第352話
王都を出て二日。
馬車に揺られて街道を進む一行は、往路の半分を過ぎようとしていた。
窓の外には長閑な草原の景色が穏やかな速度で流れ、遠くの方で落雷のような音が鳴りつつも、雲は薄く心地の良い晴天だ。まさに旅日和。
そんな中──フルフェイスヘルム越しにもよく通る、鋭い警告が夏の空気を裂く。
「全体停止! 全周警戒! 二班、対空警戒! 三班、広域偵察開始!」
ステラの肩に頭を預けてすぅすぅと安らかな寝息を立てていたフィリップは、馬車の急制動による慣性で正面に座っていたルキアに突っ込むところだった。
ルキアの胸や太腿に顔からダイブするようなハプニングは起こらない。隣に座っていたステラが持ち前の反射神経で押さえてくれたからだ。尤も、そうでなくても護衛役のメグが本気を出せば簡単に止められただろうが。
爆睡していたフィリップを除き、車内の全員が急制動に先んじて、どっぱぁん! という擬音の当てはまる、水袋が破裂したような音を聞いていた。
「……人でも撥ねましたか?」
御者席に通じる小窓を開けたメグが、手綱さばきを誤った馬鹿に対する嘲笑を滲ませつつ尋ねる。そういうところが親衛騎士に嫌われる一つの要因なのではと思わなくも無いが、メグにしてみれば親衛騎士などいつでも殺せる有象無象でしかないのだろう。それこそ、嘲笑を向ける程度の。
「現在確認中です」
馬車を止めたまましばらく待っていると、前方から警護役の騎兵が馬を駆って近づいてくる。メグが扉の小窓を開けると、彼女は馬上からステラとルキア、そしてフィリップにも一礼したあと、漸く報告に入る。
「突如、進路上に死体が降ってきました。現在、魔術の痕跡を調べると共に死体周辺の空気を圧縮し、病原・毒物投射として警戒中。皆様方におかれましては、各々魔力の汚染確認をお願いいたします」
「そんなことをしている間に急いで離れたらいいのでは?」なんて考えるフィリップだが、それは拙速だ。
人間が自力で空を飛ぶことは無い以上、必ず何か理由がある。想定されるのは「飛行型の魔物に落とされた」とか──親衛騎士たちが警戒しているように、感染症に罹った死体を魔術で投射し、ステラたちを害することを目的とした“攻撃”か。
後者であれば、慌てて逃げだしたところを罠にかけるくらいの用意はあるだろう。というか、ステラならそうする。
毒や感染症は解毒剤や薬で処置されるかもしれないから、汚染物を投げてハイ終わりでは済まないだろう。確実に息の根を止めるための第二波が来るはずだ。
「そうか。ここにいるんだぞ、カーター。迂闊なことはするな」
「……はーい」
もうドアを開けて馬車を下りる寸前だったフィリップだが、ステラに釘を刺されて素直に座りなおす。
フィリップをじっと見つめていたルキアが何も言わないということは、汚染はされていないのだろう。
「……お前の専門分野か?」
しかしフィリップとしても、現段階では首を傾げるほかない。
「流石にモノを見ないことには分からないですけど、突然空から死体が降ってくるって、露骨に怪しくないですか?」
「……安全が確認されるか、詳しい異常性が明らかになるまでは動くな」
場合によってはちゃんと任せてくれるらしいので、フィリップは何も言わずにドアを閉めた。
ややあって、また親衛騎士が持ってきた情報によると。
まず、死体は落下の衝撃で潰れて破裂したが、落下する瞬間を見た騎士によると、落ちてきた時点で既に人の形をしていなかった気がするとのこと。
死体は拉げた軽鎧と肉片から辛うじて人間だと判別できる程度にしか死体が残っておらず、情報を得るのは極めて難しいそうだ。
そして、同様の死骸が周囲に数個発見された。どの死体もまだ蝿が集っておらず、相当に新しいものであると断定できるらしい。
汚染物投射ではなく魔物が原因、というのが傾向から判断した結論だ。
だが、人間を掴み上げて飛行できるサイズの魔物は街道近辺には生息していない。もっと北の山岳地帯から流れてきたのか、使役している術者がいるか。考えられる可能性としてはその辺りだ。
「魔物の仕業なら無視して構わない。上空にも警戒しつつ、先へ進め」
本当に魔物の仕業なら自分一人でどうとでもなるからか、ステラの口調には迷いや恐れが一片も無い。敬礼して応じる親衛騎士たちも心強そうだ。
それからしばらく車列を進めた時だった。
「上空に敵影! 対空攻撃用意!」
車列を止めるより早く、攻撃準備命令が飛ぶ。それは悪くない判断だ。撃墜できなければ逃げるしかないから、状況を見極めているうちは車列を走らせていていい。
窓ガラス越しにそれを聞いたフィリップは窓に顔を近づけて空を見ようとしたが、角度的に難しいと判断し、窓を開けて上体を馬車の外に出した。
馬鹿、と引き戻そうとするステラと、フィリップの周りに魔力障壁を展開するルキアは反応が対照的だ。
フィリップが無防備なのはいつもの事だが、馬車の外にはどうやら飛行型の魔物がいる上、周囲を全身鎧を着た騎兵が駆けている。そして走っていた馬車はこれから止まるところだ。もう色々と危険すぎて、メグは苦笑することしかできなかった。
車内のことは一旦忘れて空に目を凝らしていたフィリップは、騎士たちの示す方向に一つの影を見つける。……人影、それも見覚えのあるシルエットだ。
「待って、死にたくないなら待って! あれミナです!」
ミナはフィリップの友人の配下だろうと何だろうと、攻撃してくるなら反撃するだろう。そして彼女の攻撃は大抵の人間を一撃で容易に死に至らしめる。錬金金属製で付与魔術まで施された全身鎧を着ていようとお構いなしだ。
地対空なんてそもそも不利な状況でミナに攻撃するなんて、先日の冒険者と似たような自殺行為だ。旅行を邪魔されたくないフィリップとしては、親衛騎士たちを止めるしかない。
どうやら漸くフィリップを追ってきたらしいミナを、車列を止めて待つこと数十秒。フィリップだけでなく、他の三人も馬車を下りて空を見上げている。
そして剣を抜くかどうか迷っている様子の親衛騎士たちに見守られる──一挙手一投足を監視される中、一行に合流したミナは、大きな荷物を持っていた。
「……ねぇミナ、色々聞きたいことはあるんだけど、まず聞くね? ……それは何?」
「おやつ。銀の血よ」
「あぁ、なんか特に美味しいんだっけ? いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて……人間だよね? どこで拾ってきたの?」
ミナが小脇に抱えるように持っていたのは、ぐったりした人間の女だった。
茶髪に緑色の目をした妙齢の女で、容姿は整っているようだが血の気が引いていて土で汚れている。服も同じだ。転んだどころの話ではなく、地面を何度も転がったくらい、身なりが乱れている。
おやつと言うからにはまだ死んでいないのだろうし、傷らしい傷は見当たらないが、気絶しているようだ。
まあ、気持ちは分かる。吸血鬼の飛翔速度は生身の人間が長時間耐えられるものではないし、人間の脆弱さを知っていたディアボリカと違い、ミナはそもそも無頓着だ。そりゃあ失神ぐらいするだろう。
「さっき、そこに──あの丘の向こう側に人間の群れが居たから、突っ込んで吹っ飛ばしたのだけれど」
「うん……うん? なんで?」
さらりと聞き流しかけたフィリップだが、ルキアやステラが突っ込む前に自分で気付く。
そういえば、ミナが吹き飛ばしたと言ったのは“人間”だ。フィリップや、ルキアやステラと同じ。路傍の石ころを蹴飛ばすのとはワケが違うのだった、と。
少なくとも理由くらいは聞いておくべきだろうと尋ねたフィリップだったが、ミナは逆に怪訝そうに首を傾げた。
「? 特に理由は無いわよ……?」
「あ、そう……。それで?」
狼が兎の群れからよく肥えた個体を狙って狩るのと、構図としては同じ……なのだろうか。
シャチがアザラシを空高く放り投げるような、或いは子供が蟻の行列を踏み潰して遮るような、そんな残酷で無邪気な遊びなのかもしれない。
まあ化け物のやることだ。理由がないのなら、フィリップからそれ以上言うことは無い。
「その群れの中に居たから、持ってきたのよ?」
「……群衆を襲って拉致してきたってこと?」
「ふふっ。随分と大仰な言い方ね」
ミナは子供の冗談を聞いたように慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
彼女の主観はともかく、価値認識が破綻しているフィリップにしては極めて妥当な表現だ。ルキアもステラもそう突っ込みたかったが、そこに触れている場合ではなかった。
ステラは片手で親衛騎士に指示を出し、ミナの示した丘へ偵察隊を送る。
ルキアはというと、車窓から見ていた──フィリップの寝顔と交互にではあったものの──景色を思い出して、怪訝そうに首を傾げていた。
「……でも、丘の向こうって何もない平地よね? どうしてそんなところに人が?」
確かに、とステラも頷く。
丘を通ったのは二十分ほど前だが、その時には人影の一つも無かった。土地的に開墾には向かなかったのか、人の姿も建造物も無い、下草ばかりの手入れされていない草原だった。
地図上では近くに村落の類があるわけでもない。勿論、街道沿いだから旅人が野営地にすることはあるかもしれないが、まだ日は高いし、街道駅まで行けば替えの馬も宿もある。まあ金が無ければどうしようもないが。
誰が何の目的でそんなところに居たのか。
ステラは野営中の旅人ではないかと懸念し、フィリップはどうせならカルトであってくれないかと思いつつ、それはそれでミナに大半を取られたことになるので残念だったりする自分の面倒臭さに苦笑する。ルキアはどうでも良さそうだ。
ややあって、丘の向こうから数人の騎兵が駆けてくる。偵察に出向いていた親衛騎士たちだ。その中から一人がステラの元へ馳せ参じると、馬を下りて跪いた。
「確認して参りましたのでご報告申し上げます。丘の向こうでは確かにクレーターと、爆発に巻き込まれたような死体が複数発見されました」
まぁそうだろうな、と頷く一行。
ミナが人間を殺したことを隠したり、誇張したりするとは思えない。彼女にとって人間を殺すことは、責められることでもなければ褒められることでもないからだ。
「それと、その死体なのですが、全員が武装していました。冒険者の認識票は持っておりませんでしたので、恐らく、傭兵か盗賊の類かと」
親衛騎士の言葉に、ルキアとステラが顔を見合わせる。
どちらにせよ、街道沿いをうろついているにしては不穏な連中だ。
特に、王家の紋章を掲げた車列の後ろに居るとなると。
動機はともかく、ミナを責める必要はないんじゃないかな……とフィリップが思い始めた時だった。
「──ぁ、っ?」
ミナが持っていた“おやつ”が、失神から目を覚ました。
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