第339話

 日記を取り出すと、何冊か重ねて入れられた管理日誌の更に下に、まだ何か入っていることに気が付いた。

 日誌が盾になったのか薬品で汚れていないそれを取り出すと、小ぶりな木製の額縁だった。中には肖像画が収められている。描かれているのはエレーヌと、金髪で良く日焼けした快活そうな男性だ。彼が夫のニコラ・ルモンドだろう。


 フィリップは額縁を机の上に適当に置き、日記の検分を始める。


 基本的には一ページを何段にも区切って一日ごとにしているようだが、時たま一ページを丸ごと一日に当てていることもあり、レイアウトに凝る方ではないようだ。その代わり、小さな字でびっしりと書き込まれていて情報量は申し分ない。


 並みの小説より余程分厚いハードカバーで、持った感じだと5~600ページはあるが、もう使い切られている。日付だけで年までは書かれていないから判然としないが、かなり長い間の記録が詰め込まれているようだ。


 初めの方から流し読むと、所々で「ニコラが~」「ニコラは~」と夫の様子が書かれているから、少なくとも五年前から使われているのだろう。

 五年前の春先に、湖の管理人になった旨が書かれている。『ニコラは子供のころからこの湖が大好きだったから、自分が湖を汚した犯人をとっ捕まえるんだって息巻いていた。泳ぐのが好きなだけで、汚染の原因を突き止める学者様みたいなことは全然できないし、喧嘩だって殆どしたことがないのに。ばかな人』と。


 一文を読んで、フィリップはちょっとだけ顔を顰めた。

 呆れたような文面から内心を推察できなかった、と言うわけではない。夫亡き後も腐臭漂う湖の傍で暮らす彼女の愛情深さを読み取れないほど、フィリップの読解力は低くない。


 ただ、愛が深すぎるあまり道を踏み外したという例は、既に知っている。あの枢機卿道化師がそうだった。

 ぺらぺらとページを捲って先を読み進めていくと、幸せな夫婦生活の情景が断片的ながら垣間見えて、その懸念がどんどん強くなっていく。

 

 二人は学術的な知識を持たないなりにもきちんと湖を調べていたようで、


 『ニコラが湖に何かが住み着いているかもしれないと言っていた。人間くらい大きな魚影を見たそうだ。私は見たことがないけれど……。泳いで捕まえよう、なんて言いだすんじゃないかとヒヤヒヤしたけれど、彼は「一人で湖に近づくんじゃないぞ」だって。』


 なんて記述もあった。

 だが、これに関してはニコラの見間違いである可能性が高そうだ。少なくともではないだろう。


 そして──が訪れた。正確には、その数日後だ。


 『四日前、ニコラが死んだ。湖の傍で倒れていた彼は、肺いっぱいに水を飲んで死んでいた。溺れたわけがない。彼の泳ぎは王国一だ。誰かに溺れさせられたんだ。服が乾いていた理由は分からない。陸地に打ち上げられて、夜の間に乾ききったなんて有り得る?』


 冷静になるのに──文章を書ける程度に落ち着くのに、四日かかったのだろう。そこまでの期間は完全に抜け落ちている。


 問題はここからだ。

 人間が正道を外れカルトに落ちるなら、それ相応の理由があるはずだ。特に、ちゃちな地下サークルじみたものではなく、本物の邪神や神話生物に接触できるレベルとなると。


 深い悲嘆を感じさせる文言の並ぶページを捲り、ニコラの死から10日ほどが過ぎた頃だ。


 『湖に住み着いたモノについて詳しい人から、変な記号(文字?)で書かれた本を見せられた。なんだか湿っていて、甘い匂いのするベタベタが滲み出ている気色の悪い本だ。でも、これが読み解けたらニコラが生き返るかもしれないと言われた。ダメ元だ。もしも嘘だったら、カルトとして教会に突き出したあと、火刑台に火をつける役目は私にやらせてもらおう』

 『次のページから、重要なページの写しに入る』


 フィリップはページを捲り──即、本を閉じた。

 一瞬だけ目に入ったエレーヌの言う『記号』が、フィリップには難なく文字として認識できたからだ。


 「…………エレナ、あっち向いてて」

 「え? うん……」


 小屋の入り口のところに立っていたエレナが戸惑いつつも従ったのを見て、フィリップはもう一度本を開く。

 『記号』の羅列は30ページ以上にも及び、それから漸く日記が再開されている。


 『本は三日間だけ貸してくれるそうだ。親切に写すべきページを教えてくれて、記号や文字が間違っていたら教えてくれた。でも、記号や文字の意味だけは何度聞いても教えてくれない。それを読み解き、書かれた意味を理解する必要があるのだそうだ』

 『本を返した。無駄骨だったら許さないと言った時、彼はそんなことは有り得ないと笑っていたけれど、ライルが生き返らなかったら湖に沈めてやる』


 そこまで読んで「おや?」と思ったフィリップだったが、一先ず読み進めることにする。痺れを切らしたエレナが振り返る前に。


 しかし、その先は日記と『記号』を読み解くためのノートとしての用途が2:8くらいの割合で混ざっていた。

 日記部分によると王都の図書館で数学や錬金術、魔術理論の本を借りて試行錯誤していたようだが、そんなところにヒントがあるはずがない。必要なのは──。


 「そう、それだ。言語学……」


 『今日は王都の図書館で『古語とエルフ語に見る言語乖離の遷移と予想』『言語学概論』『文化が持つ国の遺伝子』の三冊を借りてきた。理系でダメなら文系で、という甘い考えでどうにかなるとは思えないけれど、ティムが生き返るために出来ることは全部やりたい』という日記を書いた日から数か月で、ノートの内容はじわじわと精度を増していた。


 「……まさか、独力で読み解いたの? 実例を魔力視で見たとかじゃなくて、思考力と歳月だけで? て、天才じゃん……」

 

 思わず苦笑するフィリップ。

 ノート30ページ以上にびっしりと書かれていたのは、人外が邪神との交信のために作り出した完全に別体系の言語である邪悪言語だ。


 大陸共通語とは文字や文法が違うどころの話ではない。いや、それも違うのだが、それ以上の問題が山ほどある。人間の舌と声帯では発音できないなんて当たり前。人間が知らない宇宙の法則や論理が平然と使われ、地球の論理は当然のように否定される。


 それを独学で理解したとなると、身近に努力する天才が三人もいる──ミナを入れると四人──フィリップも、自然と拍手してしまうレベルの天才だ。

 

 王都で言語学者でもやっていれば、エルフとの国交を回復した今、まさに欲しがられる人材になっていたことだろう。目下、二国間の通訳が出来るのは王都のエルフ学者が一人と、エルフ側もエレナの世話役だった生物学者のリック翁だけのようだし。


 今からでも勉強すれば十分に通用するだけの才能だとは思うが──残念ながら、そんな未来は訪れない。ステラが彼女の才能を欲したとしても、だ。


 「狂人の洞察力ってやつなのかな? だとしたらちょっと羨ましいけど……」


 枝葉末節を細かに知覚するだけの知性を失う代わりに得られる本質を見抜く力が羨ましいのか、或いは発狂できることが羨ましいのかは、まあ、さておくとして。


 フィリップはぺらぺらとページを捲って先を読み進め──遂に、祝うべきその日を迎えたエレーヌの日記を見つけた。


 『本は目的に完食した。カップにはプディングが必要だ。飛ぶ後に彼のペットとなる、歩く猫の体が。頭は思考になり、足は魚になる。彼の神への貢献、献身によって金貨と石榑が泳ぎ回り、その褒賞としてジャンを蘇らせて頂くのだ。全ては愛のために。全ては彼の神のために』


 ……壊れていた。

 文章が、文法が、単語が。


 そしておそらく、記述者の精神こころも。

 

 だからこんな、見つかった瞬間に即カルト認定を喰らうような代物を、鍵もかけずに放置していたのだろう。狂人の思考や行動に論理的整合性はない──一見して普通に見えても、どこかに歪みがあるものだ。


 まともに会話が成立していたのは、精神の一部だけが壊れ、一部は健常な状態で残っているからか。完全に壊れ切ったら、脊髄反射しかできない廃人になるはずだし。


 「エレナ。状況が──」


 状況が変わった、と。

 そう口にしようとしたフィリップだったが、その認識ですら甘かった。


 状況は──終わっていた。それも、最悪の状態で。

 

 「──見て、しまったのですね」

 「っ!?」


 深い失望を滲ませる声に、フィリップは弾かれたように振り向く。

 と、小屋の入り口には奇妙に表情の抜け落ちたエレーヌが立っていた。エレナもいつの間にかこちらを向いていて、エレーヌの一歩後ろで申し訳なさそうな顔をしている。


 ただし、その表情の宛先はフィリップではなく、エレーヌだ。


 「ごめんね、エレーヌさん。鍵が開いてたとはいえ、勝手に見ちゃって。でも、あの顔をしてる時のフィリップ君は、なにかすごく重要な──」


 事ここに至り、あまりにも安穏としているエレナに目を瞠るフィリップ。

 だが、それはフィリップが悪い。日記を読んだのも、エレーヌの状態に気付いたのも、その目的を理解したのも、全てフィリップだけだ。エレナには何も教えていない。


 彼女にとって、エレーヌはまだ容疑者にすらなっていない。「フィリップが疑っている人」とか、最悪、まだ「傷心の管理人のお姉さん」みたいな認識かもしれない。いや、エルフにとっては幼子なのか。それはまあどうでもいい。


 フィリップはエレナに、まだ何も教えていない。エレナは何も知らないのだ。

 そして基本的には底抜けの善人である彼女が、何の理由もなく他人を疑うわけがない。


 「──エレナっ!」


 このクソ馬鹿が、とでも怒鳴りつけそうな剣幕で叫ぶフィリップ。

 咄嗟に「逃げろ」とか「そいつは敵だ」とか具体的なことが言えないあたり連携訓練はまだまだ必要と言わざるを得ないが、今回に関しては、たとえ指示と理由を端的に発していたとしても意味はなかった。


 状況は、もう終わっているのだ。


 フィリップは自分の視界が霞み、ゆっくりと傾いでいくのを感じる。酔ったように揺れる景色の中で、エレナの身体も同じように傾いていくのを見た。


 「うっ……!?」

 「ガス……!?」


 フィリップとエレナはそれぞれ木の床と砂利の地面に倒れ、呻く。

 以前にフレデリカが“使徒”相手に使った鎮静ガス、シュヴァイグナハトのダウングレード品のようなものだろう。あれは魔力の貧弱なフィリップには通じなかったが、今は凄まじい眠気と手足の脱力感に襲われている。


 マスクをしているエレナにも効くあたり、炭とタオルでは防げないのだろうが──エレーヌは完全に素顔なのにピンピンしている。いや、いつもと変わらず、体調の悪そうな土気色の顔なのだけれど……。


 「なるほど。お前、のか……」


 フィリップは最後にそれだけ言って、完全に意識を失った。





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