第350話
王国には、俗に暗殺者ギルドと呼ばれる裏組織が存在する。
全ての冒険者を統括する、そこに属さなければ冒険者として活動できない冒険者ギルドと違い、暗殺者ギルドは『所属しておくと便利』程度の組織だ。依頼人との仲介や報酬条件の交渉、不特定の暗殺者に向けた公示依頼が受注できるなどのメリットがある。
本部は王都三等地内の商店に偽装された、こじんまりとした建物だ。
中を覗くと雑貨屋のようだが、道に置かれた看板には『新刊入荷』と書かれており、書籍の類も扱っているようだ。
暗殺者がわらわらと集まるわけにもいかないので、冒険者ギルドのように大仰な建物は必要ない。店員だって、店長を除いて一人だけだ。どちらも若く精悍な男で、寂れた雑貨屋の店番には向いていないように思える。
暗殺者たちとのやり取りは商品の中に紛れ込ませた情報や、注文に見せかけた符丁によって行われる。
今日は既に公示依頼の通知を二件送り、報酬交渉の依頼が二件、依頼指名が一件あって、ギルドとしてはとても忙しい部類だった。王国は別に日常的に暗殺が横行している修羅の国ではないので、暗殺依頼が一日の内に三つも舞い込んでくるのは珍しい。
特に、最も新しい依頼はそうだ。
「……“龍狩りの英雄”なんて、クソビッグネームじゃないすか。ドラゴン殺すようなヤツ、暗殺できるんすか?」
「誰か出来るかもしれないって期待で公示依頼にしたんだろう。出来るもんならやってみろって挑発されたように感じて、B級のアサシンが何人か動くだろうが……エース級の奴らは動かねぇだろうさ」
店や周りに誰もいないのをいいことに、符丁も使わずに会話する二人。
しかし実際には、このくらいの会話なら誰に聞かれても問題ないのだった。
というのも、暗殺者ギルドは裏組織ではあるものの衛士団には既にその存在を知られている上、連絡役という情報を扱う重要な仕事の二人にはギルドの監視が付いているからだ。
衛士団が暗殺者ギルドを潰しにかかるなら、とうに潰されているはず。何かの目的があって泳がされていることは間違いない。
そして衛士団や他の組織が情報の集積所である二人を狙った場合、ギルドの監視役は情報の処分役に変わる。つまり、誰かが二人を捕らえる前に殺す役目だ。
会話の内容が漏れたら不味いものになれば、即、殺される。
それを分かっているから、喋り続けられる限りは喋っていていいのだと安穏と会話している。そのくらいの図太さが無ければ、暗殺者ギルドの連絡役は務まらないのだった。
「そーっすねぇ……。何人か受注していきましたけど、どいつもこいつもパッとしないっす。……あ、でも、二つ名持ちが一人、もう動いてますよ」
「ほう? どいつだ?」
「『調香師』っすね」
うわぁ、と店長──実際はギルドの連絡役の一人に過ぎない、ただの平構成員──が表情を歪める。
連絡役として色々な情報を持っている二人だが、その名前は悪い意味で有名だった。
「面倒なのが釣れたもんだな……」
「そーっすねぇ……。奴さん、他人を巻き込むとか気にしないっすから」
誰が巻き込まれようと所詮は他人事だ。二人とも、暗殺の標的以外が死ぬことに対して不快感は無い。
問題は、度が過ぎれば王国が動くだろうということ。
既に暗殺者ギルドの存在が衛士団に知られている以上、残しておくデメリットがメリットを上回った瞬間に殲滅戦が始まるだろう。その場合、国内最強の武力組織に抵抗できる手段を持ち合わせない暗殺者ギルドは壊滅だ。
そんな会話をしていると、入口のドアが涼やかなベルの音と共に開き、一人の客が入ってきた。人相も判然としないほど目深にフードを被った、旅人風の装いだ。体格からすると、男か。
彼は真っ直ぐに二人のいるカウンターへ来ると、一枚のコインを置いた。
王国で使われている硬貨ではない──いや、大陸中のどの国で使われている貨幣とも合致しない、貨幣としての価値は無いものだ。
「
「鑑定だ。それから、
「了解っす。あー、すんません、切らしてるっす。取り寄せます? お値段このくらいっすけど」
店員は指を四本示して見せる。
男は頷いたようだったが、フードのせいで首の動きは判然としなかった。
「
「
「そうか」
不愛想に言って、踵を返して出口に向かう男。
多くの暗殺者を見てきた連絡役の二人の目からすると、その動きは洗練された戦士のものではない。どちらかと言えば毒や爆薬を使う、直接手を下すタイプではない暗殺者のように見えた。
「あざっしたー!」
適当に見送りつつ、預かったコインを裏返す。
貨幣的価値が無いだけでなく、安物の金属で作られているから換金額も大したことのない金属片だ。
しかし、それは暗殺者ギルド内で通じる身分証のようなものだった。
模様の彫り込みがコイン毎に微妙に違い、その組み合わせを解読すると文字列になる。
「おっ。二つ名持ち、二人目っすね」
軽薄な店員は楽しそうに、或いはどうでも良さそうに笑った。
◇
暗殺者『調香師』は、三十路を過ぎた落ち着いた雰囲気の女性だ。
王国人にありふれた金髪と碧眼は暗殺に向いた平凡なものだが、才能まで外見同様ではなかった。
彼女は暗殺に際して、オリジナルの毒を使う。
高い気化性と強烈な毒性を兼ね備えながらも、扱いの容易な毒だ。呼吸器以外からの浸透性は限りなく低く、しかし呼吸器から体内に侵入した場合、激甚な出血毒へ変化する。
吸入した対象は十秒から一分以内に呼吸器から出血し、やがて内臓、全身から出血し死亡する。
毒は気密性のガラス製キャニスターに封入された無色透明の液体で、気化時の体積膨張率は2000倍にもなる。常温常圧で爆発的な気化性を見せ、密封されたキャニスターを開けたが最後、掌大の小瓶は部屋一つを丸ごと致死空間へと変貌させる。
彼女はフィリップ・カーターの暗殺依頼を受注したあと、二等地の投石教会を訪れていた。
その日のその時間に、疲れ切ったフィリップが昼寝しに来ることを知っていたわけではない。一神教の敬虔な信徒である『調香師』は、仕事の前に祈りを捧げるのが常だ。
彼女は聖女像の前に跪き、両手を組んで一心に祈る。
夕暮れの朱い光がステンドグラスから差し込む幻想的な光景は、荒波を打っていた彼女の心を多少なりとも平静にさせた。
殺人を前に気が高ぶっていたわけではない。暗殺者ギルドから二つ名を与えられるほど熟達した暗殺者である彼女は、今更仕事で緊張することはない。
ただ、思いもよらなかったのだ。──人目を避けて訪れた小さな教会に、怖気を催すほど美しい神官がいようとは。
「……」
祭壇の隣でじっと自分を見つめている長身痩躯の神父は、浅黒い肌と漆黒の髪、同じ色の瞳を持っており王国人ではないのだろうと推察できる。
敬虔な信徒に向けるに相応しい慈愛に満ちた視線を受け、標的以外を巻き込んで殺すことに一片の罪悪感も覚えない『調香師』の冷たい心も燃え上がるようだ。
もう一人、信徒用の長椅子に座った喪服姿の女──神父に「
嫉妬心すら凍てつかせる絶対的な“美”が、人の形をして座っていた。
「……あの」
「はい? 何でしょう?」
「あっ、いえ、あの、何でもありません……」
言葉が尻切れに消えたのは、呼びかけた先を考えていなかったからばかりではない。
深く落ち着いた声も、僅かに首を傾げる幼気さを滲ませる仕草も、長年を信仰に費やしたであろう年季の入った美しい所作も、何もかもが思考を停止させる。
とんでもなく美形の神官がいるという噂を聞きつけてやってきた参拝者のうち、9割以上が声をかけることも出来ず放心状態で帰っていくことを思えば、初対面で呼びかけられただけでも肝が据わっていると評価していいだろう。
年甲斐も無くもじもじと俯いた『調香師』に、ナイ神父は穏やかに笑いかける。そして──
「今日のフィリップ君は大層お疲れのご様子。申し訳ありませんが、貴女で遊ぶのは無しにしましょう」
笑顔によく似合う穏やかな声色の言葉が終わると同時に、ぱぁん! と盛大な破裂音が荘厳な教会の中に響き渡る。
思わずびくりと肩を跳ねさせた『調香師』は、音のした方へ振り向き──無残に引き裂かれた、自分の鞄を発見した。
革の生地が膨れて爆ぜた風船のように千切れ、中に入れていた錬金樹脂製の特殊防毒マスクが傷ついて放り出され、そして──ガラスの瓶が粉々になって散乱していた。
「……あっ?」
蒼褪めるを通り越して、放心して呟く。
彼女の使う毒に、事前服用の解毒剤なんて便利なものは無い。
このレベルで強力な毒の解毒剤は、それ単体ではまた別種の毒になるからだ。
咄嗟に鼻と口を覆い、扉へ向かって猛然と駆け抜ける。
何の邪魔も入らずに辿り着き、体当たりするようにドアを押し開け──開かない。慌ててドアノブを引き──それでも、開かない。鍵を確かめてもう一度試みるが、扉はビクともしなかった。
きちんとした道や扉の類があると自然とそこを通ってしまうのが人間の基本的な性質だが、歴戦の暗殺者である『調香師』は、常識に囚われない柔軟な思考を素早く展開できる優秀な脳を持っていた。
ドアが開かないことを確認すると、彼女は即座に扉を離れて窓へと駆け寄る。そしてガラス窓が何らかの方法でロックされていることを確かめると、躊躇なく拳を握りしめた。
だが──叩きつけた拳は冷たいガラスを打ち、しかし薄手の高級なガラスに罅の一つも入れずに終わる。二度、三度と繰り返しても、ガラスは割れるどころか震えもしない。
では、と別の窓へ向かい、試し、場所を変え、試し、三つ目の窓にも虚しく跳ね返された時だった。
同じ空間に居るはずの二人の神官が──普通に呼吸していれば、もう血を吐いて倒れているはずの二人が、平然としていることに気が付いた。
ナイ神父は内心の読めない仮面のような微笑で奇行に走った『調香師』を見ているし、マザーは相変わらずの神秘的な佇まいで虚空を見ている。実際は使い魔を通してフィリップを見つつ、マイノグーラの授業を受けているのだが。
気化毒が暴発したと思ったのは、もしかして勘違いだったのだろうか。そう安堵の息を吐き──
「──ッ!?」
吸った息を即座に止める。鼻の奥から胸の下あたりまでに熱湯が通ったような強烈な刺激を感じて。彼女の使う毒に特有のものだ。
毒は、量だ。
どれほど強力な毒性があっても、閾値に満たなければ最大の効果は発揮されない。要は致死量以下なら死なないのだ、当然ながら。
彼女の使う毒の致死量は、飽和状態で成人男性が深呼吸を三回したときに吸入される程度だ。それだけ吸えば、確実に内臓出血を引き起こして死に至る。
だが、恐ろしいのは致死量ではない。
それはごく少量を吸入した時の、呼吸器への刺激性。
鼻や口、喉の奥がじりじりと焼けるような感覚に襲われ、咳き込んだり嘔吐したりしてしまう。そして──人間の身体は、咳き込んだ後にはつい息を吸ってしまうようになっている。
勿論これはただの反射で、心拍のような不随意運動ではない。訓練すれば抑え込める反応だし、毒を扱う『調香師』はきちんと訓練している。
常人であればつい咳き込んで息を吸い、より強烈な刺激や吐血に負けて更に呼吸が激しくなり、そして死ぬ。そんな悪辣な性能だが、彼女はその扱いに長けていた。
だが、それまでだ。
彼女は暗殺者、毒物のプロであって、ダイバーではない。
無呼吸状態で長時間行動することには慣れていないし、ドアへ走ったり窓を叩いたりと、血中の酸素をかなり消費してしまった。
じわじわ、じわじわ、息が苦しくなってくる。
ハンカチや服程度の荒い生地では毒を濾過できない以上、防毒マスクを付けなければ息をすることさえ出来ない。
さっきは教会を出ることを優先して放置した、床に転がっていた防毒マスクを探す。が、少しばかり遅かったようだ。
「どうですか? 似合いますか?」
シュコー、と独特の呼吸音と共に、くぐもった声がする。
口元を押さえたまま弾かれたように視線を上げると、髑髏のような形の防毒マスクを被ったナイ神父が、目元の透明な樹脂の向こうで嗤っていた。
『調香師』の視界の端で、喪服の女が立ち上がる。
この絶望的な状況が何か変わるのではないかと一縷の望みを懸けて目を向けると、彼女は床に散乱した『調香師』の荷物に不愉快そうな一瞥を呉れる。
そして、全くの無挙動で消し去った。
散らばった荷物も、彼女にとって最も大切な相手を迎えるのに邪魔な
しかし、『調香師』だけは、数秒後に再び出現した。
人間は消せないとか、人間を消すことに躊躇いを覚えたとか、そんな理由ではない。ないが──甘い理由ではあった。
「えっ? あっ? えっ?」
自分の身に起きたことを本能的に理解したのか、『調香師』は恐れ慄いて後退する。
後ろ向きに踏み出した足が二歩目か三歩目かになった時だ。ぴかぴかに磨き上げられた木の床が、突如として沼地の柔らかさになった。
「っ!?」
片足が沈み込み、咄嗟に息を吞んで、毒ガスが消えていることに気付く。
しかし脛まで影の中に沈んだ状態で抜くことも立つこともままならないとなれば、安堵する間も無いだろう。
「し、神父さ──」
神父様、と言い終えることも無く、助けを求めるだけの間も無く、『調香師』は原初の混沌の泥に沈んだ。
「……一度消したモノを戻してまでやることでしたか?」
「普通に消す方が早いけど、確かにこっちの方があの子が好きそうね」
マザーはナイ神父の言葉に耳を貸さず、独り言ちる。
ナイ神父は酷薄な嘲笑を浮かべたが、何も言わずに玄関扉の方へ向かった。
その数秒後。
触手のカラスと会話を試みるほど疲れたフィリップが教会を訪れる時には、彼女がこの教会を訪れた痕跡は何一つとして残っていなかった。
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