、二人が引っかかったのはそこではない。


 「……田舎ではそうなの?」

 「……え? 王都では違うんですか?」 


 またか、と三人の内心が一致する。

 王都の内外で文化に差があるのは周知の事実だったが、こんなところにも違いがあったとは。


 「あぁ……うん、概ね理解した。言いたいことが二つあるが、取り敢えず脱ごうとするのをやめろ」


 じゃあ僕も下着で泳いでみようかな、とベルトをカチャカチャやりだしたフィリップを止めるステラ。彼女は先ほどのルキアと同じく頭痛を覚えたように眉間の辺りを押さえていた。


 「……まず、私とルキアのこれは水着と言って、濡れてもいい装いだ。深いところで泳いだり潜ったりする装備ではなく、あくまで浅瀬で水遊びをするときに着るものだが、泳ぎに適した素材になっている。通常の布より身体に纏わりつかないし、水の抵抗も少ない。ちょっと──ルキアのを触ってみるか?」

 「……まぁ、そうね。貴女ではないわね……」


 ワンピースのルキアと、ビキニのステラ。水着の質感を確かめるために触るなら、流石に一択だった。主に布面積と部位的な理由で。


 背中なら、とお許しを頂いて触ってみると、確かにフィリップが知らない質感だ。


 「おぉ、ホントだ……。意外と厚みがありますね」

 「靴だってこれでいい。浅瀬の、足元の石が小さく丸くなっているようなところで遊ぶのが普通だからな」

 「私もステラも、シルヴァみたいにエネルギッシュに遊ぶタイプじゃないしね……」


 ルキアの言葉に、三人ともが湖の方を見遣る。

 シルヴァは森の外でもスタミナは無尽蔵だからか、ちょっとした水柱が上がるほどのバタ足で楽しそうに泳ぎ回っていた。


 「僕も遊びたいんですけど」と指差すフィリップを、ステラが「まぁ待て」と宥める。

 

 「考えてみれば、王都外では水着の文化がないのは理解できる。この素材も錬金繊維だからな。で、もう一つ」


 億劫そうな顔をしたフィリップだったが、片手で頬を挟まれて「ぷぅ」と間の抜けた音が漏れた。


 「で、でんか?」


 笑顔ではあるものの、妙な威圧感と凄み──フィリップの言う「怒られの気配」を漂わせたステラに、フィリップは思わず声を震わせる。

 怒られることそれ自体も嫌だが、ステラが怒るときは徹底的な理詰めであることが大半なので、反論の余地もなければ反抗の余地もないのだ。あと、往々にしてフィリップが100パーセント悪い。


 「下着だと思ったのなら目を背けるくらいしろ」


 笑顔のまま、そして凄みもそのままのステラに、フィリップはこくこくと──というか、がくがくと勢いよく頷く。


 「す、すみません、つい」

 「ついって、お前な……」


 凄いこと言うなこいつ、と僅かに赤面するステラだが、顔の火照りはすぐに引っ込む。彼女は誰に言われずとも「つい見惚れた」という意味ではないと理解できたし、それは正解だ。


 フィリップは「殿下のことは世界で一番賢いと思ってたけど、過大評価だったかも」なんて考えていたら、つい顔を背けるのを忘れていただけだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る