第335話

 ボートを漕いで湖を渡って、そして戻ってくるまでの間、フィリップたちは何の情報も得られなかった。

 だが、あまり気落ちはしていない。優秀な魔術師を擁する王国の調査団が調べて何の成果もなく、そして何の問題もなく調査を終えたということは、汚染源はかなり慎重に隠されている。ミナがいて魔力視を使ったとしても見抜けなかっただろう。


 使い終えたボートは汚水に濡れているから担ぎ上げるわけには行かず、ボート小屋からキャスター付きの台座を持ってきて、それに乗せて運び込んだ。


 ボート小屋はずっと扉を開けていたから換気されたのか、さっきのケミカルな甘い香りはしなかった。

 その代わり、遠くから風に乗ってきた雨の臭いを一瞬だけ感じた。小屋の入り口から遠くに見える灰色の雲は、雨の予兆だ──尤も、この辺りの気候がフィリップの田舎と同じなら、という但し書きは要るけれど。


 「手がかり無しかー。どうする、フィリップ君?」

 「うーん……ここまで王国の調査隊の真似をしてきたわけだけど……専門家ではない僕たちが専門家の真似をしたって、結果で劣るのは当たり前なんだよね」


 かと言って、仮説と検証を繰り返すセオリー通りの調査をしたって、それこそ専門家の立てる仮説には到底及ばない稚拙な考えしか浮かばないだろうし、立証する方法だって、どう考えても調査隊の方が知識量で優っている。


 「そうだよねー……。あ! 発想を逆転させるのはどう?」


 会心の閃きを得たと満面の笑みを浮かべるエレナは、怪訝そうな顔のフィリップに気付いて補足をくれる。


 原因を探しても、何もかもが足りないフィリップたちでは先人を超える結果は出せない。

 ならば。


 「原因じゃなくて、結果の方を優先しようよ! どうにかして、水を綺麗にしちゃえばいいんだ!」


 逆転──原因を放置して、望む結果だけを用意する。

 水が綺麗にさえなってしまえば、それで依頼は達成……ではない。依頼内容は“水質汚染の調査”であって、“改善”ではない。


 だが、エレナは別に、依頼達成が最大の目的というわけではない。彼女はこの湖で泳げればそれでいいのだ。

 フィリップとしても、達成困難な依頼であると明言された依頼に本気で取り組む理由は、精々がルキアとステラの期待くらい。これでは流石にモチベーションは保てない。


 だから、依頼達成ではなく目的達成を主軸として行動するのは構わない。それはそうなのだが──それを言うなら、王国の調査団だって、大目標はそれだったはずだ。


 「どうにか、って……王国はそれをするために原因を探ってたんじゃないの? 不純物を取り除く浄水薬みたいなものはあるかもしれないけど──」

 「あるよ! ボクたちはいつも、水源に土砂なんかが流れ込んだら、それを使って水と不純物を分離させるんだ。汚い水でも30分くらいで飲めるようになる優れモノだよ!」


 フィリップは聞いたことが無かったが、エレナはそうではなかった。

 自信満々な言葉にはフィリップも頷くが、しかし、「じゃあそれで」と丸投げするには不安が多い。


 「汚染の原因が分からないなら、薬を入れた時にどういう反応をするか分からないし……多分、その程度のことなら調査隊は試してるでしょ?」


 フィリップは薬学や錬金術に明るいわけではないが、世の中の薬品類に、混ぜてはいけないものが存在することはなんとなく知っている。

 身近なところで言うと、実家の宿で使っていた衣服用漂白剤と食器用洗剤は、混ざると毒ガスが発生する……と、兄のオーガストが言っていた。実証済みだとも。


 湖の汚染を取り除こうとして、汚染物質と薬品が致命的な反応をしては本末転倒だ。その辺りはきちんと検証する必要がある。


 そして、やっぱり「それぐらいなら国がやってそう」と思えるアイディアだった。勿論、フィリップの勝手な想像でしかないけれど。


 首を傾げるフィリップに、エレナは無い胸を張って自慢げに言う。


 「ふふん、フィリップ君、あなたはちょっとエルフのことを侮ってるね! 勿論、フレデリカさんは優れた錬金術師だけど──薬学に関して、ボクたちエルフに並ぶものはいないよ」

 「……王国にはそもそも、そんな薬が無いってことか。なるほど」


 エルフの製薬技術は国益になるレベルだというし、ある程度の信頼を置いてもいいだろう。


 王都から見ると、このシリル湖もエルフの集落があるティーファバルト大森林も、どちらも北側だが……あの森はここよりもう少しだけ北にある。馬で一日か、二日くらいか。


 「つまり、ティーファバルト大森林まで戻って、エルフの薬を取ってくれば……」

 「そう! 綺麗な水に戻るってわけ! ここからなら、往復四日ってところじゃない?」

 「すごい薬を作れるんだね、エルフって」

 「それほどでも……あるね! そうだよ、ボクの臣民はすごいでしょ!」


 嬉しそうに言うエレナ。自慢げな口調だったが、フィリップが浮かべた笑みに苦笑の色は微塵も無かった。


 実際、本当に凄い。

 田舎育ちとして王都の、延いては王国の技術力には感動すら覚えていたのだが、薬学分野ではその上を行くというのなら、エルフにはフィリップの感動を買うだけの技術力がある。


 フィリップは知らないことだが、脳のオーバーロードを疑似的に再現する薬や、その副作用や後遺症についての知見もあるのだから。


 「うん、ホントに凄いよ! 毒は量って言うけど、どのぐらいで湖全部が綺麗になるの?」


 逆に汚染されたりはしないよね? という懸念からの問いだったのだが、エレナは何か、ものすごく都合の悪いことを思い出したような顔をしていた。


 「えっ」

 「えっ……?」


 素っ頓狂な声に、フィリップも同じような声を返す。

 なんだかとても嫌な予感がしてきた。


 「……一粒で水瓶一個分ぐらい?」

 「100リットルぐらい? ……それ、どのくらいあれば湖全部を浄化できる?」

 「……湖って、水瓶何個分ぐらいだと思う?」


 聞き返されて、フィリップも黙る。流石に規模が違いすぎて、直感さえ働かなかった。


 ちなみに、シリル湖の貯水量は概ね2000トン。単純に湖水1トン当たり1000リットルだと考えると、20億リットル。100リットルの水瓶で換算すると、2000万個分。

 コインサイズの錠剤一個で100リットルを浄化するエルフの浄水薬だが、そんな数の備蓄は無いし、すぐさま調合できる数でもない。材料的にも、労力の面から言っても。


 「……帰ったらレオンハルト先輩じゃなくて、殿下に言おう。これは多分、外交支援レベルの話だ」

 「うん、ボクもそう思ってた……」


 帰ってステラに言えば何とかなるだろう──なんて考えた時だった。


 ボート小屋の片隅に、小さめの書き物机が置かれているのが目に付いた。

 机上にはペンとインク壺、少しボロい「管理日誌」と書かれたノートが一冊。王都で売られている、錬金術製の紙をふんだんに使った品だ。


 「……あ、駄目だよフィリップ君。勝手に見ちゃ」

 「あ、うん……」


 なんとなく手を伸ばしたフィリップだったが、エレナに見咎められる。

 調査に来たのだから見てもいい、というか、見るべきだとは思うのだが、確かに断りもなくというのはマナー違反かもしれないとフィリップも自省する。


 「気になるならエレーヌさんに聞いてみよう。……っていうか、結構古そうだね?」

 「古いっていうか、雨漏りとかで濡れたんだと思う」


 或いは、何なら湖の浅瀬に落っことしたなんてこともあるかもしれない。

 一応は本の形に装丁されているし表題も読めるが、表紙が黒ずんでいるし、紙もごわごわだ。一発で盛大に汚したのか、年季でじわじわと汚れていったのか判断に困る。


 「雨といえば、そろそろ雨が来そうだね?」

 「エレナもそう思う? なら、ホントに降るかもね。……これ、コテージに持って行こうか。読みたいし、濡れても困る……?」


 日誌に手を伸ばしたフィリップだったが、それを取り上げることはなく、自分の手を不思議そうにじっと見つめている。


 エレナと交代でとはいえ二キロもボートを漕いで、もうノートを持ち上げるだけの力さえ残っていなかった……というわけでは、流石にない。確かに無駄な筋肉は付けないように気を付けているが、持久力はそこそこある。


 「どうしたの?」

 「いや、なんか付いてた……多分、ボートの整備に使うタールか何か……あ、でもなんか甘い匂いがする」


 本の表面はべたついていた。具体的に何が付いたとまでは判別できないが、本にココアでも零せばこんな感じになるだろうと思われた。


 タールは接着剤や緊急時の消毒薬として使われるが、船の防水や撥水加工に使われるという話を本で読んでいたフィリップは、ベタベタする感触の正体に当たりを付ける。

 甘い匂いのするタールはちょっと聞いたことが無いが、薬品の臭いなんて千差万別だ。肌に悪影響のある、例えば強酸性の薬品とかだったら嫌だが、そんなものが本に付いたら、「この本汚いなぁ」では済まない状態のはずだし、きっと違うだろう。


 日誌をコテージの方に持ち帰ってエレーヌに確認を取ると、少し恥ずかしそうに「大したことは書けていませんけど、それでもよければ」と許可してくれた。


 中を見てみると、細かくきっちりとした几帳面そうな字で埋められてはあるものの、情報の方は本当に大したことが無かった。

 日付と、その横には大抵『異常なし』と書かれているばかりだ。たまに『水位上昇』とか『基準値へ復帰』が混ざっているものの、水質汚染に関係した情報は何もない。


 しばらく捲っていくと昨日の日付になって、そこにもやっぱり『異常なし』だ。そこから先は白紙だった。


 「……あの、汚染が始まった年の日誌はありますか?」

 「えぇ、ボート小屋の机の引き出しに、先代の分も保管してあるわ。取ってきましょうか?」


 引き出し? と数分前の記憶を手繰ると、思い当たるものは確かにある。天板の下に二つ、引き出しがあったはずだ。鍵は……無かったような。


 「いえ、自分で行きます」

 「そろそろ夕食の支度をするから、早めに戻ってきなよ!」

 「分かった。じゃあ持ってきてここで読むよ。いいですか?」

 「えぇ、どうぞ。それじゃあ、私たちは先に支度を始めましょう。手伝って頂けますか?」

 「勿論!」


 いつの間にか仲良くなったらしいエレナとエレーヌに微笑ましそうな目を向けて、フィリップは先ほどまでいたボート小屋に戻る。

 特に探すこともなく机の引き出しに手をかけると、そこも何だかべたついていた。


 不愉快そうに眉根を寄せつつ、無視して引き出しを開けると、何冊かのノートが二列の山になってきっちりと収められている。字や、綺麗に整理整頓されたコテージの内装なんかを見れば分かることだが、エレーヌはきっちりした性格らしい。

 そしてその山の上に、ノートを台座にするようにして、一冊の黒い革表紙の本が置かれていた。

 

 なんだこれ? と持ち上げようとして、フィリップはまた汚いものに触れてしまったように手を引っ込める。


 革の装丁は不快にべたつく何かでじっとりと濡れていた。何度か感じたケミカルな甘い匂いもする。

 本は、その薬品の瓶に漬け込んだような有様だ。

 

 「……うわ。もう、なんでこんな本を大事に仕舞ってるんだ?」


 下敷きになっていたノートは、黒い本に付いた液体のせいでべちゃべちゃだ。いや、もしかしたら、この引き出しの中に薬品を零したのかもしれない。


 薬品は黒くて粘性があり、それこそタールのような質感にも思える。


 まあ、汚れた本を大切に仕舞っているのか、大切に仕舞っていた本が汚れたのかはどうでもいい。今の目的はノートだ。


 詳細不明の薬品らしきもので濡れたものをいつまでも触っていたくなかったフィリップは、黒い本を机の上に適当に放る。

 それきり興味を失ったから、その本の表紙がべたべたに汚れているのに、中のページ自体には撓みさえないことと、その異常さには気付かなかった。普通は装丁全体が汚れるほど濡れたらページも汚れるし、水分を吸って変形するはずなのに。


 目当てのノート──汚染が始まった年の、先代の老夫婦が書いたものと、ルモンド夫妻が書いたものの二つだけ持ってコテージに戻る。幸い、表題の下に何年分と付記されていたし、年度順に並んでいたからすぐに見つかった。それに、五年前のノートは山の下の方にあったからか、汚れが少ない。さっきの、今年度分と同じくらいだ。


 まぁ、こんな有様になっても大切に保管しておくような、大事な本なのだろう。


 フィリップは汚れた黒い本を元の引き出しにそっと仕舞って、二冊のノートを持ってボート小屋を後にした。


 





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