第344話
「へぇ?」なんて呟き、こうなるんだぁ、と一人納得する。
フィリップは今初めて、シュブ=ニグラスの精神防護がどれだけ強力なものなのかを理解した。
怒りは短い狂気である、とは言うけれど、狂気の域に至る怒りなんて、そう抱くことはないだろう。フィリップの精神状態、天地万物への諦観と嘲笑を鑑みるに、その難易度は他の人間を数倍して高い。
親しい友人、尊敬する人、或いは親兄弟を殺されようとも「まあ、人は死ぬものだしね」なんて納得してしまうのではないかと、我が事ながら他人事のように懸念するフィリップだ。愚弄されようと罵倒されようと、怒りが一定の閾値を超えることはない。
より正確には、その前に発散する。
フィリップの中で他人の命や社会的制裁の比重は、自分の感情より遥か下にある。イラついたからという理由で他人を殺すことに、あまり忌避感はない。
だからフィリップの感情をその閾値にまで昂らせるには、何かワンアクションでそこまで持ち上げる必要がある。
過去、ナイアーラトテップがカルトに与したと勘違いした時のように。
あの時は、閾値のギリギリで止まった。激情は狂気に至る寸前で止まり、その後すぐに発散したから何事もなく終わったが──今回は、完全に振り切れている。ブチ切れている。
憎悪と憤怒は足し合わされ、遂に感情の域を抜け狂気の範疇へ踏み入った。
しかし、だ。
狂気的な量の激情は、しかし、狂気らしい性質を表出させなかった。
フィリップは文字通り、狂気を奪われている。
膨大な知恵を与えられてこの世の真の姿を知り、この世界がどれだけ悍ましく儚いものかを知らされて、その結果として、何を見ても、何を知っても「まあ、所詮は泡沫だ」と冷笑する。それ故に狂わない、というわけではない。
本当に、狂気という状態にならないように制限されている。固定されているのだ。
だから狂わない。狂えない。
脳が過熱するほどの憤怒も、身を焼くほどの憎悪も、フィリップから理性を奪うことはできない。
──尤も、フィリップは理性の有無に関係なく、感情だけで動くのだけれど。
「……どうしたの? 続けて?」
穏やかに促すフィリップの声で、彼らは呼吸やそれによく似た何かを忘れていたことに気が付いた。
代表の女は深呼吸して声の震えを抑え、続ける。
「黒山羊のカルトに潜入していたエージェント。彼も我々の一員です。一神教の枢機卿にショゴスを使役する術やシアエガのことを教えたのも」
フィリップの顰蹙を買うことを恐れ、声が震えぬよう必死に取り繕いながらもそう明かす。
その姿に、フィリップは確かな誠意と敬意を感じた。畏怖と崇敬──まるで、神にでも拝謁したような感情の動きが見て取れる。
「貴方様の深淵なる智慧を、どうか我々と共に揮って頂きたいのです。愚劣な妄想を智慧だと思い込み、剰えその為に他人を害するような救いようのない愚者を救う、そのために」
言って、彼らは揃って頭を下げた。
伏して願い奉る、という言葉がぴったり当てはまる、そんな恰好だ。
フィリップは深々と嘆息し、その一挙動で“宣教師会”たちを震え上がらせる。
人間も人外も関係なく──いや、人間以上の智慧を持つ人外の方が、畏怖の念は大きい。
「……お前たちの思想には、正直、共感は出来る。理解もできる。蒙昧を払う、なるほど、素晴らしい信念だ」
「恐悦至極に存じます。魔王の寵児よ」
頭を下げたまま謝辞を述べる女だが、フィリップの表情は硬く険しい。
心の内には怒りがある。憎しみもある。なのに、感情が行動へ直結しない──フィリップらしくもなく。
それは、感情をそのまま表出させてはいけないと分かるからだ。
心の内はどす黒い殺意で染まり切っているはずなのに、理性の立ち入る余地なんて一片も残っていないはずなのに、妙に落ち着いている。
閾値を超えた感情は全てそのままに、激情に駆逐されるはずだった理性さえもそのままだ。
シュブ=ニグラスの精神防護。
そうだ。そうだった。それはそういうものだった。
この世の姿を知り、幾千万の外神を知り、旧支配者や旧神、神話生物のことを知り、狂って然るべき膨大な知識と人間の思考形態では理解できない概念を詰め込まれ、その上で思考と理性が破綻しない。そういう防護だ。
何があっても狂わない。狂えない。
しかし──それは、狂気に至るほどの激情そのものを否定しない。憎悪も、憤怒も、フィリップの感情はフィリップだけのものだ。誰であれ、それを書き換えることは許されない。
「でもね。それは僕がお前たちを見逃す理由にはならないし、与する気にさせる要因でもない。何より──あれがお前たちのせいだと言うのなら、僕は僕の憎悪に従う。お前たちの論理も感情も知ったことじゃあない」
フィリップは冷静だ。
冷静に──眼前のカルトを、なるべく苦しめて殺そうと考えている。
直接的ではないにしろ「お前たちを殺す」と言われたカルト……“宣教師会”たちは、器用に頭を下げたまま顔を見合わせ、薄く笑った。さも当然のように。
「それでこそ、魔王の寵児に相応しい在り方かと存じます」
「うん。だから──一先ず、今日のところはお開きにしよう」
代表者の答えに、フィリップも当然のように頷く。
続く言葉はルキアやステラが聞いたら体調でも悪いのかと心配してしまうような、フィリップらしからぬものだった。
が──まさか、だ。
まさかフィリップが、感心したから見逃してやる、なんて甘い考えを持つはずがない。相手をカルトだと見做した時点で、殺すことは大前提。あとはどれだけ苦しめて殺せるかというオプション思考と、なるべく多くを殺すという効率主義。そして、絶滅を願う野望。
なのだが、流石にこいつらは特別だ。
「……あぁ、勘違いしないで。僕は君たちを殺す。一人残らず、なるべく苦しめて、なるべく惨たらしく。でも今じゃない。今始めると、僕はきっと、僕自身の憎悪を制御できない。……分かるだろ?」
フィリップの声色は最後の問いを投げるまで、一貫して穏やかだった。
殺気を放つこともなく、怒りのままに喚きもせず、ただ淡々と、決定事項を伝達するように告げる。
そして──勿論、何も起こっていない。
十人以上いる統一感のないローブ姿の集団、人間も人外もごちゃ混ぜのカルトたちが、一瞬だけ一人残らずその姿を消し去った。
ほんの一瞬だ。当人たちが気付くこともなく、肉体も意識も存在も消えていた彼らが気付けるはずもない、ほんの一瞬。しかし、たまたまそのタイミングでは瞬きをしなかったフィリップが、しっかりと知覚できる程度の時間。
フィリップが目を瞠る頃には、そっくりそのまま元通りだ。相変わらず神経を逆撫でする格好で跪き、深い敬意と崇拝を感じさせる姿で首を垂れている。
だから、何も起こってはいない。
「……そんな、僕が一ミリも楽しめない幕引きは望んでないんだ。……あぁ、うん、これを汲み取ってくれるお前は、実は一番、僕に忠実なのかもしれないね。ヨグ=ソトース」
フィリップは柔らかに、優しげに、利口なペットを褒めるような口ぶりで言った。
瞬間。
世界が。首を垂れた。
深々と、恭しく──文字列にすると全く意味不明だし、誰もがそれを言語化できない。しかし、この世界に息づくすべての生物、この世界に根差す全ての物質、存在の全てが、それを理解していた。そして、誰もそれを自覚できない。何故なら、誰もが全くの無意識、無自覚、無知覚の裡に、首を垂れていたからだ。
木々が、海が、雲が、大地が、風が、光が、闇が、
邪神だって例外ではない。
ナイアーラトテップは自発的に。マイノグーラは愉快そうに嗤って。クトゥグアやハスター程度では自分が何をしているかなど知覚できないが、流石に外神たちは別だった。
この世の全てと、この世の外にある全てが跪き、首を垂れ、全身と全霊を以て謝意を示した。忠誠とは返報を期待してのものではないが、それでも、忠義と能力を疑われることだけは苦痛だったのだろう。
それが今、遂に──ただの一言で、報われたような気がした。
フィリップも、カルトたちも、ほんの一瞬以下の時間だけ世界に起こった異常にはまるで気付かず、言葉を続ける。
「お前たちの思想は理解できる。けれど、カルトに与し、カルトを導き──カルト染みた時点で、お前たちはカルトだ。故に、絶滅しろ」
“絶滅”とは、一個の集団に対して使えるほど安い言葉ではない。対象が一つの種、生態系を構成する一要素になって漸く使える。
つまり……或いは、今更言うまでもなく。
フィリップは“カルト”のことを人間だと思っていないし、同時に、一個人や一個の集団としても認識していない。
蜂に刺されたことのある子供が蜂を怖がるとき、どの巣のどの個体かなんて気にすることはない。なんていう種かさえ気にしない。ただ、それっぽい色と大きさ、あとは羽音に反応して怯えるように。
フィリップの殺意と害意の宛先もまた、カルトという記号だ。
何を信仰しようと、どんなバックボーンを持っていようとどうでもいい。そこに差異はない。そんな理由で差異は生まれない。
カルトは、カルトだ。
黒山羊のカルトも、クトゥルフの信奉者も、シアエガを利用していた男も、こいつらも、何ら変わりなく──全く同じ、カルトという名前で分類される害虫だ。
いま目の前にいるこいつらを全員殺したって、それは“絶滅”とは呼べない。一個の巣を破壊する行為は“駆除”に過ぎない。
フィリップは目の前のカルトをなるべく苦しめて殺すことに執心しているくせに、その実、目の前のカルトには一定以上の興味を持っていないのだった。
絶滅させるのはカルトという種。
弄んで壊す命に価値は無く、カルトを絶滅させることにさえ価値は無い。数十人ぽっちのカルトを殺すのに『深淵の息』だの弱火でじっくりだのと手を尽くすのは時間と労力の無駄だが、それでも凄惨な死に拘るのは、そうでなくては楽しめないからだ。
絶滅はさせる。
なるべく苦しめて、残酷に──楽しめるように。
そんな内心を窺わせる柔らかで楽し気な微笑で吐き捨てたフィリップに、“宣教師”たちは恭しく一礼した。
「御心のままに。我ら啓蒙宣教師会は再び野に散り、貴方様の賛同をいただいた思想を──蒙昧なる者たちの啓蒙を続けることと致します。再び貴方様に見える栄誉を賜りましたなら、その時には必ずや、我らは貴方様にご満足頂ける成果を見せ、そして貴方様の手に掛かる至上の栄誉に与ることでしょう」
意志表明というよりは預言じみたことを言う。
フィリップは口元を苦々しく歪めるが、何も言わず、「さっさと失せろ」とばかり手を払った。ぞんざいに。
長々と謝辞を述べている啓蒙宣教師会の面々を捨て置き、踵を返す。
ミナたちが立ち去った森の外ではなく、元来たほう──湖の方に。
腐臭漂う湖畔に立ったフィリップは、森の清涼な空気とは比較にならない淀んだ臭いを肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。深呼吸で散らしたのは緊張ではなく、苛立ちだ。
左手を湖に向けて伸ばし、呪文を唱える。
詠唱が終わり展開された魔法陣から出てきたのは、黄色の外套を纏ったようなヒトガタだ。フィリップの倍近い背丈があり、恐らく人間ではないだろうと容易に判断できるが──しかし、他に人外らしきところは一見しただけでは認められない。外套のフードと白い仮面が顔立ちを覆い隠し、地面に引きずるほど長い袖や裾のせいで肌の色さえ分からないほどだ。
尤も──外套の下にあるモノどころか、外套のように見えるモノさえ、タコのように表面を変色させた無数の触手なのだけれど。
「流石、遠慮というものを知らない……いや、しないのだね、魔王の寵児よ。いや、不満はないとも。それが君と私の正しい在り方だ。火の番でも畑仕事でも、好きに使うがいいさ」
男とも女ともつかない、しかし若い人間のものによく似た声は、呆れと諦観の色を濃密に映している。
ハスター──旧支配者の中でも上位の存在格を持つ邪神にしては分かりやすい感情の動きだが、もしかして、フィリップに合わせてくれているのだろうか。
まあ、それを理由に遠慮したりはしないのがフィリップなのだけれど。
「お言葉に甘えます。ドブさらいをして下さい」
相手が邪神でなくても、遠方から呼びつけた相手に頼むにはあんまりなことを言う。──ハスターの住処が地球から150光年離れた黒きハリ湖にあることを思うと、遠方なんて言葉では全く足りていない気がするけれど。
しかしハスターは前言の通り、軽く肩を竦めて頷く。
正確には無数の触手で象ったヒトガタの、肩に見える位置と頭に見える位置を動かしたのだが、この際細かいことは置いておこう。
「……承ろう。グラーキの破片の排除と水質の復旧だね? ……カルトに呼ばれたモノだと知って、放置も出来なくなったかい?」
「えぇ、まあ。速やかで的確に──僕の期待に応えてくださいね」
冷たい声のフィリップに、ハスターはむしろ上機嫌に笑った。
「ははは。“期待”だなんて、君は意外と冗談のセンスがあるんだな」
フィリップは何も言わず、ハスターを残してミナたちのところに戻る。
森の中にはカルトの群れがいた痕跡など一つも無く、出てきたシルヴァもサムズアップしたきり、林冠の辺りを枝から枝へ飛び移って楽しそうにしていた。
ミナたちと合流した後、フィリップはエレーヌやカルトに対する接し方について多少の苦言をエレナから呈されるのだが──それはどうでもいい話だ。
物語的にも。
フィリップにとっても。
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キャンペーンシナリオ『なんか一人だけ世界観が違う』
シナリオ14 『緑色の水底』 ノーマルエンド
技能成長:なし
SAN値回復:なし
特記事項:ヨグ=ソトースが介入するような事案は発生しなかった。特記事項なし。
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