第336話
夕食を終えたあと、フィリップはソファで過去の管理日誌を読んでいた。
エレーヌの書き方は先代の老夫婦に倣ったもののようで、字の感じはまた違うが、内容はよく似ている。基本的には『異常なし』で、水位や濁度に変化があった場合はその旨を端的に書くだけだ。
汚染が始まったのが具体的に何月の何日かは分からなかったものの、『濁度上昇』と『異常なし』が不定期に繰り返され始めたのは、五年前の春先のようだ。
それから徐々に『濁度上昇』の頻度が上がり──そこからずっと、『濁度復帰』の文字は無い。半年ほど過ぎたあたりで日付が途切れ、ルモンド夫妻のノートに引き継がれている。
「原因を調べたりはしなかったんですか? ルモンドさんたちもそうですけど、先代の管理人さんも」
責めている風に聞こえないよう気を使いつつも、端的で情報の薄い日誌からでは得られない情報を求めてしまう。
しかし考えてみれば、管理人とは言っても学者ではないし、魔術師ではないなら出来ることも限られるだろう。先代も含めて管理人たちが何もしなかったとは思えないし、成果があったとも思えない。
果たして、エレーヌの答えは想像通りのものだった。
「いえ、調べようとはしたのですが……何をどうすればいいのかも分からなくて、冒険者ギルドに依頼を出しました。それから何度か冒険者の方たちには来て頂きましたけど、何も見つけられなくて……」
「王国にまで報告が上がったものの、国の調査隊でも何も分からなかった、と」
「えぇ……」
だろうね、と言いたげな落胆さえしていない顔で頷くフィリップ。
エレーヌはその冷たくすらある納得に焦ったように、きゅっと手を握って言葉を紡ぐ。
「あの、参考になるかは分からないのですけど……その、夫が死んだときのことです」
その言葉を受けて、フィリップとエレナは怪訝そうに、そして期待を滲ませてエレーヌを見遣る。
昨日はあれだけ苛烈な反応を見せたのに──フィリップのような子供に問われただけで泣き出すほどだったのに、どういう心境の変化なのだろうか。
エレナが思わず「いいの?」なんて聞いたのも無理はない。
「はい。……夫は湖を調べているときに亡くなりました。でも、死に様が不可解なんです」
死因不詳ってこと? とフィリップとエレナは二人揃って首を傾げる。
ところがどうもそういうことではないらしく、エレーヌは頭を振って否定した。
「いえ、死因は溺死です。肺の中が水でいっぱいだったので、間違いありません。でも、服が殆ど濡れていなかったんです」
エレナは「え?」と不思議そうな声を漏らしたが、フィリップはぴくりと眉根を寄せるだけだった。
しかし反応が薄いからと言って、驚きまで薄いわけではない。
むしろ驚きの大きさで言えば、フィリップの方がエレナより何倍も──或いはエレーヌが死体を見つけた時よりも大きいかもしれない。
「それって変じゃない? 溺れたなら頭のてっぺんから爪先までぐっしょりだろうし、誰かに顔だけ湖に突っ込まれたって抵抗するだろうから、びちょびちょになるよね?」
そう。その通りだ。
夜闇のせいで浅瀬を踏み外し、深みに嵌って溺れてしまったというのなら、全身が濡れているはずだ。真夏でもあるまいし、夜の間に服が完璧に乾くとはちょっと考えにくい。よしんば乾いたとしても、水草とか、その手の痕跡が残っていそうなものだ。
不可解な死に様。確かにそう言って差し支えない。
そして、フィリップはその死に様を知っている。正確には、そんな感じの死に様を再現できそうな魔術を知っている、というべきか。
現代魔術の埒外にある、別体系の魔術。領域外魔術『
標的の肺を海水で満たし、地上に居ながら溺水の苦しみを味わわせ、死に至らしめることもある害意に満ちた魔術だ。フィリップはカルトを苦しめるのに好んで使う。
だが、あれはナイ神父に教わったもの……正確には、ナイ神父から送られてきた誰かの手記を読んで発現させたものだ。誰でも簡単に使えるものではない。
魔術の才能があれば、現代魔術を使っても同じ現象を起こすことは出来るのかもしれないけれど……。
「すみません、その話、もっと詳しくお願いします」
「え? は、はい。えっと、彼が夜の間に湖を見に行って、朝起きたら……その、彼が湖畔で倒れていたんです」
悲しみを堪えるように言い淀みつつ、それでも最後まで言い切るエレーヌ。
フィリップの脳内には幾つもの疑問が渦巻いていたが、取り敢えず最も簡単なものから解決していくことにする。
「……そもそも、どうして夜に湖を?」
見回りかと思ったが、違うだろう。
何か異常があったとしても、夜闇の中では判然としない。そりゃあ星や月の明かりはあるが、水の色などの細かな異常を見るなら、絶対に昼間の方がいい。
だが、確認ではなく、確信があったとしたら別だ。
星と月の明かりでも、湖の傍に人影があれば気付くかもしれない。
誰か──領域外魔術を使える何者かが湖の傍にいた。その日の夜に。
そしてエレーヌの夫──確か、墓碑にはニコラ・ルモンドとあったか──彼がそれに気付き、恐らく湖を汚染した犯人か、また別な不埒者だと思ってコテージを飛び出したのだ。
そして死んだ。殺されたのだ。領域外魔術『深淵の息』によって。
そういう推理は、一応、成立する。
「分かりません、私、彼が夜中に起きたことにも気付かなくて……でも、朝にはもう冷たくなっていたので、夜の間にコテージを出たのは間違いないと」
エレーヌの言葉をなんとなく聞きながら、フィリップは自分の推理にある穴をどう埋めるべきか考えていた。
『深淵の息』は、標的の肺を海水で満たして即座に窒息させる。すぐに救命措置を行えば助かるし、放置すれば死ぬ。
陸地に居ながら溺死させられると考えると、まぁそこそこ殺人向き、というか、殺人が罪になる状況での殺人向きだ。優秀な魔術師を揃える衛士団はともかく、魔術を使った殺人なんて、そこいらの町の衛兵風情には見破れないだろう。
それが魔術の仕業とまでは分かっても、誰が犯人なのかを突き止めるには高精度の魔力視が必要だ。
そして──水辺にいるのなら、溺死させたあとで水の中に死体を捨てればいい。
重りを付けたら殺人だとバレるだろうが、例えば足に水草なんかを絡ませておけば、泳いでいる最中に水草に足を取られ、パニックに陥った末の溺死だと思われそうだ。
要は、死そのものは誤魔化せなくとも、殺人は誤魔化せるのだ。水難事故のように偽装できる。
まあ、汚染された湖で泳ぐような馬鹿な管理人はいないだろうけれど……辺りに酒瓶でも転がしておけば、酔っていたのだと思わせられるのに。
自衛とカルト討伐以外で人を殺せば、当然、罪になる。
そりゃあカルトは殺人に対する忌避感なんて無いだろうけれど、そもそもカルトは、カルトだとバレた瞬間に
こんなあからさまな痕跡を残すということは、カルトではないか、年季の浅いやつか。
「それ、汚染開始から数えていつ頃の話ですか?」
唐突に集中力が跳ね上がったように真面目な声と顔つきになるフィリップ。エレナは「ちょっと違うけど、あの時の顔に似てるな」なんて思っている辺り、モチベーションの高低が当初とは完全に逆転している。
「え? えっと……私たちが越してきて二月くらいだから……湖が濁り始めて、半年くらいかしら」
エレーヌにもその変化が伝わったのか、答える声は戸惑い気味だ。
フィリップは黙考に浸って、エレーヌの困惑と、妙に嬉しそうなエレナには気付かない。
尤も、気付いたところで「なんだこいつら」と言いたげに片眉を上げて、それで終わりだっただろうが。
「……その付近で、怪しい人間を見ませんでしたか? カルトとか、依頼を受けた冒険者以外のパーティーとか、何でもいいんですけど」
尋ねると、答えが返るより先にエレナが声を上げた。
「フィリップ君、カルトって何?」
「ん? んー……定義を聞いてるなら、一神教と正式認可された分派以外の宗教を信仰してる奴ら、かな」
答えつつ、フィリップは内心で「そっか」と軽い納得に落ちていた。彼女は「カルト」という人語──大陸共通語の名詞を知らないのだ。
一神教徒・カルトという区別は、人間に独特のものだ。
唯一神対魔王という対立構造についてはミナやエレナも知っているし、物理的な神の実存については、二人とも知識として知っている。
しかし、彼女たちには信仰がない。
一神教の教義や規則なんて一つも知らないのではないだろうか。ミナは教養の一つとして聖典や偽典は読んだと言っていたが、プロパガンダとマーケティングばかりで面白くなかったとか言っていたので、物語気分で読んでいる。
カルトって何? という質問は、本当に文字通り、「カルト」という名詞が指し示すものを知らないからの問いだった。
だから、エレナが「ふーん……。じゃ、ボクもカルトってこと?」と、ルキアやステラが居ればそっとフィリップの顔を伺うようなことを言っても、顔色一つ変えなかった。
「いや、人間に限定した話。カルトは見つけ次第ブチ殺していい、ブチ殺さなくちゃいけない公共の敵だから、エルフがその枠に入るなら国交なんて結ばれてないよ」
フィリップの答えはエレナには今一つ理解できなかった──言葉の意味が、ではなく、そういう仕組みになっている意味が──らしく、「ふーん」と不思議そうに首を傾げる。
「そうなの? 別に、唯一神以外の神様を信じたっていいんじゃない? 唯一神がいるなら、他にもいたっておかしくないでしょ?」
「ん、まぁね」
いや、まあ、いるのだけれど。
「なのに、たった一種類の神様を信じるかどうかで敵と味方を決めるなんて……人間って、結構適当なんだね?」
「人間が決めたのか、神が決めたのかは知らないけど、ま、そうだね」
フィリップとしてはその方がありがたいのだけれど、お愛想で頷いておく。
そっちの方がブチ殺すときに色々と考えなくていいから楽だ、という理由だから、内心をそのまま口にするのは憚られた。
「でも、フィリップ君はそんなことしないよね? だって、異種族にもすごく寛容だし」
「ん? そりゃ……いや、まぁ、誰がどんな神を信じようと好きにすればいいとは思うよ」
「だよね!」
嬉しそうに笑うエレナに、フィリップはド下手糞な仮面の微笑を取り繕う。
危なかった。
ついうっかり、エレーヌという他人の前で「ルキアだって唯一神信仰じゃないしね」とか口走るところだった。
いや、聖痕がある限り、彼女が一神教から破門されてパブリック・エネミーになることはないだろうし、そうなったとしても、むしろ滅びるのは人類の方な気がするけれど……。
手間は少ない方がいい。
そうなったらフィリップはルキアの側に付くし、ステラもそうなるだろう。
でも、フィリップにはまだまだ殺したくない人が大勢いる。彼らを発狂させず惨殺もしないように立ち回るのは、多分、ステラがいても難しいだろう。
ルキアか衛士団か、みたいなクソッタレな二択に挑むぐらいなら、衛士団が守るべき人類を根絶して戦う理由を失くすことになる。
そんなまだるっこしいことは御免だ。
だからうっかり滑らなかった自分の口にグッジョブ。
「?」
フィリップの笑顔が歪なことには気付けても、内心までは類推できないエレナは、嬉しそうな笑顔を少しだけ不思議そうに変えて、それだけだった。
ステラが居れば、きっと「いや、単純にルモンドの口を封じるのが最短最速の最適解だぞ?」なんて、苦笑と共に囁いていたかもしれない。
「あの……夫はカルトに殺されたのでしょうか?」
「確定ではないですけど、その可能性はありますね」
恐る恐るといった風情で尋ねるエレーヌに、フィリップは端的に返す。
湖を取り囲む森の中にカルトがいないことは、来るときにシルヴァが確認しているので確実だ。
尤も、五年前の殺人犯が長々と現場付近に潜伏しているとは考えにくいが。
その推測に、エレーヌは小さく頷いた。
「──そうですか」
やけに冷淡な声の相槌に違和感を覚えたのはフィリップだけではなかったが、エレーヌはすぐに「今日はもう寝ることにします」と寝室に引っ込んでしまった。
それで結局、二人は「強烈な悲哀の感情を押さえつけた結果、平坦な声になっただけだろう」と会話もなく同じ結論を出した。
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