第338話

 翌朝。

 エレナは森で取ってきた木材とボート小屋にあった工具を使って、ドアの修繕作業をしていた。その小ぶりな鼻の穴には、両方ともに赤く染まったガーゼが詰め込まれている。


 しばらくトンカンキコキコと作業音を響かせていたエレナだったが、ややあってフィリップとエレーヌがいるリビングに戻ってきた。

 フィリップはエレーヌに謝って、事情を説明していたところだ。昨日は夜も遅かったからと、諸々が今朝に回されていた。 


 「……ふぅ。おわったよ、ふぃりっぷくん。……おっ、血も止まったみたい」

 「お疲れ様。こっちも説明終わったよ」

 「そっか。エレーヌさんも、本当にごめんなさい。今まではこんなこと、一度も無かったんだけど……」


 意気消沈して頭を下げるエレナに、エレーヌは「いえ」と苦笑気味だ。

 「以前より綺麗で建付けのいいドアにしてくださいましたし」というのは、流石にリップサービスだろう。確かに軋みもなく滑らかに開くようになってはいたし、作ったばかりだから汚れ一つないけれど。

 

 しばらく「ごめんなさい」「いえいえ」のやり取りを繰り返したあと、埒が明かないと判断したのか、エレーヌは近くの村まで買い物に行くと言ってコテージを出てしまった。


 フィリップたちが来た日から一度も買い出しに行っていないのは確実なので、方便ばかりではないだろう。


 フィリップもそろそろ調査を始めようと準備していると、ばつの悪そうな顔のエレナがとぼとぼと近づいてきた。


 「ねぇフィリップ君、その……ごめんね? ホントに覚えてないんだ」

 「ん? いや、もう怒ってないよ。一発分、きっちりやり返したからね」


 エレナの鼻血の原因は、フィリップのパンチだ。

 今朝の起き抜け一言目──は、流石に「おはよう、エレナ」だったので、二言目──一発は一発だよね、と、子供の喧嘩のような理屈でフィリップが拳を叩き込み、今に至る。結構本気で殴ったのに折れてはいない辺り、羨ましいほどのタフさだった。


 「でもボク、結構本気で戦ってたんでしょ? もしかしたら、フィリップ君だって怪我してたかも……ううん、死んでたかもしれないんだよ?」

 「いや、それは大丈夫。エレナが正気に戻るのがあと3秒遅かったら、死んでるのはエレナの方だったから」


 あれは本当に危なかった。エレナの寝起きがもう少し悪くて、「くさーい!」なんて大仰に嫌がるような性格でなければ、玄関先で溺死していた可能性さえあった。


 よく考えてみれば、そもそもフィリップがエレナと戦う必要は無かったのだ。エレナは一昨日の夜、自分で玄関のドアを開け、吹き込んできた悪臭で目を覚ましていた。

 フィリップはエレナと殴り合う必要なんてなくて、ちょっと脇に退くか、ドアを開けるだけで良かったのだ。昨日の段階で思い出せていれば、と思うも、後悔は先に立たない。


 「そ、そっか。それで、その……相談があるんだけど、いい?」

 「ん? なに?」


 まだ少し委縮した様子のエレナを宥めるように、フィリップは努めて穏やかに応じる。


 「夢のことなんだけど……」


 夢? とオウム返しで首を傾げるフィリップに、エレナも「うん、夢」と繰り返して頷く。


 「ボク、これまで夢遊病の症状なんて出たことがないから、もしかしたらそれが原因かもって思って。昨日は忘れちゃってたけど、今日はちょっとだけ覚えてるんだ」

 「ふーん。どんなの?」

 「うん、あのね、呼ばれたんだ。声……じゃないんだけど、うーん、表現が難しいなぁ。どんな声だったっていう情報が全然なくて……音じゃなくて、文字で伝わるみたいな感じだった。とにかく、その“意思”が、ボクを呼んでたんだ」


 沈黙するフィリップ。

 何か言おうとして口を開きかけ、そして、溜息さえ吐かずに閉じる。


 頭の中で目まぐるしく飛び交う単語と懸念を一旦置いておくのに、フィリップはたっぷり五秒を要した。そして漸く、


 「……それは、名前を、ってこと?」


 と、薄々は答えに察しを付けている問いを、無駄な問いを投げた。


 「ううん。そうじゃなくて……存在を、って言えばいいのかな。ボクを呼び寄せていたんだ。外に──あの、緑色の水底に」


 エレナがそう語り終えたとき、フィリップの思考は二つの可能性、二つの行動指針の間で揺れていた。


 どっちだ?


 夢遊病患者の妄想か?

 それとも──夢遊病か?


 二つの差は大きい。

 前者であるのなら、耳を傾ける理由も意義もない。王都に帰ったらその旨をステラかステファンに報告して、あとは丸投げだ。


 だが後者であるのなら、恐らく、フィリップが対処すべき事案だ。ステラにも、他の誰にも頼れない。


 「……そう、なんだ」


 なんとか相槌を絞り出したフィリップは、エレナをコテージで待たせて外に出た。


 湖は相変わらず汚らしい緑色に濁っていて、風が途切れると肉の腐ったような臭いが鼻を突く。

 だが──なのだ。


 湖──水源を生息地とし、そこを汚染するという性質。夢を使い、人間を生息地へ誘導するという性質。この二つから、思い当たる邪神が数柱、既にいる。

 しかし、フィリップはこの湖を訪れてから一度だって、神威を感じていないのだ。


 悲観的推測になるが、シュブ=ニグラスの視座からでは把握できないような神格を持たない劣等存在でも同じことが出来るとしたら、エレナを誘い出そうとした手合いの正体は杳として知れない。それっぽい神格は片手の指で足りる──正確には、こちらも「シュブ=ニグラスが知覚できる範囲では」という但し書きが付くのだが。


 逆にフィリップが望む展開は、エレーヌの夫、ニコラを殺したであろうカルトの仕業だったという展開だ。それなら簡単で、フィリップの目的がそのまま問題解決に繋がる。カルトを見つけて殺すだけの、楽しいお仕事だ。


 「いや、待て……。カルトは確実に居る、のか? いや、居た、と過去形で言うべきなのかもしれないけど……」

 

 現状、確定している事象は二つ。

 一つ。五年前に湖の管理人ニコラ・ルモンドが『深淵の息』によく似た死因で死んでいること。自殺を疑う理由はないし、殺された、と明言してもいいだろう。

 一つ。彼が死ぬ数か月前から水が濁り始め、湖が汚染されていること。こちらは王国の調査団が調べても原因不明だったから、自然現象ではないと考えるべきかもしれない。少なくともありふれた現象ではない。


 エレナの言葉の真偽は分からないが、この二つは疑いようがない。


 「……森の中をもう一回確かめるべきか? カルトの存在だけでもはっきり……いや、シルヴァが見落とすなんてこと……ある?」


 虚空に向けて問いかけると、魔術経路を通じて「ない」と断定的な意思が伝わってきた。

 まあそうだろう。シルヴァは森の中にいるとき以外はちょっと毒気のある幼女といった感じだが、一度森に足を踏み入れたなら、そこは彼女の掌の上か、頭の中みたいなものだ。どこに何がいるのか、どういう状態なのか、そういった情報を一瞬のうちに把握する。


 カルトを見逃すとしたら、“森”の範疇外──地下深くに潜んでいた場合くらいだ。


 ──ハスターを呼ぶか?


 脳裏にそんな案が浮かぶ。

 単純にして最速の、そして拙速の解だ。きっと最適解ではない。森を、湖をというのは、流石に性急すぎる。


 ルキアもステラも夏休みを楽しみにしているだろうし、フィリップの目的はあくまで景観を戻すことだ。

 水底に潜むナニカ、或いは地中に潜った何者かを、引き摺りだしてブチ殺すことじゃあない。──どちらも、そんなものがいるのならという但し書きが必要なのだし。


 しかし、頭の片隅に妙な引っ掛かりがある。


 エレーヌだ。

 昨夜はエレナのせいでそれどころではなかったが、彼女は湖の上で何をしていたんだ? あんな深夜に、わざわざボートを漕いで湖の真ん中まで行く必要性とはなんだ?


 単に寝付けなくて、夜風に当たりにいったという可能性もなくはない。ないが──湖の周りには腐臭が満ちていて、清涼な夜の空気とは程遠い。

 この不快な空間にわざわざ出ていくだけの理由があったのは確実だ。それがカルトや邪神、神話生物との交信ではないと断定するだけの材料は、ない。


 「……でも、湖には出てみたけど、何もなかったし……夜か? 時間帯? 可能性はあるか……それとも、何か特定の儀式や呪文を行使しないと顕現しない?」


 どれもありそうだ。


 「僕の夢に出てきたら一発だったんだけど……有り得ないしなぁ」


 フィリップの夢に干渉したければ、シュブ=ニグラスの精神防護を突破する必要がある。

 そんなことが可能なやつは、こんな辺境の小さな星の、小さな水溜まりに収まるような低次存在ではないだろう。というか、何ならそれを試みた時点でシュブ=ニグラスの粛清を受けて消滅していても不思議はない。


 ……いや、もしかして、そういうことか?

 だから神威も、邪神に特有の存在感も感じなかったのか? 既にフィリップへ干渉を試みて、粛清された後なのか?


 不味い。

 いるかいないかの二元ではなく、居た場合でも「もういない」という可能性が出てきた。推測の複雑さがどんどん上がっていく。


 「分かんないなぁ……ルモンドさんはどっちなんだ……?」


 フィリップは独り言ち、困ったように頭を掻いて、ゆっくりと湖畔を歩き始めた。

 腐臭漂う空間は深く思考するのに最適とはとても言い難いが、その刺激が閃きの助けになればと思ってのことだ。尤も、これはゼロからイチを生み出す閃きではなく、点と点を繋ぎ合わせる地味で地道な思考の方が必要なのだけれど──地力の方が重要なのだけれど。


 フィリップはぶつぶつと呟きながら思考を回し、その足は自然とボート小屋の方に向かっていた。


 汚染の原因として思い当たる神格や神話生物は何種かいるものの、それらとの接触や交信、召喚や退散の術法を、フィリップは知らない。ナイアーラトテップに教わっていないし、シュブ=ニグラスはそんな無意味な知識は与えてくれなかった。


 「怪しいのはやっぱり、時間と場所か……夜中にボートで出てみるのは一案だけど、そうなるとエレナを放置することになるし、エレーヌさんにも確実に気付かれる。この仮説が正しいなら、あの人は信奉者か奴隷だし、なるべくバレたくはないんだけど……うーん……」


 よくわかんないから先に殺しとこう、という思考が一度も脳裏を掠めなかったわけではないが、多分、エレナに止められるだろう。

 フィリップとしても、一宿の恩がある人を冤罪で殺して「あ、そうなの? それはごめんね」で済ませるのは気が引ける。その程度の反応しかできないだろうという自覚があるからこそ。


 フィリップはぶつぶつと、誰にも相談できないからこそ自分で自分の思考の整合性を確かめるように、考えの内容を声に出して纏めながら、やがてボート小屋の前に辿り着いた。


 鍵がかかっているから使うときには声をかけて、というエレーヌの言葉は覚えていたフィリップだったが、なんとなくドアノブに手を伸ばす。

 かち、とノブが音を立てて回転し──目を瞠るフィリップは咄嗟に動作を中断することができず、長い間風雨に晒されていただろう古びた木の小屋は、きい、と軋みながらその扉を開けた。


 ドアが、開いてしまった。開くはずがなかったのに。


 想定外の事態に弱いというわけではなく、むしろ場当たり的な対処能力は高い方なフィリップだが、あまりにも意外な事態に硬直する。


 ここには露骨に怪しいものが二つある。


 一つはボート。

 湖の上に出たければそれを使うしかない。勿論、汚染された水で泳ぐという迂遠な自殺行為を厭わないなら別だが。


 もう一つは、あの本だ。

 黒い革表紙で装丁された、何かの薬品にまみれた本。


 あんな汚れた状態でも後生大事に持っている──それに、過去の日誌の上に置くほど頻繁に読んでいるというのは、少し不自然だ。


 王都外で出回っている高価な手書きの写本はともかく、王都で売られている錬金術製のコピー品なら、丁稚時代のフィリップでも不定期には買えるお値段だ。管理人の給料がどの程度のものなのかは知らないが、同じものを買えないということは無いだろう。あの本はちらっと見ただけだが、錬金術製の紙で編まれていたようだし、あれ自体がコピー品である可能性も高い。


 なのにそうしないということは、つい最近汚したのか、或いは。


 「コピー品なのは本だけで、中身はノートみたいな白紙……白紙だった、とかかな」


 でなくてはならない理由があるとしたら、内容がオリジナルである場合だ。

 日記とか、料理のレシピ本、自分で書いた小説とか、可能性は幾つか思い浮かぶ。最悪の可能性は、勿論、魔導書の写本であるというものだが。


 まあ、ドアが開いた以上、確かめるのは簡単だ。引き出しの中にあるあの本を開けて、中身を読んでみればいい。


 まぁ日記とかだと多少気まずい思いをすることになるが、怖いのはそのくらいだ。魔導書だったら、その時点で方針は決定し、邪神を召喚することになる。


 軽く決めて、完全にドアを開けた時だった。

 

 「──エレーヌさんのこと、疑ってるの?」

 「うわっ!? エレナ、いつの間に!?」

 

 びっくり系には弱いのか、背後からの声でフィリップは飛び上がるほど驚いていた。

 

 「あの人は汚染とは無関係なんじゃない? 管理人なんだから、湖を綺麗に保つのが役目のはずでしょ? 旦那さんの遺志を継いで、旦那さんが亡くなった場所に住み続けるなんて、生中な覚悟じゃできないことだと思うし……血迷ったなんてこともないんじゃない?」

 「……それはこれから分かるよ。多分ね」


 言って、フィリップは小屋の中に踏み込んだ。


 エレナは引き留めようと手を伸ばすが、その手は何か躊躇したようにびくりと震え、やがて力なく下ろされた。


 「一応、小屋の外で待ってて。何かあると困るから」


 もしかしたらエレーヌが持ち出してどこかに隠しているかもしれないという危惧もあったが、引き出しを開けると、例の本は変わらずそこにあった。昨日見たままの、黒い薬品に塗れた汚い姿だ。


 これが魔導書である可能性は、まあ概ね半分以下だろう。

 智慧ある者が魔導書をこんな古びて雨の吹き込みそうな小屋に放置するはずもないし、この薬品が防水処置なのだとしても、フィリップが日誌を取りに行くと言った時、好奇心に駆られて内容を見てしまうかもしれないと考えれば、絶対に自分が行くと言ったはずだ。


 いやそもそも、鍵を開けっ放しにしてどこかに出かけていくなんてことは有り得ない。


 そう予想して本を開けたフィリップは、正解だったと頷いた。


 「……日記、か」





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