第343話

 もう日も暮れてしまったものの、この悪臭漂う湖畔のコテージでもう一夜明かすよりマシだろうと荷物を持って森に入ったフィリップたち。

 「いくらアンデッドだったとしてもあれはよくないよ!」なんて説教を垂れるエレナを鬱陶しく思いつつ「んー」とか「そうだねー」と適当な相槌でやり過ごしていると、くい、と腕を引かれた。


 エレナが怒ってフィリップの腕を掴んだわけではない。

 エレナもミナもフィリップの前を歩いているし、腕を掴んだ手は小さくてふわふわしている。目を下げると、やはり、シルヴァだ。


 「どうしたの?」

 「ふぃりっぷ。なにかいる。いっぱい」

 

 恐れた様子はなく、警戒心も感じさせない警告。いや、ただの報告か。

 何かがいるから気を付けろ、ではない。ただ単純に「何かがいる」ということを伝えただけだ。


 ただ、意味のない言葉ではない。

 シルヴァが態々出てきて報告したということは、フィリップがその情報を欲しがると思ったのだろう。シルヴァはともかく、フィリップが警戒するような「何か」がいるのか。


 狼や熊ならミナとエレナがどうとでも料理できるだろうし、フィリップだって『萎縮』で対処できる。尤も、嗅覚に優れた野生動物はフィリップに付いた邪神の残り香けはいを恐れて近づいてこないのだけれど。


 「何かって?」

 「……わかんない。でも、しってるのもいる。にんげんとか、くろやぎとか、きのことか」


 湖を囲う森は別に、前人未到の秘境というわけではない。

 心鏡の湖が汚染され観光地ではなくなって以降、森を通る人間は極端に減少したものの、今でも近場にある村の食糧庫として重宝されている。


 だが日が沈んでから森に入る人間は珍しい。特に地元の人間は、この森を縄張りにしている狼を警戒して、日が沈んだ後は森に踏み入らない。

 湖から漂う腐臭を避けて森の外縁側に根城を移した彼らは、利口にも森の外には出ない。そうすると人間が本気になることを知っているからだ。しかしその分、狩りの時間に森に入った人間は容赦なく襲う。人間が馬鹿には厳しいことを、馬鹿の復讐はしないことを理解しているのだ。


 近くに住む人間ではない。かと言って、汚染された湖を態々見に来る酔狂な観光客である可能性も低いし、調査依頼は取り下げられているから冒険者でもないだろう。


 それに、人間なんかよりもっと気にすべき単語があった。


 「黒山羊って、あの黒山羊? 前の奴みたいな蒙昧だと面倒だなぁ……」


 フィリップのことを『母なるシュブ=ニグラスの匂いを付けた人間』としか認識できないような劣等個体だと、またぞろ生贄にしようと襲われる可能性がある。フィリップの背後に外神たちがいることを知らない、理解できないような、と言うべきか。


 「シル──」

 「フィル。私の傍に来なさい」

 「フィリップ君、荷物を置いて剣を抜いて! 何かがこっちに近づいてきてる! それもかなりの数だよ!」


 反射的にシルヴァを見遣ると、彼女はこくりと頷き、自分から異次元に還っていった。

 言われるがままにミナの隣に移動し、重たいリュックを置いて龍貶しドラゴルードを抜く。何が来るのか、どこから来るのかはフィリップには全く分からなかったが、なんとなくミナとエレナが睨みつけている方を警戒しておく。


 梢から月光が差し込んでいるとはいえ、夜の森はかなり薄暗く、フィリップの目では闇が満ちる木立の間を見通すことはできない。

 しかし、夜闇の中に目を凝らす必要は無かった。


 それらは、煌々と輝く篝火を掲げ、木立の陰から堂々と姿を晒してやってきた。


 松明、ランタン、魔術の炎や輝く液体の入った試験管など、様々な光源を手にしたローブ姿の集団。ざっと数えただけでも20人以上はいる。

 手にした明かりと同じく、ローブにも統一感は無い。砂色から森林迷彩的な緑と茶色のマーブル、オーソドックスな黒まで様々だ。


 「……っ?」


 無言のまま串刺しにしようと片手を上げたミナが、怪訝そうに動きを止める。

 その理由は警戒心ではなく、不審感だ。


 ローブ姿の集団は一人残らず、一糸乱れぬ動きで跪いて、恭しく首を垂れていた。

 処刑を待つ罪人の姿ではない。気品と敬意を感じさせる、王に拝謁する貴族の所作だ。或いは──神前に膝を折る、敬虔な信徒の。


 「──お初にお目にかかります、よ」


 姿を見た瞬間、条件反射的に左手を向けて魔術を照準していたフィリップは、一団の代表者らしき最前の人影の声を聞いて、その肺を海水で埋めるのを止めた。

 人影──人間である確証が持てない故に、そんな言葉を選ばざるを得ない。ローブ越しで曖昧ながらも男にしては華奢な体格のように思えるが、声が不明瞭だ。


 何を言っているのかははっきりと聞き取れるが、男の声でも、女の声でも無いように感じられる。中性的、とは少し違う。無性的、と言えばいいのか。無機質なくせに、胸の高鳴る歓喜が伝わってくる、そんな声だ。


 「……は?」


 フィリップは思わず、驚愕の声を漏らした。


 。こいつはいま、確かに、そう口にした。

 誰一人としてその意味を知るはずのない──ルキアやステラでさえ、ナイ神父がフィリップをそう呼ぶとしか知らない、その言葉の意味するところを知らない呼び名を。


 神威は感じない。人間のカタチを真似ただけの化け物である可能性はあるが、少なくとも邪神やその近縁種ではないようだ。


 であれば──なるほど、それは。


 「……最低限の智慧はあるんだ。おめでとう」

 

 ミナとエレナが怪訝そうにしているのに気付かず、フィリップは両手を広げて言祝いだ。


 おめでとう、と、心の底から祝福する。

 智慧を得たこと。自らが蒙昧であることを知り、その蒙を啓く第一歩目を踏み出したこと。そして──最低限、フィリップの興味を引いたこと。


 「僕、カルトとは会話しないことにしてるんだけど……智慧があるのなら言葉を交わす、というのは、人間として当たり前のことだよね? だから、うん、話くらいは聞いてあげるよ」


 対話の席に着く、という口ぶりではない。そんな生易しいことは考えていない。

 俎上に乗った魚の名前を知っておくとか、叩き潰す虫の種類を知っておくとか、そういう類の知識欲に基づく行動だ。


 普通は図鑑で調べるか有識者に尋ねることを、言葉が交わせるから当人に尋ねるだけ。聞きたいことを聞いたら、その後は一瞬の躊躇もなく首を刎ねるだろう。


 フィリップからじりじりと滲む、夜の静寂が重さを持つような殺気。

 知らず足を震わせていたエレナだったが、彼女が何か行動を起こす前に、小気味の良いぱちりと乾いた音が静寂を散らした。


 思い出したように手を叩いたのは、持っていた──構えていた、ではない──魔剣を霧に変えて消し去ったミナだ。

 

 「あぁ、ごめんなさい? 確か、『カルト狩り』は見ない方がいいのよね? 森の外で待っていればいいかしら?」

 「え? あぁ、うん、そうだね。そうしてくれる?」

 

 フィリップが頷くと、ミナはなんだか妙に生温かい視線を呉れて去っていく。戸惑いも露なエレナのことも引っ張っていってくれて好都合ではあるのだけれど、視線のわけはちょっと気になる。

 ちなみにミナは王都で人間の生活やペットについて──主に犬猫だが──深く調べた結果、『カルト狩り』のことは風呂やトイレと同じ、羞恥心を持つべき行為であると認識しているのだった。


 二人が去ったあと、跪いたヒトガタたちの中で最前にいる、先ほどと同じモノがひときわ深々と頭を下げて答える。黒いローブに目深なフードで人相は全く分からないが、なんとなく、フィリップはそいつのことを女だと思った。


 「我々など、御身の前では赤子の如き無知、死人にも同じ蒙昧でございます。しかし……はい。我々は最低限、この世の真理の末端を垣間見たといえましょう」


 フィリップは少し眉を上げ、ぞんざいに顎をしゃくって先を促す。代表らしき女──おそらく──は、恭しく頭を下げて言葉を続けた。

 

 「恐縮ながら名乗らせて頂きます。我々は啓蒙宣教師会。単刀直入に奏上致します──あなたをスカウトすべく、我ら一同参上致しました。魔王の寵児よ」

 「宣教師……?」


 スカウト、なんてあからさまに論外な部分は完全に無視して、気になった部分に突っ込む。

 宣教師なんて役職が一神教に存在したのは、もう何百年も前のことだと、歴史の授業で習った。具体的に何年前を最後に宣教師という役職が消滅したのかまで習ったはずだが、咄嗟に出て来ない辺り、眠気との戦いがいかに熾烈なものかが窺える。


 さておき、大陸に存在する三大国家、そして帝国隷下の小規模国家群も含めて、ほぼ全ての人類群が一神教を信仰している現代において、一神教を広める宣教師という役職は消滅して久しい。それこそ、教科書の中で読むような代物だ。


 随分レトロな名前を付けるのだな、と面白がるフィリップに、代表者はさらに続ける。


 「はい。我々は──カルトを教導し、啓蒙し、布教するカルトでございます。あの管理人にグラーキの黙示録と知恵を与えたのは我々です。そして、グラーキの破片をあの湖に召喚したのも」


 グラーキの黙示録。フィリップは聞き覚えのない名前だが、あの日記の写本部分のオリジナル──エレーヌの言っていた“本物の魔導書”なのだろう。

 名前からして、あの湖の底に住み着いた旧支配者、グラーキにまつわる物か。召喚の方法、傷ついたグラーキを癒す方法、死体軍団である緑色の従者を作る方法なんかが、あの日記には書いてあったが、その原典だとすれば推理に間違いはなさそうだ。


 いや、それより──エレーヌのことや、水底に住んでいる旧支配者のことなんかより、もっと重大なことがある。


 「カルトを教導する、だって?」


 フィリップは可笑しそうに、オウム返しに訊く。

 言わんとしていることは分かる。分かるが──まさか。


 「我々はカルト──空想の神、矮小な神に縋る蒙昧共が厭わしいのです。偏執的譫妄の産物を信仰し、剰えそれこそが真理と思い込む愚物が」

 

 その言葉に、フィリップは薄い笑みを浮かべて頷いた。


 「あぁ──分かるよ」


 と、心の底から


 カルトと一口に言っても、智慧の深さはピンキリだ。ヨグ=ソトースと接触するリスクさえ知らずよく分からない空想の神が時間の支配者だと思っているようなヤツらもいれば、外神のことを知ったうえで「そちらの方が恩恵がありがたいから」とクトゥルフなんて劣等種を信仰するモノもいる。


 悪魔崇拝、魔王信仰、自然の神格化、エトセトラ。一神教の定義する「カルト」には、こんな普通の──フィリップからすると、それはもうカルトではないだろうと笑ってしまうようなものまで含まれる。


 聞いたこともないような──勿論、シュブ=ニグラスの視座からは見えないだけで、実在するのかもしれないけれど──邪神を信仰するカルトもいる。だが、そういう手合いを、フィリップは心の底から厭わしく思っていた。反射的な憎悪とは別に。


 譫妄は智慧ではない。

 

 フィリップが誰か他人に共感するなんて、ステラ相手にさえ滅多にないことだ。思考ではなく思想への共感となると、ステラ相手でさえあったかどうか。

 その相手がカルトだなんて知られたら、ルキアとステラに隔離修道院にぶち込まれるかもしれない。まあ、そんな下手な冗談みたいなことをする二人ではないけれど。


 「合点がいったよ。物事の順序が狂っている気がしてたんだけど、そんなことはないみたいだ」


 フィリップはつかつかと無造作に、啓蒙宣教師会を名乗るカルトたちの方に近づく。

 そして、会話していた代表者ではない、その斜め後ろにいたヒトガタが口から大量の海水を吐きながら倒れて藻掻き、やがて動かなくなった。


 「《深淵の息ブレスオブザディープ》──あの死に方は知ってる。カルトが居なくちゃ再現できない死に様だ。……ルモンドさんをグラーキの信奉者にするために、そのためだけに殺したな?」


 突然の仲間の死に、しかし、カルトたちは殆ど無反応だった。

 怒りも、悲しみもしていない。むしろフードの下から同胞だったモノに向けられる様々な色と形状の目からは、色濃い嫉妬の念が滲んでいる。


 そして、フィリップの双眸にも怒りや嫌悪感の気配はない。

 むしろ、どこか感心したように跪く一団を見下ろしていた。実際、「はい」と先頭の女らしきヒトガタが答えると、フィリップは「へぇ」と感心の声を漏らす。

 

 グラーキを呼ぶことが目的ではない。その復活や勢力拡大を、こいつらは端から目的としていない。


 エレーヌ・ルモンドという人間に智慧を与え、蒙昧なる人間の総数から1を引く。智慧ある者の総数に1を加える。彼ら“宣教師会”の目的はそれだ。

 そして、旧支配者グラーキ──地球に根付いた劣等種ではあるものの、確かに神格を有する邪神は、そのための道具、舞台装置の一つに過ぎない。エレーヌの夫、彼女に目的意識を植え付けるためだけに殺されたニコラもまた。


 「いいね。智慧の使い方に正解も不正解も無いだろうけど──僕の好みではある」


 フィリップの言葉に、跪いた集団にざわめきが広がる。

 それは大抵「おぉ」とか「あぁ」とか感嘆符以上の意味を持たない音だったが、それだけに深い歓喜を感じさせた。


 勿論、フィリップ好みの思考・思想であることは、彼らがカルトであることを否定しない。フィリップの憎悪と害意の宛先から外れることにはならない。


 それは彼ら彼女らとて理解している。

 その上で、言葉を続ける。


 「過去、貴方様が窮極の玉座に赴かれた折にお使いになった、“時神の僕”。彼らに外神の副王ヨグ=ソトースとの交信の術法を授けたのは我々です」


 言葉が終わり、数秒の沈黙が下りる。

 痛い沈黙、どころの話ではない。全身矢達磨になったかのような痛苦を錯覚させる、重い静寂だ。


 誰も動かない。誰も動けない。

 木々の梢さえ、葉の擦れる音を立てないように息を殺しているかのようだ。


 ややあって、フィリップはどうにか、


 「……へぇ?」


 と、それだけ絞り出した。


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