第349話

 結局、フィリップは無罪放免となった。

 今回の御前論奏自体、ディーチ伯爵に──正確には国王の乳母だった彼の姉に配慮してのものだったらしい。ステラが「貴族社会の義理として必要な手順だ。巻き込んだようで悪かった」と苦笑交じりに謝ってくれたし、無罪だったのでフィリップは特に気にしていない。


 これまでも様々な場面で国王の決定に口を挟もうとしてきたらしいし、結論はともかく御前論奏を開くくらいの義理は通さないといけないのだろう。あのが乳母には頭が上がらないというのは、なんとなくイメージしやすいし、とフィリップは簡単に納得した。


 ──この国の王権は乳母どころか先王や王母でさえ口を挟めない程度には強力なのだが。


 ともかく、一仕事終えた気分のフィリップは、王城を出てすぐに二等地に足を向けた。目指す先は投石教会だ。

 馬鹿が馬鹿なことをしたのを発端に馬鹿に絡まれ、馬鹿馬鹿しい論理で訴追されたのだ。流石にちょっと──たっぷりと、癒しが欲しいところだった。


 「ちょっとの癒しなら、シルヴァでも十分なんだけどね」


 何処へともなく呟くと、何処からともなく意思が届く。

 言語を介さない意思疎通に最適化されていない人間の脳では正確に言語化できないが、シルヴァからの返事は概ね「いっしょにあそぶ?」といったところ。


 心遣いは嬉しいが、無尽蔵のスタミナを持つ──疲労という概念を持ち合わせない森の代理人と一緒に遊ぶほどの気力はない。いつもなら平地だろうと森の中だろうと鬼ごっこに興じるところだが、流石に今日のフィリップはお疲れだ。


 「今日はパス……あ、寮に行ってミナと遊んでくる?」

 「ん! そうする!」

 「おぉ、すごい食いつき……」


 言うが早いか実体化して飛び出していくシルヴァ。流石の健脚と矮躯のせいもあって、あっという間に通りを曲がって見えなくなってしまった。


 ミナとシルヴァが遊んでいるところはあまり見ないが、無限スタミナ同士、意外と楽しめるのだろうか。

 シルヴァは外見こそふわふわした小さな幼女だが、頑丈さではフィリップどころかミナ以上だ。彼女を傷つけるのに必要なのは強力な単体攻撃ではなく、森一つを焼くほどの範囲攻撃。一個体、それも小さな少女を相手にはまず選ばない攻撃というところが、何とも厭らしい防御性能だと言える。


 しかしミナにとっては、じゃれついてくるくせに簡単に潰れてしまうフィリップよりは幾らか遊びやすい相手だろう。

 シルヴァにとっては……何故懐いているのかはちょっと分からないが、フィリップより運動神経が近しい遊び相手なのだろうか。


 フィリップは思考を切り上げ、投石教会を目指してのんびりと歩く。

 御前論奏は面倒なイベントだったが、面倒なだけで、フィリップの側に不利益は無かった。学院のテストみたいなものだ。


 欠伸をしたり伸びをしたりしながら、夏場にしては珍しい曇り空の下を安穏と歩く。

 王城を出た直後から、その背後を付かず離れずの距離で追跡している人影に気付くだけの技量を、フィリップは持ち合わせていなかった。


 二等地に入り、少し辺鄙な場所にある教会を目指して人通りの少ないところを歩いていても、人影の隠形は完璧だった。人ごみに紛れることもなく、フィリップ以外の人間に怪しまれることもなく、平然と後ろをついてくる。


 特筆して若くもなく老いてもいない、王都の二等地を歩いていそうな男だ。

 一見しただけでは何ら怪しいところのない、平民が普段着にするシャツとズボン姿だからだろう。子供の跡を尾ける不審者には見えない。

 

 フィリップは完全に人通りの絶えた細い路地へ入り、遂に彼我の距離がこれまでになく縮まる。


 残り二十歩。フィリップは気付かない。

 残り十歩。フィリップはのんびりと下手糞な口笛を吹いている。


 残り五歩。何の変哲もないシャツの裾がはらりと捲れ、刃渡り6センチほどの小ぶりな刃物が男の手の内に現れる。フィリップは丸腰だし、それ以前に男の接近に気付いてさえいない。足音も気配も何もかもが完璧に遮断されているからだ。


 小さなナイフが振りかぶられる。

 首も心臓も、分かりやすい急所を狙う必要はまるでない。彼は多種多様に分化した暗殺技術の中で、毒刃を主として扱う。塗布されているのは刃が掠めたときに体内に入る微小な量でさえ致死域に達する猛毒だ。


 標的が感じる痛みも極小。血が滲む程度、紙で切った程度の痛みだけ。

 切り傷に気付くのが先か、特殊な植物から抽出した神経毒が心臓を止めるのが先か。どちらでもいい。どちらにしろ、依頼は達成される。


 彼我の距離が残り二歩にまで近づき、男の攻撃圏内に入る。そして──。


 どぷん、と、陰鬱に低い水音を聞いた。


 「──え?」


 困惑の声が男の口を突く。突いて出たはず。なのに、耳には自分の声が届かない。

 彼は自分が目を開けているのか閉じているのかさえ判然としない、昏く、重い水の底に居ることに気が付いた。いや、身体に纏わりつく感触は水というより泥、沼のようだ。


 しかし目を開けても沁みることはないし、水面下に落ちたのだと気付く前からずっと呼吸は出来ている。これはいったいどういうことなのか。

 それに、人体は泥よりも軽いはずなのに、一向に浮かぶ気配がない。粘度の高い空気のようだ。

 

 そして──それだけだ。

 何もない。何も起こらない。泳いでみても、息を止めてみても、何も変わらない。疲れもしないし、息苦しくもならない。何も見えないし、何も聞こえない。


 何もないことは分かる。それ以上の情報が何もない。試しに舌を噛んでみても、痛みも血の味も、嚙みついた感覚さえなかった。


 「え……?」


 意図して声を漏らすが、やはり、耳には届かない。耳を塞いでみても、押さえた感覚も腕の筋収縮の音も感じられない。


 無感覚空間。


 では──身体はそこにあるのだろうか。

 声は出ないか、出しても聞こえない。目を開けているのか閉じているのかも判然としない暗闇。体に触れようとしても、触れた感覚も無ければ体を動かした実感もない。ただ、やった気になっているだけかもしれない。


 人間は無感覚状態だと一時間で発狂するなんて言われているが、彼は暗殺者として鍛え上げた強靭な精神を以て、70時間──ほぼ三日も耐えてみせた。


 凄まじい精神力だ。常人の比ではない。

 フィリップが知れば、拍手して賞賛してくれることだろう。


 だが──それだけだ。


 ここは宇宙発生以前の原初の混沌であり、宇宙消滅後の終末の虚無。

 光も無く空気も温度も無い、始まりも無く終わりも無い虚空。虚ろにして無。虚無の汚泥。


 この中では死という概念すら死に絶え消え失せ、命は生まれることも失われることもない。彼は狂い、しかし死ぬことは無く、永劫その中を彷徨うのだ。



 重く鈍い水音を聞いたような気がしたフィリップは、足を止めて振り返る。

 見覚えのある街並みが広がっているだけだ。曇り空だが、雨の一滴も降っていない。


 「……なにかした?」


 近くの家の塀に止まっていた、大きめのカラスに問いかける。

 勿論、フィリップは鳥と会話しようなんてメルヘンではない。首を傾げたカラスはよく目を凝らして見れば、無数の触手を編んで作られた醜悪なカリカチュアだと分かる。


 シュブ=ニグラスの使い魔……もう少し高いところに止まっていたら、いつもの子、いつもの事だと素通りしていただろう。


 「気のせいか。……ん? なんか君、ちょっと太った? いや太ったというか、全体的に一回りぐらいゴツくなってない?」


 窓を開けたらそこにいた、なんてこともあるシュブ=ニグラスの使い魔だ。もう三年の付き合いになるし、フィリップはその威容ならぬ異容を見慣れている。

 目の前のカラスは、その見慣れた姿と微妙に違っている気がした。羽も足も嘴も、全体的に大きくなっている気がする。


 そりゃあカラスなら成長もするだろうけれど、形だけ似せた触手の塊に、まさかそんな真っ当な生物じみた機能が備わっているはずもないし。


 「……流石に露骨過ぎたでしょうか?」

 「喋ったぁ!? 君喋れたの!? じゃあなんで今まで喋らなかったの!?」


 靴音も高らかに、蛇を見つけた猫のような動きで飛び退るフィリップ。幸いにも周りに人はいなかったが、大通りなら周囲の生温かい視線を一身に受けていたことだろう。


 カラスはそんなフィリップを慈しむように──愛玩するように小首を傾げた。

 これまでに見たことのない反応だ。というか、これまでこの使い魔が喋るところなんて見たことが無い。


 ──いや、しかし、それにしては声に聞き覚えがある。

 獣性を擽る怪しい色香を纏う声。虫を呼び寄せては溶かして殺す食虫植物の如き、不自然に甘ったるい声だ。


 「……いや待って? 今の声……レイアール卿?」


 怪訝そうな声で問われ、カラスはこくこくと頷く。何かを啄むような仕草を不覚にも可愛いと思ったフィリップだったが、それも一瞬だ。言うまでも無く、よく見ると触手の塊なのだから。


 「……何してるんですか? いや、それ以前に、マザーの使い魔は?」

 「今は彼女にレクチャーしている最中でして。少し離れたところから見ています。……あちらに」


 ふい、と顔を背けるようにして嘴で示された民家の屋根には、なるほど、確かにもう一羽のカラスが止まっている。

 フィリップの視線を受けて嬉しそうにぱたぱたと翼をはためかせる様は、やはり可愛らしい。仕草だけは、だが。

 

 「レクチャー? まあなんでもいいですけど、僕の生活圏であんまり変なことしないでくださいね」

 「勿論です。我らが寵児」


 なんでもいいというのは言葉の綾ではないらしく、フィリップは本当にどうでも良さそうに踵を返し、また投石教会に向かい始めた。


 そんなフィリップを見下ろす影が、少し離れた場所の民家の屋根にもう一つ。

 華奢な肢体をクラシカルなモノクロームのメイド服に包んだ女──メグだ。彼女は目を瞠り、驚愕のあまり硬直している。


 彼女はルキアに命じられ、フィリップが教会に入るまで見守っていたのだった。

 そして当然、フィリップの背後に迫った暗殺者を、腕をピクリとも動かせないよう一瞬で首を刎ね飛ばす準備はしていた。男が影の中に落ちて沈む、その時までは。


 ……今のは?

 メグは口の中で疑問を転がすより早く、半自動的に素早く身を伏せ、周囲の気配を探る。


 魔術──ではない。

 魔力の動きが全く感じられなかった。


 フィリップが何かしたという風にも見えない。いやそもそも、彼は背後から接近する人物に全く気付いていなかった。まあメグからしても及第点を付けていい程度には熟達した隠形だったから、それは仕方ない。


 フィリップは完全に無防備な状態で、襲撃に気付いてさえいなかったのに──湖に張った薄氷を踏み抜いてしまったような動きで、男は地面の下に消えていった。


 周囲には誰もいない。

 メグに魔力視を可能とするほどの魔術センスはないが、それでも暗殺者として磨かれた感覚は、隣の部屋にいる人間の数と体格、動きまでを仔細に把握するほどだ。フィリップを援護できる位置にはメグ以外誰もいなかったと断言できる。


 暗殺者には気付けなくとも、あの異常な光景の断片だけは感じ取ったのか、フィリップは振り返っていたが、メグ同様に何も見つけられていないようだった。カラスの羽音か何かだと思っているようだったが、その後、カラスに話しかけていたのは少し可愛かった。何と言っているのかまでは聞こえなかったけれど。


 「……」


 フィリップが投石教会の扉を潜るのを見届け、メグは屋根伝いに一等地へ、ルキアの元へと戻る。

 道すがら、理解できない光景をどう説明したものかと考えつつ──フィリップが鳥と会話していたと伝えたらどういう反応をするだろう、なんて、益体のないことが頭を過った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る