第340話
遠くの方で、誰かがフィリップを呼んでいた。
いや、遠くにあるのは──遠退いているのはフィリップの意識だ。
それがだんだんと、暗い洞窟を抜けるように近づいて晴れ、気が付くと、呼び声はすぐ近くで囁かれていることに気が付いた。
「フィリップ君、起きて! フィリップ君!」
「……っ」
目を覚ますと、周囲は薄暗かった。
ボート小屋に閉じ込められているのかと思ったが、違う。外だ。フィリップたちが調査に来た湖の傍に、両手を縛られて寝かされていた。
薄暗いのは、時間のせいだ。遠くに見える山の背中に太陽が隠れはじめ、空には紺と朱色が混ざり合っている。
「いたた、フィリップ君、あんまり動かないで。ボクと一緒に縛られてるんだから」
「……ごめん」
フィリップとエレナは背中合わせに、どうやら一本のロープで両手を結ばれているようだ。フィリップが動くとエレナの腕が締まり、エレナが動くとフィリップの腕が締まるようになっている。
「あのゴミクズはどこ行ったの?」
「え、エレーヌさんのこと? 分かんない。ボクもいま起きたところなんだ」
怒りを感じさせない平然とした声で、普段の彼らしからぬ口汚い呼び方をするフィリップに、戸惑いつつ答えるエレナ。
フィリップは冷静に──本人は冷静だと思っている思考の下に、自分の手がエレナの背中に沿うような位置にあることを確認する。
ロープを外すのにはエレナが邪魔だ。彼女が本気で抵抗すればロープは千切れるだろうが、それより先にフィリップの腕に食い込んで、そっちが千切れそうだ。かといってフィリップの腕力では、ロープを千切ることも、人間の腕を千切ることも出来はしない。
だが──炭の塊なら、体重をかけて砕くことができる。
もちろん第一選択ではない。ないが、一案として頭の片隅には置いておく。
「取り敢えず体を起こそう」
「え? でも、まだ気が付いてないふりをした方がよくない?」
「いや……あいつの狙いはもう分かった。どの程度踏み込んだ奴なのかも。確定だよ。あいつはカルトだ」
せーの、と呼吸を合わせて身体を起こし、二人は取り敢えず背中合わせで座る。
「かると……えっと、確か、唯一神以外の神様を信仰する人のことだよね。それとこれに何の関係があるの? あ、ボクたちがエレーヌさんを捕まえるんじゃないかって思われたのか!」
困ったように言うエレナ。
フィリップは目が覚めたことをエレーヌに気付かれない方がいいなんて考えは一片も持たず、声を上げて笑った。
「あははは! 死ぬほど楽観的だね」
死ぬのはエレナ一人だけど、とは、もう敢えて言う必要もない。
彼女はフィリップの纏う空気が切り替わったことに気付かないほど鈍くない。顔は見えずとも声を聞くだけで、フィリップが眩暈に襲われるほどの激甚な悪意を心の内に宿していることは察していた。
「……何が起きてるの?」
「んー……そうだなぁ……」
フィリップはエレナの背中に体重を預け、紺色を濃くし始めた空を見上げて考える。
邪神がいると明言するとか、邪神の名前を出すとか、それは流石に駄目だとしても……どうにか状況だけでも伝えておきたい。というか、さっきはそれを怠ったせいで、エレナがエレーヌの接近を知らせてくれなかったのだ。
エレーヌが敵であること、そして彼女の目的を説明するのに必要なことくらいは開示すべきだが……まさか、ありのままを伝えるわけにもいかない。ぼかして誤魔化して、しかし要点だけは誤解のないように。
「この湖の底にはね、魔物がいるんだ。そいつは8割方死んでいて、必死に生き永らえようとしている。正確には、死にかけの2割分だけがここにいる、と言うべきなんだろうけど」
ちなみに“いつから”いるのかは、実のところ判然としない。
それは“どうして”いるのかが分からないからだ。カルトが魔術で召喚したのかもしれないし、ずっと湖の底にいて、何かのきっかけで目覚めたのが五年前ということもある。
だがどちらにしても、居るのは確実だ。
神威は感じないが、恐らく、大量の水によって遮られているのが原因だ。フィリップが鈍感すぎるという可能性もないではないけれど、エレナも、過去にここを訪れた調査隊や冒険者が揃いも揃ってフィリップ級の鈍感だとは思えない。神威を放っているなら、誰かが気付くはずだ。
フィリップの説明は続く。
「そいつは人間を殺して力に変えて、更に死体を下僕にしてる。下僕を使って更なる死体候補を集めたり、残りの8割を探させたり、まあ色々してるんだ」
困るよね、と小さく笑うフィリップだが、エレナの反応は想像以上に大きかった。
「えぇっ!? なにそれ!? じゃあ早くエレーヌさんに……ま、待って? まさか、それって……」
「そう。あの本に書いてあったんだよ。ルモンドさん……まあ、うん、ルモンドさんだったモノは、そいつの下僕ってこと」
意外な頭の回転──でもないか。
だが、エレナが一度信じた相手を疑うとなると、いつもよりちょっと早めだ。
エレナに然程の興味がないフィリップが──正確には天地万物の殆どに対してそうなのだけれど──気付かない程度の、小さな誤差の正体は、昏倒寸前にフィリップが見せた、エレナには見せたことのなかった表情が原因だ。
聖人君子や人形ではないフィリップは怒りもするし悲しみもする。気分を害したら、結構顔に出る方だ。百面相とまでは言わずとも、表情筋は素直だし活発だと言えよう。
概ね、ルキアやステラと一緒にいるときは幸せそうにニコニコしている。ミナと一緒にいるときは眠ってしまいそうな穏やかな表情のことが多いし、エレナやシルヴァと遊んでいる時は年相応に無邪気な笑顔だ。
そして、さっきの──黒い本を読み終え、エレーヌに攻撃された時のフィリップの表情は、エレナがこれまでに見たことのないものだった。
それこそ生き別れになった恋人に再会したような──或いは、親の仇に再び見えたような。
過去に同じ表情を見たことがある者はその殆どがもう死んでいるし、数少ない例外の中にも重篤な記憶障害を負ったものがいる。
周りのことなどどうでもいい。或いは自分のことさえも。
ただ眼前敵の苦悶の表情と絶叫、そして死のみを望む妖艶で凄惨な微笑。今は背中合わせに縛られていてお互いの表情は見えないが、エレナの脳裏には憎悪と殺意に満ち、どろりと濁った青い瞳がこびりついていた。
「そ、そんな!? 魔物を討伐……は、厳しいよね、やっぱり。この湖、深さ200メートルもあるんでしょ?」
人を操る悪いヤツ=ぶっ飛ばす、と直結する思考は頼もしい限りだが、彼女の言う通り、流石に厳しいものがある。
最大水深200メートルだというこの湖の底にいるのだとすれば、体術に長けるものの魔術適性の低いエレナではどうにもならない。フィリップにも同じく。
そして理由はそれだけではない。
水底で眠っているやつは、神格だ。神格である以上は人間やエルフとは一線を画す存在の格を持ち、その格差はそのまま干渉を拒む隔絶となる。
「たとえ地上に居ても僕らじゃ無理だね。一定以下の攻撃は全部無効にするヤツだから。……ドラゴンみたいなものだよ」
まあエレナはドラゴンと戦ったことはないはずだけれど。脅威度を伝えるにはいい塩梅の喩えだろう。
「……エレーヌさんは、操られてるってことだよね?」
「さぁ、どうだろう……今がどうかは知らないけど、始まりは自分の意思だったはずだよ。旦那さんを蘇らせるために……?」
フィリップは言葉を切り、首を傾げた。
エレーヌは自分の意思で何かの魔導書を読み解き、ここにいるヤツと交信した。それは間違いない。そして日記を見る限り、その目的は夫であるニコラの蘇生だ。少なくとも、魔導書を──あの日記も、本物に限りなく近い魔導書の写本のようなものだったけれど──貸したカルトからは、そう聞いていたはず。
しかし、魔導書を解読し終わった時点でエレーヌも気付いたはずだ。
死者の軍勢の一員、意志ある死体にしたければ、犠牲者は水底にいるモノの手にかかって死ななくてはならない。
水底に眠る邪神が授けてくれるのは、死に分かれた愛する者との再会なんかではない。そいつは所詮、死体を歩かせるだけだ。
まあ、動く死体との邂逅を「再会」と表せるのであれば、そう言ってもいいけれど。
「なるほど、その時点で狂ったのか」
思えば、魔導書を写し終えた辺りから妙だった。
お墓にあった彼女の夫の名前は『ニコラ』だったのに、日記の中で彼女は別の人物を蘇らせようとしていた。別の名前を書いていた、と言った方が正しいか。
だが、流石に夫の名前を間違えるわけは無いだろうし、邪神に縋ってまで夫を蘇らせようとするほど愛の深い人が浮気というのも考えにくい。
単純に記憶に障害が出た、と考えるには、ぴかぴかに磨かれていたあの墓は不自然だ。きっと毎日手入れをしているはずだし、名前を忘れるはずがない。
人名認知に障害が出たか……個体認知の方か。それとも、何も分からないレベルで壊れているか。
まあ、どれでも構わない。どうせ死んでいる。
どうせ殺す。
立ち上がった死体を、二度と立ち上がらないようぐちゃぐちゃにして殺し切る。なに、炭の塊にして粉砕すれば動かなくなるだろう。サイメイギの従者の時のように。もう死んでいる以上『深淵の息』で溺水の苦しみを味わわせられないのは──呼吸していないのだし──残念極まるけれど、まあ、たまにはそういうのもいいだろう。
カルトを綺麗に、すんなりと……。
いや、それはない。出来る限りのことはするべきだ。立ち上がった死体だからと諦めるのではなく、出来る限り試行錯誤して──死力を尽くして、苦しめて殺すべきだ。フィリップはそう、自省した。自省──のようなことをした。
「どうしようかな……」
エレーヌがアンデッドとしてどの程度のものかは知らないが、ガスが無効だった辺り、呼吸を必要としないのは確実だ。だから『深淵の息』は効かない。
問題になるのは痛覚だ。ゾンビやスケルトンといった低位のアンデッドは触覚さえ曖昧だと授業で習ったが、最高位アンデッドである吸血鬼は疑似的な呼吸も可能で、他とは比較にならないほど人間っぽい。だが痛覚があるかどうかは疑問だ。
ミナは平然と自分の手首を切って大量の血を流すけれど、全然痛そうではないし、「いつもごめんね、痛いよね」と言った時には『何言ってんだコイツ』と言わんばかりのおかしなものを見る目で見られたので、たぶん痛くないのだろう。あれは「斬撃を飛ばせるの?」と訊いたときと同じ目だった。
アンデッドは例外なく痛覚がないのだとしたら、四肢を切り刻んでも意味がないということになってしまう。やはり『萎縮』による脱水炭化しかないのか。
なんともつまらない話だ。全くやる気が起きない。
そんなことを考えていると、コテージの扉が開いてエレーヌが出てきた。
相変わらず病的に顔色の悪い彼女は、じき日没と言うこともあってランタンを片手に、もう一方の手にはあの黒い革表紙の本を持っていた。
「フィリップ君。ここは落ち着いて、エレーヌさんの出方を見るべきかな? それとも一か八か、ボクがフィリップ君を背負って森まで逃げ込めるか試そうか?」
「落ち着いてよエレナ。あいつは僕たちを邪神の手下にするために、そこそこ煩雑な殺し方をしなくちゃいけない。少なくとも深夜までは殺されないから」
「そ、そんなことも書いてあったんだ?」
フィリップは「まぁね」と軽く頷く。
実際、儀式の手順やら呪文やらがきちんと書かれてあった。邪悪言語で、だが。
フィリップたちのすぐ傍まで近づいてきたエレーヌは、左手をちょっと掲げて黒い本を示した。
「……これ、凄いでしょう? いつからか、本の内側からこの液体が滲み出てきたの。まるであいつらに借りた“本物”みたい。私も“本物”の仲間入りってことよね!」
自慢げで嬉しそうなエレーヌの言葉に、何を言っているんだろう、と恐怖と共に困惑を示すエレナ。
フィリップは勿論、エレナに「落ち着いてよ」と言える程度には落ち着いているのだろう。
実際、フィリップはエレーヌに「そうなんですね」と適当な相槌を打つつもりだった。まあ、結局のところ口を突いて出たのは、
「人間の偽物が人語で僕に話しかけないでよ。劣等種」
という、もう言葉の意味から文字数まで、何から何まで違うような言葉だが。唯一、テンションだけは適当な相槌に相応しい、愛想笑いの雰囲気なのが逆に不気味だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます