第337話

 その日の夜。

 他人の家のソファという熟睡には不向きな寝具を使っていたフィリップは、小さな物音で目が覚めた。昨日も聞いた、きい、と木が軋むような音だ。


 「……?」


 またぞろエレナが深夜徘徊し始めたのかと面倒そうに顔を上げたフィリップだったが、寝室からランタンを携えて出てきたのはエレーヌだった。

 フィリップがすぐに枕代わりのクッションに頭を戻したのは、肌が透けるような薄いネグリジェを身に着けている彼女の姿に気まずさを感じたからではない。ランタンの頼りない明かりに照らされた彼女の顔色が、普段にも増して病的な土気色に見えたからだ。


 まるで、死体が立ち上がったように。


 ミナもかなり血色が悪く、光の加減では蒼褪めて見えるときもあるが、その比ではない──本物のアンデッド以上に不健康そうだった。まあミナは顔立ちや肢体の美しさに目が行って誤魔化されている部分も大きいとは思うけれど。


 玄関を開けて出ていった音を聞いて、フィリップはもう一度身体を起こす。今度は靴を履いてソファから降り、完全に起き上がった。


 なけなしの魔力で指先に火を灯し、その明かりで懐中時計を見ると、時刻は2時を少し回ったところ。

 夜の散歩には遅い時間だし、湖の見回りにしてはエレーヌは軽装すぎた。


 寝ぼけ眼ながら何をしているのか気になったフィリップは、エレナを起こさないよう気を遣いながら玄関まで行き、そっと扉を開けて外の様子を窺う。


 しとしとと静かに雨が降る夜闇を見通すことはできなかったが、エレーヌの持っていたランタンらしき光点は湖の方には向かわず、湖畔を通ってボート小屋に消えた。


 何をしているのか気にはなる。

 なるが──夜の冷雨の中、眠気を押して見に行くほどの興味はなかった。


 しばらく見ていると、ランタンはゆっくりと、何か重いものを持っているような動きで小屋から出てくると、すーっと滑るように湖の上に移動していった。おそらく、ボートに乗ったのだろう。


 何をやっているんだろう、と、フィリップはそこまで考えて、やめた。


 特別、何か気になることがあったわけではない。そして、思考を切り上げる特別な理由もない。

 ただ、眠いから寝よう、と。そう思っただけだ。


 しかし、ちょうど振り返ったタイミングで、眠気に従ってベッド代わりのソファに戻ることは出来なくなった。


 ──しゃらん、と、涼やかな音がしたからだ。


 鈴の音。

 寝る前にエレナが「見て! これでいいよね!」と、馬鹿正直にフィリップの言いつけを守って足首に着けているのを見せに来た、警報装置代わりの鈴の音だ。


 弾かれたように振り返ったフィリップの視線の先で、きい、と扉の軋む音がする。


 エレナはランタンの類を持っておらず、自前の夜目だけで動けるようだ。

 窓も扉も閉め切られて暗いコテージの廊下に、ぼんやりと人影が立っていることだけは見て取れた。


 「……何してるの、エレナ? トイレ?」


 妙な雰囲気を纏うエレナに、フィリップは努めて明るく問いかける。

 ディアボリカに「デリカシー!」なんて怒られそうだな、という思考が頭の片隅に浮かぶ辺り、まだ余裕は残っているが──左手は咄嗟に自分の腰を撫でていた。いつもは龍貶しドラゴルードを佩いている、その場所を。


 だが、ついさっきまで寝ていたし、そもそもここには戦闘を想定して来ていない。コテージに入ったときから、ずっと荷物と一緒に置いてある。今もそこ、エレナの背後にあるリビングの、ソファーの横に置かれている。


 我知らず武器に手が伸びてしまうような存在感を纏うエレナは、寝言のように──譫言のように、ぶつぶつと不明瞭な呟きを漏らす。

 フィリップには聞き取れないそれは、彼女の母語、エルフ語だった。


 「……エレナ。トイレじゃないなら、ベッドに戻って」


 強い口調で言うフィリップだが、エレナには届かなかったらしく、彼女は覚束ない足取りながらも確かに一歩、フィリップに──玄関に向かって一歩、踏み出した。


 「ホントに夢遊病だったの? エレナ、聞こえてる?」


 フィリップはもう一度、本来は拳大の火球を飛ばす初級魔術『ファイアーボール』を唱え、指先に蝋燭大の火を灯す。


 ぼんやりと照らし出されたエレナの顔は無表情で、翠玉色の目はフィリップの出した炎が映り込んでいないかのように虚ろに濁っていた。


 「……エレナ!」


 フィリップはらしくもなく大きな声を出し、エレナの肩を揺する。

 しかし、エレナは相変わらずぶつぶつとエルフ語で何事か呟くばかりで、目の前のフィリップに気付いているのかさえ怪しい。


 こうも無反応だと、一発引っ叩いたら駄目だろうか、なんて荒っぽい考えも浮かぶ。


 もしも実行に移したら、エレナには平手打ちの仕方なんて習っていないので、教わった通りに顎狙いでフック気味の掌底が飛ぶことになるのだが。それも手首を返しながら打ち抜く、顎骨と脳の両方に強烈なダメージを与えるやつ。


 しかしフィリップが生まれて初めて女性の顔面をぶん殴る前に──訓練中に顔を狙ったことは数え切れないが、一発も当たっていないのでノーカウントとして──エレナの方が先んじて動いた。


 ぼっ、と空気の爆ぜる音を耳元で聞いたフィリップは、咄嗟に音とは反対方向に跳ぼうとして壁に激突する。


 音の正体は、まさにフィリップが繰り出そうとした旋回力を込めた掌底──人中をブチ抜く威力の突きだ。

 ただし、エレナが、フィリップを狙って繰り出したものだが。


 「痛ッ……! エレナっ!」


 思わず『深淵の息』を撃ちそうになったフィリップだったが、ギリギリのところで踏み止まり、もう一度呼びかける。


 フィリップがまだ生きているのは、彼女の意識が正常な状態ではないからだ。でなければ今の一撃はフィリップの反射速度を超える速さで頭蓋を粉砕していた。


 眠気か、或いはもっと別の意識障害かは不明だが、エレナの動きは緩慢だ。

 一撃は遅く、追撃がない──普段のエレナなら有り得ない、鈍重な動き。


 明らかに正常な状態ではないが、だからこそ過激な方法で制止するのは憚られた。

 殴り倒す──気絶させる程度に留めておきたい。至近距離の格闘戦でエレナに勝てる気はしないけれど。


 「……」


 覚悟を決め、拳を構える。

 意識朦朧とはいえ、手加減なしのエレナと殴り合い。ステラが聞いたら頭を抱える暴挙だろう。


 エレナのパンチは生木を抉り、熊の毛皮を貫いて内臓を穿つ。生身の人間が受け止められるものではない。胴体に喰らったらほぼ死ぬと考えていいだろう。


 最悪、手足なら捨ててもいい──なんて、フィリップはそんな殊勝な考えは持っていない。手足に喰らうのだって普通に嫌だ。許容範囲は擦り傷、打撲、まあ最悪でも骨亀裂くらいまで。


 それを超える傷を負ったら、その時は悪いが地上で海水に溺れてもらう。なに、救命処置のやりかたは学院で習った。エレナは間に合うように祈るだけでいい。


 「来いよ寝坊助。起きたら僕が魔術を使ってないことと、ミナを呼んでないことに感謝して、逆立ちで湖の周りを100周して貰うぞ……」


 正確には、この距離では強制拘束魔術『エンフォースシャドウジェイル』を起動する前に殴り倒されそうだから、呼ばないのではなく呼ぶ余裕がないのだが。ついでに言うと、ミナは多分気持ちよく眠っている最中なので、無理やり呼び出したりしたらフィリップもエレナも危ない。標本よろしく地面に縫い付けられるのは御免だ。


 ファイティングポーズのフィリップに、エレナも同じ構えを取り──エレナが先んじて動いた。


 前手の左ジャブからワンツー。右ストレートは途中で沈み込み、顔ではなく胸を打ちに来る。

 加減ではない。むしろ殺意に満ちた攻撃だ。左第二・第三肋骨と胸骨を砕き心臓と肺を陥没させる必殺の一撃。エレナが『熊殺しパンチ』と言い、ステラが『地獄行きスライドアウト』と言う、エレナの技の中では一撃の威力に長ける技。


 ちなみに人間と体格・体内構造の近いオーガ相手に打った時には、心臓と肺の一部が、背中側から腎臓と一緒に出てきたとか。


 フィリップは全力で身を捩って躱しつつ、エレナの右手を全力で殴りつけて軌道を逸らす。

 拳が掠めたパジャマの一部が、鑢でもかけたように削れ飛んだ。王都で買った、綿製の服が。


 それには頓着せず、フィリップはエレナの顎を狙って裏拳を繰り出す。手首のスナップはウルミと蛇腹剣で鍛えられ、フィストガードありなら板だって割れる威力だ。


 叩き起こす、というか、昏倒させるような一撃。

 エレナはパンチの直後で姿勢が崩れ、顔が前に出ている。決まれば落とせる。


 が──当然のように、左手で叩くようにガードされた。


 流石に闘い慣れている。

 獣や魔物が主な相手だったらしいが、二足二腕の人型との戦いもお手の物か。


 エレナはさっと顔を上げ、牽制のように目元を狙ったフィンガージャブを繰り出す。

 人差し指と中指、薬指と小指をセットにして揃えた手で眼球を突く、所謂目潰しだ。


 フィリップはスウェイで躱しつつ、流れた姿勢を利用して膝関節を狙ったサイドキックを入れるが、ステップバックで躱された。


 「困ったなぁ……。勝てる気がしない」


 フィリップのパンチやキックでは、胸や腹を狙っても有効打にはならない。エレナを制圧したければ、狙うは喉か顎だ。胸を叩いて心臓震盪を起こさせる技もあると聞くが、フィリップには再現するだけの技術がない。


 対して、エレナの攻撃はどこに当たっても大体ヤバい。肉が吹っ飛ぶか、骨が砕けるか、内臓が壊れるか、死ぬかだ。


 「なんで僕の相手はこんなのばっかりなの? 呪い? おかしいなぁ。外神全ての加護と寵愛が約束されてるって話だったんだけど、運を──運命を操るようなのもいるし、何なら運命そのものみたいなヤツだっているのに」


 まぁ本当に運とか運命を操作されたら、それはそれでフィリップは本気で怒るのだけれど……そう考えると、融通は利かないものの忠誠心はしっかりしているのか。


 都合のいい神じゃないことは知っているし、こんなのはただの愚痴だ。

 聞いてくれる人もいないのに愚痴を零してしまうくらい、状況は良くない。


 「……退いてって言ってるじゃない」

 「ん? 喋っ──っぶな!?」


 フィリップの顔面を襲う、意趣返しのようなサイドキック。

 蹴り上げる形のそれは、首より上に当たれば脊髄が引きずり出されるような一撃だ。


 エルフ語ではなくフィリップにも聞き取れる大陸共通語に意識を引かれ、回避がコンマ数秒遅れた。ただでさえギリギリの状況下で集中が欠落した代償は、即座に支払われた。


 頭部狙いのサイドキックを躱すのに必要以上に体勢が崩れ、ジャブ代わりだったそれに続く、本命の一撃を躱せない。

 エレナの右足はフィリップの頬を掠めた瞬間に折り畳まれ、軸足は打ち込む時とは逆方向に回転する。


 再装填、完了。


 そして。


 咄嗟のジャンプバックとクロスアームブロックが功を奏し、フィリップの腕と肋骨、そして胸骨は、みしりと嫌な音を立てるだけで済んだ。


 しかし無傷とはいかない。

 フィリップの矮躯は蹴りの威力で軽く吹っ飛び、玄関ドアを蝶番もろともに破壊して浜へと転がる。


 「っ……!」


 トゲトゲした小石の痛みを無視して粗い砂利の上を転がり、衝撃を逃がす。変に耐えたらどこかが壊れる、そう確信できる威力だ。


 蹴られた腕、衝撃を受けた胸、扉に激突した背中、剥き出しで砂利に触れる手足。全身が満遍なく痛い。痛いが──だ。

 

 問題はそんな、我慢できる痛みではない。


 フィリップは立ち上がり、怒りを抑えながら考える。

 

 「怖いなぁ、夢遊病って。とはいえ……エルフの王女様がご乱心して人間を殺すのと、ご乱心したエルフの王女様を人間が殺すのは、どっちの方が不味いんだろう」


 ステラに怒られるようなことも、ステラが怒られるようなことも、出来れば避けたいのだけれど……まあ、仕方ない。


 死ぬのが嫌なわけではない。フィリップのような深い絶望を背負った者にとって、死は救済だ。

 だが死の代わりに訪れるものは嫌だ。そうなるぐらいならエレナを殺そう。その結果としてエルフと人間に再びの断絶が引き起こされようが、全面戦争が始まろうと知ったことじゃない。


 「続けようか、エレナ? 運が良くても二度と泳ぎたいだなんて思えなくなるだろうけど、まあ、せめて命があるように祈っておくといいよ。誰に宛てるのかは知らないけど」


 ふらふらとコテージを出るエレナに、フィリップは左手で魔術を照準した。


 「《深淵のブレスオブ──」


 フィリップから迸る、悪意も殺意も含まない純粋な害意。

 エレナのことが嫌いなわけではないし、苦しめたいわけでもない。殺す必要もその意思もない。けれど──苦しもうが死のうが、どうでもいい。


 だが怒気はある。

 殴られかけて、蹴飛ばされて、ドアごと吹っ飛ばされて、フィリップは少し怒っていた。痛かったし、眠かったからだ。


 そして、エレナは自分に向けられた攻撃の意思を前にして。


 「うっ? げほげほっ! く、くさーい! なんでドアがないのー!?」


 と、素っ頓狂な声を上げた。





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