第354話

 御前論奏が行われたその部屋に、国王と宰相、そしてディーチ伯爵が再び集まっていた。

 彼らの位置関係は数日前と変わらず、国王が玉座に掛け、その隣に宰相がいる。ディーチ伯爵は演壇から見て左手側の机に着いている。


 数日前と違うのは、フィリップが立っていた演壇には初老の貴婦人が立っていること。

 そして──手足を鉄の枷で戒められた彼女の背後には既に抜剣している二人の鎧騎士が立ち、首筋へ刃を添えていることだ。


 また、彼女はフィリップのように自分の足でここに来たわけではない。

 愚かにも王城の進入禁止領域──国王の私室へ至る廊下へ入ろうとして、城兵に拘束されたのだ。


 国王と宰相の狙い通りに。


 「誤解なきように言っておくが、これは御前論奏ではない。ただ衛士団はちと面倒でな、拘置所へ立ち入らせる人間は逃亡幇助の可能性が無い人間だけだ。如何な貴族とはいえ、肉親が入るには余の印璽が要る。故に、彼らに捕らえられる前に親衛隊が引っ立てる必要があった。それだけだ」


 自分の行動が完璧な誘導下にあったとは想像もできない老婦人は、三人の顔を順繰りに見ることしかできない。


 困惑と、僅かな恐怖に満ちた顔が二周したころ、宰相が呆れたような溜息を吐いた。

 

 「……分からないか、メロウ・フォン・ヴェルデ伯爵夫人。貴女を処刑する前に話がしたいという、貴女の弟──ケイリス・フォン・ディーチ伯爵の嘆願を、陛下が慈悲深くもお聞き入れになったのだよ」


 処刑という言葉に、ヴェルデ伯爵夫人の肩がびくりと跳ねる。

 無機質でありながら獰猛な印象のある言葉は、この二年で貴族たちにとって急激に身近になっていた。


 二年前の夏、旧近衛騎士団の解体と腐敗の原因だった貴族の大粛清を皮切りとした、宮廷内の大掃除のせいだ。

 時には貴族でさえ拷問し、国家の為であればどれほど外道な手段でも使うというステラのスタンスを知らしめた、二年に及ぶ大改革。


 一部の──国家運営装置として正しく在った貴族たちから熱狂的な支持を受けたそれは、同じく一部の私腹を肥やすことに躍起になっていた貴族たちには、審判の喇叭が1000年早く鳴ったような悪夢だった。


 素晴らしいのは、ステラは別に悪事を嫌う潔癖症ではないところだ。

 俗に汚職や賄賂と呼ばれる手段でも、その目的や行動が国家にとって益となるのであれば許される。その副産物として貴族個人や一個の家が潤うことを、彼女は寛容に受け入れる。


 国益。

 彼女が見るのは、そこだ。そこだけだ。


 感情どころか、常識的・感情的善悪観念すら無い究極の国家運営装置。あらゆる貴族の模範にして、理論最適解的な最高意思決定者。


 その、と、誰もが口にする。

 数十年前に彼女の父、現国王が行った宮廷内の大掃除。文官と各国家機関のクリーンアップを彷彿させると。

 

 処刑という言葉は、数十年前に貴族たちの首元を離れ、今また再び添えられた刃だ。

 流氷の周りを回遊するシャチのように、付かず離れず、獲物を見つめていた。


 その刃が今、ヴェルデ伯爵夫人の首筋で凍てつくような冷気を放っている。


 「陛下、これは……これは何かの間違いでしょう? だって、だってこんなこと、出来るはずがありませんわ」


 震え声の主張に、感情を見せたのはディーチ伯爵だけだ。悲痛な顔を伏せて隠した彼以外は、ずっと億劫そうな顔のままだった。


 「何故だ? 其方は再三、余の決定に口を挟み続けた。そして此度は王城の礎石にその名を刻む英雄に対し、暗殺者を差し向けた。忘恩もだが、何より王権への不敬は万死に値する」


 国王は淡々と告げる。

 死の宣告にしてはあまりにも無感動で投げやりな言葉が、むしろヴェルデ伯爵夫人には恐ろしかった。


 かつての大粛清を思い出す──あの、鳴り止まぬ断頭台ルイゼットの大合唱を。


 「わたくし、私は、貴方様の乳母でございますよ!? そんな、そんなこと出来るはずが……それこそ忘恩ですわ!」


 その言葉で、国王は初めて眉根を寄せた。

 露にされた感情は、悲嘆と、後悔。


 しかし、そんな人間的な反応は呼吸一つで掻き消えた。


 「うむ、幼少のみぎり、其方には大変世話になった。故に四度、警告したはずだ。我が王権の絶対性を思い出さぬのであれば、その不要な頭を落とすことになると」


 王の声は威厳に満ちてはいたが涼やかで、苦悩の気配は微塵も無い。


 だからこそ、和解も説得も有り得ないとはっきり分かってしまった。


 「な、あ……で、ですが陛下! 彼は私の姪を殺したのですよ!? あんなにも可愛らしい子を……! ケイ、ケイリス! 貴方からも何か言って頂戴! 貴方だって、漸く娘が生まれたって、あんなに溺愛していたじゃない!」


 断頭台へ続く道からどうにか逃れようとしているのか、ただ反射的に保身に走っただけなのかは不明だが、ヴェルデ伯爵夫人がディーチ伯爵に縋るような声をかける。

 しかし、ディーチ伯爵に御前論奏の時のような大きな感情の揺れは見られなかった。


 「えぇ、その通りです、姉上。家は息子が継ぐからと、甘やかし過ぎました。……その罪だけは、もう二度と雪げないのです」

 「ケイリス……?」


 思わぬ反応、いや無反応に、ヴェルデ伯爵夫人は呆然と弟を見つめる。

 見つめ返す弟の視線には親愛と、それ故の深い悲哀と失望があった。


 「まだお判りになりませんか、姉上。この国を最も善く治められるのは現王たるアウグストス二世陛下、次いで次期女王たるステラ第一王女殿下。御二方にとって、矮小な野望を持った貴女は邪魔でしかないのです」


 その一言で、彼女の感情に占める怒りの割合が一時的に恐怖を上回る。

 かっと見開かれた目が赤く充血しているのは、怒りのあまりか、或いは彼女の姪が死んだ日からずっとそうなのか。


 「実の姉を、裏切ると言うのですか!」

 「左様。国家の為であれば血の繋がった親兄弟とて切り捨てる。国家の運営装置とはそういうもの。貴族の特権とは、その滅私奉公に対する報酬なのです。……私がまだ幼い頃、貴女が読んでくださった本に、そう書いてあったでしょうに」


 弟の言葉が聞こえていないのか、夫人は答えることなく言葉を続ける。


 「姪は……お前の娘の仇は、どうするのです! お前もあの子を愛していたのでしょう!?」


 或いは伯爵の言葉が聞こえていて、突き刺さったが故の反撃だったのか。

 苦し紛れにも思える一言で、伯爵の拳が机に叩き付けられた。


 ずどん! と凄まじい音が王城の一室に響く。彼を見たフィリップが抱いた老いた狼という印象は強ち間違ってはいないのか、明らかに鍛えられた者の、力任せの一撃だ。


 「無論!」


 咆哮、とは、その叫びを聞いた誰も思わなかった。声の質も大きさも、そう表現できるだけのものだったのに。

 それは、誰もがもっと相応しい言葉を思い浮かべたからだ。即ち──慟哭、と。


 彼が再び言葉を紡いだのは、大きく深呼吸して心を落ち着け、国王に深々と一礼した後だった。


 「無論……思うところは、あります。しかし領民のみならずこの国の全ての民と、この国そのものを救った英雄に対する狼藉など、本来であれば私自らが娘の首を刎ねて王の御前に差し出し、私は自らの足で断頭台へ向かうべき重罪です」


 ふ、と国王が口元を緩める。

 それは彼にしては珍しく、心の底からの笑みだった。嘲笑や冷笑ではなく慈愛と歓喜を称えた穏やかな微笑は、宰相ですら滅多に見ないもの。


 「親愛の情が大きいのは、余の臣民全ての美点だな。……事実、卿は余にそう上申した。だが、余はそれを拒んだ。価値ある命は無駄に散らすべきではないと」


 言葉の前半、誰に聞かせるわけでもない独白を聞いたのは、宰相一人だけだ。彼にしか聞こえない程度の小声だったし、彼以外が聞いたところで「国王らしい慈悲に溢れた声だ」と思うだけだっただろう。


 「無論、何の理由も無く其方を殺すことも、何かしらでっち上げて断罪することも容易いが……それでは些か外聞が悪いのでね。全ての貴族が伯爵や公爵のように肝の据わった悪人ならば、外聞など気にする必要も無かったのだが」


 ははは、と宰相と伯爵が笑う。

 彼らにとって国家運営機構として正しく在る貴族が善悪で言えば悪に分類されることなど、態々口にすれば笑ってしまうような常識でしかなかった。


 と、空気が弛緩した隙を狙ったかのように、部屋の扉がノックされる。騎士の一人が対応し、一通の封書を持って戻ってきた。


 手渡された手紙を読んだ国王は、感心したように頻りに頷く。


 「……多少想定外だが、まぁいいだろう。まさかあの二人が暗殺者と言葉を交わすとは……いや、フィリップ・カーターかあのヴァンパイアの手によるものか?」


 ステラもそうだが、ルキアも暗殺者と会話するタイプではない。というか、会話する距離まで近づかない。

 その理由が単に面倒で早く終わらせたいからなのか、潜在的な恐怖からなのかは分からないが、その習慣を態々変えたとは思えない。が、まぁ、暗殺が阻止できたのならそれでいい。ステラが暗殺を依頼した者の情報を掴んだのは想定外だが、特に問題は無いのだから。


 「さて、本題だ。暗殺者ギルドからは常に依頼を受注した者についての報告があるはずだが、全員で何人だ? その中で二つ名持ちネームドは何人いた?」


 凡百の暗殺者が親衛隊の守りを抜けることはない。だが二つ名持ち、卓越した技や経験を持つ者であれば、或いは。


 夫人は答えない。

 その情報を盾に助命を嘆願するつもりなのか、ただ単に声が出ないのか、それとも子供じみた反抗のつもりなのだろうか。


 どれでもいい。どれであっても、国王は情報を吐かせるだけの準備はしてあるのだから。


 「……黙られると困るな。一応、外には『悪魔の瞳』──貴女の齢であれば当然知っているだろうが、8人の異端者の8人から真実を引き出した凄腕の審問官がいる。しかし、余は立場柄、血を見慣れていない。なるべく──」

 「ろ、六人です、陛下。嘘ではありません。二つ名持ちは『調香師』、『扇動者』、『サドンデス』、『ドレッドリーシュ』の四人ですわ。ほ、本当です」


 国王は部屋の扉を一瞥する。

 一応、本当に呼んで待機させてはいるのだが──本人の言った通り、名前だけで凄まじい威力を発揮した。


 「よろしい。其方には聖女の抱擁を、尊厳ある死を約束しよう」


 上機嫌に頷く国王。

 断頭台で苦しみなく死ぬことは、大罪人に与えられる最後の赦しだ。


 「ステラが捕らえたのは『扇動者』。屋内専門の『調香師』はともかく、『サドンデス』と『ドレッドリーシュ』は屋外でこそ真価を発揮するが……まあ、親衛隊を連れて行ったなら大丈夫だろう」


 そうですね、と宰相も頷いて安堵を見せる。

 どの名前も彼らにとっては既知のものであり、彼らの娘に指一本触れられない程度の相手だった。


 ただ、ステラの親衛隊はステラを守るために、彼女一人ではカバーできない技能分野に高い能力を持つ人員を集めている。例えば近接戦闘、白兵戦などだ。


 フィリップはむしろ、ステラが自力でカバーできる魔術分野に適性が無い。

 超遠距離魔術狙撃や、光学系術式による透明化を見破る術がないのは不安要素だが──『サドンデス』も『ドレッドリーシュ』もそういう手合いではない。これなら大丈夫だろう。


 顔を見合わせて頷き合う国王と宰相。

 通じ合う二人にディーチ伯爵が控えめに、しかし強い意志を感じさせる声で呼びかける。


 「陛下、最後にお聞かせください。姉が……メロウ・フォン・ヴェルデが暗殺などという短絡的な手を選んだのは、私が御前論奏に敗訴した後の事。敗訴を伝えた激昂の最中のことです」


 だから許せ──なんて、そんな甘っちょろいことを言うつもりは、ディーチ伯爵にはない。

 彼は御前論奏の場で見せたほど、感情的でも愚かでもない。まあ、全くその気が無いわけでもないのだけれど。


 「あぁ、あれは名演技であった。顔見知りのステラも、娘を喪って憔悴しているのだろうと思っていたぞ。あれも才気に溢れてはいるが、まだまだ年季が足りんな」

 「え、演技……?」


 ヴェルデ夫人が呟く。


 そう、演技だ。あの御前論奏にまつわる全てがはかりごと


 ディーチ伯爵は娘が死に憔悴した哀れな父親──ではない。

 いや、事実として、子供を諦めるぎりぎりの齢まで男児しか生まれなかったディーチ伯爵は、末っ子の娘を大層可愛がっていた。同じく女児に恵まれなかったヴェルデ夫人も、可愛らしい姪を溺愛していた。


 だから娘が死んだと聞いたときには、それは大変に悲しんだものだ。理由を調べ、もしも誰か原因がいるのならこの手で殺すとまで思っていたのだが──救国の英雄を相手に狼藉を働いた末路だと聞いて、怒りは完全に消え失せた。


 そして国王の言う通り、娘の不始末を贖うため、自らの命さえ差し出した。


 しかし、国王はそれを拒否した。

 真に国の忠臣たれと生きるのなら、その命にはまだ使い道があると。御前論奏を提起し、命じた通りに道化を演じよと。


 「あの状況になればヴェルデ伯爵夫人が短絡的な手に出ると、陛下は分かっておいでだったのでは? その上で、彼女を排除できるよう、状況を誘導したのではありませんか? 龍狩りの英雄に聖痕者などという強大な標的に挑む暗殺者が少ないこと、エース級は動かないことを見越して、少数の親衛隊だけで対処できるとお考えになっていたのでは?」


 そして──捨てられた石を使って、三羽の鳥を落とした。


 国王の心情は、概ねフィリップと一致していた。

 即ち、馬鹿が馬鹿なことをして死のうが、知ったことではないと。知らずとはいえ救国の英雄と滅国の怪物に喧嘩を吹っ掛けるレベルの馬鹿なら、死んで結構だ。まあ、もっと穏便な死に方なら言うことは無かったのだが。


 しかし、「馬鹿が馬鹿だったので死にました」で終わってしまっては勿体ない。馬鹿とはいえ国王の財産たる臣民の命だ。たとえその価値をゼロだと認めていても、1に、10に、100に化けさせてこそ賢君というもの。


 国王は静かに問いかける。


 「そうだ、と言ったら、卿は余を非難するか? 卿の姉を謀殺したと?」


 ふ、と小さく笑ったのは、宰相だけでなくディーチ伯爵もだ。


 「謀殺、とは言いますまい。誅殺と言うべきでしょう。国を脅かす内憂を払うことは」

 「あぁ──此度は大儀であったな、ディーチ伯爵」


 笑みを交わす三人を、ヴェルデ伯爵夫人だけが慄いたように見つめていた。




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