第342話
月の光を受け湖とは反対方向に伸びるフィリップの影の中に、一つの人影が君臨する。
長い黒髪と漆黒のコルセットドレスを靡かせる立ち姿は、白銀の月光を浴びて凄惨なまでの美しさを湛えていた。
「ミナ、どうにもならなくなっちゃった。ロープを力任せに千切ろうとすると、多分、僕の腕が折れる」
強制召喚されたミナは辺りに漂う臭気に思いっきり眉根を寄せたが、縛られていながらニコニコしているフィリップを見つけると、呆れの色を交えつつも柔らかに微笑した。
「……いいタイミングだったわ、フィル。ちょうどお腹が減って、こっちに飛んでいたところだったの」
「そうなん──」
フィリップの相槌を聞き終えるまで待つことなく、ミナはふわりと屈んでフィリップの首筋に腕を回し、流れるような所作で首筋に牙を突き立てる。
なるべく痛まぬように、なるべく怖がらせぬようにという配慮と、愛玩動物に向けるに相応しい弱者への慈愛を感じさせる手つきではあったが、動き自体は慣れたものだ。フィリップも、ミナも、被捕食と捕食は日常の一部。
こく、こく、と真っ白な喉が二回鳴ると、束の間の抱擁が解ける。その後には、フィリップとエレナを戒めるロープが鋭利な刃物で裁断されたような綺麗な断面を晒して落ちていた。
「……ありがと、ミナ」
「どういたしまして。ごちそうさま」
解放されたフィリップは立ち上がると、「寝違えたかも」なんて言って身体を動かしながら、わざとらしくミナから離れる。背後ではエレナが「ありがとう姉さま! ねえ聞いてよ!」と騒がしく現状の説明をしていた。
フィリップは吸血行為が嫌だったわけではない。いつも通り全く痛みのないただの愛情表現、スキンシップ程度の触れ合いだ。ただ──滅茶苦茶いい匂いがしたので、心臓の鼓動が五月蠅い。
何のことはない、いつもフィリップを眠たくさせる夜と月の匂いなのだが、流石に湖の腐臭に慣れた後で嗅ぐと刺激が強い。吸血後の酩酊感もあって、長い昼寝から目覚めたばかりだというのにまた寝落ちてしまうところだった。
ミナから離れて再び鼻腔に纏わりつくような腐臭を吸い、「きゅ、吸血鬼!?」と、恐れも露に叫んだエレーヌの声を聞いて、何とか意識を保つ。
エレーヌは何やらわちゃわちゃと日記を繰り、やがて一つのページを開くと、本を握りしめるようにして何かを注ぎ込んだ。
魔力か、生命力か、或いはもっと別な何かかもしれない。しかしフィリップには、エレーヌが自分の中にある“それ”を本の中に流し入れたのが感覚的に理解できた。
「っ……《緑の従者の指揮》!」
起動詞……ではなく、呪文か。現代魔術ではなく領域外魔術に属するものであることは、フィリップには分からずともミナには見て取れた。
その詠唱は、“詠唱”とは言うけれど、詠うようにも、唱えるようにも聞こえない、恐怖に駆られた絶叫だ。
エレーヌもフィリップ同様に照準補助に腕を使わなくてはならないらしく、右手を湖に向けている。右手どころか、目線も、身体もだ。
魔術適性に乏しい者でも使える領域外魔術でこの様なら、恐るるに足りないだろう。フィリップでも手だけ向ければ照準できるのだから。
……というのは、酷な話か。フィリップに魔術を教えているのは人類最強の魔術師二人なのだし、環境が違いすぎる。
フィリップは嘲笑と共に左腕を掲げ、動く死体を炭の塊に変えようと息を吸う。しかしほんの一節の呪文を唱え終える前に、ミナが射線を遮るようにフィリップの前に立った。
フィリップの邪魔をしているという様子ではない。死ぬほど面倒臭そうな顔をしているが、敵意の籠った視線の宛先はエレーヌと、緑色に汚濁した水面を波立たせる湖だ。
一先ず手を下ろしたフィリップと、拳を構えるだけで行動を起こさなかったエレナは、不自然に荒れる湖の波音に気を引かれて目を向けた。
緑色の水面は嵐のごとく荒れ狂い、湖の中心から岸に向かって押し寄せる波を生む。
風の仕業ではない。
それは水底に蠢く幾百の手が水を掻き、湖水が攪拌された結果だ。
そして浅瀬にまで辿り着いた彼らは、水を吸った重い体をゆっくりと起こした。
夕暮れが終わり夜を迎えた藍色の空の下、緑色の水を割って立ち上がる、無数の人影。
虚ろな眼窩、肥大した手足、ぼっこりと膨れた腹。肉の所々を腐り落とし、腐臭を漂わせる異形。いや──再び立ち上がった水死体たち。
ざっと200体は居ようかという、数ある死因の中でも屈指の凄惨さだとされる膨れたヒトガタ。幽鬼の足取りで行軍する群れを目の当たりにして、エレナが片膝を突いて嘔吐した。
それでも、流石に戦闘慣れしている……というか、危機感のあるエレナは根性で立ち上がり、口元を拭って拳を構える。
胃液の饐えた臭いに当てられたフィリップの方が、吐いている時間は長かった。
三人の中で一番臭いに敏感なはずのミナはすらりとした鼻筋にしわを寄せているものの、吐きもせず、むしろフィリップの背中を擦ってくれていた。
「アンデッドの……大群!? 湖の下にこんなものが!?」
エレナの驚愕が五月蠅い。
ただでさえ腐乱した死体の放つ臭いで限界ギリギリだったフィリップに止めを刺したのはエレナのゲロだというのに、「早く立って!」なんて急かしてくるのが苛立たしかった。
「神の軍勢よ。私は神よりその指揮権を頂いているの。水辺にノコノコ現れた愚かな吸血鬼も、神への供物にすればいいだけ! そうしたらきっと、ヒューイの復活に大きく近づくわ!」
「そうか! 吸血鬼は大量の水に弱い! 姉さま、捕まえて引きずり込む気だよ! 気を付けて!」
勝ち誇ったように──或いは現実逃避するように声高に叫ぶエレーヌ。
エレナはミナとフィリップを庇う位置に立って拳を構えるが、鈍重な足取りながらも踏み均す物量を持って湖から出てくるアンデッドの軍勢を相手に、パンチやキックでは心許ない。
「……別に吸血鬼に限らず、大抵の陸棲存在は水中だと弱くなると思うのだけれど」
ミナがぼそりと呟く。
ちなみにミナは泳ぎがあまり得意ではない。
得意ではないが──得意ではないだけだ。伝承にあるように大量の水に押し流されると浄化されるとか、清涼な川を渡ることはできないとか、そういう種族的な特性があるわけではなかった。
そりゃあ水中では剣も振りにくいし血の槍の威力や速度だって大きく減衰するから、戦闘能力は低下する。ただ、ミナとて呼吸を必要としないアンデッドだ。溺れない以上、吸血鬼はむしろ並大抵の存在より水に強い方だった。
「姉さまは下がってて! ボクなら多少は泳げるから、捕まっても大丈夫!」
「格闘戦の方が、水中では余程やりにくそうだけれど……」
立ち上がろうとするフィリップに手を貸しながら、ミナは胡乱に呟く。
エレナの中では「ミナは吸血鬼だから水に弱い」という大前提があるのだが、ミナにしてみれば、むしろエレナの方が水に弱そうだった。
吸血鬼は飛行できるから、そもそも川に入って服を濡らしたり、泳ぐ必要がない。それを見た人間やエルフが吸血鬼は泳げないと勘違いしたのだろう。或いはそういう方便で、恐怖に怯える人々を宥めようとしたか。「この村は川に囲まれているから安心だ」とか言って。
まあ、そういう村から順番に餌食になっていくのだろうし、吸血鬼の側も、もしかしたら間違った噂を敢えて助長しているのかもしれない。そちらの方が餌を取るのが簡単になる。
そんなことを考えて薄く笑みを浮かべたフィリップの隣で、ミナも残忍に口角を吊り上げる。
「死体が立ち上がった程度のアンデッドが、この私に盾突こうだなんて」
つまらない冗談を聞いたと言わんばかりに、皮肉げに口元を歪めるミナ。
吸血鬼はアンデッドの中でも相当に上位に位置する種族だが、ミナはその吸血鬼の中で最も正統な吸血鬼とされ、魔王勢力の中では吸血鬼陣営の棟梁だったらしい。始祖の系譜、とディアボリカは言っていたか。
不死。長命。様々な種族特性と長年の研鑽に裏打ちされた圧倒的な戦闘力。
そんじょそこらのアンデッドに牙を剥かれるなど、脅威判定どころか可笑しくなってしまうほどの絶対的強者だ。そして、ミナは対アンデッドに於ける反則級の切り札を持っている。
フィリップが気付いたときには、彼女の右手には白銀の断頭剣が握られていた。
強力な邪悪特攻性能を持つ魔剣『美徳』。励起状態で防御無視効果を持つのはフィリップも知るところだが、聞くところによると完全開放すればルキアの『粛清の光』にも匹敵する攻撃範囲と断罪性能を発揮するのだとか。
「血を啜りて輝くは魔の理。無傷無血こそ聖の理。なれど邪なるものに救いは無く、父の御名において断罪するのみ」
ミナは右手に魔力を編んで作った漆黒のガントレットを纏い、フィリップには覚えのない詩を紡ぐ。
それが魔剣の全力開放に必要な起動詞に類するものであるとは知らずとも、エレーヌの絶叫よりは余程“詠唱”という言葉が似合うと思える、落ち着いた声色だ。
或いは、ただ単純に面倒そうな声なのかもしれないが。
「垂頸落とせ──魔剣「美徳」」
詠唱が終わり、胸の前で地面と垂直に立てられた断頭剣が光の柱に変わり、目を焼くほどに眩い、覚えのある極光が夜天を衝く。光が降り注ぐルキアの『粛清の光』とは逆だ。
ガントレットが炉に突っ込んだようにきいきいと軋むのに構わず、ミナの口角が獰猛に吊り上がり、異常に発達した犬歯が瑞々しい唇から覗く。
そして──一閃。
真夏の太陽を彷彿とさせる苛烈な色の光が湖面を薙ぎ、光の粒子が蛍の群れのように散乱する。
フィリップが目で追えない速度の横薙ぎの過ぎ去った後に、もはや動くものはフィリップたち三人だけだった。
次々と湖から上がってきていた水死体の全ては光の剣に触れた瞬間に灰と化し、風に吹かれ、水に溶けて消えてしまった。
くだらない一幕だったと言いたげな溜息と共に魔剣を霧に変えたミナに、エレナが「すっごーい!」とじゃれつく。
「ありがとう、姉さま! すっごくカッコよかった!」
「……うん、助かったよ。ありがとね、ミナ」
ミナは相変わらず臭そうに顔を顰めたまま、二人のお礼には適当に手を振って応じた。
──正直、思うところはある。
ミナが狙ったのか巻き添えを喰らったのかは不明だが、三人の前に立っていたエレーヌまでもが塵に変わってしまった。
フィリップは彼女を暫定的にカルトだと定義していた──フィリップ自身が、なるべく苦しめたうえで殺したかったのに。
「あーあ……」
ざく、と小気味の良い音。
残念そうに嘆息したフィリップの靴が、エレーヌだった残骸、塵の小山を踏みつけた音だ。
ミナとじゃれ合っていたエレナが振り返り、足元を踏み躙るフィリップを見つけて柳眉を逆立てる。
塵とはいえ元は人間だったモノ。それを足蹴にするとはけしからん、死体を踏みつけにするのと同じだ──なんて、説教を垂れる寸前で、エレナは口を噤んだ。
「塵を踏むもの……なんちゃって。ふふふっ……くだらな……ふふふっ……」
フィリップは笑っていた。楽しくて笑っているというより、可笑しくて、そして呆れているような笑い方だ。
この場では自分にしか分からない、そして分かる相手はきっと笑ってくれないであろう、笑ってしまうほどにくだらないことを言った、と。
大声を上げることはなく、しかしくつくつと喉を鳴らして確かに笑っているフィリップに、ミナとエレナは怪訝そうな目を向ける。
視線に気づいたフィリップは二人にも笑顔を向けると、笑いの発作を鎮めるように深呼吸して、しかし口元が緩むのを制御しきれずにへらりと言った。
「──帰ろうか。二人とも」
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